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第ニ章 王都
密会の花園
白く細長い手指を天に伸ばすように、月下美人は月夜に可憐に佇んでいた。
ソルヴィは花壇にもたれかかり、月下美人の咲く鉄格子に指を絡めた。
ブリョン宮殿の花園には、国の豊かさを示さんと在来種から外来種まで色とりどりの花が集められていた。
とりわけ自然美と人工美を融合した小さな箱庭は、人目を忍ぶ格好の場であり、ソルヴィにとって心の癒しでもあった。
そして、たくさんの花の中でも、ソルヴィは特に月下美人が好きだった。
親子で何代も続く宮廷庭師の話によると、月下美人の成育は容易ではないという。外国の熱帯雨林生まれの花だが、湿気に弱く根腐れしやすい神経質な花らしい。雨の難を逃れて成長したとしても、花が咲くには二年三年と何年も月日がかかる。子どもの背丈ほどの大きさまで茎が伸びたところで、月下美人はようやく花を咲かすことができるという。
それも年に一晩だけ。月下美人というその名の通り、月夜に咲く美しい花は、翌朝には人知れず散るのだ。
ソルヴィは人も動物も草木も眠る、この静寂の時間が好きだった。
誰にも邪魔されることのない、自分だけの自由時間だ。
日中は常に人に囲まれ、王太子という鎧を付けなければならない。そうでなければ欲望に塗れた王宮では生きていくことはできない。息の詰まる世界だからだ。寝る間が惜しくとも、この貴重な時間は堪らなく愛しい。
特に子どもの頃植物魔法を禁じられてから、こっそり花を見るのが習慣になり、楽しみの一つになった。庭師の仕事を疑うわけではないが、根や葉が乾いているときなどは、これまたこっそり世話もしてやる。
(子どもの頃はよく花を枯らして泣いていたなぁ)
恋人との久しぶりの再会を噛み締めるように、ソルヴィは健気で儚く、それでいて美しい花に熱い視線を送った。甘く優雅な香りに誘われ、白い花冠に顔を寄せる。
————と、その時。
甘い夢からソルヴィを起こすように 近付いてくる足音が静寂を破った。
「誰だ? 誰かそこにいるのか」
ソルヴィは人影に気付き、思わず心臓が飛び上がった。
しかし、動揺を表に出さないよう無表情で問いかける。
もし相手が刺客だとしたら腰を抜かしてもおかしくない状況だが、こういうときの冷静さは長年王太子として過ごしてきた賜物だろうか。ソルヴィは内心自分でも感心した。
だが、足音は慌てるように遠ざかっていった。
「ぜ、ぜぜ全然寝付けなくて……さ、さ散歩してたら、す素敵な小庭が見えたのでつい……」
そして、予想に反して返ってきたのは、素っ頓狂な若い女の声だった。
ソルヴィは肩透かしを食らった気分で目を丸くする。
「奇遇だ、私もだ」
ソルヴィはおかしくて堪えきれず笑いを漏らしてしまった。
今時の暗殺者でももっと流暢に話せるだろう。
暗闇からはっと息を呑むような息遣いが聞こえる。女は怒ったかもしれない。
「すまない。君の動揺がおかしくて」
ソルヴィが素直に詫びると、しばらくして暗闇から言葉を投げかけられた。
「……わ、私の方こそすみません。こっこんな、夜中に誰かいるなんて思いませんでした」
女の声はまだ動揺しているようだった。尻すぼんで小さくなっていく。
だが、静かな夜によく透る美しい声だった。
「それで? こんな夜更けに出歩く君もどうかと思うが」
「わ……私、……その……夜のこの時間が好きだから、お庭でお花に癒されようと思って……」
女は姿を見せるつもりはないらしい。
こんなとき高位の者なら叱責するところだろうが、ソルヴィも素性を明かしたい気分ではなかった。
今は王太子ではなく、ただのソルヴィの時間だ。
「私もこの時間は好きだ。自由だし、のんびりできる。日中は花を愛でる時間もないが、夜はこうして花に癒されに来るんだ」
ソルヴィは自分でも驚くほどにすらすらと返し、女に同意した。
ソルヴィが何もない真っ黒な虚空から手元の月下美人に視線を移すと、女も興奮気味に言ってくる。
「わ! 私も月下美人のお花が好きで、田舎の家でも育ててるんです。お城でも見られるなんて驚きました!」
「綺麗だが、開花まで育てるのは難しいだろう? 庭師が言ってた」
「え? それがそうでもないですよ! 水と愛情さえかけてやれば元気に育つので、庭師さんの愛が足りないじゃないですか?」
