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第3章
渡辺新造
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翌日、稲荷千太郎は白船亭の前に立っていた。池の端からトボトボと徒歩で彼は浅草に到着した。ゼンマイ仕掛けの腕時計は午前九時を指していた。
白船亭は、浅草の雷門から見て非常に分かりやすい位置にあった。雷門のある雷門通りを隅田川にかかる吾妻橋方面から西方向へ行き、雷門から数えて三本目の路地を左に曲がって一つ目の角にあった。角といっても、各々約六メートル程度の道路の角であったために、気楽に入れる店という雰囲気ではなく、お得意さん又は団体のお客が主な客層で、飛び込み客はほぼ皆無だった。
外観は角の接する隅切り状の部分に店の門がある。立派な柱が入り口の両方に立ち、左側の柱に木製の看板がかかっており、墨字によって「白船亭」と書かれている。敷地全体を囲んでいる壁も和風であり、隣家との敷地の境目付近の塀に自宅へ通じる勝手口のようなものがあった。おそらく、その勝手口を開けると、奥に自宅の玄関があるのだろうと推測できた。店の門構えが立派なくせに自宅は勝手口から入ると話していた白船喜平の商売熱心さが伺われた。
店の門を潜ることもなく、道路から店の入り口が見える。店の入り口まで十メートル程度の区間は庭を見ながらお客を楽しませるようになっており、左側に小さな池があり、無数の鯉が飼われている。その池の背後に、良く手入れがされた松の木があった。右側には建物が建っている。長い廊下がガラス窓越しに見え、その長い廊下に沿って縁側があった。夕方にでもなれば、その長い廊下を仲居さん達が慌しくお膳を両手で持って移動して行く姿が見られる。自宅は勝手口の位置からして更に右側部分にあるのだろうと思われた。庭から自宅部分が見えないように、店と自宅の境目付近にも木を植えてあった。
稲荷千太郎は、白船亭がその日は休業日だということを知っていたが、喜平から店の入り口へ来てくれと言われたのを思い出し、その通りにした。
稲荷千太郎は、門から庭を通り、白船亭の大きな店の玄関の引き戸を開けた。引き戸は古めかしい木製の戸で、ガラガラと音を立てた。
「おはようございます」
稲荷千太郎は大きい声を出した。それに対する返事は聞こえてこなかった。何度か声をかけたが、中は静まり返っていた。
しばらく待つと奥のほうから一人の女性が和服姿で顔を出した。
「はい。おまたせいたしました」
その女性は年齢も六十代であろうと思われる初老で、白髪交じりの髪を和風にアップしていた。おそらく、若いときはさぞかし美しかったであろうとつい想像してしまうようなしとやかな清楚な雰囲気を持っている痩せ型の女性だった。
「失礼ですがどちら様でしょうか」
「あ、はい。行政書士の稲荷と申します」
「ああ、お話しは旦那様から聞いています。行政書士の稲荷先生ですね。どうぞ、お上がり下さいませ」
稲荷千太郎は、その初老の女性に導かれて店の玄関から建物の中に入った。玄関は広く、夜間は下足番が必要なくらいの広さだった。一段高い位置に上がると、廊下であり、右側は先ほど庭から望むことが出来た縁側がある廊下が続いていた。
稲荷千太郎が通されたのは、玄関を上がって左側にある階段を上がった二階の大広間だった。そこに、テーブルが置いてあり、喜平が座布団の上に胡坐をかいて座っていた。
「やあ、稲荷さん。お待ちしていました」
「いやあ、白船さん、おはようございます。うわさに聞いたとおりの純和風で、しかも昭和初期の名残が残る風情を感じる料亭ですね」
「いやいや、たいしたことはない。さあ、まずはこちらへお座りください」
稲荷千太郎は喜平の正面に座った。
「おーい、しんさんよ。お茶を入れて来てくれないか?」
しんさん、というのは先ほど稲荷千太郎を玄関で出迎えてくれた和服姿の女性の名前だった。この女性は喜平から聞いたところ、「乳井しん」という名前の女中兼仲居をしている人で、かれこれ数十年間この白船亭及び白船家に仕えていた。営業中は、料亭の仲居達のリーダー的役割をし、その他の時間は白船家のお手伝い的な仕事をしていた。この家が広いこともあって、乳井しんは、喜平の好意によって、白船亭(いや白船家というほうが正確であろう)に住み込みで仕事をしていた。しかも、乳井しんには新吉という息子がいるが、この息子まで喜平の好意で一緒に生活していた。
