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【第一鐘〜夜の少年と真白き少女〜】
33 空戦を経て
しおりを挟むーアルトゥリア・ノクス・ナイトウィルドー
その存在を知らないものはおそらくはいない。
それこそ、大人から言葉を覚え始めたばかりの子供まで、誰もがその存在を知っている。
何故なら、親から子へ、大人から子供達へ、教会で教手達が、街の広場で吟遊詩人等が、決して絶えさせる事なくその存在についてを語り、世界に忘れる事を許さないからだった。
けれど、その“名”を知るものは、ほぼいない。
誰もがその名前を口にする事を忌避し、その名を聞く事を恐れ、そうして、その“名”は忘れ去られてしまったのだから。
(黒騎士、堕ちた英雄、・・・・・・“彼”)
ーーーーー
「そのまま、噛まずに嘗めていて」
「ん、・・・・・・ん?」
まるで、深い眠りの中から強制的に引き上げられたかのような、現実への認識が酷く曖昧で自分の在り方すらも不安定な、そんな意識へと響く声はやはり抑揚に欠けていて、けれど、促されるままに動かした舌へと、トゥリアは口内に広がる微かな甘みを意識した。
混濁している意識を自覚するのに、五感の感覚は妙に敏感になっているような気がして、視界には光の粒が舞い、なのに暗く歪んで回っている。
「っ?」
トゥリアは自分の喉の奥が引きつる音を聞く。
高く鋭く、空気を引き裂く耳鳴りにも似た感覚。
「大丈夫?」
「だいじょ、っ?!」
声を発しようとすると、胃から食道へと駆け上がって来るものがあり、トゥリアはそこでようやく自身の体の異変を理解した。
ーこれぐらいで、ニンゲンって本当脆いよねー
嘲るカクリノラスの聲を聞くが、トゥリアの視界にカクリノラスの姿はない。
遮るもののない視界には、雲一つない蒼窮が映り、自分の黒い前髪が小さく跳ねていた。
「もしかしなくても、飛んでる、よね?空」
「フィン」
「・・・・・・え?」
揺れる黒髪の忙しない動き、耳鳴りと、見ている場所を固定している筈なのに安定しない視界。その理由に思い至りトゥリアは尋ねた。
そう、尋ねたつもりで、なのに、何故かフィンが自分で自分の名前を告げると言うよく分からない事態が発生して、けれど自分の不調を自覚したトゥリアにはその事を深く考えている余裕がなかった。
「えっと、まず、なんだっけ?」
口の中で転がす甘くも硬いもの。見ている空の彼方へと、トゥリアはぼんやりとした焦点を結ばせ、考える。
本当は何かを考えられるような状態ではなかったが、今は少しでも意識を逸らしていたかったと言うのがトゥリアの実状だった。
「僕は今、カクリノラスの背中に乗せてもらっていて、カクリノラスは空を飛んでいる?」
「トゥリアの体をカクリノラスが犬パンチでぽーんとやって、背中で受け止めて、そのまま一気に急上昇」
「あ、うん。体が痛い。体当たりかと思ったんだけど、あの瞬間の衝撃が猫パンチじゃなくて犬パンチかぁ」
遅いと、そう言われた瞬間に文字通り吹っ飛んでいたトゥリアの身体。そして、カクリノラスはトゥリアの身体を無造作に自らの背中で受け、一気にその翼で以て空へと駆け上がったのだろう。
「かなり高い場所を飛んでるよね?」
「ん」
それは肯定なのだろうと、トゥリアはフィンの反応をそう受け取った。
「空気が一気に少なくなったから、意識が混濁して、今もうまく身体が動かせないし、かなり気持ちが悪いと。感覚がないってことはないから、寒さを感じないのはフィンがなにかしてくれてる感じだよね?あと、この飴もありがとう」
ようは今現在トゥリアの身体を苛んでいるのは、カクリノラスが何かしていると言うのではなく、かなり酷いが高山病の症状なのだろう。
標高が高い場所では空気が薄くなり、身体へと取り込まなければならない酸素が不足してしまう。その事によって引き起こされる病が高度障害、俗に言う高山病であり、 症状には、頭痛、疲労、抑制のきかない精神の高ぶり等がある。そして、高山病がより重症になると、息切れ、錯乱、やがては昏睡状態へと陥ってしまうのだ。
「この飴、おいしいね、普通の飴じゃないみたいだし」
