幻灯書庫の守人

高柳神羅

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第3話 心を奏でる少女[後編]

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 どんな願いも叶える不思議な唄を奏でる楽器があった。
 世界征服を目論んで楽器を持ち去った魔術師は、唄の力によって強大な魔力を手に入れ、世界を魔物が徘徊する暗黒の世界へと作り変えた。
 それだけに留まらず、魔術師は楽器から唄を奪い取り、それを数多の『音の欠片』に分解して配下の魔物たちに与えた。
 唄を奪われてしまった楽器は、その日以来音を紡ぐことはなくなってしまった。
 ──その魔術師を倒して楽器と唄を取り戻すべく旅をしていた若き魔術師の少女は、1人の相棒と共に、魔術師が隠れ住む居城へと訪れた。
 旅の最中で魔物たちから取り戻してきた『音の欠片』を携え、固い決意を胸に秘めて。
 蒼く輝く星々の下、長らく開かれることのなかった門扉を前に、少女は自身に誓う。
 決して、諦めない。魔術師を倒すまで、自分は此処に踏みとどまり続けるのだ、と──
『ユウリ・シオン著 叶奏神器カプリースより』

 シオンが手にしたそれは、正式名称を『綴世器ていせいき』と言う。
 幻灯書庫に保管された全ての書物に対して、文字を記載することを可能とする唯一無二の道具である。
 書庫に存在する書物は、その特性上、通常の筆記具による文字の記入や文章の訂正を行うことはできない。世界が常に発生する因果律の歪みを修正する理を内包しているのと同じように、世界書や文化書に記録された情報もまた、自動的に誤りを修正しようとする力を持っているからである。
 綴世器は、その『誤りを修正しようとする力』に直接干渉することによって、新たに書き加えた文字を本来の正しい情報であると書物に認識させることができるのだ。
 扱いに慣れれば、書の内容を自由自在に書き換えることが可能になるだろう。
 それ故に、決して悪用が許されない品であると言えた。
 綴世器を持つ者には、使いこなす才能以上に、人格が求められるのだ。
 アルシャがシオンに試練テストと称して監督付きでこれを与えたのは、無論彼女の素質を見るために行ったことではあるが、彼女の内面を見る意味合いの方が大きいと言えた。
 実際のところ、アルシャにとって人手の有無は些細な問題なのだ。その気になれば魔法で使い魔を増やすことができる彼女にとって、わざわざ外からの人間を迎え入れる意味はないに等しいのである。
 それでも、彼女が敢えてシオンを試そうとしているのは。
 彼女は、興味があったのだ。
 長らく閉じられてきた書庫という小さな世界の中に、新しい風を運んできた『人間』という存在に。
「──さて。御主は、果たしてどちら側の人間になるのかのぅ……」
 閉じられた太陽の書の表紙を撫でながら、小さな魔女は笑う。
 繰り返しではない、新しい1日の形。結果の見えない現実という存在が何とも新鮮で、心を躍らさずにはいられない。
 空になったカップに新しい紅茶を注ぎ足して、ゆったりと椅子の背凭れに背中を預ける。
 何となく視界に入った青色水晶のダイスに手を伸ばし、それを目の前に持ってきて指先で転がしながら、言う。
「御主も楽しみじゃろう?」
「別に~?」
 彼女の向かいの席で、ティーカップに山と詰まれた角砂糖を頬張りながら、彼はのんびりとした返事をした。
