蛙の王女様―醜女が本当の愛を見つけるまで―

深石千尋

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後日談

カリヨンの鐘*R15

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 大好きなの瞳によく似た、紺碧の薄衣を纏った晴れた空は、遥か彼方まで広がっていた。上からは太陽の光が燦然と降り注ぎ、あの人の髪色を彷彿とさせている。


 王都、ファスマ大聖堂にて。


 シグルンは少し黄味がかった白い絹色のドレスを身に纏い、見上げる程大きな両開きの扉の前に立っていた。
 かつてシグルンが王都にいたときに身に付けていた『黒』ではなく、五百年程前から始まったとされる『白』の花嫁衣装ウェディングドレスは、今やグヴズムンドゥル王室だけでなく庶民にも広まった、うら若き乙女の憧れだ。
 襟ぐりや背中は大きく開き、金糸の紋様がなよやかにドレスを縁取っている。また、若い娘であることを主張する胸元に覗く豊満で柔らかな谷間と、しなやかで細い腰は、ドレスの清廉さと相まって、清いながらも蠱惑的な雰囲気を見事に合わせていた。


「……お母さん、今まで私を育ててくれてありがとう」


 紅を差した、シグルンの薄い唇が震えながら感謝を述べた。
 いつもは面と向かって言えないが、今日という日は言わなければならない。
 今日は愛する人と結ばれる記念すべき日である一方で、ゾーイとは悲しきお別れの日なのだから。


「私の方こそ、お前が娘に来てくれて嬉しかった。本当の娘でなかったとしても。ありがとう……私のシグルン」
「お母さん、嫌だわ。そんなに畏ったりしたら……私、」
「今更何言ってるんだね? 先にありがとうと言ったのはお前だよ」
「だ、だって! 本当に感謝しているのよ! お母さんが私のお母さんで良かったって!」
「今泣いたら、せっかくの別嬪さんも台無しだよ」


 シグルンは口元を震わせ、今にも泣き出しそうだった。黒曜石の瞳はうるうると濡れている。
 ゾーイは口ではやれやれと呆れたことを言いながらも、心底嬉しそうに顔を綻ばせ、シグルンの両肩を掴んだ。
 シグルンはそれに気付き、慌てたように膝を折る。
 ゾーイがシグルンに白いヴェールをふわりとかけた。


 清浄の『白』は闇や悪の精霊を祓う色だ。
 『ヴェールダウン』という儀式は結婚式においては、育ててきた娘を送り出す母親からの最後の身支度ともいわれ、結婚式の中で唯一母が娘に想いを伝えることができる時間でもあった。
 シグルンはまさか自分にこんな日が訪れようとは夢にも思わず、駄目だと言われたにもかかわらず、涙を引っ込めることができなかった。
 ぽろりと一筋、感謝と嬉しさで涙が零れる。


「大好きだよ、シグルン。幸せにおなり」


 ゾーイは静かに、惜しむようにゆっくりと言った。
 シグルンはありがと~と、花嫁だというのにふやけた返事をしてしまったが、ゾーイは咎めたりはしなかった。
 今はシグルンの結婚を祝うために王都に来たゾーイも、これが終われば再びラップラントの丘に帰ってしまう。王宮魔法使いに復帰したり王都に留まるつもりはなく、田舎で隠居生活を楽しむらしい。
 いつもそしうてきたように、ゾーイはシグルンの背中を押した。
 シグルンが思うに、親に頼らず一人で頑張りなさいという意味ではないだろうか。相変わらずだ。


 遂に、大きな扉が重々しい金属音とともに開かれた。


 シグルンは歩き出した。
 この日のために慣れない踵の高い靴を履いて、歩く練習をしてきた。
 それだけではない。
 愛する人と共に生きていくために、貴族社会における作法を始め、この国の政治、外交、経済、地理に至る全てを徹底的に叩き込んできた。
 呪いが解けたシグルンは元通り美しい姿を取り戻したが、肝心なのは本当の母親が精霊であることだった。
 シグルンの精霊の加護が凄まじいことは言うに及ばず、以前は魔法の才能などないと一笑されたシグルンだったが、今はゲオルグを師に仰ぎ、これまた一から魔法も勉強した。しかも未だ勉強中だ。


 そして、シグルンは薬師だけでなく治癒魔法師になろうとも決めていた。
 いつか見た貧民街スラムの親子がシグルンの頭に住み着いていたからだ。
 あの時魔法が使えたら水くらい出してやれたのに……シグルンはそんな後悔の念をずっと引き摺っていたが、魔法が使えると分かった今、自分の全能力を全ての困った人々に捧げることにしたのだ。
 シグルンにできることは限られているが、あの人と一緒ならば、王妃になれるのならば、きっと何かが変わるだろう。


