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【第一鐘〜夜の少年と真白き少女〜】

7 白の少女

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 その女の子の年の頃は十五から十七歳程度だろうか、トゥリアと同じくらいか、少し幼いぐらいだと思われた。

 けれど、とトゥリアは思う。
 身長は百六十と少しぐらいといったところ、トゥリアより十センチ弱は低い筈だが、今はトゥリアがまだ立ち上がっていなかった事もあり、トゥリアがやや見上げ、少女が見下ろしていると言った状態。
 少女は首を傾げ、ただ佇んでいた。

 トゥリアはその少女を瞬きすらも忘れ、ただ見詰めて・・・

 いつからそこにいたのか、トゥリアが気付いたその時には、少女はそこにいた。
 直前までなんの気配も感じていなかったのは確かで、あり得ないと思うのに少女の姿はそこにある。

「・・・・・・」

 トゥリアの目を引き付ける、癖のない髪は、金と言うにはあまりに色素が薄く、白に限りなく近い白金の光を宿していた。
 癖のない髪の繊細な流れが、少女の羽織る空色のポンチョの胸もと迄に瞬くような光を散らしている。それはまるで星や月の光を紡いで編み上げたかのように、その髪の一本一本には淡くも冴え冴えとした煌めきが湛えられているようだった。

 そして、その髪と同じ、白金の光に縁取られた薄い藍色の瞳。その瞳は、夜明けを迎えた空の光を宿した神秘的な美しさの中に、トゥリアだけではない世界の全てを映し込んでいるかのようにさえ感じさせるのだ。
 透けるような白い肌の木目は細かく、すっと伸びた鼻梁と、そこだけ色付いた桜色の唇の艶やかさ。そんな美しい少女の存在がそこにはあった。

 どうしてこんな場所に人がいるのか?それも自分より年下であるだろう女の子が一人きりで?
 それらは当然トゥリアが思うべき疑問だった。
 けれど少女の纏う空気と、少女がそこにいると言う光景は、トゥリアから口にすべき疑問の全てを奪い去り、疑念の欠片をも抱かせる事がない程に神秘的で圧倒的ですらあったのだ。
 魅了されたのとは違っていて、けれどそうする事が当たり前であると言うかのように、トゥリアはただ少女へと笑いかけ、微笑する。
 この少女が自分と親しい既知の間柄の存在であるかのように。

「・・・泣いて」
「え?」

 呟くような少女の言葉の意味が分からなくて、トゥリアは戸惑いの声を発する。
 けれど、色彩が混じり、見ているものの境界が滲むように、いつの間にかトゥリアの見上げている視界がぼやけていた。

「えっと、あれ?なんだろう」

 何が起きているのか分からなかった。
 分からないのに、触れた自分の目もとが濡れている事に気付いてしまい、トゥリアは反射的に目を擦っていた。
 どうやら自分は泣いているらしいと意識した。けれど悲しい訳ではないのだ。そんな自分で自分が分からない状態に、ただトゥリアは戸惑っていた。

「まだ薄暗いけれど、夕方ってことはなさそうだから早朝ってことになるのかな?」

 振り払うように赤くなる程目を擦ると、誤魔化すように浮かべる笑みにトゥリアは尋ね、もう一度見詰めた少女から視線を外すと、更に上方へと視線を向けていった。
 トゥリアの視界の半分以上を、丈のある木々から茂った葉が埋め、けれど上方を覆う霧だけはそう厚くないのか、その遥か向こうの空に、薄紫から薄い青に染まりかけ、夜明けを控えた空の色を垣間見る事が出来た。

 そして、見付けてしまう光景がトゥリアに“忘れていられた”出来事を思い出させ始める。

 木々を幾本も挟んだその向こうを見詰める。
 けぶる霧を纏いつかせた切りだった崖の、聳え立つ威容。トゥリアは目を見開くようにして、その情景を見上げていた。

「・・・この崖の上から落ちてきたってこと?・・・え?」

 口の中が渇く程の緊張感にも言葉は自然に口から零れ出ていた。視線で辿る崖の上部は空へと呑まれ行くかのように、窺い見る事すら難しいその縁にトゥリアはただ戦慄する。
 そこは、空の一角を切り取るかのようにしてある地表の隆起、もしくは引き裂かれた大地そのもの。
 木々の合間から覗いた、かなりの高所にあたる崖の切れ目。その見詰めた光景からトゥリアは唐突に何があったのかの全てを思い出した。