稲荷千太郎は、その乳井しんが運んできてくれたお茶を啜った。
「美味しいお茶ですね。」
喜平はニコニコと微笑んだ。
「そう言えば、あんたの事務所のお茶は薄かったな。飲めたものじゃない」
稲荷千太郎は、口にしたお茶を一瞬吐き出しそうになった。
「いやあ、まいったな。何せ貧乏なもので」
「まあ、何杯でも飲んでくれ」
稲荷千太郎は、お茶を飲みながら大広間をぐるりと見渡した。
「それにしても、大きな広間ですね」
「百畳だよ」
「なるほど」
「ここは団体客が入る場所だ。この料亭は団体客を積極的に誘致しているため、こうした大きな広間が必要なのだ」
「個室はあるのですか?」
「二階には、ここの他に十畳の個室が三室あるよ。一階は、この真下にここと同じ大きさの広間がある。個室は用意していない。厨房があるからね」
稲荷千太郎は、喜平の話を聞きながらお茶をすすり続けた。
「ときに、こちらに来た早々で何なのですが、私はどうすればよろしいのですか?」
と、喜平の顔を覗き込むようにして見ながら稲荷千太郎は言った。
「私の家はこの通り広い。部屋はいくらでも余っているので、稲荷さんに部屋を用意してあります。まず、そこに荷物を運んでほしい。早速だが、荷物を運んだ後にひとつ頼みがある」
「はい。分かりました。ところで、昨晩は何もなかったですか?」
「ああ、特になかった。大丈夫。お茶をさっと飲んで荷物を置いてきてください」
稲荷千太郎は、妙にせき立てられるような雰囲気を感じた。
稲荷千太郎は乳井しんに案内されて、料亭の長い廊下を歩いた。長い廊下の右には縁側があり、先ほど歩いた庭が右側に見える。その長い廊下を突き当たると木戸があり、その木戸を開けると更にドアがあった。これが、白船家の自宅へ通じるドアであった。
自宅へ移行してもさほど料亭と雰囲気は変わらなかった。板の間の廊下、ミシミシと音を立てる階段、昼間から電気をつけても薄暗いイメージの木造家屋である。稲荷は乳井しんから二階にある部屋のひとつに案内された。
「稲荷さん・・・でしたよね。こちらにお泊りいただきます。何かあれば私に言ってください」
乳井しんは、それだけ言うと、部屋を出ていった。
その部屋は、一応ドアはあるが、なんの変哲もない和室の六畳間だった。
とはいえ、後で気が付いたが、この家の部屋は応接間を抜きにして洋間は二室だけで、あとの全ての部屋が和室だった。
稲荷千太郎は、着替えの入っている鞄を畳の上に無造作に置き、再び喜平の待つ大広間に戻った。喜平は先ほどと同じ格好で、大広間に座っていた。
「そういえば、稲荷さんはこういう仕事をする日でも背広を着るのだね」
「はい、まぁ・・」
実は、稲荷千太郎はラフな洋服などは持ち合わせていなかった。ヨレヨレの背広しか持っておらず、彼にとってはそれで良かったのである。喜平がいったのは、世辞のようなもので稲荷千太郎の風体は、金持ちには見えず、どちらかといえば、だらしない部類だった。
「まあ、おかけなさい」
稲荷千太郎は再び喜平の前に座った。
「実はね、稲荷さん」
「はぁ・・・」
「今から言うことも、この前差し上げた報酬の前金に含まれていると思って聞いて欲しいのだが」
「はぁ・・・」
「稲荷さん、さっきから、はぁ・・・とそんな返事ばかりだけど、大丈夫か?」
「はぁ・・・まあ」
喜平は稲荷千太郎の態度を見てやや苛立ちながら自分の首筋をボリボリと右手の人差し指で掻きむしった。
「白船さんの言うことが分かりません。ボディガードというのは、相手が来るのを待つのが原則で、こちらから積極的に何かをすることがあるのですか?」
「まあ、稲荷さん、そうむきにならないで」
「分かりました。それで、何をすれば?」
「実は、これから渡辺新造の家に一緒に行って欲しいのだ」
「渡辺新造?それは誰でしたっけ?」
「困りますなあ。昨日話しをしたではありませんか」
稲荷千太郎は、昨日喜平から聞いた話をよくよく思い返した。
「渡辺・・・・。え、まさか・・・・」
「そう、そのまさかです」
稲荷千太郎は、喜平が彼の事務所で話した戦地での出来事を思い出した。渡辺新造というのは戦地で土井宗次郎を喜平と共に斬りつけた男ではないか。なるほど、喜平が土井に狙われているとうことは、喜平とグルになった渡辺新造も喜平同様に狙われていても不思議ではない。
「そ、その渡辺新造さんのところにも同じような脅迫文が届いているのでしょうか?」
「いや、それは分からない。五日前には届いていない。しかし、昨日のことは分からない。だから、気になっているのだ」
