空白の叙事録〜誰が忘れた罪禍の記憶〜

羽月明香

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【第一鐘〜夜の少年と真白き少女〜】

35 終わりを望むもの

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 視界にあったフィンの髪色である白金色。流れるその色彩の残光が、暗い部屋へと射し込んだ一筋の光であったかのように、世界へと色彩を齎し“反転”させる。

 トゥリアの眼前には今、暗く、そして何処までも空虚な森が広がっていた。

 正午前の時間帯だった筈なのだ。なのにこの場所は今、日の光による恩恵が途絶えた暗く冥い視界の中で、不思議な事に闇に閉ざされる事がないと言う矛盾を孕んでいた。

 うっすらと立ち込めた霧に空気の湿り気はなく、寧ろ荒涼とした地を駆け抜けた風の如き乾きすらも思わせる。
 何時の間に、と思う前に、一体何が、と言う緊張。
 瞬時に周囲へと走らせた視線に、トゥリアは場所を移動させられた訳ではないと、それだけを認識する。
 見ている景色、嗅いでいる臭気、何より、感じている空気こそが、世界の“変質”をトゥリアへと伝えていた。

 注視して目を向けるまでもなく、抜け落ちてしまったかのような色彩に、木々の葉が晒す空疎な白色をトゥリアは見ていた。その色彩は枝にも幹にも境がないかのように木々全体を彩り、そんな光景がただただ広がっている。
 石化しているのとは違っていて、葉は色彩に反した水々しさを感じさせ、枝や幹にも石材とは異なる質感を残しているようだった。
 そしてそれは、木々だけには留まらない変化らしい。トゥリアの動かした足に、地面には土の柔らかさがあり、ふと意識を向けた先の、影になる場所には苔の湿り気があった。
 紛れもなく“森”そのままの様相を晒し、なのにその全ては暗澹としながらも、空虚な白色の色彩を纏っている。

(ただ色を塗り忘れて、そのままにされたみたいな、感じかな)

 心の中で思うトゥリアの視界に遠ざかるフィンの背中が映る。
  はっとなり、フィンを捕まえていた筈の自分の手を見るが、当然そこには何もない。

黒耀こくよう?」
「・・・こく、よう?」

 思えばフィンは時たまその名を口にしていた。
 何かを問うように呟かれた名を、トゥリアもまた戸惑いの口調で繰り返す。

-ヴゥ-

 低く喉を鳴らす獣の声。
 反射的と言うには遅過ぎる自分の反応に舌打ちしながら、トゥリアは柄を握り直した手に力を込めつつ、厳しい表情でその一点を見据えた。
 気配に全く気付けなかったが為の焦燥を抑え込み、足音なく悠然と歩み来る存在をトゥリアが見た時、トゥリアはただ息を呑み、目を見張った。

 圧倒的な、変容してしまった森と言う空気すらをも従え佇む威容。
 白に近い空疎な森を背景に背負い、しなやかな体躯の獣はただ佇立する。

「狼・・・」

 トゥリアは止めてしまった足の動きに、掠れた声でそれだけを呟いた。

 黒く、暗く、闇を帯びた毛並みの中、深い青色の双方が無感動にトゥリアを見ていた。
 そこに佇むのは漆黒の狼に似た何か。
 そこにいる。それだけでトゥリアを圧倒する気配は、威圧して来ている訳でもないのにトゥリアを畏縮させ、トゥリアは既に指一本ですらも満足に動かす事が出来なくなっっている自分の状態を思った。
 ただの獣と思うには、明らかに異質な存在。
 狼の姿をした獣が闇を纏っているのではなく、闇が狼の姿をとっているかのような夜の闇そのものの顕現。

 夜闇の狼は佇み、足を止めたままそこにいる。
 呼吸している証であるかのように、黒一色だけではない、青みを帯びた光沢の艶やかさが、獣の喉もとを覆う毛並みの白色を一際美しく際立たせる。

「貴方は、誰?」

 フィンが問いかけた。
 凛とした澄んだ声の響きが紡ぐ、抑揚を欠いた言葉。
 そのアンバランスさの中で、薄い藍色の瞳が宿しているであろう感情の色合いをトゥリアは思う。

