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第4話 光に恋する禁書
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……此処から出して。
整然と棚に並べられた書物の隙間から、謡うような声がする。
幻灯書庫には、書を保管するための部屋が全部で6つある。日々増えていく書の数に伴い、それらを収めるための本棚が増えていったのがその理由である。
書庫の主たちが普段身を置いている中央の部屋とは異なり、こちらはただ本棚が所狭しと並べられているだけの殺風景な部屋だ。
書の背表紙を壁紙に、書の背の高さの差が描く段差を模様に。
必要時以外は目に触れられることのない、数多の本たち。
手に取られる日を今か今かと望みながら、手を差し伸べる子供のように。
遊ぼう。ねえ、一緒に遊ぼうよ。
囁きは、静謐な空間に溶け消えて、それでもなお、繰り返し紡ぎ続けられていた。
「その書を、そちらの棚の上に」
「はいっ」
ソルの指示に歯切れの良い返事をして、胸元に分厚い書を抱いた娘が梯子に片足を掛ける。
白いスキニーパンツが夏らしい装いの、栗色の髪の娘である。腰のベルトから吊り下げた革のホルダーに太陽の書を納め、アンバランスな重心を懸命に水平に保ちながら彼女は梯子を1段ずつゆっくりと上っていく。
彼女の名は、シオンと言う。
本名、ユウリ・シオン。作家になる夢を持った19歳の少女だ。
現在は、幻灯書庫でアルシャの指導の下、魔女見習いとして働いている。
それまで魔法とは全く無縁の世界で普通の生活を送っていた彼女の才能を見初めたのは、アルシャだった。
シオンが見せた能力──書の内容の『歪み』を浄化する能力を非凡と見定めたアルシャは、いずれ彼女が成長次第では己の力を上回る魔女になるであろう未来を見越し、彼女に己の後継者という書庫での居場所を与えたのである。
そのシオン当人は、自宅から此処へと通う形で書庫の仕事を手伝う道を選んだ。
書庫に完全に身を置く決心が持てず、しかし書庫での生活を諦めきれない彼女が考え抜いた末に選んだ生き方であった。
アルシャは、そんな彼女の意向については何も言わなかった。
外界と、書庫との道はいつでも開いている。急に完璧な決断を迫らなくても、時があるうちにゆっくりと心の導きに従って決めていけば良いと、考えていたからである。
魔女には、当人にその気さえあれば年老いてからでも十分になれる。
幸い、自分には永遠に等しい時間があるのだから──
待っていようと、心に決めたのだ。
アルシャは手にしていた指揮棒のような品を、テーブルの上へと置いた。
懸命にソルの指示に従おうとしているシオンの背中を微笑ましそうに見つめながら、傍らに詰んであった本に手を伸ばす。
別室の本棚から持ち出してきた本である。
幻灯書庫に保管されている本の種類には、実に様々なものがある。
その書そのものがひとつの『世界』であると言っても過言ではない、独自の理と生命の営みを内包した世界書。
知識や、思想についてを封じ込めた成長する『頭脳』である文化書。
現世に実在する時の記録を記憶した過去の『遺産』である歴史書。
そして──禁書と呼ばれる、読むことを禁じられた本たち。
彼女が今手にしているのは、その禁書に区分された古き書であった。
禁書とて、本であることに変わりはない。これらも元々は、普通に人の手に取られ、読まれるべく作られた本なのだ。
禁書としての『鍵』を外し、本来あるべき姿へと戻す。
それが、書庫の主にして魔女たるアルシャの役目のひとつだった。
「きゃ……」
