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【第一鐘〜夜の少年と真白き少女〜】

8 お茶のひととき

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 ふーふーと息を吹き掛け、ずずっと小さく音を立ててしまいながらも手にしたカップからお茶を一口啜る。
 青林檎の酸味ある甘い香りと、乳のまろやかさが口の中に広がり、鼻腔へは涼やかさだけが抜けていく。
 飲み込み、喉を落ちる少し熱めの液体は、胃の腑へと到達する頃には程好く冷め、じんわりと染み入るような心地よい温もりだけを全身へと広げていった。

 トゥリアは深く息を吐き、体中に溜まった熱を、滞っていた様々なものと一緒に吐き出す。
 そうして新たな空気を吸い込めば、ただすっきりとした爽快感だけを感じる事が出来るような気がした。

「おいしい、ありがとう」
「どういたしまして?」

 自然と綻ぶ顔に、トゥリアは自分の正面へと座る少女へ告げたのだが、返される答えは、傾げる小首に何故かの疑問系だった。
 曖昧な笑みになってしまう表情を誤魔化すようにもう一口お茶を啜る。

 トゥリアが今飲んでいるのは、暖めた動物の乳で乾燥させた加密列カマイメーロンの花を煮出したお茶だった。
 用意したのはトゥリアではなく、目の前で首を傾げている少女であり、少女の目の前にも湯気を燻らせるお茶が用意されている。

 世界が切り替わったとそう感じた瞬間に、途切れた五感の感覚。
 その直前には、強風に背中を押されるかのような、そんな感じがあったような気がして、そして、気が付いた時には、既に景色が一変していた。

「転位の魔法ってことなんだよね」

 一息入れたところで呟くトゥリアは、ここに来た時の事を思い返していた。

 霧に白くけぶった崖下で、トゥリアは目を覚ました。
 気温的にはそうでもなかったが、寒々とした空気に満ちていたあの場所。それが、次の瞬間には、組まれた木々の木目が優しい色合いにトゥリア達を迎えてくれていたのだった。
 そこは何処かの家の一室のようで、外観を見た訳ではないから断言は出来ないが、鼻腔へと吸い込む芳醇な木の香りから、ログハウスやコテージのような建物の中なのだとそう思った。
 何か意味のある部屋なのか、そもそもの間取りの関係か、窓のない部屋だったが、部屋の対角線上に、それぞれ外と隣の部屋に続くであろう二つのドアがある。そして、部屋の中央に飴色の長方形のテーブルがあり、向かいあうようにしてトゥリアと少女は、それぞれ椅子に腰掛けていた。

 右手側の、最低限と言った感じのキッチンスペースと、左手側の幾つもの瓶や箱の並んだ木造りの棚。
 天井から、蔦を荒く編んで作られた篭に入れられ、吊るされた照明水晶の柔らかな光の色合いもあいまって、落ち着いた雰囲気の部屋だと感じていた。

「えっとね、さっきいた場所からここまで一瞬だったから、転位の魔法で連れて来てもらったんだなって思ってさ」

 感じた視線に、なんとなく部屋を見ていた目を少女へと戻すと、トゥリアは合った目に笑みを浮かべ、思っていた事を改めて少女へと告げた。
 トゥリアは魔法使いではないし、魔法の造詣に深い訳でもない。けれど、魔法に長距離の移動を助けるものがある事ぐらいは知っていて、その為の言葉だった。

西風の乙女ゼピュロシアの翼を借りて、みちを通ると、直ぐ・・・落ち着いた?」
「え?あ、そっか、僕が言ったから」

 トゥリアは問われたとおぼしき言葉の意味が一瞬分からず、けれど直ぐに、移動する少し前の自分が、何処か落ち着けるところがあると良いと言っていた事を思い出した。

「うん、落ち着けた、お茶もおいしいし、ありがとう」
「そう」
「・・・・・・」
「・・・・・・」

 会話が途切れ、ススッとトゥリアがお茶を飲む音だけが静かな室内に響いていた。
 変わるどころか、そもそも動きのない表情。そのまま少女が口を開く事はなく、薄い藍色の瞳はトゥリアを見てはいても、言葉を待っている風でもない。
 そして、トゥリアもまた、口を開くべきは自分の方だと分かってはいるのに、何も言う事が出来なかった。