 背中しか見る事の出来ないフィンとは違い、トゥリアはフィンの問いに、すぅっと細められる、獣の双眸の動きを見ていた。
 鋭く見詰めて来る瞳の色合いは深いだけではなく、どんな生き物よりも長い年月を生き、老熟した知性の深遠を宿しているかのような深みがある。

ー・・・・・・ー

 唸り声すらも上げる事のない獣の様子に、柄へと触れる手の感覚だけがトゥリアの意識を繋ぎ止めていた。そんな状態で警戒すると言う考えを持つ事すらも愚かしいと思いながら、それでもトゥリアは剣の柄を握る手にひたすら力を篭めていた。

 フィンと獣とを隔てる距離は三メートルと言ったところか、そこから更にトゥリアは二メートル程後方にいるが、不思議な事に、木々の枝や茂みの状態等、遮るもののない位置取りが形成され、互いが互いの状態をつぶさに確認出来る状態となっていた。

 獣はトゥリアの存在を一瞥すらもする事なくフィンを見詰め、トゥリアはそんな獣の一挙一動を凝視し続ける。

 この佇む夜闇の狼をトゥリアは知っていると思った。
 鋭くも太い爪を生やした四肢は、しなやかさと強靭さを併せ持ち、狼タイプの魔獣の中では一般的なウルフハウンド達よりも二回り程も大きな体躯を支えている。そんな特徴の一致を確認するまでもない。
 知っているのではなく、気付いていたと言うべきなのだ。それは一度対峙し、トゥリアを崖下に突き落としたあの時の狼だったのだから。

「黒耀に、会いに来たの?」
ー・・・・・・ー

 フィンは話しかけるが、対峙する黒い狼からは見詰め返してくる以上の反応はなかった。

「もう、限界、なんだね?」
ー・・・・・・ー

 気にする事なくフィンによる問いは重ねられるが、身動きの一つも取られる事はないまま。


「もう、終わりたい?」
ー・・・・・・ヴゥー

 その一言に、狼の青い目が僅かに揺れる。そんな躊躇いの中で何かを見定めているかのような沈黙の後、咽の奥を低く振るわせる。その唸り声ともつかない小さな鳴き声が、僅かに開かれた狼の口から発せられるのをトゥリアは聞いた。
 弱々しい訳ではなく、寧ろ、重々しいとすらも感じさせるたったの一音による発声。
 トゥリアはその一言により告げられたものを感じ取り、そしてフィンもまた理解したのだろう。

 ー是ー

 と、フィンの問いに対する肯定の意味合いの意思を。

 そう、とフィンは黒い狼に向けて一つ頷いた。

没する地、森の賢者であり、眷属等の王たる貴方」

ーチリンー

 抑揚をつけられた、詩を吟じるかのようなフィンの声が綴る。
 そして、トゥリアは呼応するかのように鈴に似た音の澄んだ響きが、どこかで空気を振るわせるのを聞いたような気がした。

 両の手を軽く振り下ろす、そんなフィンの動きに、その両手にはいつの間にかそれぞれ一振りずつの短い剣が握られている。
 それは、あのコテージの裏手にあったお墓の墓標として置いてあったものだとトゥリアには見覚えがあった。

「黒耀はいないみたいだから、ごめんなさい。私で」
「フィン?」

 呼び掛けてみてもフィンがトゥリアを振り返る事はなく、フィンはただ狼と対峙するまま。


ー夜色の一欠片をこの身に纏うー


 囁くようなその一言に、ぞわりと肌が粟立つ程の空気の変化をトゥリアは感じ取っていた。
 カクリノラスとの邂逅の時にも似た、けれど根本的なところで異なる何か。
 その何かを追求する余裕はトゥリアにはなく、強ばらせた体に、目を見張り、ただ起きる全てを見て、感じていた。

 もとから風が吹いていた訳ではなかったが、空気すらも凪ぎ鎮められるかのように、トゥリアの敏感さを増したような肌は、完全なる停滞を余儀なくされる世界の在り方を感じ取っていた。
 それ程の変化であり変質。

 そして、詠まれ、唱えられる歌があった。

ー 此処に今 終滅を呼ぶうたの欠片を口ずさむ ー
ー 潰えし焔への祈りは絶えて久しく 声なき悲憤に哭く約定への想いに貴方を望む ー
ー この唄が貴方へと届くのならーーー深淵なる焔帝クトゥグァー 私は貴方をこいねが・・・・・・ ー