「な、なるほど・・・」
少し嫌な雰囲気になってきた、と稲荷千太郎は思った。喜平だけでなく、渡辺新造のことまで考慮しなくてはいけないと思うと、荷が増えているような気がしてならなかった。
「しかし、白船さん、その渡辺さんのことを心配するのもよいのですが、もう何十年もお会していないのでしょう?今更、こんなときだけ心配しても仕方ないのではないでしょうか?それに、もし、渡辺さんにもしものことがあれば、すでに新聞で話題になっていますよ」
「稲荷さんがいうことは最もな話しだが・・・」
「それなのに・・・?」
「実はね。渡辺新造は、この家の近くに住んでいる。だから五日前には脅迫状は来ていないといったのだ」
「えっ。渡辺さんはこの辺にお住まいなのすか?」
聞けば渡辺新造の自宅は、白船亭から南へ三百メートル行けばあるという。渡辺新造は、元々は栃木県の旧家の長男で、裕福な環境に育っており、東京へ出てきて、大学の医学部へ進んだ。渡辺新造は、実家からの仕送りで不自由なく大学を卒業した。そして、一度、実家の栃木へ戻り、そこで産婦人科を開業した。栃木では、あまり患者も多くなく、生活に困窮した。その後、戦争へ行き復員したが、当時の戦友であった白船喜平に相談し、活気があった浅草で産婦人科を再開業した。よほどの変わり者なのか女房もおらず、一人で住んでいた。木造の二階建に住んでいるらしく、その建物の一階は診療所、二階は自宅であった。
「それで、渡辺さんは、お一人なのですか?」
「そう。だいぶ昔には看護婦さんも数人いたのだが、今では一人。患者もほとんど来なくなったし、好きな将棋などをやりながら、のんびりと生活している」
「で、白船さんも良くお会いしているのですね?」
「しばしば会っている。将棋仲間でもあるしね」
「昨日とか一昨日とかなぜ会わなかったのですか?」
「最後に連絡がとれたのが五日前のことだ。最後に会った時には、脅迫状などは来てないといっていたが。今まで、五日も間を開けて彼に会ったことない。二、三日に一度は会っていたからね。そんな訳で、彼の身に何かあったのではないかと心配しているのだよ」
「連絡は試みたのですか?」
「もちろんだよ。一昨日に家に行ってみた」
「そうですか。で、そのときは?」
「誰も居なかった。」
「今日、行ってみて誰も居なかったらどうします?」
「一昨日は、ドアをノックして、そして家の外から大きな声で声を掛けた。それであきらめて帰って来た。今はそれだけでは納得できない気分だ。今日はドアを壊してでも室内に入るつもりだ」
「それをしてしまったら、こっちが住居侵入罪に問われてしまいますよ」
「実はね。新造さんの家には庭はないのだが建物の外側に人が一人歩ける程度の幅を空けて塀がある。道路からの正面入口は診療所の出入り口だが、塀と建物の隙間をぐるっと横に回ると自宅の勝手口があるのだよ。そこが、いつも開いている。留守の場合は閉まっているが、居れば開いている。開いていればそのまま入るが、閉まっていれば壊す。さほどのことではない。たしかに住居侵入になってしまうが、たいしたドアではない。後で新造さんにそのドア代を弁償すれば済む事さ。とにかく嫌な予感がする。一人では怖くて行けない。そこまで嫌な予感を感じているのだよ」
「しかし、白船さんの元にはいつごろに脅迫状が届いたのでしたっけ?」
「うん、かれこれ一週間前」
「一週間前に白船さんの元に脅迫状が届いているのに、渡辺さんの元には五日前現在でそのような手紙は届いていなかった。そう考えると、白船さんの心配は無用なのではないでしょうか?恐らく、そういうイタズラは同時に届くはずです」
「分かった。分かった稲荷さん。あなたの言う通りかもしれない。あくまで、私、いや老人のいらぬ心配と思ってください。但し、老人は頑固でね。やはり、この目で確認しないと健康に悪いのだよ。だから、あなたに付き合って欲しいのです」
この話しを聞いた瞬間、稲荷千太郎は嫌な印象を覚えた。なぜなら、戦友である渡辺新造がこの近所にいるという不意な事実に対して驚いたことが気持ちの中で先行していたからである。しかし、冷静に考えると、一週間前に喜平には脅迫状が届いているのに、五日前の段階では、渡辺新造には届いていない。そうであれば、これは白船喜平に対してだけのいたずらであり、渡辺新造にはまったく関係のないことではないか。
「しかし、白船さん。私はあなたのボディガードとして雇われただけなのに、ご友人の安全確認までしなくてはならないのですか?」