「君は庭師の才能があるかもしれないが、庭師の前でそれを言ったら殴られるぞ? 相手はプロだ」
「……あ! ああ! そ、それもそうですね……」
ソルヴィはくっと二度目の笑い声を上げた。
とても城の人間とは思えない間の抜けた発言だ。
「……え、えーと、あなたは何か悩み事でもあるんですか?」
「どうして?」
「私は悩むと夜抜け出す癖があるんです。だから夜が好きなんですが」
「…………私も君と同じだと?」
「な、何となく、そんな気がしました」
心当たりでもあるように、ソルヴィの頭にある出来事が蘇った。
****
「聖女が病に侵されています」
今朝のことだ。
定例の枢密院会議でのこと、ヘンリク・ケント・ベーヴェルシュタム公爵は顔を顰めながら言った。
王宮魔法使いで近衛騎士団長でもあるゲオルグ・ヤンセンの知らせによると、聖女は入城するも早々に病床に伏してしまい、今は死の淵らしい。
ゲオルグに詳しく聞きたいところだが、生憎枢密院には領主しか参加することはできない。
長テーブールについた王の下座を囲むように立った、およそ五十人ほどの領主が騒ついた。
「では、王太子との婚姻はなしに?」
「いやいや、精霊の怒りを買って国が荒れてしまう」
「かと言って、問題を放置したままでは世継ぎも生まれない」
「婚約の儀の早々、側室を取り立てては世間に示しがつかないのでは」
「しかし、聖女は病に伏せっている」
王の背後に控えたソルヴィは、置き去りにされたような気分でどよめきを眺めた。
自分の話なのに、どこか他人事のような話だ。王太子であるソルヴィの選ぶべき道は、自分の人生でありながら、天や他人が勝手に決めるのだ。
「聖女が子を産めないのなら……聖女は必要ない。意味は分かるな?」
王がソルヴィを手招いて耳打ちしてきた。
寡黙な父が口を開いたかと思えば、ソルヴィを牽制する言葉を吐いた。私に従えと、余計なことはするなと、暗にそういうことだろう。
ソルヴィの頭は、鉛玉を食らったように衝撃が走った。
ソルヴィの眼前で、思惑を孕んだ領主たちの黒い目が光っていた。
特にベーヴェルシュタム公爵は手を擦りながら上目遣いで王を見上げている。婚約の儀の前まで、散々自身の娘を売り込んでいた男だ。
ソルヴィは腹の底が冷えてくるような、静かな怒りに身が震えそうになるのを必死に堪えた。
掌には爪が食い込み、今にも血が出そうなほどだった。
****
「じゃあ、君はなぜ悩むの? 城の暮らしが不満とか?」
ソルヴィは飛ばしていた思考を戻した。
腹の内を探られたくなくて、女の質問に質問で返す。
女からは悪意というよりむしろ気遣わしげな空気を感じたが、我ながらずるいことをしたと思った。相手の思惑が分からない内は手の内を見せたくないといったところだ。
だが、女は特に文句を言わず、しばし考え込むように黙すと、ゆっくりと話し始めた。
「……私、人生の課題を探してる途中なんです」
女は吐露した。
「人生の……課題……?」
ソルヴィも女の声を繰り返して呟いた。胸がどきりとする。
「私のお母さんは着の身着のまま私を王都に追い出しました。でも口減らしとか……そういう意味ではないと思っています。うちは裕福ではないですが、十分満足した暮らしをしていたので……」
女の文脈から、女はどこかの田舎から王都の城にやってきた侍女ではないか、とソルヴィは考えた。静かに耳を傾ける。
「お母さんはとても厳しい人で、いつも自分で考えろって言う人でした。与えられた課題に取り組むだけでは、本当の幸せは得られないって……子どもの頃は、私は辛いことが多く家に引きこもりがちでした。けれど、お母さんは何も言いませんでした。私はお母さんに頼ってどうにかしてもらいたかったのに……」
女は苦しそうに言った。
ソルヴィが大丈夫かと問えば、気丈にも大丈夫と返される。
凛とした声だった。
「私は本を見つけました。それがまた楽しくて、隣で見ていただけのお母さんが、色んな知識を与えてくれました。時間はかかったけれど、私は自分に自信が持てて、外に出て薬師の真似事を始めるようになりました」
「へぇ……! 君は薬師だったのか」
ソルヴィは当てが外れて驚いたが、その驚きには感心も含まれていた。
