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五話
しおりを挟む仕事が、手につかない。
「いらっしゃいませー」
カウンターから聴こえる黒井さんの声、滑舌が良く、耳当たりの良い発声だ。
しかしその声が私の意識を無性に乱し、仕事が止まる。
理由は簡単、仕事前に見た黒井さんの笑顔のせいである。
――いや、卑怯ではないだろうか?
普段険しい顔つきで、接客や作り笑いでしか笑顔を向けない黒井さんが、私に純粋な笑顔をくれたのだ、正直ドキりとした。
とはいえ、そんな些細な事で動揺していてはこの後の買い出しでまいってしまう、気を持ち直して仕事をしなくては!
「どうかされました?宮原さん?」
「っは!?はい!?いえ!何でもないですっ!大丈夫!大丈夫です!!」
――今日の夜勤はダメかもしれない。
結局、気持ちが落ち着かないまま仕事を終える。あろうことか凡ミスを黒井さんにフォローされるという、職場の先輩としてあるまじき行為は記憶から無かったことにしたい。
「……今日は、すみませんでした、ミスばかりしました…」
「え、いえ、気にしないでください、誰にでもこんな日はあります」
「うぅ、ありがとうございます…」
本来立場が逆な気がするが、今は気にしないようにしなければ、むしろこれからが本番なのだから。
「あー…黒井さん、買い物どうします?ごはん食べてからにします?」
「そうですね…、品物のリストを見る限り、近くの雑貨屋で用は済みますが、それだと適当な飲食店しか無いんですよね…」
「黒井さん食べたい物とかあります?」
「いえ、特には無いので宮原さんが食べたい物があれば合わせます」
確かに黒井さんは食にこだわりがなさそうである。
しかし、食に関心の無い人間というのは美味しい物を食べた経験が少ない傾向にある、それは小さい時から始まり、大人になっても美味しい物との巡りあわせに恵まれなかったためである、私がそうであったように。
「そしたら、わたしこの時間でもやっている美味しい定食屋さん知ってるんです、一駅先ですけど行きませんか?」
「いいですね、そこにしましょう」
黒井さんには美味しい物を食べさせてあげたい、素直にそう思った。
早番の方々にお疲れ様を言い、いつもと違う方向に歩みを進める、こんな事になるのであれば私服をもう少し凝ればよかった、と少しばかりラフすぎる格好に後悔する。
駅に着き改札を通ると、黒井さんが複雑な顔をしていた。
「?…どうかしました、黒井さん」
「いえ、こうして駅の改札を通るのは新鮮だなぁ、と…、普段仕事でしか電車を使わないので…」
少し照れるように話す姿は、きっと自分の些末な感情を恥じているのかもしれない、けれど私にはその些末かもしれない考えに共感してしまう。
「わかります!仕事が忙しくなると職場と部屋の往復になりますよね、こうして仕事終わりに出かけるとか、なかなか無いですよね」
「え?宮原さんもそんな風に思う事があるのですか?」
「そりゃありますよ!今はオーナーが緩くシフト組んでくれてるので楽ですけど、前職ではもうめっちゃ働いてましたから!」
思わず力強く説明してしまい、少し前のめりになった身を引く。
「なるほど…前々から仕事に対する意識が他の方と違うと思っていましたが、そういった経験があったからなのですね」
「経験、って言っても、わたしはしなくていい事だとも思います、辛い事や大変な思いなんて出来る限り少ない方がいいですよ、絶対」
「そうかも…しれません、正しいと思います、その考え方も…」
難しい顔をして眉間にしわを寄せている、何かマズい事を言ってしまったか、そう思いフォローしようと言葉を考えていると、遮るように電車が到着した。
「行きましょうか」
「――ぁ、はい!」
電車に乗り込む黒井さんに付いていき、会話は終わる。
決して人混みが多い訳ではないが、電車を降りるまでの間はお互い無言でいた、その時間が先程の発言を深く後悔させている。
目的の駅に着き、ホームから降り歩き始める時には何を話していいか分からなくなっていた。
「宮原さん?買い物どうします?予定していたお店とかありますか?」
「あ、すみません!定食屋さんの近くにホームセンターがあるんです、多分そこならリストにある品物も買えると思います」
「なるほど、近くにあるなら都合が良いですね」
「案内します、確かこっちです!」
完全に思考は止まっていたが、業務的な内容であればスラスラと出てきてしまう。
「定食屋さん見えてきましたね!黒井さんは何が食べたいですか」
「そうですね…、何かおすすめはありますか?」
「え、おすすめですか…そうですねぇ…」
お店に近づきながら考える。
恐らく好きな物は無いけど、嫌いな物も無さそうに見える、であれば、いちおしのメニューがある。
