幻灯書庫の守人

高柳神羅

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第6話 黎明の魔法

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 本棚に納められた数多の書物が、そこに佇む男をぐるりと取り囲んでいる。
 白金を貴重とした宝飾品アクセサリーで魔道士風の装飾を施した黒の燕尾服に似た衣裳を纏った、銀の髪の男だ。中性的な顔立ちに切れ長の真珠色の瞳が、妖艶な雰囲気を醸し出している。
 彼は手元に開いていた書を閉じて、うんと小さく頷いた。
「分かってる」
 書を本棚に戻し、その場をくるりと仰ぎ見る。
 本たちから注がれる好奇と期待の視線──それらを何の躊躇いもなく受け止めて、笑った。
「そんなに騒がなくたって、約束はちゃんと果たすよ」
 禁書──読むことを禁じられた、悪戯精霊ピスキーが宿る本たち。
 彼らの声なき声で紡がれる訴えに耳を傾けて、彼は言う。
「そのために、俺は此処にいるって決めたんだから」

「……そろそろ、御主に魔法を教える時期じゃろうかの」
 梯子の上で懸命に目的の本を探す少女に、アルシャは紅茶を飲みながらのんびりと呟いた。
 えっと肩を跳ねさせて振り向くシオンの上体が、腰に下げた太陽の書の重みに引っ張られてぐらりと傾ぐ。
 何とか転落は堪えた彼女の顔を見つめて、アルシャはふっと淡い微笑を口元に浮かべた。
「簡単なものから、少しずつじゃがな」
「……はい!」
「今の作業が片付いてからだぞ」
 嬉しそうに返事をするシオンを、務めて冷静にソルが嗜める。
 その場で踊り出しそうな雰囲気で鼻歌を歌い出す彼女を見上げて、彼はアルシャに問うた。
「……悪戯精霊ピスキー対策ですか」
「それも……ないとは言わんがの」
 カップをテーブルの上に置き、アルシャは答えた。
 彼女の周囲に山積みになっている、もはや壁とも呼ぶべき書の群れを視界の端に捉えつつ、静かに鼻から息を吐く。
「禁書の数は、日に日に増えていっておる。儂1人でこれらを処理しきるのは難しいところまで来ていることは、否定はせんよ」
 禁書を『処理』するためには、その本に巣食っている悪戯精霊ピスキーを退治しなければならない。
 アルシャにとっては片手間に行える作業ではあるが、その片手間も、山と詰まれればかなりの労力となる。
 身ひとつでは、1度に行える作業の量にも限界がある。いつかは禁書に埋もれ、作業自体がままならなくなってしまうだろう。
 魔女は先見の目を持つ。己の限界が訪れる時期を、彼女は他の誰よりもよく理解している。
 だが。今は、まだ。
「……じゃが、それにはまだ時期尚早じゃ。今は何よりも、基礎を固めることの方が重要じゃて」
「そうですか」
 主の決定に、魔道書は意見は述べど否定の念は示さない。
 今はまだ魔女としては何の力も持たない未来の主たる少女に現在の主の姿を重ね、ソルはこれ以上の言葉は無用と言わんばかりに閉口した。

