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第二章:三好八助
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「ずっとそうしてるのもいいでありんすが、こっちに来るのもいいと思いんせん?」
布団に腰を下ろした夕顔さんはそう言って隣をぽんぽんと叩いた。緊張の所為で足を畳に打ち付けられたように動くことすら儘ならない状態だったが、折角ここへ来れたのにいつまでもこうしたままでいる訳にはいかない。僕は勇気を足に結び付けると引き摺るように動かし夕顔さんの隣に腰を下ろした。限界まで近づいたつもりだけどまだそこには距離がある。でも僕からすればあり得ない程までに彼女に近づいてる事は確かだ。
だけど夕顔さんは僕の限界なんて関係ないなんて言うようにすぐ隣までその距離を縮めた。ほんのり甘く心臓を締め付けるような匂いが呼吸する度、酸素に混じって肺を満たす。僕は視界の端で確かめるように彼女を見た。何度見ても美しい夕顔さんが手を伸ばせば触れられる距離にいるなんて、不思議でしょうがない。どこか夢の中にいるようなそんな感覚だった。
「お初にお目にかかりんす。わっちは夕顔と申しんす」
こんな僕にも丁寧に頭を下げてくれる夕顔さん。
「は、初めまして。八助……で、です」
それからも僕は緊張から中々逃れられないでいた。彼女の言葉をいくつか聞き逃してしまう程に。でもそんな僕にも夕顔さんは優しく接してくれた。その触れる手は柔らかく春陽ように温かくて、その声は小鳥の囀りのように心地好い。僕を真っすぐ見てくれるその瞳はどの星よりも綺麗で輝いていた。だけど彼女の美しさに触れる度に、あの夕顔さんがすぐ目の前にいると感じる度に緊張の波紋が全身へと広がっていく。
そしてあまりの緊張でこの時間を無駄にしている間も夕顔さんは普通の客のように僕の相手をしてくれていた。でも普通の客と違って僕には今夜しかない。だからしたいことをちゃんと伝えないと、と思い勇気を振り絞った。
「お話がしたかっただけなんです!」
遊女である彼女を一夜買ってただ話がしたいなんて――自分でも分かってる。変だって。
だけど夕顔さんはそんな僕の変な言葉に対して笑みを零した。嘲笑とは違う嫌な感じじゃない笑み。それは美しさの陰に隠れた可憐な一面、それだけでも大金を払った価値のあるものだった。
でもやっぱりこんな事をお願いするのは迷惑かもしれない。そう思っていた僕だったが彼女はそれを快く受け入れてくれた。それに楽しそうな笑みまで浮かべてくれていたのはきっと僕を気遣ってくれていたからなんだろう。しかも話しがしたいと言い出しのにも関わらず、すぐに話題が思い浮かばなかった僕へ助け船として先に質問をしてくれた。
そこからは言葉を交わしている内に段々と緊張が解れ――というより楽しさが勝り夕顔さんの顔を見る事もちゃんと話す事も出来るようになっていった。きっとそれは彼女が話し上手で聞き上手だからなんだろう。
途中、戸惑いが隠せず顔の熱さと滑らかで柔らかな感触を感じる事もあったが彼女は僕が眠りにつくまで望み通り話し相手になってくれていた。それは内容なんてよく覚えてないような他愛ない会話だったけど僕の言葉にあの夕顔さんが反応してくれているというのが嬉しくてたまらなかった。
ずっと見る事しか出来なかった夕顔さんが僕の隣で、僕の話に耳を傾け反応し、笑みを浮かべてくれる。単なる夢世界での出来事かそうじゃなければそれは温かな雪が降り注ぐ程の奇跡だ。到底、信じられる事じゃない。はずなのに夕顔さんが握ってくれていた手から伝わる温もりは不思議と僕に現実味を与えてくれた。夢などじゃなくて私はここにいると語りかけるように。
最初に彼女が言ってくれたように(意味は違えど)それは僕にとって忘れられない最高の夜となった。もし可能ならずっとこの時間に閉じこもりたいと願う程、一生忘れる事のない最高の夜。