 シグルンの繰り出す足は希望に満ちていた。
 高揚感のあるパイプオルガンの行進曲は、高い天井に跳ね返り、大聖堂の中を木霊する。
 以前のシグルンなら緊張におどおどしてこけるところだが、この時ばかりは研ぎ澄まされたように綺麗に歩を進めた。
 愛する人に向かって真っ直ぐと。


 シグルンの目は美しきソルヴィの姿を捉えた。
 豪奢に仕立てられた白い軍服に臙脂色えんじいろ外套マント、頭の上には金の髪に同化してしまいそうな黄金の冠が載っている。宝石などなくともソルヴィはいるだけで美しいというのに、いつも以上に凛々しく畏った姿は、神の領域に達していそうだ。
 ヴェール越しからもソルヴィは美しく、シグルンは何度ついたか知れぬ溜め息を零した。


「綺麗だよ、シグルン」
「あなたもよ、アレク」


 ソルヴィはシグルンに微笑みかけると、シグルンの手を自分の腕に絡ませた。教皇の前にエスコートする。
 向かい合うように立つと、シグルンもソルヴィもお互い穴が開いてしまいそうなほど見つめ合った。


「私ソルヴィ・アレクサンデル・グヴズムンドゥルは、あなたのことを一生涯にわたり大切にし、守り抜くことを誓います」
「私シグルンは、優しく頼りになるあなたに出会えたことに感謝し、あなたの妻として、一生愛し続けることを誓います 」
「これからも、いつも側で笑っていてください。一生大切にします」
「ふたりで寄り添い年を重ねていきたいです。これからも、ずっとよろしくお願いします」


 二人は右の掌を合わせながら、誓いの言葉をそれぞれ述べると、教皇がいよいよ花嫁への口付けを促した。
 シグルンは跪き、ソルヴィがヴェールを持ち上げる。
 この時間が止まってしまいそうなくらい、ゆっくりとした動作がシグルンは嫌に焦れったかった。
 シグルンは呪いの解けたあの日ぶりの口付けを、長いこと待ち侘びていた。正式に王子と聖女の婚約が決まってから、せっかく会えたというのに抱き締め合うこともできず、半年もお預けを食らったのだ。
 はしたない女かもしれないが、好きな人とそうなりたいと思うのは当然のことだ。
 シグルンは目元を薔薇色に染めた。


「嬉しい、アレ……」


 しかし、シグルンの喜びの言葉は続かなかった。
 ソルヴィが飲み込むようにシグルンに口付けたからだ。
 待ち望んでいたものは、シグルンが想像していた小鳥のような啄みではなく、激しく貪るような深いキスだった。シグルンが堪らず苦しげに息を漏らせば、呼吸さえも飲み込むほど。
 ソルヴィも自分と同様にこの日をどんなに待ち焦がれていたのか、身を以て思い知った気分だ。
 ソルヴィはシグルンの細い腰を抱いて、熱にとろけるような深い深いキスを送った。
 ソルヴィの生き物のような舌が、何かを確かめるようにシグルンの歯をなぞったが、さすがに中までは押し入る気はないようだ。
 ソルヴィは思いのほかあっさりと口を離すと、シグルンの耳元で熱く囁いた。


「続きは今夜」
「……えっ!?」


 シグルンは思わず腰を抜かしかけたが、ソルヴィの太い腕のお陰で、式典の最中だと言うのに転ばずに済んだ。
 シグルンは顔を真っ赤に火照らせて、今にも爆発しそうに興奮する。
 いくらうぶな若い娘とは言え、結婚初夜が何なのか知らないほどシグルンは少女ではない。
 ソルヴィのものになるということは、身も心もそういうことなのだ。
 シグルンは今夜のことを思うと、この後の式の段取りを忘れてしまいそうになった。


 ソルヴィはそんなシグルンなど御構い無しに最高の笑顔を向けて、シグルンの手を引いて歩き出した。

 
 再び開けられた扉の向こうには、喜びに歓喜した群衆が待ち構えていた。
 シグルンは今まで感じたことのない、祝辞や賛辞の言葉に戸惑った。呪いが解ける前まではあれほど怖いと感じていた人々の顔が、なぜか優しく見えたのだから。
 困った顔でソルヴィを見上げれば、ソルヴィがシグルンの肩を守るように抱き寄せた。
 シグルンはほっと安堵の息を漏らすと、居住まいを正して群衆に手を振った。


 もう何も怖くない。
 アレクと一緒なら。
 愛する人と一緒なら————


 シグルンは運命に挑むように、勇ましく美しい笑顔を空に向けた。

 二人を祝福するカリヨンの鐘が、王都中、国中に湖面に広がる波紋のように響き渡った。


 その日の鐘の音は、いつまでも、いつまでも鳴っていた。
 
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