小さな悲鳴を上げたシオンの全身が、梯子の頂でくらりと傾ぐ。
腰に下げた太陽の書の重みに引っ張られるような形で、彼女は梯子から転げ落ちてしまった。
尻を強打して目尻に涙を浮かべる彼女に、アルシャは微苦笑しながら視線を向ける。
「派手に落ちたのう。まあ、儂も時々やるんじゃがの」
「ふぁい……」
「アルシャ様の場合は、お召し物がいささか大きすぎなのですよ」
ソルが溜め息をついた。
「もう少し、身丈に見合った寸法の法衣を誂えるべきではないかと」
「儂はこの方が落ち着くんじゃよ。逆に足に風が当たると、気になって作業に集中できなんだ」
黒地に緋色の糸で薔薇の刺繍が施された法衣の裾を、カーテンを捲るようについと持ち上げる。
それから先程テーブルの上に置いた指揮棒もどきを左手で手繰り寄せ、シオンに呼びかける。
「……さあ。シオン、御主の相棒となる杖ができたよ」
「……杖、ですか?」
「魔女となる者、魔法を扱うための杖がなければ話にならんじゃろうて」
席を立ったアルシャは、尻を撫でながらその場に立ち上がるシオンの元に移動した。
「試練の時に渡した綴世器をそのまま預けても良かったんじゃがな。己が手に馴染む杖を育てるには、時間をかけて使い込むのが1番じゃからな。杖を持つなら早い方が良かろうと思っての」
シオンが姿勢を完全に正すのを待って、携えたそれを彼女へと差し出す。
吊りランプの光を反射して、細く尖った先端の部分がきらりと虹色に輝いた。
「御主が扱いやすい形にしたつもりじゃ」
──それは、先端に綴世器と同じさざれ石を使い仕立てた短めの指揮棒、という風の外見をしていた。
全体の色は白、持ち手となる箇所に細かい文字の彫刻が施されている。
「ソルから聞いたが、御主の能力は『歌』を要としているのじゃろう? ならば何かしらそれに縁のある形にした方が、魔法も扱いやすいはずじゃて」
綴世器を指揮棒のように扱った時の話を聞いたのだろう。
アルシャから手渡された杖を顔の前に翳して、シオンは目を大きくして身をふるりと震わせた。
「……本当に、魔法使いになったんですね……私」
「その素質がある、というだけじゃ。今の御主は、己が能力の存在を知っただけの普通の人間にすぎん」
アルシャは苦笑する。
「その杖も、今はまだ綴世器としての性質の方が強い。本格的な杖を誂えるのは、御主がもう少し成長して、幾つかでも魔法をしっかりと使いこなせるようになってからじゃ」
いつか1人前の魔女としての杖を渡せるように、しっかりと鍛錬するんじゃよ。
言って、アルシャはのんびりと自分の席へ戻っていく。
椅子の上にちょこんと座り、先程から触っていた本を1冊手に取った。
「さて……せっかくじゃから、御主に魔女としての役目をひとつ教えておくことにしようかの」
「魔女の役目……ですか?」
「うむ」
シオンに見えるように、本の表紙を指先で叩きながら披露して、アルシャは頷く。
「禁書の修正じゃよ」
「禁書とは、悪戯精霊を内包した書物のことだ」
アルシャの言葉を解説するように、ソルが横から言葉を挟んできた。
禁書──
普通の世界書や文化書からたまに発生する、悪戯精霊が宿る本のことをそのように呼ぶ。
見た目は普通の本と変わらないが、1度表紙を捲れば、内に宿る悪戯精霊が現れる。
悪戯精霊の存在は、宿る書の内容を際限なく歪ませていく。それに伴い悪戯精霊もまた成長していき、果てには綴世器の力すら及ばぬ存在へと成り果ててしまうのだ。
そうなる前に悪戯精霊をわざと召喚し、滅する。
そうすることにより禁書は普通の書へと戻り、再度中身に目を通すことが可能となるのである。