 黒の燕尾服に白金を基調とした宝飾品アクセサリーで魔道士風の装飾を施しているかのような、そんな黒い服を着た銀の髪の男である。
 切れ長の真珠色の瞳に、中性的な顔立ち。
 髪と目の色以外は声色すらソルと瓜二つのその男は、幸福そうな顔をして角砂糖を口内でしゃりしゃり言わせながら、アルシャの微笑みを猫のように見返した。
「俺、人間には興味ないし? 毎日が楽しくて幸せならそれでいいっていうか、別に刺激なんて求めてないしな~」
「ソルも似たような言葉は言っておったよ」
 やはり対になった魔道書同士、根本的な部分では似通ったところがあるようだ。
「ルナ。儂は御主の考えを制限するつもりはないがの、あまりソルを困らせてはいかん。あれはああ見えて繊細なんじゃからな」
「繊細ねぇ」
 わざとらしく肩を竦めて、ルナは席を立った。
 そのままアルシャの横まで歩を進め、彼女の前に置かれている太陽の書を手に取る。
 ぱらぱらとページを捲り、あるページに書かれている一文を指先でついとなぞって、苦笑した。
「とてもそうとは思えない仕事ぶりだと思うけどね~。大胆って言うか大味って言うか、粋が感じられないじゃん」
「ソルにはそれが精一杯なんじゃ。元々は御主の仕事だったものを無理して代わりにやっておるんじゃからの。得手不得手があるのは、仕方なきことなんじゃよ」
 太陽の書と、月の書。
 2冊で1セットであるこの魔道書は、それぞれ別の用途のためにアルシャの手によって作られた品だった。
 知識や記憶の記録や管理を主たる役目として担った太陽の書。
 知識や記憶の記載や修正を主たる役目として担った月の書。
 当初は、これらの書の能力を用いて、幻灯書庫の管理は完璧に行われるはずであった。
 月の書──コデックス・オブ・ルナが役目を放棄して書庫内を自由気ままに徘徊する悪戯精霊ピスキーにさえならなければ。
 彼が逃亡したために、書庫の業務は一時期支障をきたすまでに混乱した。
 結局、現在は残された太陽の書ソルが本来ならば月の書ルナが行うべき作業を代わりに担うことによって、どうにか事なきを得ている状況だった。
 しかし、ルナが完全に主人アルシャとは袂を分かったのかというと、そういうわけでもない。
 ルナは、アルシャの管理の手からは逃れはしたものの、時々はこうしてアルシャやソルの目の前に姿を現す。会話も普通に成立する。単なる当人の気紛れだろうが業務を手伝うこともある。
 アルシャがルナの奔放な振る舞いについて口うるさく言わないのは、そのためでもあった。
 変わらず姿を見せてくるのは、自分らに対して何らかの未練を抱えていることの証なのだ。そうでもなければ、彼はこの書庫の『扉』が開かれた時点でさっさと外の世界に飛び出しているだろう。そのことを、分かっているからこそ敢えて当人の好きなようにさせているのである。
 言わずもがな……彼が普通に帰ってきて、相方ソルと肩を並べて仕事をしてくれるようになれば、それが1番なのだが。
「全く、世話の焼ける兄貴分だねぇ」
「……ルナ?」
 ぺろりと唇を舐めて書面に掌を翳すルナの挙動を何事かと思ったようだ。席から腰を浮かしかけるアルシャの目の前で、ルナはまるで宣誓でもするように彼女に向けて言った。
「俺が、本物の粋な仕事ってやつを見せてやるよ」

 真の物語とは異なる箇所──それを見出し、それを用いて本来の形に正せ。
 異なる箇所というものが何なのか。綴世器を握り締め、シオンはソルの言葉を必死になって考えていた。
 此処は、自分が持ち込んだ小説が基になった世界だ、とソルは言っていた。