でもそういう意味ではやっぱりこれは夢だったのかもしれない。朝になり目覚めれば終わってしまうように朝を迎えた僕にもそれは訪れた。
いつものように早朝に目覚めた僕は寝ぼけた頭が覚めるにつれ昨夜の事を思い出していた。そして見慣れない天井から視線を横へ移してみるとそこには穏やかな表情で眠る夕顔さんの姿。その瞬間、今までのどの朝よりも幸福感に満ちた朝へと変わった。夕顔さんは忘れられない最高の夜だけじゃなくて最高の朝も僕にくれたらしい。おまけにしてはあまりも贅沢過ぎる気もするが。
僕はその贅沢なおまけをもう少し堪能してからゆっくりと起き上がり部屋を出ようとした。だが物音でも立ててしまったのか部屋を出る前に夕顔さんが目を覚ましてしまった。本当は起こしたくはなかったけど、起きてしまったのだからと朝の挨拶と言葉をいくつか交わす。それから部屋を出ようと思ったが起き上がり傍まで来てくれた彼女は、最後にまた贅沢過ぎるおまけ――というよりお土産をくれた。離れても尚そこには確かな感覚が残っていて……。
「おさればえ、八助はん」
夕顔さんはそう言うと莞爾として笑った。その瞬間、脳裏にはあの日花魁道中で見た光景が稲光のように浮かび上がってきた。重なり合う現実と記憶。もしかしたら今のが一番忘れられない瞬間なのかもしれない。いや、そうだ。これから何度も繰り返し思い出すそんな瞬間だった。
そして頬に残る感覚を感じながら僕は改めて終わったんだという事を実感した。同時にもう昨夜のような夜もこんな朝も二度と来ないんだという事も。
「ありがとうございました」
最後にこの部屋に入ってから今まで分をまとめて一言、お礼を言った。そして部屋から出ると下へ向かう為に廊下を歩き出す。一階まで降りて裏口から外へ。でも仲ノ町に入る前に僕は一度振り返り吉原屋の最上階を見上げた。まるでもう二度とないと言うように閉まったままの窓。
「そうだよね」
僕は一人呟きながら何度か小さく頷くと前を向き直し店へと帰った。
布団に腰を下ろした夕顔さんはそう言って隣をぽんぽんと叩いた。緊張の所為で足を畳に打ち付けられたように動くことすら儘ならない状態だったが、折角ここへ来れたのにいつまでもこうしたままでいる訳にはいかない。僕は勇気を足に結び付けると引き摺るように動かし夕顔さんの隣に腰を下ろした。限界まで近づいたつもりだけどまだそこには距離がある。でも僕からすればあり得ない程までに彼女に近づいてる事は確かだ。
だけど夕顔さんは僕の限界なんて関係ないなんて言うようにすぐ隣までその距離を縮めた。ほんのり甘く心臓を締め付けるような匂いが呼吸する度、酸素に混じって肺を満たす。僕は視界の端で確かめるように彼女を見た。何度見ても美しい夕顔さんが手を伸ばせば触れられる距離にいるなんて、不思議でしょうがない。どこか夢の中にいるようなそんな感覚だった。
「お初にお目にかかりんす。わっちは夕顔と申しんす」
こんな僕にも丁寧に頭を下げてくれる夕顔さん。
「は、初めまして。八助……で、です」
それからも僕は緊張から中々逃れられないでいた。彼女の言葉をいくつか聞き逃してしまう程に。でもそんな僕にも夕顔さんは優しく接してくれた。その触れる手は柔らかく春陽ように温かくて、その声は小鳥の囀りのように心地好い。僕を真っすぐ見てくれるその瞳はどの星よりも綺麗で輝いていた。だけど彼女の美しさに触れる度に、あの夕顔さんがすぐ目の前にいると感じる度に緊張の波紋が全身へと広がっていく。
そしてあまりの緊張でこの時間を無駄にしている間も夕顔さんは普通の客のように僕の相手をしてくれていた。でも普通の客と違って僕には今夜しかない。だからしたいことをちゃんと伝えないと、と思い勇気を振り絞った。
「お話がしたかっただけなんです!」
遊女である彼女を一夜買ってただ話がしたいなんて――自分でも分かってる。変だって。