禁書の修正は、通常の書の『歪み』を訂正するのとは訳が違う。場合によっては身の危険を伴う作業は、綴世器を携えただけの人間には荷が重いのだ。
「『悠久の天幕』……」
表紙に記されたタイトルを朗読し、シオンは目を瞬かせた。
「普通の、本ですね」
「元は普通の世界書だった本だからの」
「へぇ……」
生来本好きのシオンは目を輝かせている。
禁書、と呼ばれているからには、その『鍵』を外さない限りは普通の人間である彼女には手に取ることすら許されない。
だが、修正が済めば、この本も他の本同様に手に取れるようになるのだろう。
本を愛する者としてのささやかな欲が、彼女に魔女見習いとしての奮起をさせたようだ。シオンは杖を握り締めながら、大きくなった声でアルシャに尋ねた。
「──あの。その本、修正が終わったら読んでみても良いですか?」
「それは別に、構わんよ」
良い幻想譚じゃよ、と言って、アルシャは笑った。
「いつか御主自身の手で修正できるようになったら、此処にある禁書は読み放題、になるんじゃろうな。何であれ、学びのきっかけとなるのは、良いことじゃ」
「アルシャ様。彼女の護符を」
禁書を抱えたまま自分の杖に手を伸ばすアルシャに、ソルが提言する。
怪訝そうに腰に下げた太陽の書に視線を落とすシオン同様にそれへと目を向けて、ようやく彼の言葉の意味を把握したのか、彼女は思い出したかのように声を漏らした。
「……そうじゃったな。ソル、今回は御主が護っておあげ」
「分かりました」
「シオン。ソルをホルダーから外して、足元に置いておやり」
促されるままに、シオンは太陽の書をホルダーから取り出して足元に置く。
すると、表紙の絵が光でなぞられたかのように下から上へと発光し──一瞬にして、それは本から執事魔道士風の青年の姿へと変わった。
ソルは掌を軽く握って開く仕草をすると、シオンの横に立った。
「何があっても私の傍から離れるな。いいな」
「は、はいっ」
シオンがソルに寄り添ったのを見届けて、アルシャは手中の禁書の表紙に指を掛ける。
「それじゃ、始めるよ」
ぱり、と糊が剥がれるような音を立てて、禁書の頁が左右に大きく開かれた。
「……温かい……」
紙面に書かれている文字が、渦を巻くように一点へと集まった。
そこから突き出るように、黒く透けた何かがせり出してくる。ゆっくりと。
幾分もせずに、それは長い黒髪を生やした娘の頭を、長い指を生やした腕を、脚を、成熟しかけの身体を形作っていき、
漆黒のレースのドレスを纏った、少女になった。
「……私を出してくれたのは、貴女たち?」
少女は浮遊した身体を揺らしながら、小首を傾げて問いかけた。
金魚のように愛くるしい仕草が、これが本当に禁書を生み出した悪戯精霊なのだろうかという疑念を沸き起こさせる。普通の人間では、そうだと教えられなければ、引き寄せられるように彼女の呼びかけに応じてしまっていただろう。
それこそが悪戯精霊の特性のひとつであり、脅威であるとも言えた。
「儂じゃよ」
開いた禁書をテーブルの上に置き、アルシャは杖を片手に少女の顔をじっと見上げた。
「儂は幻灯書庫の責任者、アルシャ・リィじゃ。御主のような悪戯精霊を書から引き剥がし、浄化する役目を担っておる」
「……私は、何もしてないわ。私はただ、憧れてる外の世界みたいに、自分の住処を住みやすいように整えているだけよ」
少女は頬を膨らませて、アルシャの顔を睨んだ。
「荒地に花を植えることの何処がいけないの? 夜しかない世界に昼を求めることの何がいけないの? 私がしているのは、そんなに悪いこと?」
「悪いことではないよ。ただ、場所が問題だっただけじゃて」
少女の訴えにも、アルシャは動じる素振りを全く見せない。