「まあ、そんなに固いことを言わんでも良いだろう。ついでの話だよ」
「分かりました。それで気が済むのなら一緒に行きましょう」
稲荷千太郎と白船喜平は、その足で渡辺新造の家に向かうことにした。白船亭から三百メートルの位置にあるおいうことで、特に何の準備もなく、気楽に出かけるという雰囲気で二人は白船亭を出る準備をした。その時点では、喜平も渡辺新造のことを心配しているとはいえ、それは老人の要らぬ心配にすぎず、いわば「気持ちの問題」というより他はなかった。
「おーい、しんさんよ」
喜平は仲居の乳井しんを呼んだ。
乳井しんは、長い廊下を和服姿で小走りしながら大広間に再び顔を出した。
「私と稲荷先生は、これから新造さんの家に行って来る。あんたに話した通り、ドアを壊してまで中に入ろうと思う」
乳井しんは、ビックリしながら、
「本当ですか?」
と、言った。
「本当だよ。行かないとまずいだろう」
稲荷千太郎は、この二人のやり取りを黙って聞いていた。
「ときに稲荷さん。このしんさんも渡辺新造さんに無関係な人間ではないのだよ。しかも、私のような経営者には何かと相談相手が必要なのだが、私はこのしんさんを信頼していてね。何でも相談できる立場にいる。だから、土井宗次郎らしき人間からの脅迫状の件も話してあるし、私が渡辺新造さんのことを心配している理由も話してある。遺言書も書いたこともね」
「えっ、遺言書の内容を他人に話すのはまずいですよ」
「内容までは話していない」
「そ、そうですか」
稲荷千太郎は、喜平がよほど、この乳井しんという仲居を信頼していることが分かった。
「ところで、こちらの乳井さんが、なぜ渡辺新造さんと関わりがあるのですか」
「それはね」
と、喜平が話そうとした瞬間、乳井しんが横から割って入ってきた。
「それは、私から説明させていただきます」
「ああ、そうかい。では、そうしてくれ」
「はい。実は稲荷先生。私には、こちらの白船亭でお世話になったいきさつというのがございます。私がこちらの職場を紹介してくれたのが渡辺先生だったのです」
「なるほど。そういうことだったのですね」
「でも、ただの紹介ということではなく、渡辺先生が栃木から浅草へ産婦人科の診療所を移す時に私も栃木から一緒に浅草へ来たのです」
「そ、それはどういうことですか」
「私は栃木で渡辺先生の診療所で働いていたのです。看護婦ではありません。ただの手伝い程度の仕事でした。渡辺先生が、仕事が上手くいかないので浅草へ移転するといった時、働き先がなくなってしまう私は困りました。そこで、渡辺先生にお願いして、白船の旦那様を紹介していただき、私はこちらにお勤めする前提で渡辺先生と上京したのです」
稲荷千太郎は深く頷いた。
「御苦労なさったのですね」
「いえ、苦労だなんて。私はこちらの旦那様のお陰でその後は、楽しく生活させていただいています。ただ、浅草に来ても、渡辺先生のところは相変わらず患者が少なかったようですけど。そういうわけで、旦那様に今回の話しを聞いて、私も渡辺先生のことをいささか心配しているのです。ただ、旦那様が行かれるといっていましたので、それも心配ですしね。稲荷先生が一緒に行って下さるということで、少し安心しましたわ」
稲荷千太郎は、やや苦笑した。
「いやあ、そんなに期待されても私には腕力もないですし、用心棒は務まりませんよ」
乳井しんは、稲荷千太郎の言葉を聞いてクスクス笑いながら、
「確かに、こう言っては失礼ですが、稲荷先生は強そうには見えませんね」
と、言った。
稲荷千太郎と、乳井しんは共に大笑いした。
しかし、喜平は黙り込んで神妙な顔をしていた。
「稲荷先生、笑っている場合ではないのだよ。しんさんもそうだ。稲荷先生がここにいる訳は、ここが今現在普通な状態ではないからなのだぞ。その辺は理解しなさい」
乳井しんはそれでも笑いが止まらなかったが、喜平の言葉で笑いのトーンを少し抑えた。
「すみません、旦那様。以後、気をつけます」
「そうしてくれ。我々はこれから新造さんのお宅へ行ってくるから、後は頼む」
「分かりました」
喜平はYシャツにノーネクタイで、グレーのやや疲れた背広を羽織り、手にはステッキを持ち、玄関を出た。稲荷千太郎も、喜平の歩く速度に合わせてゆっくりと歩いた。
それだけゆっくり歩いても、渡辺新造の家までは五分とかからない距離にあった。
二人が白船亭から真っすぐ南方向へ直進すると、やがて左側に「渡辺産婦人科」と書かれた看板が見えた。
