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【閑話】白金貨添えスクランブルエッグ
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彼女たちの朝は、温かな食事から始まる。
目覚めたら身支度を整えて食卓を囲み、出来上がったばかりの朝食を淹れたての紅茶をお供に頂くのが常であった。
食事の献立は、毎回変わる。その時々のストックにある食材次第でメイン食材が同じものになる、ということは割とあったが、それでも献立そのものが全く同じになることは一度たりとしてなかった。
美味しくて、飽きのこない食事を日に三度食べられる。
何と充実した生活なのだろう。
──それが当たり前のことなのだと、疑っていなかった。
席に着けばすぐにできたての料理が出てくる、それが如何に恵まれたことだったのか。そのことを、この日彼女たちは嫌でも知ることになるのであった。
「なー、まだできないのかよ、アジュリー。いい加減腹減っちまったよ」
「無茶言わないでほしいっス。オレ、料理なんてあんましやったことないんだから……」
「もー、今日は建国の書類提出に王都まで行かなきゃならないんだから、早くしてちょうだい。たかが卵一個焼くのに何分かかってるのよ」
「そんな急かされても……うしっ、できた! はいはい、今持って行きますよー、っと」
戦場では隠密索敵遠距離狙撃はお手の物、手先の器用さでは右に出るものなしと言われたパーティの斥候も、フライパンを握るのはいささか苦手な様子である。
微妙に炭化している部分と生焼けの部分が絶妙な具合に混ざり合った卵の塊を片手にリビングへと現れると、それを大量に盛った皿をテーブルの中央に置く。
自分の席で食事の到着を待ち侘びていた一同の口が半開きになった。
「……何よ、これ」
「何って……スクランブルエッグっスけど……」
「あんた、変なところで器用ね……炭と生焼けを同時に拵えるなんて、普通はできないわよ」
「いやぁ、ハハハ」
「褒めてねぇって」
ハロルドに呆れられ、アジュリーは頭を掻きながら自分の席に座った。
「ま、まぁ見てくれは悪いかもしんないっスけど、味は保障するんで! ちゃんと瓶に入ってたスパイス使ったから!」
「あぁ、ミナヅキがよく使ってたやつか。それなら味は大丈夫か」
必死に弁明するアジュリーに溜め息を漏らしつつ、ハロルドは見た目は微妙だが味は美味いと主張されている皿の上のそれにフォークを向けた。
比較的にまともそうに見える部分を掬い取り、一呼吸置いて口へと運ぶ。
何度か噛み締めた後、眉を顰めて、傍らのカップを手に取った。
「……全然大丈夫じゃねぇぞ。味が濃すぎる。食べると喉が乾くな」
「えぇ、そんなはずは……うっは、まずっ。えー、そんなにスパイス入れてないっスよ? 瓶の中は殆ど空っぽだったから、使い切った方が良さそうだなって思って残り全部使っちゃったけど」
「ぷぇ、何これ、スパイスの味しかしないじゃない……辛っ」
ハロルドに続いて一口味見したジュリアも眉間に皺を寄せた。
作った当人のアジュリーですら、一言不味いと言い切ってからは全く手をつけようとしていない。
「スパイスはいつでも買い足せるから使い切ったのはいいけど、せめて食べられるものを作りなさいよ。あたしはこれ無理。あんたたちで片付けなさいよね」
「オレも流石にこれは無理だな。水がなきゃ食えねぇ」
一同の視線が集中したので、ムムはカップに口をつけたまま必死で首を左右に振った。
滅多なことでは否定の意を示さない元素魔道士も、流石に食べれば腹を壊すことが分かり切っている料理を口にするのは御免なようだ。
アストリッドは誰にも分からない程度に小さく溜め息をつくと、スクランブルエッグ(と称された何か)の皿を抱えて席を立った。
「……スープにすれば、多少は味が良くなるかもしれない……作り直してくる」
「おう。悪いなー、アストリッド」
「……はぁ、朝から酷い目に遭ったわ。人を雇うのは建国してから、って考えてたけど、料理担当だけでも早いうちに探した方がいいかもしれないわね」
ジュリアは紅茶を飲み干して、気だるげに立ち上がった。