 それを言葉通りに捉えるならば、此処はシオンが書いた通りの内容を一連の出来事として再生する場所である、ということになる。
 先程の鐘音も、確かに、文章に記した通りの回数分だけ鳴り響いていたような気がする。
 前提として此処で起きる全ての事象の根底に自分が描いた物語の存在があるならば、内容の全てを知っている自分は試練テストに対して有利な立場にあるということだ。最初から答を知っていることに他ならないのだから。
 後は、それをどれだけ思い出せるかだが……
 全ては、己の記憶力にかかっている。
 まずは……空。
 シオンは頭上を見上げた。
 黒い蓋が被されたような空を見据えながら、手中の綴世器で文字を綴るような構えを取る。
 深呼吸をして、自身を落ち着かせるように、言った。
「空には、蒼い星がたくさん浮かんでた……こんな真っ黒な空じゃ、なかった」
 綴世器の先端に付いたさざれ石が、白く淡い光を放つ。
 それで虚空を払うように腕を横に振り抜けば、天の黒海は彼女の言葉に応えるように中心で渦巻いて──
 渦が解けると、それは漆黒の平面ではなく、数多の星が散る星空へと変化していた。
「見事だ」
 彼女の動向を見守っていたソルが、頷く。
「だが、無論のこと修正すべき箇所はそれだけではない。……さあ、他の歪みは何処にある?」
 彼は、綴世器の扱い方こそ教えてはくれたが、それ以上のことは一切語ろうとしなかった。
 いや。何かしら反応を示してくれる分だけ、彼の方からすれば語りかけている方なのかもしれないが。
 彼の言葉に応えるように周囲に目を向けるシオン。
 まるでそれを待っていたかのように、彼女の視界の端──通りの果てに、ひとつの人影が姿を現した。
 黒い法衣ローブを身に纏い、口元を薄布のマスクで覆い隠した黒髪の人物だった。手に大鎌を模した形状の杖と、炎の点っていないランタンを持っている。
 まだ若い、少年の冒険者のようだった。
 少年は道をまっすぐ歩いてくると、シオンたちの目の前を通り過ぎ、そのまま城の方へと向かっていった。
 閉ざされた正面扉の前で立ち止まり、そこで城全体を仰ぎ見るように顔を持ち上げる。
 あれは……魔術師を倒すために来た物語の主人公だ。
 服装と所持品から、おそらくそうだろうと判断を下すシオン。
 しかし、あの少年は──
 小さくかぶりを振って、シオンは綴世器を虚空に滑らせた。
「あの子は違う。主人公は男の子じゃなくて、女の子だもの」
 彼女の言葉に応えて綴世器のさざれ石が輝く。
 その光は少年の姿を包み込み、同じ年頃の少女へと変えた。
 そして更に、
「それに、あの子は1人じゃない。相棒がいるの」
 綴世器をもう一振り。
 少年を少女へと変えた光はそのまま彼女の傍らに移動して、人の形を作り出す。
 幾分もせずに、光は神官服を纏った小さな少年へと変わった。
 ソルは、顎に手を当てて関心の声を漏らした。
 シオンが、綴世器の基本的な使い方を教わっただけで此処まで見事にそれを扱いこなすとは思ってもみなかったのだ。
 とはいえ、今彼女がやっているのは初歩中の初歩の域を出ないことで、綴世器の使い方を知ってさえいれば、程度に差はあれ誰でもできることではある。
 綴世器の力は、これだけに留まらない。流石にそこまで使いこなせるとも思ってはいないが、せめて後ひとつ、何か光るものを見せてもらいたいところだが──
「……む」
 ソルの眼差しが城の方に向けられたところで、その動きが止まる。
 城の形が、心なしか──先程よりも大きく膨らんでいるように見えたのだ。
 変化……している?