渡辺新造の家は、外壁はモルタル塗りの瓦屋根の木造家屋で、看板がなければ只の住宅に見える外観だった。
その診療所、いやその家屋全体が約二メートル程度の高さの塀で囲まれていた。道路から見ると、門の正面は産婦人科の入り口なので、自宅の入り口がどこにあるのかは分からない。しかし、先ほど喜平がいったとおり、産婦人科の入り口から建物へ入るのではなく、産婦人科の入り口を無視して右から塀と建物間の隙間をぐるっと周ると勝手口があった。
勝手口は木製のドアだった。
二人は、ドアの前に立つと、しばらくじっと立ちすくんだ。何事もないだろうと予想しながらも他人の家のドアを開くのは、気が引ける面があった。
しばらくして、喜平がドアに手をかけ、ノブを右に回したところ、そのドアは開いた。喜平の後ろに稲荷千太郎は立っていた。
二人ともかなり緊張していた。何が起こるのか僅かばかりの不安もあり、予想がつかないからである。木製のドアは、きしみ音と共に静かに開いた。
「開いた。ということは、居る?」
稲荷千太郎は緊張した面持ちで独り言を呟いた。額にはうっすらと汗を掻いていた。
ドアを開くとすぐに右側に階段があり、左側にもうひとつのドアがあった。
「おい、新造さん、いるかい?」
喜平は何度も大きな声で渡辺新造の名を呼んだ。何回呼んでも返事がないために中に入ろうと喜平は稲荷千太郎に言った。
「いや、止めときましょう。きっと、近くへ買い物にでも出かけているのでしょう。勝手に入ると住居侵入罪になってしまいますよ」
稲荷千太郎は、先ほど白船亭でいったセリフをここでも繰り返した。本音は勝手に人の家に入ることが嫌だったのである。
喜平は稲荷千太郎の話を無視し、更に大声で叫んだ。
「おい、新造さん、居ないのなら勝手に中に入るぞ」
喜平は稲荷千太郎が制止するのを無視して、靴を脱ぎ、さっさと階段を上がった。
「あんた、いやならそこで待っていても良い」
喜平は階段を登りながら後ろを振り向いて、吐き捨てるように稲荷千太郎にそう言った。稲荷千太郎は、その言葉通りに、玄関先で立ったままだった。
喜平が階段を上がり、数分が経過した。やがて、ゆっくりと階段を下りる足音と階段のきしみ音が聞こえてきた。ミシミシという木造家屋独特の階段がきしむ音だ。喜平は、勝手口へ戻り、稲荷千太郎に、
「誰もいない」
と、言った。
「そうでしょう。私はそんな気がしていました。白船さんが、これだけ呼んでも返事がないのですから渡辺さんはいないのですよ」
喜平は鋭い目つきを稲荷千太郎に向けた。
「いや、そっちの診療所をまだ見ていない」
「いやあ、もう返事がないのですから。帰りましょう」
稲荷千太郎は執拗にそういったが喜平はそんな彼を無視して、玄関から見て左のドアを開いた。この左側のドアが診療所へ通じるドアだった。
稲荷千太郎は喜平の態度に半分あきれてドアの外に立ち、ぼんやりと空の雲を見ていた。
その時、にわかに家の中が静まりかえった。
その瞬間であった。
「ギャー」
という声が診療所のほうから聞こえた。それは、あきらかに喜平の悲鳴であった。
「稲荷、稲荷さん、来てくれ、来てくれ」
稲荷はその声を聞いて、靴も脱がずに、喜平が先ほど入っていったドアの方向へ走った。
中に踏み込みとすぐに違うドアが二つあった。
右をとっさに開けた。しかし、そこはトイレのドアだった。すかさず左のドアに手をかけた。
「ギャー・・・・」
稲荷千太郎もとっさに悲鳴をあげた。驚いたことに、ドアを開けた先の、その部屋の床が血まみれの状態だったのである。
その部屋は渡辺新造の診療室だった。稲荷千太郎が開けたドアの方向からは、産婦人科で見かける分娩イスがあり、そのイスの背面が見える状況であった。そして、稲荷千太郎の目線から見ると、左と右の壁面には書棚くらいの大きさの物入れがあり、左側の壁面には文字通り医学書などが格納されている書棚があり、右側には医療器具の入った棚があった。そして、分娩イスの奥の窓際には渡辺新造の机が置かれている。
床には、まるで血の池が乾燥したかのような跡が出来上がっており、多量の血液が水溜りのような様相を呈した後、その大部分が既に乾燥していた。
「ああああ・・・警察を・・・・」
喜平は腰を抜かした姿勢で目玉を大きく広げたまま、分娩イスを指差した。
稲荷千太郎の位置からは分娩イスの背後しか見えず、喜平が指を指しているものが何であるかを知ることができなかった。
「し、白船さん・・・そ、そこに何かあるのですか?」