見ず知らずの人間同士の話だ。損得勘定もないだろう。女の話は嘘偽りのない真の話だとソルヴィは思った。
それに学ぶことならソルヴィも好きだ。女とは妙に気が合った。
「獅子は我が子を千尋の谷に落とす、だな」
「え…………?」
ソルヴィは一息つくと、温かい気持ちになった。
愛のある試練だと思う。
一方、ソルヴィの父である王は、政務以外のことは一切口しない家族に無関心な人だった。母もまた、愛というより何かにつけてあれこれ指図して、自分の思い通りにしたいだけの人だった。ソルヴィはいつだって城という名の檻に閉じ込まれ、王太子という義務感を一身に背負ってきた。
この女はただ物のように愛のない毎日を送るソルヴィとは大違いだ。
「可愛い子には旅をさせよ、と言えば分かるかな? お母上の愛ゆえの試練だな」
「あ、ああ愛!?」
ソルヴィは親切に解説を付け加えたつもりだが、女の声はまた動揺して吃り始めた。
すぐ気が動転するところが愉快だ。ソルヴィはくくくと肩を震わせた。
「そういうあなたは何で悩んでいるんですか!?」
ソルヴィの笑い声に怒ったのか、女は強い口調で言った。
「君と同じだよ」
「ずるい!!」
「そう、私はずるい性格だ」
「私だけ弱音を吐いたわ!」
いつの間にか女の口調は砕けていた。
不敬罪でとっ捕まえてやろうか。ソルヴィは意地悪にもそう考えながら笑った。
「私は弱音は吐かない。弱さは見せない。そうしないとここでは生きていけないからだ」
だが、ソルヴィの心の声は滑るように出てきた。
女は驚いて声を詰まらせる。
「だから、いつも逃げたいと思っている。……私も人生の課題を探してる最中だろう」
ソルヴィは暗闇の向こうに言い放った。
そうか、自分は人生の課題を探しているのか。改めて言葉にすると、今までのモヤモヤがすっと胸に落ちたようだった。
だが、女から返答はない。
いつの間にか空は白み始めていた。
夜に潜んでいた小庭が徐々に明るみに出ていた。
ソルヴィは妙に気が合う女に興味を抱き始めていた。
腹を割って話ができた女は初めてかもしれない。いや、初めてだ。
ソルヴィは胸の高鳴りを抑えるようにゆっくりとした足取りで庭の後ろに回った。
しかし、幻であったかのようにそこには誰もいなかった。
呆然と立ち竦み、金色の髪を朝日で煌めかせたソルヴィの姿を除いて。
ソルヴィは花壇にもたれかかり、月下美人の咲く鉄格子に指を絡めた。
ブリョン宮殿の花園には、国の豊かさを示さんと在来種から外来種まで色とりどりの花が集められていた。
とりわけ自然美と人工美を融合した小さな箱庭は、人目を忍ぶ格好の場であり、ソルヴィにとって心の癒しでもあった。
そして、たくさんの花の中でも、ソルヴィは特に月下美人が好きだった。
親子で何代も続く宮廷庭師の話によると、月下美人の成育は容易ではないという。外国の熱帯雨林生まれの花だが、湿気に弱く根腐れしやすい神経質な花らしい。雨の難を逃れて成長したとしても、花が咲くには二年三年と何年も月日がかかる。子どもの背丈ほどの大きさまで茎が伸びたところで、月下美人はようやく花を咲かすことができるという。
それも年に一晩だけ。月下美人というその名の通り、月夜に咲く美しい花は、翌朝には人知れず散るのだ。
ソルヴィは人も動物も草木も眠る、この静寂の時間が好きだった。
誰にも邪魔されることのない、自分だけの自由時間だ。
日中は常に人に囲まれ、王太子という鎧を付けなければならない。そうでなければ欲望に塗れた王宮では生きていくことはできない。息の詰まる世界だからだ。寝る間が惜しくとも、この貴重な時間は堪らなく愛しい。
特に子どもの頃植物魔法を禁じられてから、こっそり花を見るのが習慣になり、楽しみの一つになった。庭師の仕事を疑うわけではないが、根や葉が乾いているときなどは、これまたこっそり世話もしてやる。
(子どもの頃はよく花を枯らして泣いていたなぁ)
恋人との久しぶりの再会を噛み締めるように、ソルヴィは健気で儚く、それでいて美しい花に熱い視線を送った。甘く優雅な香りに誘われ、白い花冠に顔を寄せる。
————と、その時。
甘い夢からソルヴィを起こすように 近付いてくる足音が静寂を破った。
「誰だ? 誰かそこにいるのか」
ソルヴィは人影に気付き、思わず心臓が飛び上がった。
しかし、動揺を表に出さないよう無表情で問いかける。