「料理、作り直すのに時間かかるわよね? 今のうちに書類提出しに王都に行ってくるわ。ついでにスパイスも買ってくる」
「王都に? 大丈夫なのか? ジュリア」
「平気よ。あたし、テレポートできるし。また後で来るから申請だけ通しといてって書類だけ預けて来るつもりだからそこまで時間かからないわよ」
切らしたスパイスの瓶をちょうだい、と言いながら、彼女は厨房へと移動していった。
残された男三人は互いに顔を見合わせて、揃って首を左右に振ると、溜め息をついて手元の紅茶を啜り、独りごちたのだった。
飯がこんなに悲惨になるんなら、あいつを追い出すのは新しい料理人を雇ってからにしときゃ良かったかな……と。
「……え、どういうことよ、それ」
相手からの返答に、ジュリアは自分の耳はおかしくなったのかと疑ってカウンターから身を乗り出す勢いで相手へと詰め寄った。
「何でこんな粗末な粉が金貨二十枚もするの!? 金貨二十枚……要は白金貨二枚ってことでしょ!? 何かの間違いじゃないの!?」
「そう仰られましても……金貨二十枚でも結構ぎりぎりまで値引いた値段なんです。殆ど仕入れ値と同じですから……これ以上は赤字になってしまいますので、流石に……」
様々な種類の食用香草やスパイスを詰めた瓶がずらりと並んだ棚に挟まれて、店主は心底申し訳なさそうにジュリアの問いに答えた。
「英雄様がお持ちのそのスパイスは、王族や高い爵位をお持ちの貴族の方々が食されているほどの高級品なんです。幾つかの素材を粉末にして決められた割合でブレンドして作れば完成することだけは広く知られているのですが、その素材が何なのかはごく一部の職人にしか伝わっていない秘匿のレシピだそうで……市場にも殆ど出回らない上に、たまに売りに出されたとしてもその殆どは王族や貴族の方々に買い上げられてしまうのですよ」
うちの店に在庫があったのは本当にたまたまのことで、普段から扱っている品物ではない、と付け加える店主だった。
「英雄様もこのスパイスの価値は御存知かと思っていたのですが……ひょっとして、御存知なかったのですか?」
「……これは、ミナヅキ……うちのパーティにいた雑用係が作ってたものなのよ。あいつが勝手に材料集めて勝手に作って使ってたやつだから、あたしはこれがそんな高級品だったなんて全然知らなかったわ……その辺の香草を適当に混ぜたんだろうとしか思ってなかった」
「え……その方はこれの製法に通じている方なのですか? それは何とも羨ましいことで……それなら、その方に同じスパイスを作ってほしいと依頼なされた方が手っ取り早いかと」
「……無理よ……だって、あいつ、もううちにはいないから……」
炊事洗濯しか能がない奴だったからパーティから追い出した、なんて口が裂けても言えない。
今此処でそんなことを口外した日には、少なくともこの店主には『この英雄はスパイスの価値どころか人の価値すら分からない無知な女』だと思われることになる。
スパイスの価値を知らなかったのはまだ良いだろう。食材に関して無知な一流の冒険者などその辺には掃いて捨てるほどいる。
しかし、人を見る目がないと認知されるのは、冒険者の肩書きを持つ者としては致命的だった。
ましてや、ジュリアは世界を救った英雄である。
英雄としての名誉に傷が付くのは、御免だった。
……これにこんな価値があったなんて……何てことなの。追い出す前にレシピを置いて行けって言っておけば良かったわ。
胸中で悔しさに歯を噛み締めているジュリアに、店主は控えめに助言を呈した。
「商業都市の方であれば、うちよりも多少は安価で手に入るかもしれません。もっとも、販売されている保障もないので何とも申し上げられませんが……如何なさいます?」
「…………」
ジュリアは考える。
たかがスパイスの小瓶ひとつに白金貨二枚を支払うのは馬鹿馬鹿しい。
しかし、このスパイスを使って拵えた料理の味に慣れてしまったこの体が、今更その辺で安価で売られている塩胡椒だけの味付けで満足できるはずもない。
大都市の一流の料理屋で味わった高級料理ですら微妙に物足りなく感じていたほどだ。小さな町の小さな料理屋で提供されている庶民向けの料理など、口に合わなくて食べられたものじゃないと突っぱねる未来は容易に想像できる。
これから、その不味い料理に体が馴染むまで付き合い続けるのか?