稲荷千太郎も、腰が抜けたような状態で、開けたドアにもたれかかりながら叫ぶように言った。室内はパニック状態に陥った。
「あああ・・・早く来てくれ」
喜平は腰を抜かしたまま立ち上がることが出来ない。稲荷千太郎は、急ぐことも出来ずに、ゆっくりと分娩イスに近づいた。
そして、イスに手を掛けて、恐る恐る覗き込むようにイスの腰掛の部分を見た。
「ぎゃー、あああああ」
稲荷千太郎はそのまま弾き飛ばされるように自ら背後に腰を抜かした。結局、彼も喜平と同じような格好になり起き上がることが出来なくなった。
そのイスには、恐ろしいことに首のない死体が腰掛けているではないか。しかも、その死体は白衣を着たままで血まみれになっており、おそらく犯人がやったのであろうと思われるが、自分の両方の手の平で自らの首を抱えて持っていた。
その残酷な被害者の姿を見て、たまげない者はいないであろう。しかも、大量の血がその死体から流れ落ち、その血が床に水溜りのような血の池をつくっていたのである。既に大部分は乾燥しているとはいえ、床は未だに湿っており、それが血液であることは誰の目にも明らかであった。
しかも、死んでいる本人は、両手の手のひらの上に自分の首を持ったままである。
「警察を呼べ」
と、喜平は稲荷千太郎に向かって叫んだ。
稲荷千太郎は、床を這うようにして、机の上の電話機の受話器を持ち、警察へ通報した。
白船亭は、浅草の雷門から見て非常に分かりやすい位置にあった。雷門のある雷門通りを隅田川にかかる吾妻橋方面から西方向へ行き、雷門から数えて三本目の路地を左に曲がって一つ目の角にあった。角といっても、各々約六メートル程度の道路の角であったために、気楽に入れる店という雰囲気ではなく、お得意さん又は団体のお客が主な客層で、飛び込み客はほぼ皆無だった。
外観は角の接する隅切り状の部分に店の門がある。立派な柱が入り口の両方に立ち、左側の柱に木製の看板がかかっており、墨字によって「白船亭」と書かれている。敷地全体を囲んでいる壁も和風であり、隣家との敷地の境目付近の塀に自宅へ通じる勝手口のようなものがあった。おそらく、その勝手口を開けると、奥に自宅の玄関があるのだろうと推測できた。店の門構えが立派なくせに自宅は勝手口から入ると話していた白船喜平の商売熱心さが伺われた。
店の門を潜ることもなく、道路から店の入り口が見える。店の入り口まで十メートル程度の区間は庭を見ながらお客を楽しませるようになっており、左側に小さな池があり、無数の鯉が飼われている。その池の背後に、良く手入れがされた松の木があった。右側には建物が建っている。長い廊下がガラス窓越しに見え、その長い廊下に沿って縁側があった。夕方にでもなれば、その長い廊下を仲居さん達が慌しくお膳を両手で持って移動して行く姿が見られる。自宅は勝手口の位置からして更に右側部分にあるのだろうと思われた。庭から自宅部分が見えないように、店と自宅の境目付近にも木を植えてあった。
稲荷千太郎は、白船亭がその日は休業日だということを知っていたが、喜平から店の入り口へ来てくれと言われたのを思い出し、その通りにした。
稲荷千太郎は、門から庭を通り、白船亭の大きな店の玄関の引き戸を開けた。引き戸は古めかしい木製の戸で、ガラガラと音を立てた。
「おはようございます」
稲荷千太郎は大きい声を出した。それに対する返事は聞こえてこなかった。何度か声をかけたが、中は静まり返っていた。
しばらく待つと奥のほうから一人の女性が和服姿で顔を出した。
「はい。おまたせいたしました」
その女性は年齢も六十代であろうと思われる初老で、白髪交じりの髪を和風にアップしていた。おそらく、若いときはさぞかし美しかったであろうとつい想像してしまうようなしとやかな清楚な雰囲気を持っている痩せ型の女性だった。
「失礼ですがどちら様でしょうか」
「あ、はい。行政書士の稲荷と申します」
「ああ、お話しは旦那様から聞いています。行政書士の稲荷先生ですね。どうぞ、お上がり下さいませ」
稲荷千太郎は、その初老の女性に導かれて店の玄関から建物の中に入った。玄関は広く、夜間は下足番が必要なくらいの広さだった。一段高い位置に上がると、廊下であり、右側は先ほど庭から望むことが出来た縁側がある廊下が続いていた。
稲荷千太郎が通されたのは、玄関を上がって左側にある階段を上がった二階の大広間だった。そこに、テーブルが置いてあり、喜平が座布団の上に胡坐をかいて座っていた。
「やあ、稲荷さん。お待ちしていました」