 堪能するお茶の味。だいぶ薄くなってしまった湯気が白く燻る様子。
 苦にならない沈黙に、寧ろ、この時間が心地良いとすらトゥリアは思っていたのだ。
 何をするでもなく、ただ少女と一緒にいる事の出来る時間を過ごそうとしてしまう。

「・・・なんだろう」

 飲み終わったカップをテーブルへと戻し、はかっていた訳でもない筈だがトゥリアは口を開く。
 初対面である筈の少女に感じる親しみにも似た感覚。警戒心ですらなく、そこにいる事が当たり前にすら思ってしまっている、そんな感覚に戸惑いを覚えない自分にこそ戸惑いながらトゥリアは呟いていた。

「うん?」
「ううん 、僕はトゥリア、トゥリア・ノクス・カイヤナイト」

 また首を傾げさせてしまい、そこでようやくトゥリアは気付いた。
 気付き、ちょうど良いかなと自分の名前を告げた。

「トゥリア」
「うん、アースウォーカーを僕ともう一人、今は、はぐれちゃっているんだけどライって言う相棒とやっているんだ」
「アースウォーカーで、ライが相棒のトゥリア」
「そうそう」

 トゥリアの簡単な自己紹介を、無表情で抑揚に欠けた少女の声が辿る。
 そんな少女の様子に穏やかな笑みを浮かべ、トゥリアは頷き、相槌を返していたのだが、次の一言に完全に虚を突かれる事になった。

「トゥリアは迷子?」
「まい、え、迷子!」

 まさかの迷子判定だった。
 予想外の言葉に対する思考能力の著しい低下。けれど直ぐにそうなのだと、肯定をせざるを得ない事に思い至ってしまう。

「ええ、ああ、うん、迷子ってことになるのかなぁ」

 そう返す事が精一杯のトゥリアが思い返していた現状。
 ライとはぐれ、合流の目処も立っていない。その事に加え、分かっていない現在位置に、森から出られるかも怪しい現実。

(うん確かに迷子だ)

 行き着いてしまった結論へ、僅かに目を見開くが、直ぐにトゥリアのその表情は微苦笑へと変わっていった。
 事実はそうだが、多少の地域差はあれど、成人が十五、十六歳程度とされるこの世界でトゥリアは既に十七歳。さすがに迷子と表されるのはちょっと、と思わずにはいられなかったのだ。
 トゥリアの受けた衝撃には気付かない少女は、緩やかな瞬きをすると、一つの単語を抜き出し呟くように反駁した。

「アースウォーカー」
「あ、うん、冒険者で探索を中心に活動しているってことだけれど、聞いたことない・・・感じだね」

 反応があった訳ではないが、そう思えた。

「ギルドって場所があって、仕事を依頼したい人と、仕事を受けたい人の仲介をしてくれるんだけど、その仕事の中でも街の外に出たり、戦いなんかの荒事が関わってくる仕事を受ける側の人の事を冒険者って言う感じかな」

 トゥリアがざっくりと説明をするのはそんな当たり前の事だった。
 ギルドと言う組織と、冒険者と呼ばれる者達の役割。それは子供でも知っている筈の事で、けれど、彼女は知らないのだと思ったのだ。
 そしてトゥリアのその予想は、やはり間違ってはいないのだろうと思う。

「冒険者で、アースウォーカー」
「依頼を受けて、魔物の生息域や分布を調べたり、素材の採集区域や植生を確認したり、探索って言ってもいろいろあるんだ」

 理解してくれたのだろうかと窺う少女の反応だが、やはり抑揚に欠けた声音と、活動を放棄してしまっているかのような表情筋の動きによく分からない。
 トゥリアはどうしたものかと思案する。

(警戒されているのとは違うと思うんだけど)

 それならそもそも、家に上げないだろうと考え、けれどそこでふと、ここが彼女の家であるのかどうかも確認していなかったなと思い出す。
 まぁお茶の準備までして、見ず知らずの他人の家って事はないと思うが、それでも、少女以外の家人の存在はどうなっているのだろうか。

(椅子が二つ、壁際にもう一つあるから三つで、カップは僕の分も直ぐに出てきた感じだったから、誰かとこの子は二人か三人で暮らしている感じ、なのかなぁ)