ふくりと色付き膨らんだ唇を動かして、少女に告げる。
「どんな理由であれ、書の『世界』を乱した御主を放っておくわけにはいかんのじゃ。書庫を管理する者として、儂は御主を然るべき場所に連れて行かねばならん」
「嫌!」
両の目をきつく閉ざして、少女が叫ぶ。
親に我儘を言う子供のように首を振り──振り乱した髪を生きた蔦のように動かし、束ねて大鎌のような形状を作り出して、それをアルシャへと突きつけた。
「私の居場所を奪わないで!」
ひゅ、と風が裂ける。
少女の髪が生み出した大鎌は、僅かに身を引いたアルシャの前髪を数本薙いだ。
ぱらぱらとちぎれた草のように舞い落ちるそれを視界の端の方に収めながら、アルシャはゆっくりと杖を眼前へと持ってくる。
「穏便に済ませたかったのじゃがのう」
肩を竦めて短く息を吐き、口元に宿していた柔らかさをすっと内側へと押し込めた。
「育て、蔓よ」
小さく、呟けば。
杖の先端が淡いペリドット色の光を放つ。
それは宙に絵を描くように一瞬にして周囲に帯を伸ばしていき、髪の大鎌もろとも少女の全身を雁字搦めにした。
「きゃ……」
少女は暴れるが、その程度では光の帯はびくともしない。
陸上に打ち上げられた魚のように身を捩らせるだけになった彼女を見据えて、アルシャは杖を静かに下ろす。
「『世界』は然るべき姿に。『ひずみ』は然るべき形に。世の定めに従い、万物の居所は始まりの場所へ」
「…………!」
きゅ、と光の帯が少女の全身をきつく締め上げる。
細切れにされたようにばらけた少女は、数多の黒い薔薇の花びらと化して、ぱっと辺りに舞い散った。
床に届く前に虚空に溶け消えていく黒を見つめながら、ふわぁ、と驚きの声を漏らすシオン。
「……護衛は不要でしたね」
シオンの傍から離れ、ソルはふっと短い吐息を漏らした。
「生まれたばかりの悪戯精霊で良うございました」
「学びの資料としては、いささか物足りなさすぎだったかもしれんがな」
ふっふっと肩を揺らして、アルシャはテーブルの上に置いていた禁書を手に取った。
開いたままのページを一読し、頷いて、表紙をぱたりと閉ざす。
それを携えてシオンの元まで歩いていき、目を瞬かせる彼女に、そっと差し出した。
「もう、読んでも大丈夫じゃ。元の世界書に戻っておる」
「あ……ありがとうございますっ」
本を受け取って、シオンはぺこりと頭を下げた。
アルシャはにこりと微笑み、続けた。
「いずれは、今儂がしたように御主が禁書の歪みを正していくようになる。……今日のところは、禁書を生み出す悪戯精霊についてを学んだところで、魔女としての修行はひと段落ということにしておこうかの」
全ては、まだまだこれから。
今はひとつずつ、幻灯書庫の魔女についてを学ぶ時期なのだ。
魔法を覚えるのは、きっとその後でも、遅くはない。
本を抱える指先に力を入れて、シオンは大きな声で返事をした。
「はい!」
「……さあ、仕事は一旦区切りにして、お茶にしようかね。ソル、今日はシオンがシフォンケーキを持ってきてくれたんじゃ。あれを出しておくれ。たまには茶会らしい休憩時間を過ごすのも、良いじゃろうて」
ソルを背後から押し出すようにして部屋から姿を消した2人を見送って、シオンは受け取った本の表紙に視線を落とした。
古い表紙に描かれた塔の絵と共に記されている文字は、彼女にとっては見たこともない文字で、何と書いてあるかは読めない。
文字が分からないのなら、師に教えを乞うて学べばいい。魔法を教わるのと同じように、知りたいと自分から思わなければ英知は養われないのだ。
いつかは師のように、この書庫に相応しい立派な魔女になろう。
うん、と頷いて、シオンは世界書の表紙を捲った。
