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第2巻
第16話 引っ越しの夜
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一月の末。
若い男が来た。
段ボールが手に染みたような手をしていた。引っ越しの日の手だ。
「開いてますか」
「はい」
「引っ越してきたばかりで。近くに越してきたんで、どんなバーか来てみた」
「ようこそ、この街へ」
「あ、そういうの嬉しいですね」
男——後に大野という——はカウンターに座った。
二十代後半。明るい顔。でも、少し緊張している。
渇望を見た。
——不安。新しい場所への不安。
「引っ越しは大変でしたか」
「いやもう、めちゃくちゃで。荷物多くて、段ボール運び終わったのが夜九時で」
「お疲れ様でした」
「でも、新しい部屋、好きです。広くて、日当たりが良くて」
「どこから越してきたんですか」
「仙台から。就職で。東京は初めてで」
「そうですか。初めての東京」
「なんか、人が多すぎて怖い。仙台もそれなりに都会だけど、規模が違う」
ルーカスは少し笑った。
「私も最初、この街は人が多すぎると思いました」
「ルーカスさんはどこから?」
「遠い外国から」
「そっか、外国に比べたらどうですか」
「外国から来た私には、比較できないですが……慣れると、人の多さが心地よくなります。いつでも誰かがいる、という感じが」
「そういうもんですか」
「半年経つと、街に馴染んでいる自分がいるはずです」
大野は少し安心した顔をした。
「そう聞くと、少し楽になる」
「本当のことです」
「何を飲めばいいですかね。初日だから、なんか特別なものを飲みたい」
「新しい始まりの夜に飲むものを作ります」
柑橘の香りが強いジンのカクテルを作った。爽やかで、少し力強い。
「これは?」
「新しい場所に踏み出す夜に、柑橘の香りは背中を押してくれる気がします」
「根拠は?」
「私の経験則と、故郷の言い伝えを混ぜたものです」
「信じていいんですか」
「信じてみてください」
大野は一口飲んだ。
「……おいしい。たしかに、なんか前向きになれる感じ」
「よかった」
「東京、好きになれますかね」
「なれると思います。ただ——時間がかかる」
「どのくらい」
「私は、一年以上かかっています。まだ進行中ですが」
「そっか。一年以上か」
「急がなくていいですよ」
大野はグラスを傾けた。
「ここ、また来ます」
「ご近所なんですね」
「なんか、ここが好きになりそうな気がした」
「それは嬉しい」
大野が帰った後、ルーカスは思った。
新しい街に来た不安。
自分も知っている。
最初の夜、この街に降り立って、何も分からなかった夜のことを。
でも今は、ここがある。
あの夜の自分に、「半年経てば慣れる」と言える。
それが、二年でできた変化だ。
若い男が来た。
段ボールが手に染みたような手をしていた。引っ越しの日の手だ。
「開いてますか」
「はい」
「引っ越してきたばかりで。近くに越してきたんで、どんなバーか来てみた」
「ようこそ、この街へ」
「あ、そういうの嬉しいですね」
男——後に大野という——はカウンターに座った。
二十代後半。明るい顔。でも、少し緊張している。
渇望を見た。
——不安。新しい場所への不安。
「引っ越しは大変でしたか」
「いやもう、めちゃくちゃで。荷物多くて、段ボール運び終わったのが夜九時で」
「お疲れ様でした」
「でも、新しい部屋、好きです。広くて、日当たりが良くて」
「どこから越してきたんですか」
「仙台から。就職で。東京は初めてで」
「そうですか。初めての東京」
「なんか、人が多すぎて怖い。仙台もそれなりに都会だけど、規模が違う」
ルーカスは少し笑った。
「私も最初、この街は人が多すぎると思いました」
「ルーカスさんはどこから?」
「遠い外国から」
「そっか、外国に比べたらどうですか」
「外国から来た私には、比較できないですが……慣れると、人の多さが心地よくなります。いつでも誰かがいる、という感じが」
「そういうもんですか」
「半年経つと、街に馴染んでいる自分がいるはずです」
大野は少し安心した顔をした。
「そう聞くと、少し楽になる」
「本当のことです」
「何を飲めばいいですかね。初日だから、なんか特別なものを飲みたい」
「新しい始まりの夜に飲むものを作ります」
柑橘の香りが強いジンのカクテルを作った。爽やかで、少し力強い。
「これは?」
「新しい場所に踏み出す夜に、柑橘の香りは背中を押してくれる気がします」
「根拠は?」
「私の経験則と、故郷の言い伝えを混ぜたものです」
「信じていいんですか」
「信じてみてください」
大野は一口飲んだ。
「……おいしい。たしかに、なんか前向きになれる感じ」
「よかった」
「東京、好きになれますかね」
「なれると思います。ただ——時間がかかる」
「どのくらい」
「私は、一年以上かかっています。まだ進行中ですが」
「そっか。一年以上か」
「急がなくていいですよ」
大野はグラスを傾けた。
「ここ、また来ます」
「ご近所なんですね」
「なんか、ここが好きになりそうな気がした」
「それは嬉しい」
大野が帰った後、ルーカスは思った。
新しい街に来た不安。
自分も知っている。
最初の夜、この街に降り立って、何も分からなかった夜のことを。
でも今は、ここがある。
あの夜の自分に、「半年経てば慣れる」と言える。
それが、二年でできた変化だ。
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