 この部屋にある椅子の数と、最初にお茶を用意して貰った時の事を考えながらもトゥリアは内心で首を傾げていた。

「誰か、は、いない」
「え?」
「トゥリアがいて私がいる。それでおしまい」

 トゥリアが端的な言葉を聞き返すと、少女は言葉を変えてトゥリアを指し示し、自分を指差す動作を続けた。

「君は、ひとりなの?」
「一人・・・」

 問いかけるトゥリアは、口の中が渇くのを感じていた。
 問い掛けておいて、その言葉を否定して欲しいと思っている自分自身の緊張。
 けれど呟く少女は、一人、とそこで言葉を止めてしまった。
 そして、トゥリアはその反応こそが答えだと思った。
 同居している誰かが今いないだけと言う、そんな意味合いではないだろう、“一人”と言う言葉の重み。

「いつから・・・」
「うん?」

 何時からこの場所に一人だったのか、そう聞こうとして、けれどトゥリアはそこで言葉を途切れさせてしまった。

「ううん、えっと、聞いてもいいかな、君の名前」

 そうして、聞こうとした事を聞かないままに、そもそも最初に聞いておくべきだった事を確認する事で、問い掛けに返って来るであろう答えから逃げた。

「名前、トゥリア?」
「そう、僕がトゥリアであるみたいに、君の名前を聞けたらなって」
「呼ぶ名前、呼ばれる・・・」

 呟きながら、伏せ目がちにされた双方を縁取る白金の輝きが弾く繊細な光。
 その様子に、トゥリアは聞いてはいけない事だったのかと焦燥感を覚え、謝罪を口にするべきかと口を開きかける。

「フィン」

 トゥリアが何かを言う前に、囁くような声音がそう告げた。

 真っ直ぐに見詰められ、トゥリアを映し込む、薄い藍色の瞳が宿した硬質的なひかり

「フィン・アスティル・セレファイス=セフィリアシス」

 見詰め返すトゥリアをそのままに、フィンがそう自分の名前を告げる。

「フィン・アスティル、セレファイス・・・セフィリアシス」
「そう、フィン。そう呼ばれたことがある。そう思うから」

 一度だけの緩やかな瞬きとともに、トゥリアは聞いた名前を繰り返す。
 綺麗な響きだと思った。
 同時に、呼ばれた事があると言った少女、フィンの言葉。それは自分の事である筈なのに何処か他人事であるかのような反応だともトゥリアは思った。
 そして、気付いてしまうのは、呼ばれているのではなく、呼ばれた事があると、それが過去形の言葉であると言う事。
 何時から一人だったのかと、先程問う事が出来なかった問いの答えを、トゥリアは意図しないまま得てしまったような気がした。

「・・・・・・」
「・・・・・・」

 薄い藍色の瞳はただ綺麗だった。
 眺めるようにトゥリアを映す瞳を見詰め返すが、見詰めたその瞳に、トゥリアの読み取る事が出来る感情はなかった。
 フィンの言葉の様子では、今は違う呼び名があるとかでもないのだろう。
 会話の調子。たどたどしい言葉の選びと、抑揚に欠けた声。トゥリアの事を見てはいても、感情の起伏に乏しく、動きのない表情。

 何時から一人でいたのかと、聞こうとしてトゥリアは聞く事が出来なかった。
 きっとそれは昨日今日の話しではなく、月どころか年単位、“最初から”と言う事はないと思うが、それでも、何時呼ばれていたのかが分からなくなってしまう程の、少なくない時間を一人で過ごしていた事を思わせているようだったのだ。

 ふと気が付けば、トゥリアが自分で作り出した思考の海に沈みきっている間に、フィンの姿が正面の椅子からいなくなっていた。
 幾ら考え事をしていたとは言っても、全く気が付かなかった事に驚き、トゥリアは僅かに見開いた目を瞬かせる。
 幸いと言うべきか、何処へ行ったのかと探すまでもなく、直ぐにキッチンスペースに立つフィンの姿に気付く事が出来た。
 何か手伝うべきかとトゥリアは立ち上がりかけるが、既に用は済んでしまったのか、フィンはトゥリアの方へと向き直ると、そのままテーブルの位置まで戻って来てしまった。

「ナッツと干した果物のハニーバー」

 所在なさげに座り直しているトゥリアの事は気にする事なく、フィンは右手に持った皿をテーブルへと置くと、続けて、左手のカップをトゥリアの目の前へと置いてくれた。
 その時になって、ようやく空になっていたカップの回収までされていた事に気付き唖然とするトゥリアだったが、淹れて貰ったお茶のお代わりは、素直に嬉しかった。

