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最終章

春の日

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 三月のとある日、尊の自室にはあたたかい陽が射している。窓を開ければ、桜の花びらが泳ぐ様を見られるのかもしれない。

 けれど尊には、そんなことはどうでもいい。季節の移り変わりより、目の前にいる恋人、千歳が大事だからだ。その千歳はと言えば、花村家の飼い猫、みたらしと熱心に戯れているのだけれど。

 尊のベッドに腰かけ、膝に抱いたみたらしを愛おしそうに撫でている。みたらしもすっかり千歳のことが大好きで、立ち上がってまでじゃれついている。この光景は幸福以外の何物でもなく、もう何枚写真に収めたか分からない。

 だが、今日に限っては眺めてばかりではいられない理由がある。

「ちー、もう覚悟決めろ」
「う……」
「みたらし、もう終わりな。ちょっと出てろ」

 うみゃー、と鳴いて抗議するみたらしを抱き上げ、ごめんなと撫でながら部屋の外へと送り出す。千歳にこんなに懐いているのは、飼い主の自分に似たのだろうか。ドアをカリカリと掻き、諦めて去っていく足音が拗ねたように聞こえる。

 今夜はいつも以上にみたらしと遊ぼう。そう決めつつ、ふたりきりになった部屋で振り返る。ベッドの上で小さく身を縮める千歳を閉じこめるように、シーツの上に手をついた。

「ちーが嫌ならしないけど」
「……嫌じゃないよ。ちょっと怖いだけ」
「まあそりゃそうだよな。でも決めたんだろ」
「うん……でも、あんまり痛くないようにお願いします」
「了解」

 ごくんと喉を鳴らし見上げてくる千歳が、尊にしがみつく。大丈夫だから、と頭を撫でると、安心したように千歳の体から力が抜けてゆく。自分への信頼が見えるようで、こういう瞬間が好きだ。ミルクティー色の髪にキスをして、肩に手を置いて。ぐっと顔を近づける。

 ふたりの息が詰まる部屋に、ガシャン! と大きな音が響いた。

 おお、と感嘆の声を漏らしながら、千歳は熱心に鏡を眺めている。尊が開けたピアスの穴は、どうやらお気に召してもらえたらしい。

「大丈夫か? 痛えよな」
「思ったより平気! 絶対花村にやってもらいたかったから嬉しい。ありがとう」
「約束したもんな」

 用済みになったピアッサーを処理して、千歳の隣に腰を下ろす。まだ鏡を手放せない様子の千歳を眺めながら、あぐらを掻いて肘をつく。

「一ヶ月くらいで穴安定すると思う」
「そしたら違うピアスつけられる?」
「だな。ちゃんとしないと化膿したりすっから、清潔にな」
「分かった」

 この春休みにピアスデビューをしようと思い至ったらしい千歳に、「お願い」と言われた時は緩む顔を抑えられなかった。もちろん、ピアスを開けるなら俺が責任を取る、と初めてふたりで出掛けた日に言ったことはよく覚えている。それでも千歳から乞われたことに、感情は高ぶった。千歳が望む限り、この傷は一生千歳の体に残る。大事にしたいとより強く思わずにはいられない。

 千歳の手から、そろそろいいだろう、と鏡を奪い取る。こちらを向いた頬をとらえ、ついたばかりの傷に触れたいのを堪えて、反対側の耳に口づける。

「はは、くすぐったい」

 揺れる体を抱きしめて、ふたり一緒にベッドの上に崩れる。シーツは太陽にあたためられていて、沈む体から力が抜ける。やわらかな雰囲気は、キスをするなというほうが無理がある。

「花村……」
「ん」

 触れるだけのキスが啄むように変わり、千歳の下くちびるを食む。ゆっくりと引っ張ると、くちびるの内側同士が当たった。吸いつき合うような湿った感覚と、千歳の喉の奥からやってくる「あ」という短い音が、いとも簡単に尊の欲を引っ掻き回す。キスをしているのにまだ遠い。もっともっと、近くがいい。抱きしめ合ったまま、今度は千歳の首に口づける。熱い肌に頭が眩み、頭上からまた甘い声が落ちてきて。もうこのまま、と先を願ってしまいそうになった時。千歳は弾かれるように起き上がった。