それとも、今この場で対価を払って馴染みの味を手に入れるか?
二つの思いを天秤にかけてしばし考えた末に──
彼女は、重々しく口を開いた。
「……買うわ。そのスパイス……金貨二十枚だったわね。売ってちょうだい」
「ありがとうございます」
この日一番──どころか開店以来最高の売上記録が確定したことに、店主は思わず雄叫びを上げたくなるのをぐっと堪えて控えめに、そして丁寧に頭を下げたのだった。
金貨二十枚と引き換えに手に入れたスパイスの小瓶を腰のポーチに押し込んで、ジュリアは若干苛立たしげに髪を掻き上げた。
緩くウェーブが掛かったセミロングの金髪が、日の光を浴びて絹糸のように輝く。
「……えらい買い物だったわ。全く……あいつもあいつよ、そんなに高いスパイスなら、最初からそう教えときなさいよね……!」
今はもう何処にいるのかも分からない、声と名前を聞かなかったら女と勘違いしていたであろう黒髪の男の顔を思い出して愚痴を漏らす。
この出費は後でギルドで適当な仕事を見繕って取り戻そう、と自分に言い聞かせて何とか苛立ちを押さえて、外出した本来の目的であった申請書の方に意識をシフトした。
「はぁ……何か用事済ませる前に疲れちゃったわね。もう、さっさと出して来ちゃいましょ」
この町から国王の城がある王都までは徒歩でおよそ八日かかるほどの距離がある。馬車であれば休憩なしで走り続ける計算で約一日ほどで着くが、何にせよそう簡単に近所の雑貨屋に買い物に行くのと同じようなニュアンスで行ってくると言えるような場所ではない。
彼女がそんなことをぽんと簡単に言えるのは、彼女が別の手段を使って一瞬で移動するつもりでいたからだ。
「テレポートが使えて良かったわ、ほんとに」
テレポート。遠く離れた場所へ一瞬で移動する効果を持つ空間魔法の一種である。
移動先に転移の紋を刻み、それと現在地に刻んだ紋を魔力で繋いで魔素の通り道を作る。その通り道に魔素化させた己の肉体を乗せることで遠くへと一瞬で移動する──この仕組みで遠方への瞬間移動を可能としているのだ。大勢を同時に転移させることもできるが、その場合は相応の魔力を必要とし、転移させたい人間全員が手を繋ぐなどの方法で体の一部を繋いでおく必要がある。
無論、制約もある。転移の紋を刻むためには目的地の鮮明なイメージを頭に浮かべる必要があるため、術者が一度でも実際に足を運んで目にしたことがある場所でなければこの魔法は使えないという決まりがあるのだ。他にも現地の魔素濃度が高すぎて土地に干渉できず転移の紋が刻めないなど、一度行ったことがある場所でも転移先として指定できない場所も数多く存在する。
しかし、その制約があることを踏まえても、この魔法の利便性は高い。現存する使い手は、確認されているだけでジュリアを含めて世界で三人のみとされており、殆ど幻の魔法ではあるのだが、もしも旅先でこの魔法の使い手に出会うことがあったら是非ともパーティにスカウトしたいと日頃から彼女は考えていた。
「──テレポート」
ジュリアは双眸を閉ざし、目的地である王都の門を脳内にしっかりとイメージして、魔法を唱えた。
全身に巡った魔力が、頭の中心に集まっていく感覚が生まれる。
──だが、それだけだった。
虚空へと流れていく言霊。
頭に集中していた自身の魔力も、霧散して存在感を失っていく。
いつもの浮遊感が起きない。周囲の物音も途切れない。
何か妙だと思ったジュリアが瞼を開くと、若干ぼやけた視界の中心に現れたのは、
先程と全く変わらない、地元の町の見慣れた景色だった。
目覚めたら身支度を整えて食卓を囲み、出来上がったばかりの朝食を淹れたての紅茶をお供に頂くのが常であった。
食事の献立は、毎回変わる。その時々のストックにある食材次第でメイン食材が同じものになる、ということは割とあったが、それでも献立そのものが全く同じになることは一度たりとしてなかった。