「いやあ、白船さん、おはようございます。うわさに聞いたとおりの純和風で、しかも昭和初期の名残が残る風情を感じる料亭ですね」
「いやいや、たいしたことはない。さあ、まずはこちらへお座りください」
稲荷千太郎は喜平の正面に座った。
「おーい、しんさんよ。お茶を入れて来てくれないか?」
しんさん、というのは先ほど稲荷千太郎を玄関で出迎えてくれた和服姿の女性の名前だった。この女性は喜平から聞いたところ、「乳井しん」という名前の女中兼仲居をしている人で、かれこれ数十年間この白船亭及び白船家に仕えていた。営業中は、料亭の仲居達のリーダー的役割をし、その他の時間は白船家のお手伝い的な仕事をしていた。この家が広いこともあって、乳井しんは、喜平の好意によって、白船亭(いや白船家というほうが正確であろう)に住み込みで仕事をしていた。しかも、乳井しんには新吉という息子がいるが、この息子まで喜平の好意で一緒に生活していた。
稲荷千太郎は、その乳井しんが運んできてくれたお茶を啜った。
「美味しいお茶ですね。」
喜平はニコニコと微笑んだ。
「そう言えば、あんたの事務所のお茶は薄かったな。飲めたものじゃない」
稲荷千太郎は、口にしたお茶を一瞬吐き出しそうになった。
「いやあ、まいったな。何せ貧乏なもので」
「まあ、何杯でも飲んでくれ」
稲荷千太郎は、お茶を飲みながら大広間をぐるりと見渡した。
「それにしても、大きな広間ですね」
「百畳だよ」
「なるほど」
「ここは団体客が入る場所だ。この料亭は団体客を積極的に誘致しているため、こうした大きな広間が必要なのだ」
「個室はあるのですか?」
「二階には、ここの他に十畳の個室が三室あるよ。一階は、この真下にここと同じ大きさの広間がある。個室は用意していない。厨房があるからね」
稲荷千太郎は、喜平の話を聞きながらお茶をすすり続けた。
「ときに、こちらに来た早々で何なのですが、私はどうすればよろしいのですか?」
と、喜平の顔を覗き込むようにして見ながら稲荷千太郎は言った。
「私の家はこの通り広い。部屋はいくらでも余っているので、稲荷さんに部屋を用意してあります。まず、そこに荷物を運んでほしい。早速だが、荷物を運んだ後にひとつ頼みがある」
「はい。分かりました。ところで、昨晩は何もなかったですか?」
「ああ、特になかった。大丈夫。お茶をさっと飲んで荷物を置いてきてください」
稲荷千太郎は、妙にせき立てられるような雰囲気を感じた。
稲荷千太郎は乳井しんに案内されて、料亭の長い廊下を歩いた。長い廊下の右には縁側があり、先ほど歩いた庭が右側に見える。その長い廊下を突き当たると木戸があり、その木戸を開けると更にドアがあった。これが、白船家の自宅へ通じるドアであった。
自宅へ移行してもさほど料亭と雰囲気は変わらなかった。板の間の廊下、ミシミシと音を立てる階段、昼間から電気をつけても薄暗いイメージの木造家屋である。稲荷は乳井しんから二階にある部屋のひとつに案内された。
「稲荷さん・・・でしたよね。こちらにお泊りいただきます。何かあれば私に言ってください」
乳井しんは、それだけ言うと、部屋を出ていった。
その部屋は、一応ドアはあるが、なんの変哲もない和室の六畳間だった。
とはいえ、後で気が付いたが、この家の部屋は応接間を抜きにして洋間は二室だけで、あとの全ての部屋が和室だった。
稲荷千太郎は、着替えの入っている鞄を畳の上に無造作に置き、再び喜平の待つ大広間に戻った。喜平は先ほどと同じ格好で、大広間に座っていた。
「そういえば、稲荷さんはこういう仕事をする日でも背広を着るのだね」
「はい、まぁ・・」
実は、稲荷千太郎はラフな洋服などは持ち合わせていなかった。ヨレヨレの背広しか持っておらず、彼にとってはそれで良かったのである。喜平がいったのは、世辞のようなもので稲荷千太郎の風体は、金持ちには見えず、どちらかといえば、だらしない部類だった。
「まあ、おかけなさい」
稲荷千太郎は再び喜平の前に座った。
「実はね、稲荷さん」
「はぁ・・・」
「今から言うことも、この前差し上げた報酬の前金に含まれていると思って聞いて欲しいのだが」
「はぁ・・・」
「稲荷さん、さっきから、はぁ・・・とそんな返事ばかりだけど、大丈夫か?」
「はぁ・・・まあ」
喜平は稲荷千太郎の態度を見てやや苛立ちながら自分の首筋をボリボリと右手の人差し指で掻きむしった。
「白船さんの言うことが分かりません。ボディガードというのは、相手が来るのを待つのが原則で、こちらから積極的に何かをすることがあるのですか?」
