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第二章 オフセット印刷VS異種族
第11話 極楽と苦楽
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金髪美少女の案内で到着した公衆浴場は、既に閉店していた。
「がーん」
期待が大きかっただけに、喪失感にぐったりと肩を落とす。
が、その絢理の様子を見て女は苦笑して肩を叩いた。
「ごめん言ってなかったわね。大丈夫よ、開けてもらうから」
「は? そんなことが?」
「もちろん」
そう言って、彼女は慣れた様子で入り口の扉を潜っていった。絢理も慌ててついていく。
番台に腰かけた中年の女性が、じろりと視線を向けてくる。
「悪いが今日はもう閉店――ああ何だ、姫様かい」
「その姫様って呼び方やめてちょうだい。ただでさえ肩が凝るんだから」
「はいはい」
恰幅の良い番台女性とは旧知の仲のようだ。一瞬だけ向けられた迷惑そうな表情も、ころりと気心の知れた相手へ向けられる、優しい笑みへと転じていた。
番台が、後についてきた絢理へと視線を転じる。
「おや珍しい。今日は連れがいるのかい」
「ええ、そこで出会ったの」
「大丈夫なのかい? あんた、領民との混浴を嫌がってたじゃないか」
「嫌がって――っていうのは語弊があるわ。お互いに気を遣いたくないだけ」
「そのチビッ子なら大丈夫だと?」
チビと言われて、絢理は内心で頬を膨らませた。だが、どうやら特別扱いを許容してくれるらしいので、いまはおとなしくしておく。
黙っている絢理の代わりに、金髪美少女がそれを窘めた。
「あのねバンバ、そうやって外見を馬鹿にしたような言い方は良くないわよ」
「へえへえ」
説教に辟易して肩をすくめる女性――バンバ。お互いに剣呑な様子はなく、これがいつも通りのやりとりなのだろう。
「この子なら大丈夫よ、私のこと知らないみたいだし」
「はあ?」
バンバが丸くした目を、まじまじと絢理に向けてくる。身体が大きいため、その迫力はかなり怖い。
「お嬢ちゃん、旅の人か何かかい?」
「ええまあ。それはそれは遠いところから」
空間と位相を隔てた異世界から、とは流石に言えなかった。
「そうかい、このお方はね――」
「ちょっとやめてよバンバ! せっかく気を張らなくていい相手なんだから」
腰に手を当てて口を尖らせると、バンバはこめかみのあたりを引っ掻きながら、あっさりと引き下がった。
「まあそうか。貴重な存在だし、もったいないってもんさね」
◆
「っはあぁ~。極楽……」
一度死んだ身としては冗談で済ませられない単語だった。
が、心の底から自然と漏れた言葉なのだから仕方がない。
絢理は汗と土と埃にまみれた身体を洗い流して湯に浸かった。三十人はゆとりをもって入浴できるであろう広さを貸し切りである。
まさかこんな贅沢な体験ができるとは思いもしなかった。
「私もお邪魔するわね」
そう言って、ここに連れて来てくれた女神(絢理的ランキングで一気に昇格した)が湯気の向こうから現れる。
タオルで前を隠してはいるが、同性の絢理から見ても見惚れる体型であることは隠せていない。決して各パーツは豊満ではないが、スレンダーなため相対的に抜群のスタイルに仕上がっている。
しかも華奢な印象はなく、鍛えられた肉体は程よく締まっていた。
そのうえ上品な所作で湯に浸かるとあっては、思わず、
「不公平ってあるもんですねー」
と呟いていた。
対する絢理はと言えば、身長は低く華奢で、胸も尻も主張は控えめだ。
自身、あまりそういうことに拘泥する性格ではないが、こうも一対一で差を見せつけられると、流石に思うところはある。
「何言ってるのよ。貴女なんてこれからじゃない」
「あはははは……」
渇いた笑いで応えるしかない。23歳だが果たしてこれからだろうか。
いや、きっとそうだ。
諦めるには若過ぎる。
いや別に張り合おうとか考えてはいないが。
