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第3巻
第6話 記憶を失う前に
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十二月の初め。
六十代の女性が来た。一人で。
席に座る前に、少し迷う様子を見せた。
「初めてですが、入ってもいいですか」
「どうぞ」
「バーは……久しぶりで。夫が生きていた頃によく来ていたんですが」
「そうですか。ゆっくりしていってください」
渇望を見た。
——記録したい。記録してほしい。
「お飲み物は何にしますか」
「夫が好きだったもので。ジントニックです」
「わかりました」
ジントニックを作りながら、ルーカスは女性を見た。
落ち着いた雰囲気。でも、目が少し不安そうだ。具体的な不安ではなく、霧のような不安。
「夫を亡くされたのはいつですか」
「二年前です。それから一人で。子供たちは遠くに住んでいて」
「最近、何かありましたか」
女性——桐原という——はグラスを持って、少し間を置いた。
「……最近、物忘れが増えて。病院で検査をしたら、初期の認知症だと言われました」
「そうですか」
「まだ軽いので、普通に生活できています。でも、いずれ進む、と言われて」
「今日、その話を聞いたんですか」
「先週です。今週は、ずっと考えていました」
「何を考えましたか」
桐原はグラスを傾けた。
「……忘れる前に、何をしておくべきか。夫との思い出を、どこかに残しておきたい、と思って」
「記録するということですか」
「そうです。でも、何に記録すればいいのか。日記を書こうと思っても、書いたことを忘れてしまうかもしれないし」
ルーカスは少し考えた。
「記録するのは、自分のためですか。それとも、誰かに伝えるためですか」
「……両方」
「子供たちに、伝えたいですか」
「ええ。夫がどういう人だったか。二人でどんな時間を過ごしたか。子供たちは知っているようで、細かいことは知らないから」
「それは、今書けます」とルーカスは言った。
「今?」
「記憶がある今。書けるうちに書いておく。完璧なものでなくても」
「日記のような」
「手紙でもいい。夫への手紙か、子供たちへの手紙か。書くことで、記憶が少し固まることがある、と聞きます」
桐原はグラスを置いた。
「……書いたことがないんです、手紙を。メールは使いますが」
「手で書く方が、気持ちが乗ることが多いですよ。私が感じるところでは」
「書いてみようかな」
「書いてみてください」
桐原は二杯目のジントニックを飲みながら、夫の話をした。
三十五年一緒にいた人の話。口数が少なかったが、行動で示す人だった。病気の時に、無言で果物を剥いてくれた。誕生日には、毎年同じ店のケーキを買ってきた。最後の入院の時に、「長い間ありがとう」と言ったら、「まだ終わっていない」と言った。それが最後の会話だった。
「『まだ終わっていない』と言ったんですね」
「ええ。それが……今も、何かを言っている気がして」
「あなたのことを、まだ終わっていない、と言っているのかもしれない」
桐原は少し目が潤んだ。
「そうかもしれないですね」
「記憶が薄れても、それが薄れないといいですね」
「……そうです。それだけ覚えていれば、十分な気がします」
帰り際に桐原は「また来ます。書いた手紙を、いつか見せにきます」と言った。
「お待ちしています」
ルーカスはジントニックのグラスを洗いながら、「まだ終わっていない」という言葉を繰り返した。
夫の言葉か、ルーカス自身への言葉か——どちらにも聞こえた。
六十代の女性が来た。一人で。
席に座る前に、少し迷う様子を見せた。
「初めてですが、入ってもいいですか」
「どうぞ」
「バーは……久しぶりで。夫が生きていた頃によく来ていたんですが」
「そうですか。ゆっくりしていってください」
渇望を見た。
——記録したい。記録してほしい。
「お飲み物は何にしますか」
「夫が好きだったもので。ジントニックです」
「わかりました」
ジントニックを作りながら、ルーカスは女性を見た。
落ち着いた雰囲気。でも、目が少し不安そうだ。具体的な不安ではなく、霧のような不安。
「夫を亡くされたのはいつですか」
「二年前です。それから一人で。子供たちは遠くに住んでいて」
「最近、何かありましたか」
女性——桐原という——はグラスを持って、少し間を置いた。
「……最近、物忘れが増えて。病院で検査をしたら、初期の認知症だと言われました」
「そうですか」
「まだ軽いので、普通に生活できています。でも、いずれ進む、と言われて」
「今日、その話を聞いたんですか」
「先週です。今週は、ずっと考えていました」
「何を考えましたか」
桐原はグラスを傾けた。
「……忘れる前に、何をしておくべきか。夫との思い出を、どこかに残しておきたい、と思って」
「記録するということですか」
「そうです。でも、何に記録すればいいのか。日記を書こうと思っても、書いたことを忘れてしまうかもしれないし」
ルーカスは少し考えた。
「記録するのは、自分のためですか。それとも、誰かに伝えるためですか」
「……両方」
「子供たちに、伝えたいですか」
「ええ。夫がどういう人だったか。二人でどんな時間を過ごしたか。子供たちは知っているようで、細かいことは知らないから」
「それは、今書けます」とルーカスは言った。
「今?」
「記憶がある今。書けるうちに書いておく。完璧なものでなくても」
「日記のような」
「手紙でもいい。夫への手紙か、子供たちへの手紙か。書くことで、記憶が少し固まることがある、と聞きます」
桐原はグラスを置いた。
「……書いたことがないんです、手紙を。メールは使いますが」
「手で書く方が、気持ちが乗ることが多いですよ。私が感じるところでは」
「書いてみようかな」
「書いてみてください」
桐原は二杯目のジントニックを飲みながら、夫の話をした。
三十五年一緒にいた人の話。口数が少なかったが、行動で示す人だった。病気の時に、無言で果物を剥いてくれた。誕生日には、毎年同じ店のケーキを買ってきた。最後の入院の時に、「長い間ありがとう」と言ったら、「まだ終わっていない」と言った。それが最後の会話だった。
「『まだ終わっていない』と言ったんですね」
「ええ。それが……今も、何かを言っている気がして」
「あなたのことを、まだ終わっていない、と言っているのかもしれない」
桐原は少し目が潤んだ。
「そうかもしれないですね」
「記憶が薄れても、それが薄れないといいですね」
「……そうです。それだけ覚えていれば、十分な気がします」
帰り際に桐原は「また来ます。書いた手紙を、いつか見せにきます」と言った。
「お待ちしています」
ルーカスはジントニックのグラスを洗いながら、「まだ終わっていない」という言葉を繰り返した。
夫の言葉か、ルーカス自身への言葉か——どちらにも聞こえた。
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