整然と棚に並べられた書物の隙間から、謡うような声がする。
幻灯書庫には、書を保管するための部屋が全部で6つある。日々増えていく書の数に伴い、それらを収めるための本棚が増えていったのがその理由である。
書庫の主たちが普段身を置いている中央の部屋とは異なり、こちらはただ本棚が所狭しと並べられているだけの殺風景な部屋だ。
書の背表紙を壁紙に、書の背の高さの差が描く段差を模様に。
必要時以外は目に触れられることのない、数多の本たち。
手に取られる日を今か今かと望みながら、手を差し伸べる子供のように。
遊ぼう。ねえ、一緒に遊ぼうよ。
囁きは、静謐な空間に溶け消えて、それでもなお、繰り返し紡ぎ続けられていた。
「その書を、そちらの棚の上に」
「はいっ」
ソルの指示に歯切れの良い返事をして、胸元に分厚い書を抱いた娘が梯子に片足を掛ける。
白いスキニーパンツが夏らしい装いの、栗色の髪の娘である。腰のベルトから吊り下げた革のホルダーに太陽の書を納め、アンバランスな重心を懸命に水平に保ちながら彼女は梯子を1段ずつゆっくりと上っていく。
彼女の名は、シオンと言う。
本名、ユウリ・シオン。作家になる夢を持った19歳の少女だ。
現在は、幻灯書庫でアルシャの指導の下、魔女見習いとして働いている。
それまで魔法とは全く無縁の世界で普通の生活を送っていた彼女の才能を見初めたのは、アルシャだった。
シオンが見せた能力──書の内容の『歪み』を浄化する能力を非凡と見定めたアルシャは、いずれ彼女が成長次第では己の力を上回る魔女になるであろう未来を見越し、彼女に己の後継者という書庫での居場所を与えたのである。
そのシオン当人は、自宅から此処へと通う形で書庫の仕事を手伝う道を選んだ。
書庫に完全に身を置く決心が持てず、しかし書庫での生活を諦めきれない彼女が考え抜いた末に選んだ生き方であった。
アルシャは、そんな彼女の意向については何も言わなかった。
外界と、書庫との道はいつでも開いている。急に完璧な決断を迫らなくても、時があるうちにゆっくりと心の導きに従って決めていけば良いと、考えていたからである。
魔女には、当人にその気さえあれば年老いてからでも十分になれる。
幸い、自分には永遠に等しい時間があるのだから──
待っていようと、心に決めたのだ。
アルシャは手にしていた指揮棒のような品を、テーブルの上へと置いた。
懸命にソルの指示に従おうとしているシオンの背中を微笑ましそうに見つめながら、傍らに詰んであった本に手を伸ばす。
別室の本棚から持ち出してきた本である。
幻灯書庫に保管されている本の種類には、実に様々なものがある。
その書そのものがひとつの『世界』であると言っても過言ではない、独自の理と生命の営みを内包した世界書。
知識や、思想についてを封じ込めた成長する『頭脳』である文化書。
現世に実在する時の記録を記憶した過去の『遺産』である歴史書。
そして──禁書と呼ばれる、読むことを禁じられた本たち。
彼女が今手にしているのは、その禁書に区分された古き書であった。
禁書とて、本であることに変わりはない。これらも元々は、普通に人の手に取られ、読まれるべく作られた本なのだ。
禁書としての『鍵』を外し、本来あるべき姿へと戻す。
それが、書庫の主にして魔女たるアルシャの役目のひとつだった。
「きゃ……」
小さな悲鳴を上げたシオンの全身が、梯子の頂でくらりと傾ぐ。
腰に下げた太陽の書の重みに引っ張られるような形で、彼女は梯子から転げ落ちてしまった。
尻を強打して目尻に涙を浮かべる彼女に、アルシャは微苦笑しながら視線を向ける。
「派手に落ちたのう。まあ、儂も時々やるんじゃがの」