美味しくて、飽きのこない食事を日に三度食べられる。
何と充実した生活なのだろう。
──それが当たり前のことなのだと、疑っていなかった。
席に着けばすぐにできたての料理が出てくる、それが如何に恵まれたことだったのか。そのことを、この日彼女たちは嫌でも知ることになるのであった。
「なー、まだできないのかよ、アジュリー。いい加減腹減っちまったよ」
「無茶言わないでほしいっス。オレ、料理なんてあんましやったことないんだから……」
「もー、今日は建国の書類提出に王都まで行かなきゃならないんだから、早くしてちょうだい。たかが卵一個焼くのに何分かかってるのよ」
「そんな急かされても……うしっ、できた! はいはい、今持って行きますよー、っと」
戦場では隠密索敵遠距離狙撃はお手の物、手先の器用さでは右に出るものなしと言われたパーティの斥候も、フライパンを握るのはいささか苦手な様子である。
微妙に炭化している部分と生焼けの部分が絶妙な具合に混ざり合った卵の塊を片手にリビングへと現れると、それを大量に盛った皿をテーブルの中央に置く。
自分の席で食事の到着を待ち侘びていた一同の口が半開きになった。
「……何よ、これ」
「何って……スクランブルエッグっスけど……」
「あんた、変なところで器用ね……炭と生焼けを同時に拵えるなんて、普通はできないわよ」
「いやぁ、ハハハ」
「褒めてねぇって」
ハロルドに呆れられ、アジュリーは頭を掻きながら自分の席に座った。
「ま、まぁ見てくれは悪いかもしんないっスけど、味は保障するんで! ちゃんと瓶に入ってたスパイス使ったから!」
「あぁ、ミナヅキがよく使ってたやつか。それなら味は大丈夫か」
必死に弁明するアジュリーに溜め息を漏らしつつ、ハロルドは見た目は微妙だが味は美味いと主張されている皿の上のそれにフォークを向けた。
比較的にまともそうに見える部分を掬い取り、一呼吸置いて口へと運ぶ。
何度か噛み締めた後、眉を顰めて、傍らのカップを手に取った。
「……全然大丈夫じゃねぇぞ。味が濃すぎる。食べると喉が乾くな」
「えぇ、そんなはずは……うっは、まずっ。えー、そんなにスパイス入れてないっスよ? 瓶の中は殆ど空っぽだったから、使い切った方が良さそうだなって思って残り全部使っちゃったけど」
「ぷぇ、何これ、スパイスの味しかしないじゃない……辛っ」
ハロルドに続いて一口味見したジュリアも眉間に皺を寄せた。
作った当人のアジュリーですら、一言不味いと言い切ってからは全く手をつけようとしていない。
「スパイスはいつでも買い足せるから使い切ったのはいいけど、せめて食べられるものを作りなさいよ。あたしはこれ無理。あんたたちで片付けなさいよね」
「オレも流石にこれは無理だな。水がなきゃ食えねぇ」
一同の視線が集中したので、ムムはカップに口をつけたまま必死で首を左右に振った。
滅多なことでは否定の意を示さない元素魔道士も、流石に食べれば腹を壊すことが分かり切っている料理を口にするのは御免なようだ。
アストリッドは誰にも分からない程度に小さく溜め息をつくと、スクランブルエッグ(と称された何か)の皿を抱えて席を立った。
「……スープにすれば、多少は味が良くなるかもしれない……作り直してくる」
「おう。悪いなー、アストリッド」
「……はぁ、朝から酷い目に遭ったわ。人を雇うのは建国してから、って考えてたけど、料理担当だけでも早いうちに探した方がいいかもしれないわね」
ジュリアは紅茶を飲み干して、気だるげに立ち上がった。
「料理、作り直すのに時間かかるわよね? 今のうちに書類提出しに王都に行ってくるわ。ついでにスパイスも買ってくる」
「王都に? 大丈夫なのか? ジュリア」
「平気よ。あたし、テレポートできるし。また後で来るから申請だけ通しといてって書類だけ預けて来るつもりだからそこまで時間かからないわよ」
切らしたスパイスの瓶をちょうだい、と言いながら、彼女は厨房へと移動していった。