「え、っと! もう行かなきゃ! そろそろ時間だよね」
「あー……だな」

 今日は予定がある。こうなることは分かっていた。それでも少し落胆してしまい、いや俺は待つのだと尊は自分を戒める。

 体に触れ合ったのは、付き合い始めた日が最初で最後になっている。キス以上のことをしたくたって、ふたり同じ気持ちじゃなければ意味がない。


 約束の駅前、ファーストフード店。入店すると、待ち合わせているふたりとすぐに目が合った。ケンスケとナベだ。尊と千歳は手を振って、レジへと並ぶ。同じバーガーのセット、ドリンクは尊がサイダー、千歳はミルクティー。それぞれにトレイを持ってケンスケたちの元へ向かうと、腰を下ろすより先にふたりがハイタッチを求めてきた。

「いやこれ持ってっから」
「はーやーくー」
「あーはいはい」
「三上も! イェーイ!」
「はは、イェーイ!」
「ちーにはありがとうだろ」
「それはそう! 三上、本っ当にありがとう!」
「おかげさまで三年生になれます!」

 二学期からきちんと授業を受けるようになった尊は、出席日数こそ足りていたが、勉強はどうしても不得意だった。赤点を取る教科もままあり、心配した千歳が一緒に勉強しようと提案したのが十二月の終わり頃。それならばケンスケとナベにも教えてもらえないか、と頼んだのは尊だった。

 毎日のように放課後は誰かしらの家に集まって、学年末のテストで無事に全員の進級が確定した。今日はその祝勝会だ。

「オレも教えながら勉強になったし、こちらこそありがとう」
「……三上が神様に見える」
「俺も~。三上様~」
「はは、大袈裟だよ。……花村? ポテト食べないの?」
「多い」
「んー……はい」
「……あー」

 三人の会話を横目に、自分の分のポテトを千歳の容器にこっそり移していると、すぐに気づかれてしまった。ポテトも食べたくてセットにしたのだが、どうにも多い。だが千歳から口元に差し出されると、つい口を開けてしまう。揚げられたばかりで塩加減のちょうどいいそれを味わう尊に、友人たちから生ぬるい目が向けられる。

「……あんだよ」
「あんだよ、じゃねえよ。相変わらず仲がいいことで」
「わりいかよ」
「いや全然。尊が楽しそうで嬉しいっつうか、ほっとしてるっつうか。なあ?」
「そうそう。尊さ、三上がいなかったら多分マジで留年してたよな」
「かもな」

 遅刻なんてザラで、授業もまともに出ていなかった。留年したらそのまま、退学の道を選んだのかもしれない。

 中学生になったくらいから、容姿のせいか必要以上に目立ち、それに寄ってくる人間の浅はかさに辟易した。順応は難しく、少しずつ落胆をくり返したら、無気力な自分が出来上がっていた。半径一メートルにあるものたちが、ただ健やかにいてくれればいい。そうやってのらりくらりと、生きていくのだと思っていた。

 けれど今は、日々が楽しい。何かに努力するのもなかなか良い。学校も少なくとも苦ではなくなった。全て千歳と出逢ったからに他ならない。

「あとはクラス替えが怖え!」
「なー! 俺またこの四人一緒がいい!」
「うん、オレも」
「だよな三上! 尊もそうだろ?」
「だな」

 新しい春の始まりは、終わりと共にやってくる。もしも、を考えると恐れまで抱きそうな自分に、本当に変わったなとしみじみ思う。冷め始めたバーガーに齧りついて、ふと千歳と目が合い笑って。どうか叶えばいいと、柄にもなく誰かに祈ってみたりした。


 得体の知れないものに、今の自分を全て託すような願い事などしなければよかった。無情な結果に尊は途方に暮れる。せっかく進級出来たのに、本当に退学への一途を辿ってしまうかもしれない。