「ふぁい……」
「アルシャ様の場合は、お召し物がいささか大きすぎなのですよ」
ソルが溜め息をついた。
「もう少し、身丈に見合った寸法の法衣を誂えるべきではないかと」
「儂はこの方が落ち着くんじゃよ。逆に足に風が当たると、気になって作業に集中できなんだ」
黒地に緋色の糸で薔薇の刺繍が施された法衣の裾を、カーテンを捲るようについと持ち上げる。
それから先程テーブルの上に置いた指揮棒もどきを左手で手繰り寄せ、シオンに呼びかける。
「……さあ。シオン、御主の相棒となる杖ができたよ」
「……杖、ですか?」
「魔女となる者、魔法を扱うための杖がなければ話にならんじゃろうて」
席を立ったアルシャは、尻を撫でながらその場に立ち上がるシオンの元に移動した。
「試練の時に渡した綴世器をそのまま預けても良かったんじゃがな。己が手に馴染む杖を育てるには、時間をかけて使い込むのが1番じゃからな。杖を持つなら早い方が良かろうと思っての」
シオンが姿勢を完全に正すのを待って、携えたそれを彼女へと差し出す。
吊りランプの光を反射して、細く尖った先端の部分がきらりと虹色に輝いた。
「御主が扱いやすい形にしたつもりじゃ」
──それは、先端に綴世器と同じさざれ石を使い仕立てた短めの指揮棒、という風の外見をしていた。
全体の色は白、持ち手となる箇所に細かい文字の彫刻が施されている。
「ソルから聞いたが、御主の能力は『歌』を要としているのじゃろう? ならば何かしらそれに縁のある形にした方が、魔法も扱いやすいはずじゃて」
綴世器を指揮棒のように扱った時の話を聞いたのだろう。
アルシャから手渡された杖を顔の前に翳して、シオンは目を大きくして身をふるりと震わせた。
「……本当に、魔法使いになったんですね……私」
「その素質がある、というだけじゃ。今の御主は、己が能力の存在を知っただけの普通の人間にすぎん」
アルシャは苦笑する。
「その杖も、今はまだ綴世器としての性質の方が強い。本格的な杖を誂えるのは、御主がもう少し成長して、幾つかでも魔法をしっかりと使いこなせるようになってからじゃ」
いつか1人前の魔女としての杖を渡せるように、しっかりと鍛錬するんじゃよ。
言って、アルシャはのんびりと自分の席へ戻っていく。
椅子の上にちょこんと座り、先程から触っていた本を1冊手に取った。
「さて……せっかくじゃから、御主に魔女としての役目をひとつ教えておくことにしようかの」
「魔女の役目……ですか?」
「うむ」
シオンに見えるように、本の表紙を指先で叩きながら披露して、アルシャは頷く。
「禁書の修正じゃよ」
「禁書とは、悪戯精霊を内包した書物のことだ」
アルシャの言葉を解説するように、ソルが横から言葉を挟んできた。
禁書──
普通の世界書や文化書からたまに発生する、悪戯精霊が宿る本のことをそのように呼ぶ。
見た目は普通の本と変わらないが、1度表紙を捲れば、内に宿る悪戯精霊が現れる。
悪戯精霊の存在は、宿る書の内容を際限なく歪ませていく。それに伴い悪戯精霊もまた成長していき、果てには綴世器の力すら及ばぬ存在へと成り果ててしまうのだ。
そうなる前に悪戯精霊をわざと召喚し、滅する。
そうすることにより禁書は普通の書へと戻り、再度中身に目を通すことが可能となるのである。
禁書の修正は、通常の書の『歪み』を訂正するのとは訳が違う。場合によっては身の危険を伴う作業は、綴世器を携えただけの人間には荷が重いのだ。
「『悠久の天幕』……」
表紙に記されたタイトルを朗読し、シオンは目を瞬かせた。
「普通の、本ですね」
「元は普通の世界書だった本だからの」
「へぇ……」