残された男三人は互いに顔を見合わせて、揃って首を左右に振ると、溜め息をついて手元の紅茶を啜り、独りごちたのだった。
飯がこんなに悲惨になるんなら、あいつを追い出すのは新しい料理人を雇ってからにしときゃ良かったかな……と。
「……え、どういうことよ、それ」
相手からの返答に、ジュリアは自分の耳はおかしくなったのかと疑ってカウンターから身を乗り出す勢いで相手へと詰め寄った。
「何でこんな粗末な粉が金貨二十枚もするの!? 金貨二十枚……要は白金貨二枚ってことでしょ!? 何かの間違いじゃないの!?」
「そう仰られましても……金貨二十枚でも結構ぎりぎりまで値引いた値段なんです。殆ど仕入れ値と同じですから……これ以上は赤字になってしまいますので、流石に……」
様々な種類の食用香草やスパイスを詰めた瓶がずらりと並んだ棚に挟まれて、店主は心底申し訳なさそうにジュリアの問いに答えた。
「英雄様がお持ちのそのスパイスは、王族や高い爵位をお持ちの貴族の方々が食されているほどの高級品なんです。幾つかの素材を粉末にして決められた割合でブレンドして作れば完成することだけは広く知られているのですが、その素材が何なのかはごく一部の職人にしか伝わっていない秘匿のレシピだそうで……市場にも殆ど出回らない上に、たまに売りに出されたとしてもその殆どは王族や貴族の方々に買い上げられてしまうのですよ」
うちの店に在庫があったのは本当にたまたまのことで、普段から扱っている品物ではない、と付け加える店主だった。
「英雄様もこのスパイスの価値は御存知かと思っていたのですが……ひょっとして、御存知なかったのですか?」
「……これは、ミナヅキ……うちのパーティにいた雑用係が作ってたものなのよ。あいつが勝手に材料集めて勝手に作って使ってたやつだから、あたしはこれがそんな高級品だったなんて全然知らなかったわ……その辺の香草を適当に混ぜたんだろうとしか思ってなかった」
「え……その方はこれの製法に通じている方なのですか? それは何とも羨ましいことで……それなら、その方に同じスパイスを作ってほしいと依頼なされた方が手っ取り早いかと」
「……無理よ……だって、あいつ、もううちにはいないから……」
炊事洗濯しか能がない奴だったからパーティから追い出した、なんて口が裂けても言えない。
今此処でそんなことを口外した日には、少なくともこの店主には『この英雄はスパイスの価値どころか人の価値すら分からない無知な女』だと思われることになる。
スパイスの価値を知らなかったのはまだ良いだろう。食材に関して無知な一流の冒険者などその辺には掃いて捨てるほどいる。
しかし、人を見る目がないと認知されるのは、冒険者の肩書きを持つ者としては致命的だった。
ましてや、ジュリアは世界を救った英雄である。
英雄としての名誉に傷が付くのは、御免だった。
……これにこんな価値があったなんて……何てことなの。追い出す前にレシピを置いて行けって言っておけば良かったわ。
胸中で悔しさに歯を噛み締めているジュリアに、店主は控えめに助言を呈した。
「商業都市の方であれば、うちよりも多少は安価で手に入るかもしれません。もっとも、販売されている保障もないので何とも申し上げられませんが……如何なさいます?」
「…………」
ジュリアは考える。
たかがスパイスの小瓶ひとつに白金貨二枚を支払うのは馬鹿馬鹿しい。
しかし、このスパイスを使って拵えた料理の味に慣れてしまったこの体が、今更その辺で安価で売られている塩胡椒だけの味付けで満足できるはずもない。
大都市の一流の料理屋で味わった高級料理ですら微妙に物足りなく感じていたほどだ。小さな町の小さな料理屋で提供されている庶民向けの料理など、口に合わなくて食べられたものじゃないと突っぱねる未来は容易に想像できる。
これから、その不味い料理に体が馴染むまで付き合い続けるのか?
