空白の叙事録〜誰が忘れた罪禍の記憶〜

【第一鐘〜夜の少年と真白き少女〜】

1 ウルフハウンド戦

「はッ！」

鋭く吐き出された裂帛の呼気が、日暮れ前の朱色がかった陽光に照らされたイージスの森に響く。

その声は、声音に幼さの響きを残しながらも、対峙した相手との戦いへの意志に、闘志と気迫に満ちた声だった。
黒髪が、強い踏み込みの反動で跳ね、その踏み込みの勢いをも乗せられた横薙ぎの斬撃は、少年自身によって振るわれる長剣の動きに、更なる威力を加える。

自らが放った声すらも切り裂くように、少年は低い体勢から間近へと迫った相手へと長剣を振り抜いていた。
鋭い、その音だけで対象を切り裂く事が出来るのではないかと言う程の風切りの音を、少年の聴覚は捉えている。
だが、少年の手に、音に見合うだけの手応えはなかった。
ごうっと渦巻くような風の音は、実際の風ではなく、踏み込む事で、低く取られている少年の体勢の、その上へと影を落とした気配が放つ威圧感への錯覚。

少年の放った一撃は、相手を捉えず、そして、一撃への回避と同時に少年の頭上を目掛けて飛び掛かって来ていた、灰色の狼にも似た獣の体躯は少年の後方へと降り立った。

魔獣ウルフハウンド。それがこの獣の名前であり、少年の相手取る存在だった。

渾身の一撃を回避されたどころか、背後を取られた事で、逆にウルフハウンドからの攻撃を受けかねない現状にも、不思議な程、少年には動揺がない。
それは顔に動揺が出ていないと言うだけではなく、本当に、問題にしていないかのようだった。

踏み込んでしまったままの体勢から、背後にいる相手に対して、少年が出来る事は少ない。
けれど、少年はその少ない筈の出来る事を、冷静に重ねて行く。

踏み込んだ方の足を次動作の起点にし、重心移動から前方へ軽く跳びつつ、身体を半身に捻る事で、振り返る。
距離を取ろうとする少年の眼前へと追い縋るのはウルフハウンドの前肢の爪。
その鋭い切っ先を引き付けるように、次の着地から流れる動作で膝を曲げ、しゃがみ込むようにして低く取る体勢に、ぎりぎりのところで迫る巨体をかい潜る。
上目遣いで見る視界の先には、無防備な状態で露にされた白い毛並、ウルフハウンドの腹部のくすんだ体毛色が晒されていて、その腹部を狙って、少年は切り返す刃で、跳ね上げるような刃の一撃を放った。

毛皮や筋肉の抵抗すらも殆ど感じさせる事のない刃の走り。
透き通った青みを帯びた刀真が、青白い斬線を少年の視界へと閃かせ、ウルフハウンドの身体を切り裂く。
弧を描く剣筋の軌跡を辿り、青い残光を追うかのように、鮮血の飛沫が遅れて吹き出す。
ウルフハウンドは、悲鳴もないまま、斬られた躯をのけ反らせ、少年へと襲い掛かった勢いのまま、その傍らの地面へと墜落した。 

どさりと、重たい音だった。
それもその筈で、地面に落ちたウルフハウンドの体躯は、その大きさが少年の身体と殆ど変わらないどころか、先程迄の、毛並みを逆立てた状態ならば一回り程は上回っていたのだ。

ウルフハウンドの俊敏性を上回る事は難しく、全身に纏われた毛皮の硬さもあり、剣による通常の攻撃では、まず致命傷を与える事が出来ない。
だからこそ、少年は今の一撃に飛び掛かって来るウルフハウンドの勢いをも利用していた。
これ程の体躯であったとしても、そうすればウルフハウンドの強靭な毛皮を、回避不能な一撃で突発出来ると考えた結果であり、事実、少年は使い慣れた剣の手応えから、ウルフハウンドの絶命を感じ取っていた。

横たわるウルフハウンドが、起き上がって来ない事を気配だけで注意しながらも、少年の動きは止まらない。
止まってなどいられなかった。
身体に覚え込ませた動作は、少年の引き戻す刃に、下段の構えを自然な動きで取り直させ、体勢が整ったと同時に、少年が、静かに見据えた視線の先には、次の相手と定めた存在がいる。

三メートル程の距離を開けた木立の向こうから、今しがた仕留めたウルフハウンドよりも、一回り程度小柄なウルフハウンドが少年を鋭く見据える眼差し。
ウルフハウンドもまた、既に少年をただの獲物から、脅威ある敵として見定めていたのだろう。構えから走り出す少年と同時に、ウルフハウンドの方もまた少年へと向け駆け出していた。

小柄だと言っても、そのくすんだ灰色の体躯が持つ威容にかわりはない。
そもそも、通常でもウルフハウンドは、十六、七歳の少年の身体としては、どこまでも普通でしかない少年の体格と同等程度の体躯を持つのだ。それに加え速さだけを比較するなら、この個体は小柄な分だけ先程仕留めた個体をも上回っている。