生来本好きのシオンは目を輝かせている。
禁書、と呼ばれているからには、その『鍵』を外さない限りは普通の人間である彼女には手に取ることすら許されない。
だが、修正が済めば、この本も他の本同様に手に取れるようになるのだろう。
本を愛する者としてのささやかな欲が、彼女に魔女見習いとしての奮起をさせたようだ。シオンは杖を握り締めながら、大きくなった声でアルシャに尋ねた。
「──あの。その本、修正が終わったら読んでみても良いですか?」
「それは別に、構わんよ」
良い幻想譚じゃよ、と言って、アルシャは笑った。
「いつか御主自身の手で修正できるようになったら、此処にある禁書は読み放題、になるんじゃろうな。何であれ、学びのきっかけとなるのは、良いことじゃ」
「アルシャ様。彼女の護符を」
禁書を抱えたまま自分の杖に手を伸ばすアルシャに、ソルが提言する。
怪訝そうに腰に下げた太陽の書に視線を落とすシオン同様にそれへと目を向けて、ようやく彼の言葉の意味を把握したのか、彼女は思い出したかのように声を漏らした。
「……そうじゃったな。ソル、今回は御主が護っておあげ」
「分かりました」
「シオン。ソルをホルダーから外して、足元に置いておやり」
促されるままに、シオンは太陽の書をホルダーから取り出して足元に置く。
すると、表紙の絵が光でなぞられたかのように下から上へと発光し──一瞬にして、それは本から執事魔道士風の青年の姿へと変わった。
ソルは掌を軽く握って開く仕草をすると、シオンの横に立った。
「何があっても私の傍から離れるな。いいな」
「は、はいっ」
シオンがソルに寄り添ったのを見届けて、アルシャは手中の禁書の表紙に指を掛ける。
「それじゃ、始めるよ」
ぱり、と糊が剥がれるような音を立てて、禁書の頁が左右に大きく開かれた。
「……温かい……」
紙面に書かれている文字が、渦を巻くように一点へと集まった。
そこから突き出るように、黒く透けた何かがせり出してくる。ゆっくりと。
幾分もせずに、それは長い黒髪を生やした娘の頭を、長い指を生やした腕を、脚を、成熟しかけの身体を形作っていき、
漆黒のレースのドレスを纏った、少女になった。
「……私を出してくれたのは、貴女たち?」
少女は浮遊した身体を揺らしながら、小首を傾げて問いかけた。
金魚のように愛くるしい仕草が、これが本当に禁書を生み出した悪戯精霊なのだろうかという疑念を沸き起こさせる。普通の人間では、そうだと教えられなければ、引き寄せられるように彼女の呼びかけに応じてしまっていただろう。
それこそが悪戯精霊の特性のひとつであり、脅威であるとも言えた。
「儂じゃよ」
開いた禁書をテーブルの上に置き、アルシャは杖を片手に少女の顔をじっと見上げた。
「儂は幻灯書庫の責任者、アルシャ・リィじゃ。御主のような悪戯精霊を書から引き剥がし、浄化する役目を担っておる」
「……私は、何もしてないわ。私はただ、憧れてる外の世界みたいに、自分の住処を住みやすいように整えているだけよ」
少女は頬を膨らませて、アルシャの顔を睨んだ。
「荒地に花を植えることの何処がいけないの? 夜しかない世界に昼を求めることの何がいけないの? 私がしているのは、そんなに悪いこと?」
「悪いことではないよ。ただ、場所が問題だっただけじゃて」
少女の訴えにも、アルシャは動じる素振りを全く見せない。
ふくりと色付き膨らんだ唇を動かして、少女に告げる。
「どんな理由であれ、書の『世界』を乱した御主を放っておくわけにはいかんのじゃ。書庫を管理する者として、儂は御主を然るべき場所に連れて行かねばならん」
「嫌!」
両の目をきつく閉ざして、少女が叫ぶ。
