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第三章:夕日が沈む

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 それからしばらくの間、なすがままに溢れ出る涕涙に頬を濡らしていた私だったがそれも時間と共に段々と落ち着きを取り戻し豪雨から涙雨の程度まで収まった。でも私より私を知っていると言うような感情が先行してただけで依然と頭の中はぐちゃぐちゃ。あの光景の事は何も整理出来ていなかった。それにまだ心臓の鼓動に乗り悲感が全身を駆け巡っている。

「大丈夫ですか?」
「すんまへんな」
「いえ。僕は大丈夫ですよ」

 私は身を寄せ彼の腕に包み込まれたまま顔だけを前へ向けた。
 そして何があったのか自分の中で確認するがてら(何も言わないが私より訳が分からないであろう)八助さんに説明を始めた。ここへ来る途中に遊女たちが集まっていて気になった自分もその場所へ近づいてみると、そこには向き合い横たわるひさと奉公人の姿があって既に死んでいたという事を。そしてひさと私は禿時代から一緒で一番仲がいいという事も。

「それは……なんて言ったらいいか」
「なんも言わんとええよ」
「すみません」
「こうしてくれてるだけで十分やで」

 そう言うと彼の私を抱き締めている腕に(更に抱き締めるように)触れた。
 そして彼の温もりと時折頬を流れる泪を感じながら私は昨日の事を思い出していた。

「実は昨日、朝食を食べた後に蛍がわっちの部屋に来とってな。ここ最近よりえらい元気やったさかい常夏の事から立ち直れたのか思うとった。そやけど違うたんやな」
「常夏さんの事って?」
「常夏っちゅう名前の遊女の子がおったんやけど、その子と蛍は仲良かってん。そやけどその子、少し前に死んでもうてな」
「その方ももしかして同じように?」
「いや、その子は病気やな。梅毒っちゅう」

 八助さんはまた何を言っていいか分からなかったんだろうそのまま申し訳なさそうに口を噤んだ。でも私はそれに対して何かを言う気はなく話をつづけた。

「その時、あの子はさっきのわっちぐらい泣いとった。それからも笑うてはいたけど心は落ち込んどって。そやけど昨日はそうは見えへんかった。そやさかいもう大丈夫なんやって安心しとったけど、あの時の言葉はよう考えたら少し変やったし、もう決めとったさかいあないな平気そうやったのかもしれへん」

 急に本名を教えて忘れないでって言ったのも、あんな風に泣いてたのもそう思えてくる。「どれだけ遠くに離れて」も「あたしが居なくても大丈夫」も最後の「じゃあね」も、彼女の言葉の意味が違って聞こえる。合図はあったはずなのに。

「なんで気付かへんかったんやろ」
「そんなの無理ですよ。数日前に友人の不幸があったのなら尚更」
「そやけどわっちが――」
「夕顔さんは悪くないですよ」

 言葉を遮った彼は少し強く私の体を抱き締めた。そんな事は分かってる。だからこそその言葉は深く胸に響いた。そして私も彼の腕に触れる手に力が入った。

「そやけどなんで。あと五年やったのに……」
「なんでかは僕も分からないですけど、でも五年って長いですよね。辛い生活をしながらだと余計に」
「その間に病気になったり生き続けられる保証もあらへんしな」
「もしかしたらそれを常夏さんの事でより強く感じたんじゃないですか? だからそんな五年を続けるよりは愛する人と幸せの中でって」

 不安に満ちた彼女と幸せそうな笑みを浮かべ横たわる彼女の姿が見比べるように脳裏へ浮かぶ。確かに彼女はずっとこの遊女としての生活を嫌ってた。私よりも強く。でももうひさは遊女として生きる必要はない。最後は愛する人の隣で愛する人を感じながら、その部分は良かったのかもしれない。
 そしてもう一度、彼女の最後の表情が浮かんできた。

「蛍は幸せなんかな?」
「――分かりません。でも少なくとももう何かに苦しむ事はないと思います」

 その言葉を聞きながら私の頭にはひさに初めて会った日から昨日までが走馬灯みたいに流れていた。まるで最後の別れをするように。笑い合い、支え合い、たまに喧嘩もして。人生最悪の出来事から生まれた人生最高の出会い。それは暗闇の中で煌めく温かな燈火。私が暗闇に吞み込まれないように照らしてくれていたのに。私は気が付かなった。その燈火が消えかかっていることに。あの明るさはまるで花火が散る時のように最後の煌めきだったという事に。
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