「・・・うん?」

 もう一度、どこか呆然と呟き左手は自身の胸もとへと無意識に伸びていた。
 見上げていた場所から、崖伝いに視線は下へ下へと、そして、不意に途切れた霧の向こう、トゥリアはその場所にあるものを視界へと入れた。
 森の獣の仕業か、強風等の影響があったのか、その木は幹の中程から折れてしまっていた。
 倒れて時間がたっているのか、見える範囲のどの枝にも葉は残っていないようだった。
 そしてそれは、倒れてしまってもなお空を指し示すようにして伸ばされている一際太い枝も同じ様相を晒している。

 見詰めるトゥリアの表情には、今はもう苦笑すら浮かんではいない。
 空を指し示す枝の尖端が無惨にも折れ、凶悪な断面を晒し聳えている様子をトゥリアは凝視する。
 痛みの記憶とともに焼けついている光景。自分の胸もとからいたあの枝だとトゥリアは直感した。

「・・・・・・」

 トゥリアの表情は無表情に近く、情動の全てが抜け落ちてしまったかのような顔にも、続けて見下ろした場所で左手に触れている自分の胸の中央辺り。
 浅い呼吸を繰り返すが、声すらも発する事が出来なくなっていた。
 その“何の異状もない”自身の身体を眺め続け、トゥリアはただ沈黙を余儀なくされる。

 そこには本当に何もなかったのだ。
 あるのは、ただただ見慣れた自分自身の身体だけ。だから何もないと言ってしまうのは本来語弊がある。あるのだが、それでも、トゥリアは思ってしまう。
 何もないのだと・・・

 着慣れた濃紺色のジャケットを、開いたままにしている胸もと。そこには、ジャケットの下に着込んでいるチュニックの暗い青色の生地が覗く。
 夢ではない。夢の筈がない。
 疑う事すらも難しく、生々しい感覚としてトゥリア自身が覚えている。

「あ、う・・・」

 嗚咽にもならない、喘ぐ声の断片を堪える事が出来なかった。
 意識に焼け付く痛み。
 感じた自分の血の熱さとは対照的に、身体はどこまでも冷えていく。
 ただ寒くて、それは明確な・・・

「死ぬんだって、死んだんだって、そう思ったから・・・」

 思い出してしまった記憶の最後を、絞り出すようにしてトゥリアは声に出す。
 トゥリアは自身の胸もとを、服が皺になる程に強く握り締める。見下ろし凝視するが、だが、そこにはどれ程確かめようと、何の異常も、異変の痕跡すらもなかった。
 そう、あの瞬間、折れた木の枝が胸を貫いた筈の傷どころか、着ているチュニックにすら、旅の間に出来たであろう綻び以外の傷みが見られないのだ。

「・・・たとえば、そう、たとえばだけれど、あの時、回復の魔法を使える者がそばにいたとして、それでも、死に至るような傷を完全に治癒してしまうことは、今の魔法の技術では無理なんだって、そう、ライが言っていたんだ」

 誰に向けるでもない言葉でトゥリアは呟く。
 意識を取り戻した時、トゥリアは一人だった。
 この霧深い森の一角で、そばには誰もいない状況だったのだ。

「ここは、人の使う魔法が意味を成さないイージスの森で、それ以上に、僕にとって魔法は“意味がない”」
「意味がない?」

 独白の言葉に聞き返されトゥリアははっとする。
 目を覚ました時、確かに自分は一人だった筈だが、今は違うのだ。
 未だ座り込んだままのトゥリアを、変わらず見下ろしている少女の存在がそこにはあった。
 薄い藍色の瞳がトゥリアをただ映していて、見つめ返し、そうしているとトゥリアは自分の動悸が収まり、どうしようもない程の緊張が解れて行くのを感じていた。
 そして、落ち着いて来た事で取り戻す現状への理解に、顔が緊張で強張って行くのを自覚する。
 分からない自分の事等、後で良いのだ。いや、良くはないのだが、現状に支障がないのならば、後回しにして良い案件である。
 今更ながらに、ここが安全な町の中等ではなく、危険な魔獣が蔓延る森の中なのだと、トゥリアはそう思い出していた。