「はー……気持ちいい……」
「ですねー……」
疲れが湯に溶けていくようだ。貸し切りなのをいいことに、お互いに足を伸ばして首までたっぷりと湯に浸かる。全身が弛緩していく。ぼんやりと天井を見上げる。
「そういえばお姉さん、貴族か何かなのですか?」
「つまんなこと聞かないの」
「まあ、ですねー……」
失言だった。野暮というものだ。
絢理はそれ以上、彼女の正体について詮索はしなかった。
いまは風呂に身を委ねる。それでいいじゃないか。
温まった身体。お湯の中の浮遊感。段々と眠くなってくる。そういえば、こんなに心穏やかな時間を過ごしたのはいつ以来だろうか。
いついかなる時も、頭にこびりついていたのは納期だった。
休まる瞬間はなく、常に気を張り詰めながら仕事に明け暮れていた。
いつもいつも、短い納期と罵声の連続だった。
「テメエ! まだ刷了してねえってのはどういうことだ!」
「いやそれ私のせいですか? 立ち合いに来たクライアントがいつまでもGO出さないのが悪いんですよ」
「口答えしてんじゃねえ!」
頭にガツンと拳骨が飛んでくる。脳が揺れるのを感じながら、絢理は痛む頭を押さえる。
激怒する副工場長に何を言っても無駄なことは分かっていたが、反駁したくもなる。
今日は午前中にクライアントが印刷の立ち合いに訪れていた。
立ち合いとは、クライアントに直接工場に来てもらい、量産前に試し刷りしたものを確認してもらう工程だ。
内容については校了――つまりOKを貰っているから、主に見るのは色である。
このクライアント、色に厳しいことで知られていた。別室で営業担当と共に待機しているクライアントのもとへ刷り出しを持っていく。当然、OKは貰えない。神妙な顔つきで色を見て、出てきた指示は「肌つやを良くして、でも製品色の青みも強く」だった。
「いや無理ですって。マゼンタとイエローの調整で肌つやを良くすることはできますが、同時に製品色までいじったら、肌の色にも干渉してしまいます」
「……無理?」
腕組みするクライアントが、営業担当へ意味ありげに目を向ける。営業担当は慌てて言い繕った。
「いえいえ! 確かに難しい調整ではありますが、無理なんてことは!」
クライアントの肩を持つ彼に絢理はじろりと睨みを利かせるが、彼もまたアイコンタクトで絢理に必死に訴えかけてくる。
読唇術も読心術も心得ていないが、何を言いたいのかは歴然だ――何とかしてくれ。
絢理はクライアントに見えないように嘆息。
「分かりました。しかし印刷機の色調整では何ともならないのも事実です。一度製版に戻って刷版の焼き直しをしてくるので、一時間ほどお時間いただきます」
「一時間? そんなにかかるの?」
テメーの指示だろうがと反射的に口を滑らせようとする絢理に先んじて、
「ではちょうど良いので先にお昼にしましょう。せっかく板橋まで来たんですから、どうです美味いラーメンの店知ってるんです、そこ行きましょう」
担当営業が話をまとめる。
クライアントと連れ立って外に出ていく際、小さく振り返って絢理に対してグッと親指を立てていたが逆に腹立たしい。
その後、刷版を焼き直して持って行ったがそれでも指示は減らず、何度も修正を重ねた。
時間も大きくオーバーしてしまい、結局一番最初に出したものでOKのサインが入った時には、何だかもう文句を言う気にもなれなかった。
挙句、午後の予定が押したことを責められる始末だ。
「貴方だったらどうにか出来たんですか……」
そう問う先は、副工場長ではない。
かつて快走印刷株式会社板橋工場をまとめ上げていた工場長へ向けたものだ。
職人肌で頑固一徹の工場長ではあったが、少なくとも理不尽ではなかったし、全ての責任を背負ってくれていた。
しかし彼の姿はない。体調を崩し、現在療養中である。
だから彼が戻ってくるまでは、どんな理不尽な目に遭っても、私が帰る場所を守る――しかし小さな胸に立てたその誓いは、果たすことができなかった。