 魔法は、魔女だけが扱える特別な力である。
 手を触れずに遠くにある物を動かしたりすることから、何もない場所に業火を生み出すことまで、その用途は多岐に渡る。
 禁書の処理をする際に用いている力も、魔法の一種だ。
 体内に在る力と、特定の言葉を媒体に呼び起こされ、要となっている道具を起点として効果を引き出される。
 それが人によっては杖であったり、首から下げている首飾りの宝石であったりするのだが。
 1から魔法を学ぶ際は、この『体内に在る力』をコントロールすることを覚えることから始まる。
 魔法として形を為す前の、しかし魔法の形を決める重要な箇所だ。
 シオンには、魔法に関する基礎がまだない。今の彼女に魔法を教えたところで、そよ風ひとつ起こすことすら彼女にはできないだろう。
 基礎を固める、というのは、そういうことなのだ。
 椅子に背筋を伸ばして座るシオンの傍らに自分の椅子を置いて座し、アルシャは彼女の杖を手に取って、よく見えるように彼女の目の前にそれを置いた。
「まずは……魔力の流れを感じ取ることから、始めるとしようかの」
 緊張の面持ちで頷くシオンをそこまで力まなくてもいいと苦笑混じりに諭して、己の手を胸元で器の形に作る。
「こうして、この中に己の魔力が集まるように、念じてごらん」
「……ええと」
「そうじゃな……自分の体の中に泉のようなものがあって、そこから、掌に水が流れ込むようなイメージをすると言えば、少しは分かりやすいかの。魔力が動く時は、何かが這い出てくるような、そういう感覚がするんじゃよ。まずはそれを感じられるようになるための練習じゃな」
 此処に意識を集中させて──
 シオンの胸元に掌を当てて、アルシャは静かに目を閉ざす。
 彼女の瞼の裏には、光り輝く小さな源泉のようなものの姿が映っている。これが力の源泉なのだとどうシオンに教えようかと、彼女は思考を巡らせた。
「……なかなかできなくても、焦る必要はないよ。人によっては全く理解できないものじゃからな。じっくりと、自分のペースで、感覚を掴めば良い」
「はい」
 深呼吸をして自分の胸元をじっと見つめるシオンに微笑み、アルシャは静かに自分の席から立った。
 元々椅子を置いていた場所まで行き、そこのテーブルに載っていた小さな宝石箱を手にして、また席へと戻っていく。
 椅子に座り、宝石箱の蓋を開く。
 中から顔を出した数多の宝石を、金を編んで作った手製の鎖に繋いで、首飾りのようなものを彼女は編み始めた。
「儂は隣で護符を作っているからの」
「アルシャ様」
 シオンを気遣ってか、普段よりも幾分かトーンを落とした声で、ソルはアルシャを呼んだ。
悪戯精霊ピスキーが騒ぐと厄介です。一旦禁書は戻しておいた方が宜しいかと」
「……そういえばそうじゃったな」
 悪戯精霊ピスキーは魔女の力に過剰に反応を示す性質がある。
 形になっていないとはいえ、魔力が動きを見せれば同じことだ。状況を察知した彼らは、魔力を動かす存在を叩こうと一斉に騒ぎ始めるだろう。
 席を立ちかけるアルシャを、ソルは制した。
「私が片付けておきましょう。アルシャ様は、どうぞその場に」
 言うなり、テーブルの上に置かれていた太陽の書は、一瞬にして人間の姿を取った。
 長い足をひらりと翻してテーブルの上から降りたソルは、アルシャの席に山積みになっていた本を両手に抱えて別室へと運んでいく。
 最後の一山を運び出そうとしたところで──突如として目の前に現れた銀の髪の男に行く手を遮られ、足を止めた。
「……何の用だ」
「別に~」
 ルナは肩を竦めて、ソルの横を通り過ぎた。
 すれ違いざまに彼の肩をぽんと親しげに叩き、部屋の中央にやって来る。
 椅子に座って難しい顔をしているシオンに近付いて、にこりと微笑んだ。
「こんにちは。お嬢さん」
 シオンは顔を持ち上げて、そして目を丸くした。
 髪や瞳の色が違うとはいえ、服装や声色までもがソルと全く瓜二つの男がそこにいるのだから、そうなるのも無理はないことだろう。
「お嬢さんとは初対面だよね? 俺はルナっていうんだ」
「ルナ」
 禁書を抱えたまま踵を返したソルがルナを嗜める。
 テーブルの上に本の山を置き、背後から彼に近寄ってその肩をぐいっと掴んで引っ張った。
「邪魔をするんじゃない。彼女は、アルシャ様の──」
「うん、知ってる」
 睨まれながらも、ルナはにっこりと笑うばかり。飄々とした態度はこれっぽっちも崩れはしなかった。
 後頭部で手を組み、小首を傾げながら、彼は、