もし相手が刺客だとしたら腰を抜かしてもおかしくない状況だが、こういうときの冷静さは長年王太子として過ごしてきた賜物だろうか。ソルヴィは内心自分でも感心した。
だが、足音は慌てるように遠ざかっていった。
「ぜ、ぜぜ全然寝付けなくて……さ、さ散歩してたら、す素敵な小庭が見えたのでつい……」
そして、予想に反して返ってきたのは、素っ頓狂な若い女の声だった。
ソルヴィは肩透かしを食らった気分で目を丸くする。
「奇遇だ、私もだ」
ソルヴィはおかしくて堪えきれず笑いを漏らしてしまった。
今時の暗殺者でももっと流暢に話せるだろう。
暗闇からはっと息を呑むような息遣いが聞こえる。女は怒ったかもしれない。
「すまない。君の動揺がおかしくて」
ソルヴィが素直に詫びると、しばらくして暗闇から言葉を投げかけられた。
「……わ、私の方こそすみません。こっこんな、夜中に誰かいるなんて思いませんでした」
女の声はまだ動揺しているようだった。尻すぼんで小さくなっていく。
だが、静かな夜によく透る美しい声だった。
「それで? こんな夜更けに出歩く君もどうかと思うが」
「わ……私、……その……夜のこの時間が好きだから、お庭でお花に癒されようと思って……」
女は姿を見せるつもりはないらしい。
こんなとき高位の者なら叱責するところだろうが、ソルヴィも素性を明かしたい気分ではなかった。
今は王太子ではなく、ただのソルヴィの時間だ。
「私もこの時間は好きだ。自由だし、のんびりできる。日中は花を愛でる時間もないが、夜はこうして花に癒されに来るんだ」
ソルヴィは自分でも驚くほどにすらすらと返し、女に同意した。
ソルヴィが何もない真っ黒な虚空から手元の月下美人に視線を移すと、女も興奮気味に言ってくる。
「わ! 私も月下美人のお花が好きで、田舎の家でも育ててるんです。お城でも見られるなんて驚きました!」
「綺麗だが、開花まで育てるのは難しいだろう? 庭師が言ってた」
「え? それがそうでもないですよ! 水と愛情さえかけてやれば元気に育つので、庭師さんの愛が足りないじゃないですか?」
「君は庭師の才能があるかもしれないが、庭師の前でそれを言ったら殴られるぞ? 相手はプロだ」
「……あ! ああ! そ、それもそうですね……」
ソルヴィはくっと二度目の笑い声を上げた。
とても城の人間とは思えない間の抜けた発言だ。
「……え、えーと、あなたは何か悩み事でもあるんですか?」
「どうして?」
「私は悩むと夜抜け出す癖があるんです。だから夜が好きなんですが」
「…………私も君と同じだと?」
「な、何となく、そんな気がしました」
心当たりでもあるように、ソルヴィの頭にある出来事が蘇った。
****
「聖女が病に侵されています」
今朝のことだ。
定例の枢密院会議でのこと、ヘンリク・ケント・ベーヴェルシュタム公爵は顔を顰めながら言った。
王宮魔法使いで近衛騎士団長でもあるゲオルグ・ヤンセンの知らせによると、聖女は入城するも早々に病床に伏してしまい、今は死の淵らしい。
ゲオルグに詳しく聞きたいところだが、生憎枢密院には領主しか参加することはできない。
長テーブールについた王の下座を囲むように立った、およそ五十人ほどの領主が騒ついた。
「では、王太子との婚姻はなしに?」
「いやいや、精霊の怒りを買って国が荒れてしまう」
「かと言って、問題を放置したままでは世継ぎも生まれない」
「婚約の儀の早々、側室を取り立てては世間に示しがつかないのでは」
「しかし、聖女は病に伏せっている」
王の背後に控えたソルヴィは、置き去りにされたような気分でどよめきを眺めた。
自分の話なのに、どこか他人事のような話だ。王太子であるソルヴィの選ぶべき道は、自分の人生でありながら、天や他人が勝手に決めるのだ。
「聖女が子を産めないのなら……聖女は必要ない。意味は分かるな?」
王がソルヴィを手招いて耳打ちしてきた。
寡黙な父が口を開いたかと思えば、ソルヴィを牽制する言葉を吐いた。私に従えと、余計なことはするなと、暗にそういうことだろう。
ソルヴィの頭は、鉛玉を食らったように衝撃が走った。
ソルヴィの眼前で、思惑を孕んだ領主たちの黒い目が光っていた。
特にベーヴェルシュタム公爵は手を擦りながら上目遣いで王を見上げている。婚約の儀の前まで、散々自身の娘を売り込んでいた男だ。