「えっと、ごめん。うん、いろいろと混乱していて、どこか、落ちつけるところとかあるといいんだけど、君は、うん?」

 ぎこちないと思うが、どうにか取り繕うようにして浮かべる微笑みに、トゥリアは少女へと話し掛けてみたが、何をどう聞くべきか、そもそも何を話しかけたら良いのかと、言葉を途切れさせてしまう。
 そして少女へとトゥリアの緊張が伝わり、余計な警戒を抱かせたり、不安を煽らない為の笑顔だったが、ちゃんと笑えているのかも分からなくなっていた。

 けれど、何より、トゥリアはこの少女には、自分の笑った顔を見せていたいと、そんな思いを抱いていたのだ。

「どこか、ここでない場所・・・」
「えっと、君は一人?だれかと一緒じゃないのかな?」

 常識的に考えれば、こんな危険な森の奥に女の子が一人でいる筈がないのだ。
 ようやく思い至ったトゥリアはそう尋ねてみた。
 一緒に森へと踏み込んだ仲間か、保護者に該当する誰かがいて然るべきだと思い聞いてみたのだが、トゥリアの予想に反して、少女はトゥリアを見返す眼差しに首を傾げてしまうと言う反応を返して来た。

「あれ?」
「ひとり・・・誰か、いた場所」
「えっと、え?」

 断片的な喋りの最中、おもむろにトゥリアへと差し出される手があった。
 長い指はしなやかで、手首から肘迄を守る為と言うよりも、飾るかのような籠手の細工は、精緻な銀の蔦のような図案を描きトゥリアの目を引いた。
 籠手から少女の顔へと、トゥリアを見る薄い藍色の瞳を見返し、そこから更に、自分へと差し出されている手を見て視線を動かして行く。

「あ、うん。ありがとう」

 手を貸してくれようとしているのだと察する意図に差し出された手を借り、体重を掛け過ぎないように注意しながらトゥリアは立ち上がった。
 重ねた手の暖かさに安堵するトゥリアは、同時に自分の手が思いの外冷たくなってしまっていた事に気付いた。

(と言うか・・・!!!)

 あまりにも自然に取ってしまっていた少女の手。
 軽く握るようにして触れているのは、トゥリア自身の右手だ。自分の手に感じる柔らかさを今更ながらに意識し、先程までとは異なる緊張感が沸き上がって来るのをトゥリアは意識する。
 顔が熱い。耳も熱く赤くなっているのではないかと思い至ってしまう羞恥が、トゥリアを更に赤面させようとする。
 触れている数瞬前までは冷たかった筈の指先にすら今は熱が通っていて、その熱が相手に伝わっているのかと思うと、どうしようもない程に混乱し、トゥリアの脳内事情は端からは分からないだろうが、実のところかなり大変な事になっていた。

 その反応で明らかなのだが、トゥリアは女性にあまり免疫がないのだ。
 そんなトゥリアの反応に気付いていないのか、気付いていても気にしていないだけなのか、少女はトゥリアの手を取ったまま歩き始めた。
 未だ混乱したままのトゥリアは成すがままだ。

― 踵に翼、翡翠馬シルフースの蹄 渡るよ 西風の乙女ゼピュロシアの羽衣を纏い私は翔る -

 歌の一節のようなものを口ずさむ、少女の声の涼やかな響きをトゥリアは聞いていた。
 静かだが、鋭くもある旋律リズムを刻む少女の声音。
 その瞬間にトゥリアが感じたのは、吹き抜ける風に背を押される、そんな感覚だった。
 いったい何がと、トゥリアが瞬きをしたその瞬間、世界が切り替わっていた。


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