「困るんだよねぇ。勝手なことをされたら」

 ぱり、と空気の塵が焦げたような、小さな破砕の音が鳴る。
「!?」
 掌に電撃が奔ったような衝撃を感じ取り、ソルは思わずルナの肩を掴んでいた手を引っ込める。
 掌を覗き込むと、皮膚に薄く焦げ跡のような黒い汚れが付いていた。
 ルナはゆっくりとシオンの傍らに座しているアルシャの方を向き、問うた。
「ねえ、母様。後継者を育てるって本気? 冗談とかじゃなくて、本当の話?」
「儂は嘘などつかん。本当じゃよ」
 作りかけの護符タリスマンを宝石箱の中に置いて、アルシャはルナの問いかけに応えた。
「シオンは素晴らしい才能を持っておる。この子なら、儂以上の能力ちからを持った素晴らしい魔女になれるじゃろう。儂は、気長に育てていくつもりじゃよ」
「それさ……やめにしない?」
 ルナは悪戯っぽく肩を竦めた。
 煤けた掌を握り締めたソルの片眉が跳ね、アルシャがほうと興味を示した声を唇から漏らす。
 シオンは唐突の出来事に付いていけていないようで、まばたきをしきりに繰り返していた。
「何故じゃ?」
「さっきも言ったじゃん、困るって」
 ルナの右の人差し指が、彼の顔の前で何かの文字を描く。
 指が描いた軌跡を浮かび上がらせるように、白光がひとつの文章を形作って虚空にぱっと散った。

 ぎちッ!

 光は瞬時に膨れ上がって猛禽類の鉤爪のような形を取り、呆気に取られたままのシオンを襲う。
 それを寸でのところで、アルシャが咄嗟に繰り出した魔法の格子が阻んだ。
 目と鼻の先に迫った鋭い光の爪に、シオンの表情が青ざめる。
 はくはくと水から引き摺り出された魚のように口を開閉させる彼女の背中を優しく撫でて、アルシャは口元に浮かべていた微笑を薄めた。
「儂は、御主の考えを制限するつもりはないとは確かに言ったがの。あまり度を越した悪戯をするようならば、魔女として御主を諌めなければならん」
「今のはただの警告だよ。俺が本気でやったら、この子の頭、今頃卵みたくなってるって」
 ルナは自らの唇をぺろりと舐めた。
「でも、母様が後継者としてその子を此処に置き続けるって言うなら、俺にも考えがあるよ」
 魔法の格子をぎしぎしと鳴らしていた鉤爪を、指の一振りでふっと掻き消した。
 2人の傍から1歩身を引き、くるりと背を向けて──
 高速で飛来したアクアマリン色の光の帯を、左手で器用に絡め取る。
「ルナ……貴様!」
「何、俺がこの子にちょっかい出したのがそんなに気に入らないの?」
 光の帯に腕を焦がされながらも、平然と笑って自分のことを睨むソルを見つめ返すルナ。
 右手で手刀の形を作り、帯を途中からばつんと叩き切る。
 魔力の供給を失って霧散する光の帯と、焦げ跡が残った左腕をのんびりと眺めながら、彼は、
「無駄だよ? 元々俺の方が優秀なんだからさ。本気でやり合ったら、どっちが消滅するかなんて考えなくたって分かるじゃん。粋じゃないことはしないに限るよ」
「私は、アルシャ様の意思を尊重している──害悪となる存在があるならば、それが何であろうとも許さん、それだけだ!」
「それは御立派なことで」
 はいはい、と適当に相槌を打って、ルナはアルシャたちの傍から離れた。
 身構えるソルの横を通り過ぎ、そのまま、此処へ来た時と同じように別室へと続く扉へと歩いていく。
 戸口をくぐったところで振り返り、3人に向けてウインクを送る。
「俺、諦めないよ。絶対にその子を、此処から追い出してみせるから」
 最後に親しき友と挨拶するように気さくな挨拶で言葉を締め括り、ルナは一同の前から去っていった。