 此処を変化させた記憶は自分にはない。シオンも、此処には何も手を付けていないはずだが。
 しかし現実として、城は巨大化している。変化は綴世器を用いれば元の形に戻すことは可能だが、何故唐突に、術者ソルの意思とは無関係に『場』が動き始めたのか。
 ──まさか。
 思い当たるふしを見つけたソルは、眉間に皺を寄せて、辺りの様子を見回した。

「ま、こんなもんでしょ」
 ぱたん、と太陽の書を閉じてルナはにこりと笑う。
 その笑みは仕事をやり遂げたという大きな満足感に満ち溢れていた。
「……その情熱を少しは仕事に向けてくれると、儂としては助かるんじゃがの」
 ルナの手から太陽の書を受け取り、アルシャは肩の力を抜いて溜め息をついた。
 綴世器を使わずに書の内容を自在に書き換えるルナの能力は、仕事面において大きな助けとなる。彼が手元に身を置いてくれていれば、日々の作業がどんなに捗るか。
 彼の意思を縛らないと心に決めているとはいえ、やはり本音はうっかり口にしてしまうもの。ソルの胸中を思うと、余計にそう考えたくなってしまうのだ。
「帰ってくる気はないのかの?」
「えー? たまにはこうして顔見せてるじゃん。それで良しってことにしといてよ」
 ルナは主の言葉を笑って受け流し、手を振りながらぼふんとその場から姿を消してしまった。
「また来るよ。じゃーねー」
 いつの間にか中身を綺麗に平らげられて空っぽになったルナのカップに目を向ける。
 此処に備蓄していたありったけの角砂糖を食していったあの悪戯魔道書ピスキーは、次はいつ顔を見せに現れるのだろうか。
 太陽の書をテーブルの上に戻し、アルシャは1人苦笑する。
 気を揉んでいるソルには申し訳なさを感じつつも、たまにあるこの遣り取りを多少は楽しんでいる自分がいる事実を、彼女は否定していない。
 変化とは、何と、楽しいものか。
 長く生きていると、ささやかな出来事が小さな娯楽として感じられるようになるのだ。毎日の衣裳を選ぶことは無論、ソルが毎日淹れてくれる紅茶の風味の変化も、こうして若き客人をこちら側の領域に踏み込ませて経過を観察していることも。
 与えた試練テストに対して、彼女がどういった答を持ち帰ってくるかは分からない。しかしどのような形の答であったとしても、今日という時間と、彼女が致した経験は、決して無駄にはならない。そう、思いたかった。
「物事に固執してばかりでは、可能性を見失う……ゆとりを持って、楽しんでくると良い。若い御主には──可能性の扉が、無限に開いておるんじゃからの」

 辺りを縦横無尽に走り回るシルクハットを被った白うさぎ。
 ラッパを吹き鳴らし、シンバルを打ち鳴らし、アコーディオンを奏でながら行進していくリスと小ネズミの隊列。
 マラカスを幾つもジャグリングしながら器用に宙返りを披露する白灰色の毛並みの猫。
 それらの輪に混ざって、魔術師の少女と神官の少年が笑いながら踊っている。
 ──眼前のそんな光景を、シオンは開きっぱなしの口を塞ごうともせずに呆然と眺めていた。
「……あいつめ……!」
 額に手を当てて頭上を仰ぎながら、呻くソル。
 これらの生き物が突如として沸いた理由はひとつしかありえないと、騒動の主に遺憾の意を向けているのだ。
 もっとも、そうしたところで現在のこの状況が何か変わるわけでもないのだが。
 これでは、試練(テスト)どころではない。綴世器の力ならばこの状況を収拾することは可能だが、流石に今のシオンではそれは難しいだろう。
 綴世器を扱う際には、記憶力の他に雑念を払う集中力が必要になる。意思の力で『言葉』を綴る綴世器は、使い手の意識の状態を反映させやすいのだ。
 余計なことを考えている精神状態で綴世器を振るっても、必要のない『言葉』まで書に書き込んでしまう羽目になる。それでは全く意味がない。
「……邪魔が入ったようだ。試練テストは現時点を持って終了とする」
 不本意でも、こう言うより他にない。溜め息混じりに、ソルはシオンに告げた。
「心行くまで力を震えなかったことを、試練テストの監督を担った者として謝罪する。本来ならば、このような事態にはならなかったはずなのだが……」
「あ……だ、大丈夫ですっ。謝らないで下さい!」
 何処か悔しそうに頭を下げる彼に、シオンは我に返って慌てて首を振った。