ソルヴィは腹の底が冷えてくるような、静かな怒りに身が震えそうになるのを必死に堪えた。
掌には爪が食い込み、今にも血が出そうなほどだった。
****
「じゃあ、君はなぜ悩むの? 城の暮らしが不満とか?」
ソルヴィは飛ばしていた思考を戻した。
腹の内を探られたくなくて、女の質問に質問で返す。
女からは悪意というよりむしろ気遣わしげな空気を感じたが、我ながらずるいことをしたと思った。相手の思惑が分からない内は手の内を見せたくないといったところだ。
だが、女は特に文句を言わず、しばし考え込むように黙すと、ゆっくりと話し始めた。
「……私、人生の課題を探してる途中なんです」
女は吐露した。
「人生の……課題……?」
ソルヴィも女の声を繰り返して呟いた。胸がどきりとする。
「私のお母さんは着の身着のまま私を王都に追い出しました。でも口減らしとか……そういう意味ではないと思っています。うちは裕福ではないですが、十分満足した暮らしをしていたので……」
女の文脈から、女はどこかの田舎から王都の城にやってきた侍女ではないか、とソルヴィは考えた。静かに耳を傾ける。
「お母さんはとても厳しい人で、いつも自分で考えろって言う人でした。与えられた課題に取り組むだけでは、本当の幸せは得られないって……子どもの頃は、私は辛いことが多く家に引きこもりがちでした。けれど、お母さんは何も言いませんでした。私はお母さんに頼ってどうにかしてもらいたかったのに……」
女は苦しそうに言った。
ソルヴィが大丈夫かと問えば、気丈にも大丈夫と返される。
凛とした声だった。
「私は本を見つけました。それがまた楽しくて、隣で見ていただけのお母さんが、色んな知識を与えてくれました。時間はかかったけれど、私は自分に自信が持てて、外に出て薬師の真似事を始めるようになりました」
「へぇ……! 君は薬師だったのか」
ソルヴィは当てが外れて驚いたが、その驚きには感心も含まれていた。
見ず知らずの人間同士の話だ。損得勘定もないだろう。女の話は嘘偽りのない真の話だとソルヴィは思った。
それに学ぶことならソルヴィも好きだ。女とは妙に気が合った。
「獅子は我が子を千尋の谷に落とす、だな」
「え…………?」
ソルヴィは一息つくと、温かい気持ちになった。
愛のある試練だと思う。
一方、ソルヴィの父である王は、政務以外のことは一切口しない家族に無関心な人だった。母もまた、愛というより何かにつけてあれこれ指図して、自分の思い通りにしたいだけの人だった。ソルヴィはいつだって城という名の檻に閉じ込まれ、王太子という義務感を一身に背負ってきた。
この女はただ物のように愛のない毎日を送るソルヴィとは大違いだ。
「可愛い子には旅をさせよ、と言えば分かるかな? お母上の愛ゆえの試練だな」
「あ、ああ愛!?」
ソルヴィは親切に解説を付け加えたつもりだが、女の声はまた動揺して吃り始めた。
すぐ気が動転するところが愉快だ。ソルヴィはくくくと肩を震わせた。
「そういうあなたは何で悩んでいるんですか!?」
ソルヴィの笑い声に怒ったのか、女は強い口調で言った。
「君と同じだよ」
「ずるい!!」
「そう、私はずるい性格だ」
「私だけ弱音を吐いたわ!」
いつの間にか女の口調は砕けていた。
不敬罪でとっ捕まえてやろうか。ソルヴィは意地悪にもそう考えながら笑った。
「私は弱音は吐かない。弱さは見せない。そうしないとここでは生きていけないからだ」
だが、ソルヴィの心の声は滑るように出てきた。
女は驚いて声を詰まらせる。
「だから、いつも逃げたいと思っている。……私も人生の課題を探してる最中だろう」
ソルヴィは暗闇の向こうに言い放った。
そうか、自分は人生の課題を探しているのか。改めて言葉にすると、今までのモヤモヤがすっと胸に落ちたようだった。
だが、女から返答はない。
いつの間にか空は白み始めていた。
夜に潜んでいた小庭が徐々に明るみに出ていた。
ソルヴィは妙に気が合う女に興味を抱き始めていた。
腹を割って話ができた女は初めてかもしれない。いや、初めてだ。
ソルヴィは胸の高鳴りを抑えるようにゆっくりとした足取りで庭の後ろに回った。
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