私は異世界に転生してしまったのだから。
もう、私は――
「あら、気が付いたわね」
「……金髪碧眼美少女とか、反則かよ」
こちらを覗き込んでくる美少女に、譫言のように呟く。
「憎まれ口叩けるなら大丈夫ね。お水持ってくるわ」
<続>
「がーん」
期待が大きかっただけに、喪失感にぐったりと肩を落とす。
が、その絢理の様子を見て女は苦笑して肩を叩いた。
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「はいはい」
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「ええ、そこで出会ったの」
「大丈夫なのかい? あんた、領民との混浴を嫌がってたじゃないか」
「嫌がって――っていうのは語弊があるわ。お互いに気を遣いたくないだけ」
「そのチビッ子なら大丈夫だと?」
チビと言われて、絢理は内心で頬を膨らませた。だが、どうやら特別扱いを許容してくれるらしいので、いまはおとなしくしておく。
黙っている絢理の代わりに、金髪美少女がそれを窘めた。
「あのねバンバ、そうやって外見を馬鹿にしたような言い方は良くないわよ」
「へえへえ」
説教に辟易して肩をすくめる女性――バンバ。お互いに剣呑な様子はなく、これがいつも通りのやりとりなのだろう。
「この子なら大丈夫よ、私のこと知らないみたいだし」
「はあ?」
バンバが丸くした目を、まじまじと絢理に向けてくる。身体が大きいため、その迫力はかなり怖い。
「お嬢ちゃん、旅の人か何かかい?」
「ええまあ。それはそれは遠いところから」
空間と位相を隔てた異世界から、とは流石に言えなかった。
「そうかい、このお方はね――」
「ちょっとやめてよバンバ! せっかく気を張らなくていい相手なんだから」
腰に手を当てて口を尖らせると、バンバはこめかみのあたりを引っ掻きながら、あっさりと引き下がった。
「まあそうか。貴重な存在だし、もったいないってもんさね」
◆
「っはあぁ~。極楽……」
一度死んだ身としては冗談で済ませられない単語だった。
が、心の底から自然と漏れた言葉なのだから仕方がない。
絢理は汗と土と埃にまみれた身体を洗い流して湯に浸かった。三十人はゆとりをもって入浴できるであろう広さを貸し切りである。
まさかこんな贅沢な体験ができるとは思いもしなかった。
「私もお邪魔するわね」
そう言って、ここに連れて来てくれた女神(絢理的ランキングで一気に昇格した)が湯気の向こうから現れる。
タオルで前を隠してはいるが、同性の絢理から見ても見惚れる体型であることは隠せていない。決して各パーツは豊満ではないが、スレンダーなため相対的に抜群のスタイルに仕上がっている。
しかも華奢な印象はなく、鍛えられた肉体は程よく締まっていた。
そのうえ上品な所作で湯に浸かるとあっては、思わず、
「不公平ってあるもんですねー」
と呟いていた。
対する絢理はと言えば、身長は低く華奢で、胸も尻も主張は控えめだ。
自身、あまりそういうことに拘泥する性格ではないが、こうも一対一で差を見せつけられると、流石に思うところはある。
「何言ってるのよ。貴女なんてこれからじゃない」
「あはははは……」
渇いた笑いで応えるしかない。23歳だが果たしてこれからだろうか。
いや、きっとそうだ。
諦めるには若過ぎる。
いや別に張り合おうとか考えてはいないが。
「はー……気持ちいい……」
「ですねー……」
疲れが湯に溶けていくようだ。貸し切りなのをいいことに、お互いに足を伸ばして首までたっぷりと湯に浸かる。全身が弛緩していく。ぼんやりと天井を見上げる。
「そういえばお姉さん、貴族か何かなのですか?」
「つまんなこと聞かないの」
「まあ、ですねー……」
失言だった。野暮というものだ。
絢理はそれ以上、彼女の正体について詮索はしなかった。
いまは風呂に身を委ねる。それでいいじゃないか。
