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「鳴海さん、顔色悪いですよ。座りましょうか」

 近くの公園に入り、促されたベンチに腰を下ろす。日が暮れ人気のない冬の公園は静まり返っていて、外灯が照らす己の顔は余程ひどいものらしい。
 心配してくれているアズサに申し訳なく思いながら、怜は大丈夫と返す。ちっとも気分は良くならないけれど。

「えっと……あ、イヤホン付けたままだった」

 か細く聞こえる音に漸く気づき、切ってしまわなければと怜はイヤホンを外した。ポケットからスマートフォンを取り出し停止させると、隣に座っているアズサが「あ……」と声を漏らす。

「アズサさん?」
「あー、えっと……いえ。何でもないです」

 何かあったのかと思ったが、アズサがそう言うので怜は頷き、イヤホンとスマートフォンをバッグにしまう。どこかぼんやりとしている様子が気がかりだが、窮地を救ってくれたアズサに礼を伝えたくて膝ごと体を向けた。

「アズサさん、さっきはありがとうございました」
「え? あー、いえ。たまたま見かけただけだったんですけど。何となく鳴海さんが辛そうな顔に見えたので出しゃばってしまって。余計なお世話になってなかったなら良かったです」
「そんな……本当に助かりました。一人だとどうにもならなかったです。本当に……ありがとうございます」
「わ、ちょ、鳴海さん! 顔上げてください、ね?」

 膝に手を置き、怜は深く頭を下げた。恐縮したようにアズサが制してくるが、これだけでは気が収まらないくらい感謝しているのだ。
 けれど参った事に、アズサが乞うように頭を上げることが出来そうにない。堪えていた涙があふれ出し、握りこんだ拳の上にぽたぽたと落ち始めてしまった。

「はは……ちょっとだけ、待ってください」
「っ、鳴海さん……」

 息を飲んだ様子のアズサには、泣いている事に気づかれてしまったようだ。困らせたくはないのだが、安心した体はちっとも怜の思い通りにならない。
 あのままでは本当にどうなってしまっていたか。きっと逃げる事すら叶わず、嘲笑う三条の気の済むまで尖った言葉を浴びるしか出来なかっただろう。
 救い出してくれたアズサには、礼をどれだけ言っても足りないくらいなのだ。

 ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻した怜は、バッグからハンカチを取り出して顔を拭う。久しぶりに泣いたから多少すっきりはしているが、こんなハプニングはない方が良かったに決まっている。今も隣に座っているアズサには、巻き込んでしまい申し訳ない事をしてしまった。
 ただのスタジオの従業員相手に時間を取らせてしまったのだ、何か出来る事はないかと怜はおずおずと顔を上げる。

「アズサさん、あの、重ね重ねですが本当にありがとうございました。なにかお礼をさせて頂きたいのですが」
「え? いや、そんなの気にしないでください」
「いえ、それじゃ僕の気が済まないので。本当に、命の恩人に無礼はできないですから」
「へ……命の恩人、って……ふ、くく」
「な! だ、だって本当に、僕にとってはそれくらいの事で!」

 怜は必死なのに、アズサは顔を背けながら可笑しそうに吹き出してしまった。命に関わるとの言い方は怜にしてみれば語弊は全くないのだが、笑うアズサに若干腹が立ちながらも力が抜けてしまう。
 ああ、そうだ。この子には不思議なパワーを感じているのだった。こんな時にも作用するそれに、怜もつられるように笑ってしまう。
 あんなに辛かったのに、今だってそうなのに。自分でも意外なくらい、自然と笑うことが出来ている。

「んー、じゃあ本当にご飯行きません?」
「え」
「あー……っていうのは、うん、冗談です。鳴海さんは難攻不落だって聞いてるんで」
「な、なにそれ……」
「あ、すみません。からかってるわけじゃないんです、むしろ俺はきっぱりとしてて良いなって思ってたし」

 誰から誘われても、決して食事に行かない事を指しているのだろう。後ろめたいわけではないがつい眉を寄せてしまうと、アズサは慌てて怜の感じた事を優しく否定する。
 渋々ながらも怜がそれならばと頷くと、アズサはほっとした顔を覗かせた。
 それにしても、アズサの言う事は確かにそうなのだ。一緒に食事に行く――つまりは誰かと仲を深めることに怜は酷く抵抗がある。
 信じれば裏切られるかもしれない、三条がそうしたように。
 必要以上に他人を信じない事で、怜は自分を守ってきたのだ。

「あ、じゃあ鳴海さんのこと、名前で呼んでもいいですか?」
「……へ?」
「鳴海さんの名前、怜、って言うんですね。まああの男から知ったってのは癪ですけど」
「あ、えっと……」
「困りますか?」
「…………」

 次なる提案にも怜はやはり戸惑う。困るかと言われたら、答えはイエスだ。仲を深めないという盾は、名前を呼ぶことを許容する事でもきっと脆くなってしまう。
 けれど、アズサが唱えた自身の名は妙に心地よく響いた。

「でも……」
「俺は鳴海さんに名前で呼んでもらってますし」
「それは、アズサさんはアズサさんとしか知らないですから」
「だめですか?」
「だめ、って言うか……お礼にならないんじゃないですか?」
「俺がお願いしてるんだからなりますよ」
「うう……分かりました」

 優しい言い方のくせに、どこか強引だ。その割に、サッパリ嫌な感じはしない。
 頷いてしまった自分に内心驚きながらも見上げると、アズサはやわらかく微笑んで怜を呼んだ。

「怜さん」
「っ、なん、ですか?」
「あ。もう一個お願い見つけました。言ってもいいですか?」
「僕としてはお礼になり得てないんでいいですけど、結構欲張りですね」
「はは、俺も自分でビックリしてます。普段こんなんじゃないんですけど」