だけど夕顔さんはそんな僕の変な言葉に対して笑みを零した。嘲笑とは違う嫌な感じじゃない笑み。それは美しさの陰に隠れた可憐な一面、それだけでも大金を払った価値のあるものだった。
でもやっぱりこんな事をお願いするのは迷惑かもしれない。そう思っていた僕だったが彼女はそれを快く受け入れてくれた。それに楽しそうな笑みまで浮かべてくれていたのはきっと僕を気遣ってくれていたからなんだろう。しかも話しがしたいと言い出しのにも関わらず、すぐに話題が思い浮かばなかった僕へ助け船として先に質問をしてくれた。
そこからは言葉を交わしている内に段々と緊張が解れ――というより楽しさが勝り夕顔さんの顔を見る事もちゃんと話す事も出来るようになっていった。きっとそれは彼女が話し上手で聞き上手だからなんだろう。
途中、戸惑いが隠せず顔の熱さと滑らかで柔らかな感触を感じる事もあったが彼女は僕が眠りにつくまで望み通り話し相手になってくれていた。それは内容なんてよく覚えてないような他愛ない会話だったけど僕の言葉にあの夕顔さんが反応してくれているというのが嬉しくてたまらなかった。
ずっと見る事しか出来なかった夕顔さんが僕の隣で、僕の話に耳を傾け反応し、笑みを浮かべてくれる。単なる夢世界での出来事かそうじゃなければそれは温かな雪が降り注ぐ程の奇跡だ。到底、信じられる事じゃない。はずなのに夕顔さんが握ってくれていた手から伝わる温もりは不思議と僕に現実味を与えてくれた。夢などじゃなくて私はここにいると語りかけるように。
最初に彼女が言ってくれたように(意味は違えど)それは僕にとって忘れられない最高の夜となった。もし可能ならずっとこの時間に閉じこもりたいと願う程、一生忘れる事のない最高の夜。
でもそういう意味ではやっぱりこれは夢だったのかもしれない。朝になり目覚めれば終わってしまうように朝を迎えた僕にもそれは訪れた。
いつものように早朝に目覚めた僕は寝ぼけた頭が覚めるにつれ昨夜の事を思い出していた。そして見慣れない天井から視線を横へ移してみるとそこには穏やかな表情で眠る夕顔さんの姿。その瞬間、今までのどの朝よりも幸福感に満ちた朝へと変わった。夕顔さんは忘れられない最高の夜だけじゃなくて最高の朝も僕にくれたらしい。おまけにしてはあまりも贅沢過ぎる気もするが。
僕はその贅沢なおまけをもう少し堪能してからゆっくりと起き上がり部屋を出ようとした。だが物音でも立ててしまったのか部屋を出る前に夕顔さんが目を覚ましてしまった。本当は起こしたくはなかったけど、起きてしまったのだからと朝の挨拶と言葉をいくつか交わす。それから部屋を出ようと思ったが起き上がり傍まで来てくれた彼女は、最後にまた贅沢過ぎるおまけ――というよりお土産をくれた。離れても尚そこには確かな感覚が残っていて……。
「おさればえ、八助はん」
夕顔さんはそう言うと莞爾として笑った。その瞬間、脳裏にはあの日花魁道中で見た光景が稲光のように浮かび上がってきた。重なり合う現実と記憶。もしかしたら今のが一番忘れられない瞬間なのかもしれない。いや、そうだ。これから何度も繰り返し思い出すそんな瞬間だった。
そして頬に残る感覚を感じながら僕は改めて終わったんだという事を実感した。同時にもう昨夜のような夜もこんな朝も二度と来ないんだという事も。
「ありがとうございました」
最後にこの部屋に入ってから今まで分をまとめて一言、お礼を言った。そして部屋から出ると下へ向かう為に廊下を歩き出す。一階まで降りて裏口から外へ。でも仲ノ町に入る前に僕は一度振り返り吉原屋の最上階を見上げた。まるでもう二度とないと言うように閉まったままの窓。
「そうだよね」
僕は一人呟きながら何度か小さく頷くと前を向き直し店へと帰った。
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