温まった身体。お湯の中の浮遊感。段々と眠くなってくる。そういえば、こんなに心穏やかな時間を過ごしたのはいつ以来だろうか。
いついかなる時も、頭にこびりついていたのは納期だった。
休まる瞬間はなく、常に気を張り詰めながら仕事に明け暮れていた。
いつもいつも、短い納期と罵声の連続だった。
「テメエ! まだ刷了してねえってのはどういうことだ!」
「いやそれ私のせいですか? 立ち合いに来たクライアントがいつまでもGO出さないのが悪いんですよ」
「口答えしてんじゃねえ!」
頭にガツンと拳骨が飛んでくる。脳が揺れるのを感じながら、絢理は痛む頭を押さえる。
激怒する副工場長に何を言っても無駄なことは分かっていたが、反駁したくもなる。
今日は午前中にクライアントが印刷の立ち合いに訪れていた。
立ち合いとは、クライアントに直接工場に来てもらい、量産前に試し刷りしたものを確認してもらう工程だ。
内容については校了――つまりOKを貰っているから、主に見るのは色である。
このクライアント、色に厳しいことで知られていた。別室で営業担当と共に待機しているクライアントのもとへ刷り出しを持っていく。当然、OKは貰えない。神妙な顔つきで色を見て、出てきた指示は「肌つやを良くして、でも製品色の青みも強く」だった。
「いや無理ですって。マゼンタとイエローの調整で肌つやを良くすることはできますが、同時に製品色までいじったら、肌の色にも干渉してしまいます」
「……無理?」
腕組みするクライアントが、営業担当へ意味ありげに目を向ける。営業担当は慌てて言い繕った。
「いえいえ! 確かに難しい調整ではありますが、無理なんてことは!」
クライアントの肩を持つ彼に絢理はじろりと睨みを利かせるが、彼もまたアイコンタクトで絢理に必死に訴えかけてくる。
読唇術も読心術も心得ていないが、何を言いたいのかは歴然だ――何とかしてくれ。
絢理はクライアントに見えないように嘆息。
「分かりました。しかし印刷機の色調整では何ともならないのも事実です。一度製版に戻って刷版の焼き直しをしてくるので、一時間ほどお時間いただきます」
「一時間? そんなにかかるの?」
テメーの指示だろうがと反射的に口を滑らせようとする絢理に先んじて、
「ではちょうど良いので先にお昼にしましょう。せっかく板橋まで来たんですから、どうです美味いラーメンの店知ってるんです、そこ行きましょう」
担当営業が話をまとめる。
クライアントと連れ立って外に出ていく際、小さく振り返って絢理に対してグッと親指を立てていたが逆に腹立たしい。
その後、刷版を焼き直して持って行ったがそれでも指示は減らず、何度も修正を重ねた。
時間も大きくオーバーしてしまい、結局一番最初に出したものでOKのサインが入った時には、何だかもう文句を言う気にもなれなかった。
挙句、午後の予定が押したことを責められる始末だ。
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そう問う先は、副工場長ではない。
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職人肌で頑固一徹の工場長ではあったが、少なくとも理不尽ではなかったし、全ての責任を背負ってくれていた。
しかし彼の姿はない。体調を崩し、現在療養中である。
だから彼が戻ってくるまでは、どんな理不尽な目に遭っても、私が帰る場所を守る――しかし小さな胸に立てたその誓いは、果たすことができなかった。
私は異世界に転生してしまったのだから。
もう、私は――
「あら、気が付いたわね」
「……金髪碧眼美少女とか、反則かよ」
こちらを覗き込んでくる美少女に、譫言のように呟く。
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<続>
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