 職場ではない甘えからか、怜は失礼とも取れることを言ってしまったが、アズサはものともしない。それどころかどこか嬉しそうに笑いながら、膝に頬杖をついて少年のように怜にねだる。

「俺の方が年下ですよね。俺、ノリ君と同い年なんで」
「あ、そうなんですね」

 ノリは誰にでも分け隔てなく懐っこい性格で、スタジオの利用客たちにもよく気に入られている。アズサもそのようだ。
 後輩への親しみのこもった呼び方に怜がひっそり喜んでいると、だから……とアズサは続ける。

「敬語、なしにしてほしいです」
「へ? え、いやでも、お客さんだしそれはちょっと」
「お客さんと仲良くなるのはだめ?」
「だめ、って言うか……もう、さっきから聞き方ずるいですよ」
「はは、そうかも。でもよかったら。お客さんじゃない時だけでもいいので」
「お客さんじゃ、ない時……」
「よし、決まりです。怜さん、俺には敬語なしでお願いします」

 お客さんじゃない時ってなんだ。こうしてスタジオの外で会うのは今日が初めてで、それも偶然だったのに。それではまるで、まだこの先も外で会う未来があるかの様だ。
 けれど戸惑う怜を置いてけぼりに、アズサは勝手に決めてしまった。困る――だけどきっと、元気づけようとわざとおどけたようにしているのだと伝わってくるから、無碍にするのも憚られる。
 仕方ないなと頷くと、ふわりと笑ったアズサはそれじゃあ帰りましょうかと立ち上がった。

「家、この辺ですか? さっきのヤツ家まで来ちゃったりしません?」
「それは大丈夫です……じゃなくて、大丈夫、だよ」
「ストーカーだったりは?」
「ううん……フラれたのは僕のほうだから。それ以降来た事なんて一度もないし」
「そっか、分かりました。でも近くまで送らせてください。俺が心配なので」

 何事だったのかと思っているだろうに、助けてくれたのだから知ろうとする権利があるだろうに、アズサは深く聞いてはこなかった。それが申し訳なくもありがたい。
 きっとその程度は察しているだろうと、男同士ではあれ恋愛沙汰なのだと含ませても、ただただ小さく頷くだけだ。

 アパートまでの道をゆっくり歩きながら、時折話しかけてくるアズサの声に怜は耳を傾ける。落ち着いた声色は、月夜によく似合っているなと思う。

 なかなか仕事が上手くいかないらしい事や、それでも努力すら楽しいという事。アズサは仕事の話ばかりで、心から好きなのだとそれだけで伝わってきた。
 怜がアズサの歌を聞いてみたいと言えば――顧客のものは全て把握しておきたいのはやまやまでも、何しろ数が膨大でそうもいかないのが現状だ――考え込んだアズサに「俺がいいって言うまで探さないでほしい。検索もしないで」と乞われてしまった。困惑したけれど、もっと胸を張れるようになったら自分で渡すと言われてしまえば頷く他なかった。

「そうだ、アズサさん」
「くん、でいいですよ。呼び捨てでもいいけど」
「呼び捨てはできないかな。じゃあ、アズサくん」
「ふ、はい。何ですか?」
「アズサくんの名字は何ていうの?」
「へ? あー……それは……」
「…………?」

 そう言えば、名前すらちゃんと知らなかったなと怜が尋ねると、アズサは立ち止まってしまった。口元に大きな手を当てて、なにか考え込んでいる仕草に怜は首を傾げる。
 まずい事を訊いてしまっただろうか。ああ、アーティスト名がアズサなのだったら、答えたくないのは当然だなと思い至るが、それはどうやら見当違いらしい。
 アズサはどこかイタズラに笑んだ瞳に、怜を映す。

「全然隠してるわけじゃないんですけど、怜さんには内緒です」
「へ……なんで?」
「それもとりあえず内緒で」
「……僕のフルネームは知ってるのに」
「ふ、怜さんって実は表情豊かですよね」
「はぐらかした」
「あはは!」

 ついじとりと見上げると、おかしそうに笑うアズサの指に頬を突かれてしまった。
 ああ、仲良くはなりたくないのに。誰とでも一定の距離を保っていたいのに。
 アズサのこの懐っこさを、手放し難くなってしまいそう。確かにそう思う自分がいる事に、怜は静かに驚く。

「漢字は教えてもいいですよ」
「……“木へん”の梓?」
「わ、正解です」
「それ以外にパッと思いつかないよ」
「くく、確かに」

 思ったより表情豊かなのは梓のほうだと怜は思う。スタジオで目にする梓はいわゆる仕事モードなのだろう。年下だろうとは思っていたけれど、こんなにあどけなく笑う姿は見た事がなかった。
 三条に出会し全身が強張るほどだったのに、今日という日が梓によって楽しかった思い出で染まりそうなくらいに、梓の笑顔に心の底から救われている自分が確かにいるのだ。

「あ、もうここで大丈夫だよ」
「え、この辺なんですか?」
「うん、あそこのアパート」
「…………」

 自分の根幹が揺らいでいるのを、アパートを指差しながら怜はまた自覚していた。近づき過ぎたくない、そのはずなのに梓ならこのくらいならいいかと思ってしまっている。自宅はここだと教えてしまう程には。
 助けてくれた優しさに絆されているのだろうか。自分に苦笑しながら怜が振り返ると、マスクを少し指でずらしぽかんと口を開ける梓の顔があった。

「梓くん?」
「俺の家と近いですね」
「そうなの?」
「俺んち、あそこです」

 その指の先、道路を挟んでほんの数十メートル向こうのマンションを見上げて、今度は怜が驚く番だった。
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