後半を小さく呟きながら、徐々に楽になって行く呼吸や、落ち着いて来た異常の数々をトゥリアは少しずつ意識していった。
何となくだが、この回復の理由がトゥリアが今嘗めている飴の効果なのではないかと、そう思えたのだ。
「空気が薄い場所、水中でも嘗めている間は安定した呼吸が出来る。そう言う飴、カクリノラスの周囲には今は風を留めているから」
「すごい飴なんだ」
深く吐く息に交え、感心したようにトゥリアは言うが、フィンからの反応はなかった。
「相手しなくて良い」
ー少しぐらい遊びたかったのに、でも良いよ、任せてあげるー
どう言うやり取りなのか、その内容をトゥリアが察する前にそれは起きた。
突然傾ぐカクリノラスの体勢。ずり落ちない為、咄嗟にカクリノラスの毛を握らなければ、虚空へと放り出されていたであろう強い羽ばたき。
何がと、そんな思考の余裕すらもないトゥリアの視界を黒い閃光が引き裂いた。
地上から上空へと貫くかのような一条の黒い光だった。
まるで、トゥリアの見ていた景色を左右に分断するかのように、カクリノラスが体を傾けたが為に生じた空間を更に上空へと抜けその光は消失した。
「下は無視する、そのまま駆けて」
フィンは、普通に座っている事すらも難しいカクリノラスの背中で、その首もとに近い位置に右手を軽く触れさせた体勢でしゃがんでいた。
トゥリアからはその背中しか見る事が出来ないが、フィンが真っ直ぐに進行方向だけを見据えている姿に、不安定な体勢ながらもそちらへと目を向ける。
「纏うは颶風 貫く紫電 疾れ」
抑揚に欠けた声が、歌うように、詠ずるように囁く。
体勢を直したカクリノラスの背で、立ち上がり、微動だにする事なく佇むフィンの姿をトゥリアは見ていた。
その手に持つのは弓。何処から取り出したのか、いつから手にしていたのかトゥリアには全く分からなかったが、今、佇むフィンの手には弓がある。
けれど、その手に矢はなかった。
矢を番える事なくしなやかな指が弦を引き絞り、綴る言葉の最後とともに弦から指は放される。
その時には、なかった筈の矢がそこに存在していた。
細く鋭い光が纏う紫の電光。その閃きが虚空を翔け、そして瞬きの間に四散する。
けれど放たれた光はそのまま消えてしまった訳ではなかった。
トゥリアが眇る双眸にどうにか視認する事の出来た光景は、分裂し、より細く、鋭くその姿を変え、“対象”を射抜く光の矢の数々だった。
ドンッと落雷の轟音を思わせる音と共に、その射抜かれたもの達は存在を掻き消された。
そこにいたという証のように、収束した光の場所には散り散りとなった灰色の羽根だけが舞っている。
「降りて」
ー散らした魔力残滓で撹乱したんだ?相変わらずの面倒臭がり?ー
「戦わなくて良いならそうするだけ」
ーレディなら手間でもないでしょ?だからやっぱり面倒臭がりー
カクリノラスの含み笑いのような“聲”は愉しげで、トゥリアを相手にしている時のような嘲る雰囲気は微塵もなかった。
その事を別段気にしている訳でもないのだが、トゥリアはどうしてそこまで自分はカクリノラスに嫌われているのかと少しだけ考えてしまう。
「この先はもう夜の領域。だからここまで」
ー移動したって言うより、広がってる?ー
「・・・“彼”の領域に別の?」
密集した木々に、降り立つ空間等ないように見えたが、存外どうにかなるものらしく、飛び立つ時とは対称的にカクリノラスは難なく地面へと降り立った。
上空でのあれこれに、何時の間にか体調不良も吹き飛んでいたトゥリアは安定した地面に足を着け安堵の吐息を一つ吐き出す。
そうして、気分を切り替え、フィンの見る代わり映えのない木々の連なりへと目を向けた。
「有り難う」
ーレディー
フィンが告げるお礼の言葉に、フィンを呼ぶカクリノラスの“聲”には何処か乞うような響きがあるような気がして、トゥリアはカクリノラスを見た。
カクリノラスが寄せる鼻面へと伸ばされるフィンの手。
カクリノラスのフィンを見下ろす双方にあるのは期待と不安だろうか。
けれど、それは本当に一瞬窺い見る事が叶っただけの感情の断片で、トゥリアが目を向けたからと言う訳でもないだろうが、直ぐ様、愉しげに歪んだカクリノラスの口もとと笑みに細められた双眸が全てを覆い隠してしまう。