 耳鳴りがしそうな程の静謐。克明に、ただ粛々とフィンの声は綴り、うたが結ばれようとする。


「だめだよ」

 その一言は、声を発した自分でも驚く程、抑揚を欠いた平淡な声音をしていた。

 トゥリア自身が確かに発し、けれど、他の誰かがトゥリアの口を借りて言わせたのではないかとすら思わせる冷たい声音。
 そして、今、トゥリアは発した言葉とともに双剣を握るフィンの腕を掴み、フィンの綴る言葉を止めたのだった。

「・・・・・・」
「あれは、あの子は“夜”だから、だから僕が戦うよ」

 その言葉に、フィンがようやくトゥリアを振り返るが、トゥリアはフィンと目をあわせる事なく、握った手を背後へ退かせるとともに自分が前へと進み出た。

 そうすると、先程までのトゥリアと逆の状態で、トゥリアが振り返らない限り、もうフィンからトゥリアの表情を窺う事が出来なくなる。
 その事に、少しだけ感じている安堵を自覚しながら、トゥリアは柔らかな、何でもない口調を意識して言葉を続けて行く。

「昨日、少しだけしたよね、世界を滅ぼしかけた黒き獣の話しを」
「白の王様が倒した?」

 ぽつりと、呟くようなフィンの反応に、背後にあるその表情はどうなっているだろうかと、トゥリアは振り返る事なく想像だけし、きっと何も変わらないのだろうなと考えたところで微かに口もとだけで笑う。
 意味が分からない筈のトゥリアの行動と、脈絡のない会話。自覚していながらも、トゥリアはそのまま一方的な言葉を続けて行った。

「獣はさ、光を呑み込んでしまうぐらいの濃い黒色をしていて、それから、その闇そのものみたいな躯の色合いの中で、眸の深い青色を瞬かせていたんだ」

 それは今、トゥリアが対峙しているこの狼と同じ色合いだった。

「世界を滅ぼしかけた獣は白の王に倒されて、でも、それで終わりにはならなかった」

 全てが円満に解決してめでたしめでたしでは終わらない。
 今なお白の王は、持てる力の大半を用いて世界を守り続けているのだから。
 それは人々の尊崇と畏敬の念を集める為の象徴的な意味合い等ではなく、もっとずっと直接的な事実でしかないとトゥリアは知っていた。

「獣はさ、倒されるその時に、世界を呪ったんだ。妬んで、羨んで、欲して、取り戻せないものにただ絶望してしまったから」

 獣が何を望んで、何をしたのかなど、本当のところは獣自身にしか分からない。けれど、事実、倒された筈の獣は今なお呪いとも言うべき影響を世界へと及ぼし、白の王はその影響から世界を守り続けているのだ。

「黒き獣の躯はくだけて世界中に飛び散った。そして、そのカケラですらも、世界を侵し、蝕む力があったんだ」
「獣の欠片・・・」
「うん。白の王の力で、だいぶ影響力は落ちているらしいんだけど、カケラのある土地は色々なものがおかしくなる。そして、そのカケラを生き物が取り込んでしまえば、カケラはその生き物を侵食する」

 トゥリアは、目の前にいる狼を見ていた。夜の闇の如き毛並みの色合い。そして、深く青い双眸でトゥリアを見ているその狼を。

「カケラどうしで戦いとは呼べないような食らいあいをして、取り込み、取り込まれてを繰り返して、たぶんいつか獣はかつての力を取り戻して復活をするんだと思う。・・・そうして今度こそ世界を滅ぼすのかもね」

 その時どうなるのかトゥリアには分からない。だから最後の言葉は呟くような声音で告げた。
 
 伝聞調で、何処までも他人事。物語の内容を語るとなると、そうなるものだと思うが、それでもこの辺りまでがトゥリアの話す事が出来る限界だった。
 曖昧過ぎて、結局ところ何が言いたいのかと言われるだけの、ただそれだけの話し。

 けれどトゥリアは話した。

「要約すると、」
「、うん」

 抑揚を欠いたまま、殊更ゆっくりな感じすら受ける言葉を発したフィンの声音に、トゥリアは知らず知らずの内に力の入っていた自分の体の状態に気付き、僅かに遅れた反応を返してしまう。

「戦いたいから、私は引っ込んでろってこと」
「・・・ひっこん、え?」
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