「あれ?違うお茶?」
朱槿ローゼル白使アンゼリカと、・・・色々?を燻したお茶」

 途中にあった考えるような間と、色々と言った時の僅かな声音の響きの違いがトゥリアは気になった。
 気にはなったが、覗き込むカップの中に満たされているのは、先程のミルクティーとは異なる鮮やかな紅色のお茶であり、酸味のある香りから、ハーブティーのようなものかとトゥリアは一人納得する。

「花のかおりだ」

 カップを手に口もとへと持って行くと、酸味ある香りだと思っていた匂いが、湯気に導かれて花のような甘い香りとなってトゥリアの鼻腔を擽った。
 香りを楽しみ、そのまま一口、お茶を口へと含み・・・

「っ!!!、!?」

 目を白黒させるとはこの事だろう。
 反射的に吹き出さなかった自分を褒めて欲しい。
 誰にでもないそんな訴えに、だがトゥリアの窮地はまだ去ってはいなかった。

(すっぱ苦渋い!!?)

 舌に感じた刺激を脳が感知すると同時に、強烈な酸味と、苦味を内包した渋みが同時に襲って来ていた。
 飲み込む事を胃が全力で拒否しているが、かといって口内に留めるにも限界があるのだ。
 硬直するトゥリアの状態とは裏腹な、捩切られそうな舌の感覚に、口内が痙攣を始める。

「ハニーバー」

 単調な声音が、それだけを告げる声が、やけにはっきりとトゥリアの耳朶を打った。
 蜂蜜ハニーと言っているのだから甘いのだろうと言うそれだけの考えすらあったのかどうか、苦境に立たされている中で目に入った、手のひらに収まるかどうかの長さをしたキャラメル色の板状のそれを、一口大に割る事すらももどかしかった。
 とにかく口内の味覚状勢を変えられるのならと、お茶の満たされた口の中へとハニーバーを捩込む。
 限界を訴えてヒクついていた唇を、パキンパキンと、硬めであるも心地良い歯応えで宥め、慰める。

「・・・・・・」

 口内に籠ったお茶の熱で溶け出す飴の甘味はまるで甘露のように。
 そして、干して凝縮された果物の甘味と、ナッツ類の優しい甘味が合流する。
 驚きに見開く双眸は直ぐに、眦を下げ、トゥリアは口内に発現した幾つもの甘味を味わい、咀嚼する。

「すごかったけれど、おいしいよ」

 飲み込み、落ち着いたところでトゥリアはフィンへとそう笑いかけた。

 フィンはハニーバーの一枚を両手の親指と人差し指で挟み持ち、口へと運んでいた。
 かりかりかりと、それは何処か栗鼠等の小動物を彷彿させる食べ方で、トゥリアの微笑を誘う。
 そうして、フィンは優雅な仕種でお茶を一口、口へと含んだ。
 今なら分かる。それがこのお茶の正しい飲み方なのだと。
 刻んだ何種類かの干した果物と砕いたナッツを、煮詰めた蜂蜜で和えて固め、手頃な大きさで切ったもの。
 それだけで食べるときっともの凄く甘いのだろうが、その甘くなる口に併せての、このお茶なのだろう。
 単体で飲むと、吹き出す事必至なお茶。
 けれど、このハニーバーを食べながら飲むと、甘過ぎる甘味を緩和し、お茶の渋みは消え、苦味はアクセントに、そして、すっきりとした酸味だけが後味として残るのだ。

「それに、お腹がふくれるよね」

 ナッツがお茶で膨れるのか、硬いものを噛む感覚に満足度を得られるからか、予想以上にお腹が満たされて来ている事にトゥリアは気付いた。
 手もとにはまだ、先程食べ始めたばかりのハニーバーの六分の一程度が残っていて、なのに、トゥリアの感覚的には、既に満腹中枢がだいぶ刺激されている感じなのだ。

「うん、おいしい」

 残されている一欠け分のハニーバーを口の中へ運ぶと、咀嚼し、お茶を一口飲んだ。
 トゥリアはもう一度、美味しいと呟き笑みを浮かべる。

 けれど、その右手はカップをテーブルに戻すと、無意識にも気にしてしまう胸もとに添えられていた。
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