「私……楽しかったです。こんな魔法みたいな経験、初めてで……逆に何て御礼を言ったらいいか」
 試練テストが台無しになってしまったということは、結果はもう決まったようなものだろう。
 薄々と心の何処かでそう感じ取りながら、彼女は微笑んだ。
「もう、こんな経験はできないでしょうから……最後にひとつだけ、試させてもらっても良いですか?」
「……何だ?」
 この状況で何かを試すといっても、綴世器でこの場面を『訂正』できるかどうか試みるくらいのことしかないだろう。
 あまり突拍子もないことをされて、この世界そのものの存在自体が危うくなってしまっては困るが──その時は、自分が必要最低限でも修復を施してやれば良いだけのこと。
 ソルが頷くと、シオンは短く礼を述べて、動物たちが騒いでいる方へと駆けていった。
「──な」
 騒ぎの中心に移動したシオンは、綴世器を逆手に持ち、頭上に振り上げた。
 その姿は、楽団を前に指揮棒を翳す指揮者のようだった。
 彼女の薄く色付いた唇が、開かれる。
 楽器を奏でるような彩り深い彼女の声は、周囲の者たちの意識を集めながら、星の大海へと引き寄せられるように羽ばたいていった。
 綴世器の先端が、細い光を放つ。
 シオンの手の動きに合わせて描き出される光の帯が、細やかな文字へと形を変えながら周囲へと波紋のように広がっていく。渦を描き、複雑に交わり合い、まるで巨大な五線譜の輪のように──絶えず形を変えながら辺りにあるもの全てを包み込んで、景色へと溶け込んでいく。
 彼女の声が、文字になってこの世界の『歪み』を浄化しているのだ。
 足下から光の粒子となって消えていく世界を見回しながら、ソルは半ば驚いた様子で口を開いた。
「まさか。これは──」

 光が消える。
 正面の椅子に目を閉じて座っているシオンを、アルシャは手にしていた本を膝の上に置いて出迎えた。
「……思っていたよりも、早かったのう」
「……あ……」
 はたと我に返り、シオンは綴世器を掲げていた手を下ろして、周囲を見回した。
 古書の匂いで満たされた山吹色の静謐な空間と、そこに身を置く主たる小さな魔女の姿。それらが順番に目に入る。先程まで隣にいたはずのソルの姿は何処にもなく、代わりに、机の上に置かれている太陽の書が視界の端に映った。
「アルシャ様」
 太陽の書ソルが、何処から発しているのか未だに分からない声を発し、主を呼んだ。
「ルナが来ていたのですか?」
「やはり、影響が出ておったのか。……御主の言う通りじゃよ」
「……そうですか」
 はあ、と深々と溜め息を吐くソル。
「申し訳ありません。私が付いていながら──」
「御主が気に病むことではあるまいて。元々御主の能力ちからよりも、奴の能力ちからの方が優位にあるんじゃ……理には、逆らえまいよ」
 ふふ、と笑い、アルシャは席を立った。
 小さな足音を響かせながらシオンの目の前まで移動し、彼女の顔を真正面から見上げる。
「して、どうじゃったかの? ソルから与えられた課題を、御主はやり遂げられたのかね」
「…………」
 嘘は、つけない。
 シオンは淋しげな微笑を浮かべて、首を振り、持っていた綴世器をアルシャへと差し出した。
「完璧には、できませんでした。ごめんなさい」
「そうかの」
 綴世器を受け取り、アルシャは腰の後ろで手を組んだ。
 そのまま、自分の席の方へと歩いていき、テーブルの上にある太陽の書を取り上げる。
「此処に、御主が課題をどれだけこなせたか、その結果が記されておるのじゃが──」
 ぱらぱらとページを捲り、ある箇所で止めて、そのページをシオンによく見えるように提示した。
 シオンが持ち込んだ小説の原文が記されていたというページは、特に手を加えられた痕跡もなさそうな普通の書物然とした姿をシオンに見せている。
「確かに、『修正』は完璧にはされておらん。綴世器を使えば、見た目には分からずともその痕跡が残るものじゃからの。御主の言う通りに、御主はソルの課題を完璧にはこなせておらんという何よりの証拠じゃ」
「……はい」
「──じゃが、もっと面白い結果が此処に残っておる」
 開いたページに、アルシャは掌を撫でるような動きで翳した。
 すると、紙面から記されていた文字が剥がれ落ちるように浮かび上がり、元の形を保ったまま、2人の目の前に光の文字となって展開した。