ウルフハウンドが、少年よりも遥かに優れた獣の俊敏性をもって迫り来る。

だが、それでも相手取る少年の顔に恐れはなく、無表情を思わせる程にただ真剣だった。
殺らなければ殺られるのだと、少年はそう知っているかのように。
そこには、既に戦う事を生業にするもの特有の、熟練の風格が芽生えていた。

そんな少年だからこそ、不意に膨れ上がった右からの気配にも即座に対応する事が出来た。
思考ではなく直感。
少年は、走り出した勢いだけをそのままに、左足を軸として地面を蹴った。
軽い跳躍からの、サイドステップによる回避動作。柔軟な重心移動からの足捌きで、少年は続けざまのステップに交えて身体を捻る。

ガチンッと、直前まで少年のいた場所の空を噛んで、黄ばんだ鋭利な牙が音を鳴らす。
少年が僅かに潜める眉根は、回避が遅れた場合の結末を想像した為だろう。
皮膚へと深々と突き立てられる牙。獰猛な狼であるウルフハウンドの顎の力を思えば、まず間違いなく、そのまま食い千切られる事になるのだ。

その一撃を、視認していたウルフハウンドとは異なる個体から受けたと言う現状。
対応する少年の顔に焦りはなく、だが、その内心までは穏やかではいられなかった。

「視認、二、じゃなくて三かぁ」

近くにいる二匹とものウルフハウンドからの、距離を保とうと、続け様の跳躍を繰り返す。 
ウルフハウンド二匹が、互いが互いの動きの邪魔になるように考えた、そんな跳躍の最中、少年は広く取った視界に、そう呟いた。

少年を目掛けて、急速に距離を縮め来るのは、少年が呟いた通り、三匹に数を増やしているウルフハウンド達。

「これ、捌ききれるかなぁ」

本気で悩ましいと言った声音で呟くと、少年は僅かに首を傾げる。 
けれど、逆にいえば、悩ましいとその程度の感覚でしかないと言うべきかもしれない。
明確な脅威の数。ウルフハウンドが三体と言うのは、戦いを生業にする者達からしても、単独では死に物狂いの対処を余儀なくされる数の筈だった。
それも、仕留める仕留めないの段階ではなく、どうにか死なないでいられるというレベルの話になる。
寧ろ、逃走に成功すれば、自慢出来るぐらいだろう。

けれど、この期に及んでも、少年の思考に逃走の考えはないようだった。
三匹がいる位置と、それぞれの個体が迫り来る速度を、少年は新たに確認し直すまでもなく意識し続けている。
そして、跳躍した先で、地面に爪先が触れると同時に、少年は先程とは逆に前方へと向け、強く地面を蹴った。

回避に専念しながらも、誘き寄せていた場所へと向けた、突撃するかのような動きは、既に間近まで迫っていたウルフハウンドの意表を突く事に成功する。
木々が、ウルフハウンドの一匹から少年の姿を遮り隠した一瞬の行動だった。

そのウルフハウンドは駆ける勢いのまま、前肢の爪を、少年へと突き立てんとするが、少年の動きは、既にその反応へと対応している。
不意を突かれたウルフハウンドの、反射行動でしかない不完全な一撃等、少年は問題にしないのだ。

両手に握り直した長剣の剣腹で、受け止めたウルフハウンドの爪を、少年は自身の上方へと受け流し弾く。

「はぁっ！」

気合いの雄叫びを上げる。
少年は体勢を崩され、露わになったウルフハウンドの脇腹へと、渾身の蹴りを叩き込んだ。
ギャウンと潰れた鳴き声。
丈夫な毛皮と、その下にある肉や骨までもを穿つかのような一撃の蹴り。

その蹴りにはどれ程の威力があったのか、ドスンと叩き付けられた地面を抉りながら、ウルフハウンドの巨体は土煙に沈んだ。

「あれ・・・、無理じゃないかな、これ」

蹴りが決まった事への喜びではなく、きょとんと、瞬かせる双眸にそんな幼い表情を見せた一瞬。

横倒しになった身体を痙攣させ、口から唾液混じりの血塊を溢れさせるウルフハウンドを視界の端に、だが、少年がそこからとどめをさしに向かう事はなかった。
いや、その暇がなかったと言うのが正しい。
少年が、正眼の構えで握る長剣。
直後に刃へと受けた衝撃。
迎え撃つ為に準備していてもなお、手を痺れさせるその一撃を、それ以上無理に耐える事なく、少年は素早く身体を捻るようにして受け流す。
逸れ行くウルフハウンドの体躯。爪の鋭い尖端が、少年の着込んだレザーのジャケットを僅かに掠め、引き裂いて行く。