「そしたら、私が注文しますので料理がでてくるまで楽しみにしてくださいね!」
「それは…楽しみですね」
少しだけ笑顔を向けて話す黒井さん、その笑顔が私の体温も少し上げてしまう。
顔が熱くなるのを感じ、隠すように店内に入る。
「いらっしゃいませー」
店員さんの挨拶から、流れるように席に着く。
決して広い訳ではないが落ち着いた雰囲気の店内と、早朝のまだ人が少ないこの空気が大好きである。
「すみません、このセットにサラダを付けた物を二つお願いします!」
かしこまりましたー、なんて聞き慣れた言葉を受けて料理を待つ。
とりあえずお水を飲みながら対面する黒井さんを見据える、何か話さないと、なんて考えると余計に緊張し、とりあえず水を飲み誤魔化してしまう。
「そういえば…」
先に喋ったのは黒井さん、不意打ちだったので背筋がのびた。
「そういえば宮原さん、私に対しての話し方がまた固くなりましたよね、何かありましたか?」
「え?」
急な話題、それは考えもしなかった私自身の事だった。
「え、いえ、何かあったとかではないですよ!?私気を抜くと敬語になっちゃうから、多分それで、きっと、ええと…」
「あぁ、すみません、別に嫌とかではないのです、ただ少し気なってしまい訊いてみようなって、迷惑でしたね」
黒井さんは少し視線を下げて私を見る、その目が暗く感じたのは決して気のせいでは無いだろう。
――思い返す、確かにここ最近は黒井さんに対して固く接していた、それは桐島さんとのやり取りの後、自分の感情がうまく整理できなかったためである。
結果、無意識のうちに距離を保つため、黒井さんに対して他人行儀のようになってしまっていた、それが黒井さんを傷つけるとも知らず。
「…ごめん」
「…宮原さん?」
「多分、黒井さんとどう接していいかわからなかったと思う、だから敬語使って距離を取って、関係性が変わらない様にしてたと思う」
「――なるほど、それは、確かに…、宮原さんらしい考え方ですね」
下手に誤魔化したり、嘘をつくよりも、正直に思った事を言う、それが一番正しいと感じた。
「きっと、私が私らしい在り方で黒井さんと一緒にいたら迷惑かなって、勝手にそう思ってた、それを確かめたくて今日黒井さんとごはん食べて買い物したいと思った」
「………」
「だから、改めてよろしくお願いします、本当は敬語も得意じゃないし、すごく生意気だけど、私はこのやり方が楽なんです」
「――……」
黒井さんは何も言わない、ただ考え込むように口元を抑えて、俯いてる。
「…黒井さん?」
「――ッっ」
「え?」
「ッふ、ふふ!す、すみません、なんだか、可笑しくて…」
笑っている、すごく笑っている、それはもう楽しそうに。
だが、決して馬鹿にしている訳ではなく、かといって呆れている訳でもない、黒井さんの心情が気になる笑い方である。
「…ふぅ、すみません、落ち着きました」
「いや、大丈夫だけど…、何が可笑しかったの?」
「それは…ですね、実は結構考えていたのですよ、宮原さんの事」
「私の…?」
「ええ、怒らせてしまったのではないか、嫌われたかもしれない、仕事で何かミスをしたのか、色々な原因を考えて宮原さんに訊いたのですが、何も当たってなくて、これが…可笑しくて…」
口元をほころばせながら黒井さんは答える。
正直そこまで考えていたなんて意外である、仕事一筋と思っていたから、そういった気遣いもしてくれていたと思うと照れてくる。
「案外心配性だね黒井さん、私はそんな風に思ったことはないよ」
「心配…、だったのですかね、少なくともこんな風に思ったのは宮原さんだけですよ」
――心臓が、ほとばしる。
「ぇ…、と、それって――」
意味を、言葉の意味を訊こうとした時、タイミングよく店員さんが現れた。
「お待たせしました~、デミグラスソースのオムライスセット二つでございま~す」
食欲をそそる美味しそうな香りが漂い、自然と会話は終了する。
訊きたかった言葉の真意は、きっと今度また別の機会に問おう。
「わぁ、オススメはオムライスだったのですね、確かに美味しそうです」
「美味しそう、じゃなくて美味しいですよ、頂きましょう!」
大好きなオムライスを頬張る。
黒井さんも美味しいと言ってくれて、なんだか嬉しくなりながら食事を終えた。
きっと、今日の選択は正しかった。
黒井さんとの食事と買い物、断る事もできたがそれに逃げず、向き合い、思った事を口にした。
仮に最善で無かったとしても、美味しいごはんを食べて、黒井さんと笑っていられる事は間違いではないだろう。
――また一つ大きな関わり経て、彼女は自信と安らぎを得るのであった。
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