「尊~、大丈夫……じゃねぇな?」
「先生たちってちゃんと見てねぇのな!? 尊は三上と一緒にしとかなきゃ駄目だろ」
「花村……」
「…………」

 ケンスケとナベ、それから千歳は三年A組。尊はC組。ケンスケの言う通りだと心の中で激しく頷く。出席率の変化やクラスの様子をよく観察していれば、今の尊が千歳によって形成されていることは明白なはずだ。留年も退学もひとりだって出ないほうが、学校としてもいいだろうに。

 友人たちに何と返せばいいか。うっかりすれば弱音が零れてしまいそうで、尊は口を噤むことしか出来ない。

「尊お前、頼むからサボんなよ!? 絶対一緒に卒業すんぞ!」
「…………」
「尊~!」

 半ば千歳に引きずられるようにして、放課後は三上家へと直行した。極端に口数の少ない尊を千歳は抱きしめ、肩の上で頭を撫でる。背中に添えられた手がトントンとリズムを刻んでいる。子ども扱いみたいだと思いはするのに、尊はただただしがみつく。

「お昼は一緒に食べようね」
「……ん」
「休み時間も会いに行っていい?」
「……ん」
「花村……」

 抱擁が解かれたかと思うと、今度は両頬を包まれる。潤んでいる瞳は、まるで尊の代わりに泣いているみたいだ。下まぶたに触れるとくちびるが重なった。慰めるようなキスをくり返して、頬をくっつけて千歳がささやく。

「ねえ花村、オレも寂しいよ」
「ちー……」
「一緒のクラスになりたかった」

 朝からずっと、拗ねたような態度を取ってしまっている。こんな風に気遣わせて、恥ずかしい姿を見せてしまっている。分かっている。それでもそれを千歳が汲んで一生懸命心を砕いてくれることが、尊の胸をいっぱいにする。嬉しい、なんて言ったら困らせるだろうか。

「クラス替え決めたヤツは腹立つけど、卒業はちゃんとする」
「うん」
「ちー」
「ん?」
「もっと。キス」
「うん」

 ふ、と微笑んだままのくちびるが再び近づいてくる。付き合い始めてからこっち、もう何度もキスをしてきたが、甘やかされるようなのは初めてだ。今まで以上に体が熱くなり、千歳の背に腕を回して後ろに倒れこむ。驚いた千歳が慌ててシーツに手をついて、それを見上げてさらに乞う。

「ちー、もっと」
「っ、うん……」

 千歳がきゅっと眉を寄せる。オレも堪らない、と言われているみたいだ。丸い息を吐きながら舌を伸ばすと、答えるように千歳もそうしてくれて、眩んだ目を閉じる。離れないでほしい。千歳の髪に指を忍ばせ、深く絡ませる。ふたり分の短くて荒い息で部屋は満ちて、腹の奥がぐるぐると熱を持つ。千歳もそうなのだと、張り詰めたそこがぶつかり合って分かった。

 明日からひとりの時間がぐっと増えるのかと思うと、いつも以上に触れられたくなる。けれど――と考えるのはもちろん千歳の気持ちだ。甘い雰囲気になっても、いつもはぐらかされてきた。それが悲しくても、ちゃんと待ちたいと思っている。今もそうだ。

 ああ、でも。堪えるように瞳を眇める千歳に、今日は賭けてみたくなる。

「ちー、触りてえ」
「っ! 花村……」
「俺のも、触ってほし……嫌か?」
「っ、嫌なわけ、ない!」

 ぎり、とくちびるを噛む様に息を飲む。嫌なわけないのか、嬉しい、嬉しい。気の急くままに千歳のベルトに手を掛ければ、尊のそれも引き抜かれる。以前みたいに触りあって、キスをしながら擦ればあっという間だった。忙しなく上下する胸に千歳が崩れ落ちてきて、なんだか泣きそうな想いで抱きしめる。

「ちー、気持ちよかった」
「オレも……あ、手拭かなきゃ」

 慌てて起き上がった千歳がお互いの手を拭いて、それから身なりを整えようと尊の制服に手を伸ばす。その手首を尊は思わず握ってしまった。ここで終わりにしたくない。そう言ってしまおうか。躊躇っていると、傾げた首を戻した千歳が促すように微笑んだ。

