『異界酒場 ルーナ』

みぎみみ

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第3巻

第3話 辞表を書いた夜

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十一月。

「辞表を書いてきたんです」

カウンターに座るなり、女性がそう言った。

三十代前半。コートにまだ外の冷たさが残っている。頬が少し赤い。寒さか、興奮か、どちらかか両方か。

「今夜、ですか」

「さっき。メモ帳に下書きして、会社のパソコンで清書して、保存した。まだ出していないけど」

「出す前に来た?」

「出す前に、誰かに言いたくて。でも友達に言うと止められそうで。親に言うと心配されそうで」

「ここならいいと思ったんですか」

「ここなら……ただ聞いてくれると思って」

渇望を見た。

——肯定してほしい。でも、引き止めてもほしい。

矛盾している。でも、よくあることだ。

「何を飲みますか」

「辞表を書いた夜に合うもの」

ルーカスは少し考えた。

マンハッタンを作ることにした。バーボンとスイートベルモット、アンゴスチュラビターズ。チェリーを一つ。

「これは?」

「決断した夜に飲むカクテルです。強くて、でも少し甘みがある。マンハッタンといいます」

「マンハッタン……大きな名前ですね」

「大きな決断の夜には、大きな名前のカクテルが合う気がして」

女性——後に立花と分かる——はグラスを受け取って、一口飲んだ。

「……強い。でも、おいしい」

「ありがとうございます」

「なんで辞めるのか、聞きますか」

「聞きたいですが、言いたくなければ言わなくていいですよ」

「言います。聞いてほしい」

立花はグラスを両手で持ちながら話した。

七年勤めた会社。営業職。成績は悪くない。でも、五年目あたりから、何かがずれてきた感覚があった。

仕事は好きだった。でも、この会社でやる仕事が好きだったのか、仕事そのものが好きだったのかが分からなくなってきた。

「違いが分かってきたんですね」とルーカスは言った。

「そうなんです。場所と、仕事の中身と、人間関係と、全部混ざってたものが、最近少しずつ分離してきて」

「分離できるのは、成熟した証拠だと思います」

「成熟って、辞めることとつながるんですか」

「必ずしもそうではないですけど。場所と内容を分けて考えられるようになると、選択肢が増えますよね」

立花はグラスを傾けた。

「……出した方がいいですかね、辞表」

「私には判断できないですが」

「でも、何か思うことはありますか」

ルーカスは少し間を置いた。

「書いて、保存した、という話を聞いて——すでに決まっている気がしました」

「どういう意味ですか」

「まだ迷っている人は、下書きまでで止まる場合が多い。清書して保存した、ということは、心は決まっている」

立花はグラスを置いた。

「……そうかもしれない」

「あとは、タイミングを測っているだけじゃないですか」

「怖いですよ、やっぱり」

「怖いのは当然です。でも怖さと、答えは別のものだと思います」

二杯目を飲み終える頃に、立花は「ありがとうございます」と言った。

「私、何も言っていないですよ」

「聞いてくれました」

「それはしました」

「十分です」

立花は帰り際に振り返った。

「辞表、来週出します」

「うまくいくといいですね」

「うまくいかなくても、来ます。報告しに」

「お待ちしています」

ドアが閉まった後、ルーカスはマンハッタンのグラスを洗いながら思った。

決断は、いつも怖い。

自分がこの世界に来たことも、決断ではなかった。でも、ここに店を開いたことは決断だった。

怖かった。

でも今は、良かったと思っている。

——答えは、たいてい後になってから分かる。
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