それとも、今この場で対価を払って馴染みの味を手に入れるか?
二つの思いを天秤にかけてしばし考えた末に──
彼女は、重々しく口を開いた。
「……買うわ。そのスパイス……金貨二十枚だったわね。売ってちょうだい」
「ありがとうございます」
この日一番──どころか開店以来最高の売上記録が確定したことに、店主は思わず雄叫びを上げたくなるのをぐっと堪えて控えめに、そして丁寧に頭を下げたのだった。
金貨二十枚と引き換えに手に入れたスパイスの小瓶を腰のポーチに押し込んで、ジュリアは若干苛立たしげに髪を掻き上げた。
緩くウェーブが掛かったセミロングの金髪が、日の光を浴びて絹糸のように輝く。
「……えらい買い物だったわ。全く……あいつもあいつよ、そんなに高いスパイスなら、最初からそう教えときなさいよね……!」
今はもう何処にいるのかも分からない、声と名前を聞かなかったら女と勘違いしていたであろう黒髪の男の顔を思い出して愚痴を漏らす。
この出費は後でギルドで適当な仕事を見繕って取り戻そう、と自分に言い聞かせて何とか苛立ちを押さえて、外出した本来の目的であった申請書の方に意識をシフトした。
「はぁ……何か用事済ませる前に疲れちゃったわね。もう、さっさと出して来ちゃいましょ」
この町から国王の城がある王都までは徒歩でおよそ八日かかるほどの距離がある。馬車であれば休憩なしで走り続ける計算で約一日ほどで着くが、何にせよそう簡単に近所の雑貨屋に買い物に行くのと同じようなニュアンスで行ってくると言えるような場所ではない。
彼女がそんなことをぽんと簡単に言えるのは、彼女が別の手段を使って一瞬で移動するつもりでいたからだ。
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無論、制約もある。転移の紋を刻むためには目的地の鮮明なイメージを頭に浮かべる必要があるため、術者が一度でも実際に足を運んで目にしたことがある場所でなければこの魔法は使えないという決まりがあるのだ。他にも現地の魔素濃度が高すぎて土地に干渉できず転移の紋が刻めないなど、一度行ったことがある場所でも転移先として指定できない場所も数多く存在する。
しかし、その制約があることを踏まえても、この魔法の利便性は高い。現存する使い手は、確認されているだけでジュリアを含めて世界で三人のみとされており、殆ど幻の魔法ではあるのだが、もしも旅先でこの魔法の使い手に出会うことがあったら是非ともパーティにスカウトしたいと日頃から彼女は考えていた。
「──テレポート」
ジュリアは双眸を閉ざし、目的地である王都の門を脳内にしっかりとイメージして、魔法を唱えた。
全身に巡った魔力が、頭の中心に集まっていく感覚が生まれる。
──だが、それだけだった。
虚空へと流れていく言霊。
頭に集中していた自身の魔力も、霧散して存在感を失っていく。
いつもの浮遊感が起きない。周囲の物音も途切れない。
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