完全な回避には至らず、それでも服だけで済んでいるのだから重畳と言えるだろう。
直ぐ様、少年は振るう刃を切り下ろし、切り上げる。

斬る勢いを鈍らせる毛皮を裂き、肉や筋の層と骨すらも断つ感触。
飛び掛かる体勢のまま、仕留めた一匹目と同じく、このウルフハウンドもまた地面へと倒れ行た。
そのまま起き上がって来る事はないだろうと、少年は手応えから判断するが、だが、ここまでだった。
叩き付けられる、猛烈な殺気の接近が少年の肌をチリつかせる。
先程のウルフハウンドと刃を交える前、無理だと呟いたあの瞬間に、少年は既に、この段階の事まで予想出来ていたのだ。

「はぁっ！」

腹の底から発する雄叫びは、臆している場合ではないのだと、少年自身を叱咤する。

少年の見据える先で、傾ぐ二匹目の体躯の直ぐ後ろに佇む姿に目が釘付けとなる。
今まさに、飛びかからんとしなりを効かせた躯を、少年は確かに捉えていた。

「ガァグルル」

喉の奥を怨嗟の響きで満たし、開いた口の端から滴らせる鮮血混じりの唾液。
そのウルフハウンドは、先程少年の蹴りをまともに受けた一匹だった。

食らった蹴りの一撃から体勢を立て直し、身体に穿たれたダメージすらも、自らに傷を負わせた少年への怒りが凌駕させたのだろう。そうして跳躍を果たし、地面から解き放たれたウルフハウンドの牙が、もう一匹の前肢を浅く切りつけ、怯ませたばかりの、少年の喉元へと高速で迫っていた。

少年の身体は、何かを決めるよりも先に動いていた。
思考によるものではない。
無意識に等しく、逆手に持ち変えている長剣の柄。
少年の無我の境地とでも言うべき反射反応は、回避ではなく突撃をその身体へと命じた。

賭けですらなく、致命傷が避けられれば行幸と言わんばかりに、それは無謀な特攻とどれ程の差異があったのだろうか。
体重をかけ、突き上げるようにして振るう、長剣の柄による突打の一撃を叩き込むのは、ウルフハウンドの咥内、上顎へと。
掠めた牙の鋭さに弾ける右手の皮膚。
切り裂かれるのではなく弾ける、そんな表現を想起させる光景に少年の視界には鮮血が飛び散った。

だが、少年はその光景には反応を示さない。
支払った代償の、それだけの成果は得られた。

「グァフッ」

引き潰されたかのような、空気を絞り出す絶叫がウルフハウンドの口内から漏れ出る。
刃で突き上げるには近過ぎる間合でも、柄でなら十分勢いを乗せられる。
脳天まで突き上げる衝撃を咥内に受けたウルフハウンドの苦鳴。
少年は、瞬時にウルフハウンドの口内から、握る長剣の柄頭を引き抜いた。
鳴き声を、撒き散らす唾液と共に口腔から溢れさせて、ウルフハウンドは嘔吐く。

「軽い、かな」

獣の耐久力を以てしても口内への攻撃は防ぎようがない。
だが、それでも致命傷には至らないのだ。
そして、先程と同じく、追撃を行う時間もなかった。
背後と左の真横から、急速に接近している気配に、少年は右足を軸にした振り返りざまの一撃を振るう。

後ろに行くにつれ、徐々に長くなる少年の髪型から、少年の視界の端には、自身の黒髪の毛先が跳ね狂うのが映った。
回転の勢いが十分に乗った斬撃が、我先にと二体同時に迫っていたウルフハウンドの躯を浅く切り裂くが、牽制程のダメージにしかならない。

「あ・・・」

迎撃、その瞬間の、どこか抜けた響きの少年の声。

戦いの最中に研ぎ澄まされた感覚が、少年の脳裏にけたたましく警鐘を響かせる。

二体のウルフハウンドを切り裂いた直後には気付いていて、もっと前に言えばやはりそれは、無理を呟いたあの瞬間には分かっていたのだ。

少年の気付いた気配は、反射的に、少年の身体をそちらへ振り向かせようと動いている。
だが感じ取っている、憤怒の気配を撒き散らす、凄まじい殺気に、少年はそれが既に手遅れの事態である事を、いやが上にも理解させられた。

(やっぱり軽かったかぁ……)

声に出す時間はなく、加速された思考の中で少年は呟く。
だがそれは、事態を足掻こうとする、打開へと向けた思考ではなかった。
その逆の、絶体絶命を悟ってしまった諦念の先にある、未練や悲嘆の思いともまた違っていた。
言ってしまえば、ただの感想でしかない、それだけの思考。

肉薄する気配。許された時間の中で、少年はただ思う。
首筋に、生臭くも生暖かに湿り気を帯びた獣の呼気を感じた。
振り返りきる間もなく、自分の喉笛にウルフハウンドの牙は食らいつく。
そんな予想は難しくなく、だからその時には既に少年は声を上げていて・・・

「ライ！」

―ダンッダンッダンッ―