「よく見てみると良い。この文章──御主が記したものと、形に差異はあるかどうか」
「…………」
 言われるままに、シオンは目の前の光の文字に注目した。
 自分で書いた小説は、自己添削を繰り返したこともあって一字一句完璧に記憶している。少ない文字数の一節に違和感があるかどうかを確かめることは容易い。
 一読して、彼女ははっきりと言い切った。
「いえ……ないです。確かに、これは私が書いたものと同じ文章です」
「じゃろうなぁ」
 太陽の書の紙面を再度撫でるアルシャ。
 文字たちはその動きに呼応して、元通り、空白になったページへと戻り普通の文章になった。
「『浄化』されておるんじゃよ。手を加えられて生まれた『歪み』が、最初からなかったかのように綺麗に取り除かれて、消えておるのじゃ」
 ぱたん、と太陽の書を閉じて、アルシャは微笑む。
「綴世器を力の媒体にしてはおるが──これは、御主自身が持つ『能力』によって為された所業こと。綴世器の力を遥かに超える、魔女としての才能の一端とも呼べる力なんじゃな」
「……魔女の、力……ですか?」
 そんな、とかぶりを振ってシオンは慌ててアルシャの言葉を遮った。
「私、普通の人間です。魔法なんて本当にはないものだって思ってたくらいなのに、魔女の力、だなんて……そんな」
「御主の住む世界には、確かに魔法は実在しなかった。じゃがの、素質があるかどうかは別の問題なんじゃよ。魔法が存在する世界に身を置けば、才能が開花する──なんて話は、珍しいことではないのじゃ」
 すっ、と顔から微笑みを消して、一転して真面目な面持ちでシオンを見据えてアルシャは言う。
「シオン。御主、儂の後継者になる気はないかの?」
「……え?」
「アルシャ様。唐突に何を──」
 ソルに沈黙を促すように太陽の書の表紙をぽんぽんと叩いて、アルシャは続けた。
「御主の、その才能──今後の成長次第では、儂の力を超えるものになるやもしれん。無論、御主にも御主の人生がある、無理にとは言わんがの。もしも御主が儂の申し出を受け入れてくれるなら、儂は儂の人生の全てを賭けて、御主を一人前の後継者として育て上げることを誓おう。……どうじゃ?」
「…………」
 シオンは目を伏せた。
 此処で働ければいい、とは思っていた。そうしなければ自分は絶対に後悔すると思っていたから。
 それが、話が予想外の方向に進んでいって──魔女の後継者として、此処に身を置いてみないかと誘いを受けている。
 この誘いを受け入れれば、自分は書庫の一員としてこれからを生きていける。
 その代わり、現在の生活には2度と戻ることはできなくなるだろう。
 どちらが正しいのか、今のシオンには分からなかった。
 不思議なものだ。最初はあれだけ、此処に身を置くことを願っていたのに──
 そんな彼女の胸中の葛藤を見抜いているかのように、アルシャは彼女に優しく諭す。
「今すぐに、答を出す必要はないよ。此処への扉は、いつでも開いておる……御主がそう望むなら、儂らはいつでも御主のことを歓迎するよ」

 日常が戻った書庫の中。
 梯子の頂に腰掛けて本を読み耽るアルシャに向けて、ソルは問いかけた。
「──アルシャ様」
「……何じゃ?」
「貴女は、本気で、後継者をお育てになられるおつもりなのですか?」
 しばしの静寂。アルシャが本のページを捲る音だけが、円形の空間に響く。
「うむ」
 紙面からは目を離さず、アルシャは優しく微笑んで頷いた。
「時は、いつまでも止めておくわけにもいかんじゃろう。新しい風を招き入れたのじゃから、此処もそれに伴い変わっていかねばならん」
「……しかし、それでは──」
「御主らの、そしてこの書庫のためには必要なことじゃて。儂の我儘ではあるが……どうか、目を瞑ってはもらえんかの」
「…………」
 ソルは溜め息をついた。
 元より、回答の決まった質問である。難色は示せど、否定はしない。それが、司書(ソル)の回答なのだ。
「御随意に。私は、結果が如何であろうと、最後の刻まで貴女と共におります故」
「……そうかの」
 ふっ、と少女らしくはにかんで、アルシャは本を閉じた。
「そろそろ、休憩にでもするかの。ソル、たまには御主も一緒に如何かね?」
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