親に我儘を言う子供のように首を振り──振り乱した髪を生きた蔦のように動かし、束ねて大鎌のような形状を作り出して、それをアルシャへと突きつけた。
「私の居場所を奪わないで!」
ひゅ、と風が裂ける。
少女の髪が生み出した大鎌は、僅かに身を引いたアルシャの前髪を数本薙いだ。
ぱらぱらとちぎれた草のように舞い落ちるそれを視界の端の方に収めながら、アルシャはゆっくりと杖を眼前へと持ってくる。
「穏便に済ませたかったのじゃがのう」
肩を竦めて短く息を吐き、口元に宿していた柔らかさをすっと内側へと押し込めた。
「育て、蔓よ」
小さく、呟けば。
杖の先端が淡いペリドット色の光を放つ。
それは宙に絵を描くように一瞬にして周囲に帯を伸ばしていき、髪の大鎌もろとも少女の全身を雁字搦めにした。
「きゃ……」
少女は暴れるが、その程度では光の帯はびくともしない。
陸上に打ち上げられた魚のように身を捩らせるだけになった彼女を見据えて、アルシャは杖を静かに下ろす。
「『世界』は然るべき姿に。『ひずみ』は然るべき形に。世の定めに従い、万物の居所は始まりの場所へ」
「…………!」
きゅ、と光の帯が少女の全身をきつく締め上げる。
細切れにされたようにばらけた少女は、数多の黒い薔薇の花びらと化して、ぱっと辺りに舞い散った。
床に届く前に虚空に溶け消えていく黒を見つめながら、ふわぁ、と驚きの声を漏らすシオン。
「……護衛は不要でしたね」
シオンの傍から離れ、ソルはふっと短い吐息を漏らした。
「生まれたばかりの悪戯精霊で良うございました」
「学びの資料としては、いささか物足りなさすぎだったかもしれんがな」
ふっふっと肩を揺らして、アルシャはテーブルの上に置いていた禁書を手に取った。
開いたままのページを一読し、頷いて、表紙をぱたりと閉ざす。
それを携えてシオンの元まで歩いていき、目を瞬かせる彼女に、そっと差し出した。
「もう、読んでも大丈夫じゃ。元の世界書に戻っておる」
「あ……ありがとうございますっ」
本を受け取って、シオンはぺこりと頭を下げた。
アルシャはにこりと微笑み、続けた。
「いずれは、今儂がしたように御主が禁書の歪みを正していくようになる。……今日のところは、禁書を生み出す悪戯精霊についてを学んだところで、魔女としての修行はひと段落ということにしておこうかの」
全ては、まだまだこれから。
今はひとつずつ、幻灯書庫の魔女についてを学ぶ時期なのだ。
魔法を覚えるのは、きっとその後でも、遅くはない。
本を抱える指先に力を入れて、シオンは大きな声で返事をした。
「はい!」
「……さあ、仕事は一旦区切りにして、お茶にしようかね。ソル、今日はシオンがシフォンケーキを持ってきてくれたんじゃ。あれを出しておくれ。たまには茶会らしい休憩時間を過ごすのも、良いじゃろうて」
ソルを背後から押し出すようにして部屋から姿を消した2人を見送って、シオンは受け取った本の表紙に視線を落とした。
古い表紙に描かれた塔の絵と共に記されている文字は、彼女にとっては見たこともない文字で、何と書いてあるかは読めない。
文字が分からないのなら、師に教えを乞うて学べばいい。魔法を教わるのと同じように、知りたいと自分から思わなければ英知は養われないのだ。
いつかは師のように、この書庫に相応しい立派な魔女になろう。
うん、と頷いて、シオンは世界書の表紙を捲った。
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ちゃんと忠告をしましたよ?
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