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第2巻
第5話 高橋の妻
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翌週、高橋の妻が来た。
「夫が来ているバーだと聞いて」
四十代。穏やかな目。でも、少し疲れている。
「高橋さんの奥様ですか」
「はい。夫が何を話しているのか心配で、ではなくて……私も来てみたかった」
「ようこそ」
渇望を見た。
——自分のことを誰かに話したい。夫のことではなく、自分自身の。
「なんでも作れますよ」
「では……何か、女性が好きそうなものを」
「紫蘇と桃のカクテルはどうですか。爽やかで、でも少し和の感じがある」
「それ、いただきます」
グラスを出すと、妻——後に清子という——は受け取って、一口飲んで「おいしい」と言った。
「夫は、来て落ち着いていますか」
「落ち着いているように見えます」
「そうですか。……よかった」
しばらく飲んでいた。
「私、実は、夫の退職後の方が大変で」
「そうですか」
「二十年、一人で子育てしてたんです。夫が基本いない生活で。子供が育って、次は夫の世話をするのかと思ったら、なんか、疲れてしまって」
「疲れますね、それは」
「でも夫が大変なのは分かってる。だからこそ、自分が疲れていることを言えなくて」
「言えていないんですか、今も」
「……言ったんです、先週。言えないままでいたら、もっとしんどくなると思って」
「そしたら?」
清子は少し目を伏せた。
「夫が泣いたんです。しゃくり上げて、泣いた。四十代の男が。初めて見た」
「……」
「なんか、私が泣くより辛かった」
「旦那さんも、気づいていたのかもしれないですね。でも言えなかった」
「そうだと思います。お互い言えなくて、二十年」
「でも言えた」
「言えた」
清子はグラスを持ち上げた。
「だから今夜、来てみた。夫が来ている場所に。ちょっと確かめたくて」
「何を」
「どんな場所に、夫が心地よさを感じているのかを」
「わかりましたか」
清子は少し笑った。
「わかりました。静かで、出口が見えて、余計なことを聞かれない場所」
「そうですね」
「あなたのことも、少し分かった気がします」
「何が」
「余計なことを言わない人だ、ということ」
「職業柄です」
清子は「いい場所ですね」と言って、グラスを飲み干した。
「また来ます。今度は夫と一緒に」
「お待ちしています」
「夫が来ているバーだと聞いて」
四十代。穏やかな目。でも、少し疲れている。
「高橋さんの奥様ですか」
「はい。夫が何を話しているのか心配で、ではなくて……私も来てみたかった」
「ようこそ」
渇望を見た。
——自分のことを誰かに話したい。夫のことではなく、自分自身の。
「なんでも作れますよ」
「では……何か、女性が好きそうなものを」
「紫蘇と桃のカクテルはどうですか。爽やかで、でも少し和の感じがある」
「それ、いただきます」
グラスを出すと、妻——後に清子という——は受け取って、一口飲んで「おいしい」と言った。
「夫は、来て落ち着いていますか」
「落ち着いているように見えます」
「そうですか。……よかった」
しばらく飲んでいた。
「私、実は、夫の退職後の方が大変で」
「そうですか」
「二十年、一人で子育てしてたんです。夫が基本いない生活で。子供が育って、次は夫の世話をするのかと思ったら、なんか、疲れてしまって」
「疲れますね、それは」
「でも夫が大変なのは分かってる。だからこそ、自分が疲れていることを言えなくて」
「言えていないんですか、今も」
「……言ったんです、先週。言えないままでいたら、もっとしんどくなると思って」
「そしたら?」
清子は少し目を伏せた。
「夫が泣いたんです。しゃくり上げて、泣いた。四十代の男が。初めて見た」
「……」
「なんか、私が泣くより辛かった」
「旦那さんも、気づいていたのかもしれないですね。でも言えなかった」
「そうだと思います。お互い言えなくて、二十年」
「でも言えた」
「言えた」
清子はグラスを持ち上げた。
「だから今夜、来てみた。夫が来ている場所に。ちょっと確かめたくて」
「何を」
「どんな場所に、夫が心地よさを感じているのかを」
「わかりましたか」
清子は少し笑った。
「わかりました。静かで、出口が見えて、余計なことを聞かれない場所」
「そうですね」
「あなたのことも、少し分かった気がします」
「何が」
「余計なことを言わない人だ、ということ」
「職業柄です」
清子は「いい場所ですね」と言って、グラスを飲み干した。
「また来ます。今度は夫と一緒に」
「お待ちしています」
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