『異界酒場 ルーナ』

みぎみみ

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第3巻

第5話 老いた探偵

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深夜一時。

七十代の男が来た。

杖なし。背筋が真っ直ぐ。でも、手が少し震えていた。

「探偵をやっていました。昨日まで」

席に座りながらいきなり言った。

「昨日で辞めたんですか」

「正確には、廃業した。事務所を畳んだ」

「長く続けられたんですか」

「三十八年」

ルーカスは少し息を飲んだ。

「三十八年は、長い」

「長い。長すぎたかもしれない」

男——坂本という——は棚のボトルをひとわたり見て、「ブランデーを」と言った。

「何年ものが好きですか」

「一番古いやつを」

一番奥から取り出したのは、二十年もののアルマニャック。

渇望を見た。

——終わりたい。仕事の話をして、終わりにしたい。

「お疲れ様でした」

「まだ疲れていない。だが、止まる時間だと思った」

「なぜ今日でしたか」

「最後の依頼が終わったから。浮気調査だ。三十八年で最後も浮気調査か、と思ったが、それが仕事というものだ」

「感慨はありましたか」

「少しあった。だが感慨よりも、腹が減ったのが先だった」

ルーカスは少し笑った。坂本も、口の端が上がった。

「探偵という仕事で、一番難しかったことは何ですか」

「見てはいけないものを見ること、ではなくて——見たことを忘れることだ」

「忘れなければいけないんですか」

「依頼人に報告したあと、こちらが覚えていても仕方がない。だが、忘れられないものは忘れられない。三十八年分の、忘れられないものがある」

「それは辛い」

「慣れた。だが、重い」

ブランデーを一口飲んで、坂本は目を閉じた。

「……いい香りだ。こういうものは、年を取ってからの方がわかる」

「そうだと思います」

「若い頃は度数が高ければいいと思っていた。今は香りだ」

「熟成した分だけ、複雑になる」

「人間もそうかな」

「そうだと思います」

坂本はグラスを持ったまま、しばらく考えていた。

「ルーカスさんとあなたが言うが、あなたはどこの国の人だ」

「遠い国です」

「ヨーロッパか」

「そんな感じのところです」

「探偵の目で見ると、どうも本当のことを言っていない気がするが」

「鋭い」

「三十八年のおかげだ」

ルーカスは少し考えてから言った。

「この世界ではない場所から来ました」

坂本は眉一つ動かさなかった。

「そうか」

「驚きませんか」

「見てきたものが多すぎて、驚くものが減った。それに——なんとなく、そういう気はしていた」

「なぜですか」

「あなたの目だ。人の底を見る目をしている。三十八年の探偵でも、ここまでの目はない」

「力があるので」

「見える力か」

「人の渇望が見えます」

坂本はグラスを傾けた。

「……ならば、今の私の渇望も見えるか」

「終わりにしたい、と見えました。仕事の話をして、三十八年を幕引きにしたい」

「正確だ」

「そのために来た、でしょうか」

「そのために来た」

「では話してください。三十八年で一番、覚えているものを」

坂本はしばらく沈黙した。

それから、一つ話した。

二十年前の案件。失踪した息子を探してほしいという依頼。見つけた息子は、家族と連絡を断って、遠い土地で新しい名前で生きていた。幸せそうだった。それを依頼人の母親に報告した時、「知らなければよかった」と言われた。

「知らなければよかった、という言葉は、どう受け取りましたか」

「最初は傷ついた。だが後になって、それが正しい言葉だと分かった。知ることが、常に解決策とは限らない」

「だから、見たことを忘れることを学んだ」

「そうだ。それが三十八年の一番大きな学びだ」

ルーカスは頷いた。

「それは、私にも少し分かります」

「見える力を持ちながら、見たものを使わない選択をすることか」

「そうです」

「難しいだろう」

「難しいです。でも、見えるからといって、全部に応えることが正しいわけではない」

坂本は最後のひと口を飲んだ。

「……いい夜だった」

「三十八年の幕引きに、ふさわしかったですか」

「ふさわしかった」

坂本は立ち上がって、「また来るかもしれない。今度は仕事ではなく、ただの老人として」と言った。

「お待ちしています」

「老人の話し相手は、迷惑でないか」

「むしろ好きです。時間をかけて熟成した言葉が聞ける」

坂本は口の端を上げた。

「うまいことを言う」

「ブランデーに習いました」

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