 元の静けさを取り戻した書庫の中心で。
 眉間に皺を寄せたソルが準備する茶器がぶつかってかちゃかちゃと響かせる音ばかりが、空間を彩るメロディとなっていた。
 不安そうに辺りを見回すシオンと、そんな彼女を護符タリスマンを編みながら落ち着いた様子で見つめるアルシャ。
 武器のように己の杖を握り締める彼女に、静かに語りかける。
「……そう構えることはないよ。あの子はしばらく此処へは来んじゃろう。そういう奴じゃからな」
「はい……」
 静かに杖を目の前に置くシオンの頭に、そっと手を伸ばす。
 小さな掌で彼女の栗色の髪を撫でながら、微笑んだ。
「御主は何も心配せんで良い。儂が傍に付いておる」
 孫を労わる祖母のような眼差しでシオンの視線を受け止めながら、アルシャは宝石箱の中から小さな金具を取り出した。
 手にした護符タリスマンの鎖の先端に金具を取り付けて、軽く引いて強度を確かめ、うむと頷く。
「……さ。できたよ。頭をお出し」
 シオンがそっと差し出した首に、完成したばかりの護符タリスマンを掛ける。
 アルシャが身に着けているものと全く同じデザインの首飾りは、中央の宝石に室内の明かりを反射して、複雑な色合いに輝いていた。
悪戯精霊ピスキーが好んで使う幻惑の魔法は、それを身に着けていれば大丈夫じゃ」
「……ありがとうございます」
 シオンの表情は暗い。
 怪訝そうに彼女の顔を覗き込むアルシャに、シオンは尋ねた。
「あの……私、此処にいてもいいのでしょうか?」
「……良いに決まっておるじゃろう」
 アルシャは苦笑した。
「御主を後継者として此処に置くと決めたのは、儂じゃ。あの子が何を言ったかなど、関係ないんじゃよ。幻灯書庫ここは儂が作った、儂の世界なんじゃから──儂に受け入れられた御主は、誰が何と言おうが此処にいる資格をちゃんと持った存在じゃよ」
 むしろ、と言って、彼女は紅茶を淹れるソルに視線を移した。
「いきなりあのような危険な魔法をこの場で使ったソルこそ、嗜めるべき存在かもしれんて」
「……申し訳ありません。少々感情的になり過ぎました」
 紅茶に蜂蜜をひと垂らし。スプーンでくるりと軽く掻き混ぜて、ソルは出来上がったそれを2人の元へと運んできた。
「御好意で頂いた新作の茶葉です。御気に召しましたら、次回以降の調達リストに加えておきます」
「──ほう。それは楽しみじゃな」
 シオンの目の前にもティーカップを置いて、ソルは言った。
「……案ずるな。書庫の秩序を守ることも、私に与えられた役目のひとつ。アルシャ様も……お前も、私が護る」
 ぽん、とシオンの肩を叩き、彼は彼女の左隣に移動する。
 テーブルに片手を掛け、身を乗り出すように全身を持ち上げて──
 そのまま、彼は太陽の書へと姿を変え、シオンの前に身を置いた。
「さて。紅茶を頂くとしようかの。……休憩が終わったら、シオン、すまんがこの本を探して、此処へ持ってきてくれるかね」
 言いながら、アルシャは右手にティーカップを持ち、左手で器用に太陽の書を手繰り寄せ、表紙を開いた。
 ぱらぱらとページを捲り、とある記載があるページで手を止め、彼女の前によく見えるように置く。
「『蒼穹伏魔殿』。2439番の世界書じゃ」
「は、はい。分かりました。あの、この本は……」
「新しく修正箇所が見つかった書での。放っておくと悪戯精霊ピスキーが住んでしまうから、今のうちに正しておくのじゃよ」

 魔女の後継者は、色々と大変だ。
 覚えることには事欠かず、それらひとつひとつが彼女にとっては未知なる体験となる。
 そしてつい最近、彼女には新しい懸念が生まれた。
 彼女が魔女となることを良しとしない悪戯魔道書ピスキーに目をつけられたことである。
 命を狙われるといった経験を今の今までしたことのない彼女にとっては、唐突に突きつけられた刃の鋭さは大きな恐怖心を生んだ。
 後継者になることを諦める選択肢は、無論彼女にはある。それを選択しても、咎める者は誰もいない。
 しかし、彼女は逃げなかった。
 少しずつでも経験を積んで立派な魔女になろうという想いは、彼女の中から消えることはなかった。
 
 ──そして、今日も。
 幻灯書庫を預かる魔女と、彼女を慕った弟子の日常は、日暮れが訪れるまで穏やかに営まれ続けるのである。
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