(分かりにくいようで分かりやすい)
トゥリアはそう思った。
自分の素直な感情を露にする事をカクリノラスは嫌がっている。けれど、トゥリアが見ていた限り、フィンはどうやらそんなカクリノラスの内心などお見通しなようで、カクリノラスもまたそれを察している。
そうなると今度は装っているか、取り繕っていると思われる事の方が嫌なのだろう。
隠しながらも自身の欲求を叶える事を強行する事にしたのか、カクリノラスは誉めて貰う事を強要する、犬科の生き物のように、フィンを押し倒さんばかりの勢いでその鼻面を押し付け始めたのだ。
「カクリノラス?」
ーん~ー
フィンの困惑等、聞いてやらないと言う反応。
フィンはその場に踏みとどまろうとするも、そもそもの身体の大きさの違いがある。
カクリノラスが何かの拍子にぱくっとやってしまえば、フィンの存在等、一呑みに出来る程なのだ、見ているトゥリアとしてはかなり心臓に悪い光景だった。
感情の起伏に乏しい表情の動き。薄い藍色の瞳には硬質的な光がただ清廉と閃いた。
息をする事すら憚られる空気を感じ、トゥリアは瞬きの瞬間すらも惜しむ。
「グラシアス」
呼びかけたフィンは望まれているであろうままに、差し出す左手の人差し指の背で、カクリノラスの下顎辺りを縁取るようにして撫でた。
褒めるように労うように、愉悦に目を細めそれを受け入れるカクリノラスはもう取り繕うような事はなく、寧ろトゥリアへとその光景を見せ付けるかのようでもあった 。
ー向こうに集まってるから、遊んで帰るー
時間にして、数分と言ったところか、カクリノラスに離れていく手を目で追う様は名残惜しさを伝えていて、けれど、そう告げる“聲”には憮然とした響きがあった。
ーあ、あと久しぶりにこっち来たんだし、ヒトの集まりを二、三ヶ所・・・ー
「それは駄目」
愉しげに言う言葉を途中で遮るフィンは、抑揚に欠けているのはそのままに、有無を言わせない意思を感じさせる声でカクリノラスへと禁止を告げた。
ー数だけはいるから、少しは足しになると思ったけど、レディがダメって言うならしょうがないかー
(数がいる人の集まり・・・)
街や村の事だと予想が着くが、カクリノラスは何をしようとしたのかとトゥリアは思う。
(フィンが止めたってことは予想がつくかな)
悪魔は精神生命体。その性質として、自らが狩り取った生命を自らがの力として取り込む事が出来るらしい。
“足しになる”とは、たぶんそう言う事なのだろう。
予想し戦慄を覚えるが、トゥリアの表情には苦笑だけが浮かぶ。カクリノラスの断念を聞いた為にトゥリアから何かを言う必要はないのだ。
ーレディ、またそのうちー
軽く上げられるフィンの左手。ばいばいと、その手を振るのかと思ったが、何故か中途半端なその位置で手は動きを止めた。
どうして良いか分からないと言った雰囲気をトゥリアは感じ取ったが、トゥリアが何かを言う前にばさりと重い羽ばたきの音が空気を叩いてトゥリアの意識を向けさせた。
ーそう言えばお前ー
「僕?」
ーこの子が欠けていることにお前が関わっているなら、殺すけど?ー
「かけ?」
告げられる言葉の無感動さとは対称的にか、急速に膨れ上がった殺気に、トゥリアは殊更平静を意識してどう言う意味かと疑問を返した。
細められるカクリノラスの双眸に弧を描く口もとは嘲る笑みを刻む。けれど、その雰囲気はただ冷たく暗く凍てついていて、纏う空気だけで脆弱な人間など容易く息の根を止めてしまえると思わせた。
答えを間違えれば勿論だが、そうでなくても気圧された瞬間に精神を壊されるとトゥリアはそう直感する。
ー・・・ふうん、覚えていなくても良いけど、本当にそうなら、レディが止めても止まるつもりないからー
面白くなさそうに、それから言うべき事は言ったとばかりに、カクリノラスはトゥリアから視線を外すと、そのまま頭をもたげ、空へと首を伸ばして地面を蹴った。
木々の葉、一枚すら散らせる事なくカクリノラスの大きな体躯は空へと駆け上がって、直ぐに見えなくなってしまった。
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