「……あのさ」
「うん」
「あー……いや、なんでもない」
「……そう?」

 もっとしたい、という言葉が喉のすぐそこまで上がってきて、だが尊はそれを飲みこんだ。久しぶりに触れ合えただけでも進展したのだ。先を急いで千歳に嫌がられたら、当分立ち直れそうにない。

 それでもいつか、と願わずにはいられない。

 千歳からの告白を待つ間に、男同士のセックスを調べた。二度目の告白を今か今かと待つ間に、以前なら考えもしなかった欲が芽生えた。欲しがられたい、触れられたい――ちーに挿れられたい、抱いてほしい。ひとりで慰める時だって、もうずっとそんな妄想ばかりしている。

「ちー、こっち来て」
「うん。今日は甘えただね」
「……嫌か?」
「嫌じゃないよ!」
「マジ?」
「うん。甘えてもらえて嬉しい……大好き」
「ちー……」

 シングルのベッドにふたりでぎゅうぎゅうに寝転がって、胸元に抱き寄せられる。あたたかくて、千歳の優しさが心強さになる。大丈夫だ。恋人同士なのだから、その瞬間はいつか必ず訪れる。ふたりの気持ちがちゃんと重なる時が。その瞬間を迎えるのは、きっとそう遠くはないはずだ。そう信じて、千歳の胸にすり寄る。

 想像以上に待つことになるとは、この時尊は露ほども思わなかった。


 三年生になって初めての土曜日。大学進学を希望している千歳は、最近塾に通い始めて今日は会えない。付き合いだしてからこっち、休日はほぼ一緒に過ごしていたから寂しさは否めないが、今日に限っては好都合でもあった。アクセサリーショップにひとりで行きたかったからだ。

 今日も尊の左手にある千歳の指輪。同じものが陳列されているコーナーを横目に、ピアスが並べられた前で足を止める。千歳の耳に開けたピアスホールがそろそろ安定する頃合いで、プレゼントを見繕いに来たのだ。指輪を交換した日、お互いにここのブランドが好きだと知れたのはラッキーだった。

 ブランドとしての統一性はありながら、様々なデザインが施されたピアスをひとつひとつ吟味していく。千歳のミルクティー色の髪から覗くなら、派手なデザインよりシンプルなものが映えそうだ。千歳ならどれを贈っても喜んでくれる気もするが。

 これだと思うものを選びたくてうんうんと唸っていると、ひとりの店員が近づいてきた。

「ゆっくり見てってね」
「……っす」

 ショッピング中に声をかけられるのは苦手だ。出来ることなら放っておいてほしい。素っ気ない態度でその意志を示したつもりだが、その男性店員はめげない。

「君の雰囲気とちょっと違うの見てるね」
「あー……俺のじゃないんで」
「プレゼント?」
「ですね」
「彼女?」
「彼女、っつうか……まあ」

 くだけた話し方が、無遠慮に距離を詰めてくるようで居心地が悪い。適当に相槌を打ちつつ、半ば背を向けていたのだが。話題がアクセサリーとなると、つい興味を引かれ話に乗ってしまう。

「あ、その指輪もうちのだよね」
「はい」
「うちの気に入ってくれてるんだ」
「……っす。新作いつもチェックしてます」
「それは嬉しいな」

 なんだかんだと会話をしながらも、ひとつのピアスに目が留まった。店員も「それ気に入った?」と聞いてくる。頷きかけて、けれど尊は眉を顰める。値札を確認すると、予算を少しオーバーしていたからだ。千歳に贈るのだから惜しみなく、なんて格好をつけたくたって、無いものを出せるはずもない。仕方ない、別のものにするか。気に入ったそれを手放せないままに他のピアスも改めて見ていると、ずっと傍にいた店員が「ねえ」とまた声を掛けてきた。

「うちでバイトしない?」
「……え?」
「丁度募集してんだよね。アクセサリー好きなら向いてると思うし」
「…………」
「それ、足りない分はバイト代で後払いでいいよ」

 そこで初めて店員を目に入れ、尊はぱちくりと瞬く。指さされた方には実際に求人の紙が貼られている。

 二十代半ばくらいだろうか。男は不敵に笑っている。怪しんでも罰は当たらなさそうな好条件を示され、尊はつい怪訝な顔を覗かせる。とは言え、すぐにプレゼント出来るのは魅力だ。他所でアルバイトをしたってそうはいかない。気に入りのアクセサリーショップで働けるという点でも、惹かれずにいられなかった。

「お願いしてもいいんすか?」
「交渉成立な。それ包む」
「あざす」

 話はとんとん拍子に進み、千歳へのプレゼントを無事に購入することが出来た。土日は忙しいから月曜にでもまた顔を出してと言われ、名前と連絡先のみ渡して店を後にした。


 五月のあたたかい風が、屋上でくるくると円を描いている。

 尊の高校生活は、仲のいい三人とこそ離れてしまったが、二年時に千歳とよくつるんでいた男子の山田やまだと真野が同じクラスにいて、何かと構われているのが現状だ。

 告白をされてすぐこそ真野との間には気まずい空気があったが、今はそんなものどこへやらで。山田とふたりして、半ば無理やり友人の枠に引きこんでくる。千歳に好きだと言われて、自分も好きになったからこそ。受け取れない恋心でもきちんと向き合う、そう決めたけれど。過ぎ去った後にこんな今を齎すこともあるのだと知った教室は、思っていたより悪くない。

「じゃあ俺らお先~」
「尊、次もサボんなよ」
「サボんねぇよ」

 ここ最近は決まって早めに教室へ戻ってしまう、ケンスケとナベに手を振る。

 自分と千歳の関係を“仲がいい”と称すふたりは、恋人同士であることまで気づいているのだろう、と尊は思っている。気づいた上で、自分たちの近況を知ってふたりきりにしてくれているのかもしれない、と。ケンスケとナベをよく知らない者たちは、不良だとかチャラいだとか、そういった言葉でふたりを表現するだろう。それでも友人たちは、男同士で付き合っている自分たちを茶化しもしなければ、距離を置くこともしない。気のいいふたりが尊は好きだ。大人になっても切れない関係を腐れ縁だと笑い合って、酒を酌み交わす日を既に楽しみにしてしまうくらいに。

 齎される時間は有意義に。千歳の隣にもう一歩近づき、耳に光るピアスを指先であそぶ。先日贈ったそれを、千歳は涙を浮かべてまで喜んでくれた。こうしている今も、くすぐったそうに肩を竦める仕草が愛しい。小ぶりでシンプルだがひと味スパイスの効いたデザインが、千歳を上品に彩っている。

「今日もバイトある日?」
「ああ。ちーは塾だよな」
「うん」
「お疲れさん」
「花村もお疲れ様。バイト楽しい?」
「なんだかんだな。椎名しいなさん……バイトに誘ってくれた人だけど、いい人だし」
「そっか」

 後払いにしてもらった分のピアス代は、ゴールデンウィークを乗り切った後に無事に払い終えた。あの時声を掛けてきた店員、椎名が個人的に立て替えてくれていたと知った時は驚いたものだ。その厚意に報いたい。それに何より、まだまだ教わることばかりと言えどアクセサリーに関われることが楽しくて、今もバイトを続けている。

「なかなか時間合わないね」
「だなあ。しょうがねえけど」
「そうだね」

 春を迎えて、一緒に過ごせる時間は格段に減ってしまった。この状態は当分続くだろう。しょうがないと口では言っても、寂しさは体中に巻きついていて、先が思いやられる。いつか泣きついてしまいそうな、すっかり別人のような自分がこわい。だが日々勉強に励んでいる千歳の背中は、まっすぐに押したいとも思っている。

「ちー」
「ん? ……あ」

 手を繋いで、千歳の頬にキスをする。はにかんだ千歳が、今度はくちびるに返してくれる。なんだか可笑しくなって、笑いながら「もっかい」とねだれば頷いてくれる。今はこの昼休みのキスだけが、心を交わす貴重なスキンシップだ。

「花村、そろそろ時間」
「あと十秒」
「……うん、十秒」

 またゆっくり過ごせる日を希望に、この日々を頑張ろうとキスをする度に決意する。だけど今だけはもう少しと、予鈴が聞こえた後の「あと十秒」を毎日くり返している。
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