「まあ、稲荷さん、そうむきにならないで」
「分かりました。それで、何をすれば?」
「実は、これから渡辺新造の家に一緒に行って欲しいのだ」
「渡辺新造?それは誰でしたっけ?」
「困りますなあ。昨日話しをしたではありませんか」
稲荷千太郎は、昨日喜平から聞いた話をよくよく思い返した。
「渡辺・・・・。え、まさか・・・・」
「そう、そのまさかです」
稲荷千太郎は、喜平が彼の事務所で話した戦地での出来事を思い出した。渡辺新造というのは戦地で土井宗次郎を喜平と共に斬りつけた男ではないか。なるほど、喜平が土井に狙われているとうことは、喜平とグルになった渡辺新造も喜平同様に狙われていても不思議ではない。
「そ、その渡辺新造さんのところにも同じような脅迫文が届いているのでしょうか?」
「いや、それは分からない。五日前には届いていない。しかし、昨日のことは分からない。だから、気になっているのだ」
「な、なるほど・・・」
少し嫌な雰囲気になってきた、と稲荷千太郎は思った。喜平だけでなく、渡辺新造のことまで考慮しなくてはいけないと思うと、荷が増えているような気がしてならなかった。
「しかし、白船さん、その渡辺さんのことを心配するのもよいのですが、もう何十年もお会していないのでしょう?今更、こんなときだけ心配しても仕方ないのではないでしょうか?それに、もし、渡辺さんにもしものことがあれば、すでに新聞で話題になっていますよ」
「稲荷さんがいうことは最もな話しだが・・・」
「それなのに・・・?」
「実はね。渡辺新造は、この家の近くに住んでいる。だから五日前には脅迫状は来ていないといったのだ」
「えっ。渡辺さんはこの辺にお住まいなのすか?」
聞けば渡辺新造の自宅は、白船亭から南へ三百メートル行けばあるという。渡辺新造は、元々は栃木県の旧家の長男で、裕福な環境に育っており、東京へ出てきて、大学の医学部へ進んだ。渡辺新造は、実家からの仕送りで不自由なく大学を卒業した。そして、一度、実家の栃木へ戻り、そこで産婦人科を開業した。栃木では、あまり患者も多くなく、生活に困窮した。その後、戦争へ行き復員したが、当時の戦友であった白船喜平に相談し、活気があった浅草で産婦人科を再開業した。よほどの変わり者なのか女房もおらず、一人で住んでいた。木造の二階建に住んでいるらしく、その建物の一階は診療所、二階は自宅であった。
「それで、渡辺さんは、お一人なのですか?」
「そう。だいぶ昔には看護婦さんも数人いたのだが、今では一人。患者もほとんど来なくなったし、好きな将棋などをやりながら、のんびりと生活している」
「で、白船さんも良くお会いしているのですね?」
「しばしば会っている。将棋仲間でもあるしね」
「昨日とか一昨日とかなぜ会わなかったのですか?」
「最後に連絡がとれたのが五日前のことだ。最後に会った時には、脅迫状などは来てないといっていたが。今まで、五日も間を開けて彼に会ったことない。二、三日に一度は会っていたからね。そんな訳で、彼の身に何かあったのではないかと心配しているのだよ」
「連絡は試みたのですか?」
「もちろんだよ。一昨日に家に行ってみた」
「そうですか。で、そのときは?」
「誰も居なかった。」
「今日、行ってみて誰も居なかったらどうします?」
「一昨日は、ドアをノックして、そして家の外から大きな声で声を掛けた。それであきらめて帰って来た。今はそれだけでは納得できない気分だ。今日はドアを壊してでも室内に入るつもりだ」
「それをしてしまったら、こっちが住居侵入罪に問われてしまいますよ」
「実はね。新造さんの家には庭はないのだが建物の外側に人が一人歩ける程度の幅を空けて塀がある。道路からの正面入口は診療所の出入り口だが、塀と建物の隙間をぐるっと横に回ると自宅の勝手口があるのだよ。そこが、いつも開いている。留守の場合は閉まっているが、居れば開いている。開いていればそのまま入るが、閉まっていれば壊す。さほどのことではない。たしかに住居侵入になってしまうが、たいしたドアではない。後で新造さんにそのドア代を弁償すれば済む事さ。とにかく嫌な予感がする。一人では怖くて行けない。そこまで嫌な予感を感じているのだよ」
「しかし、白船さんの元にはいつごろに脅迫状が届いたのでしたっけ?」
「うん、かれこれ一週間前」
「一週間前に白船さんの元に脅迫状が届いているのに、渡辺さんの元には五日前現在でそのような手紙は届いていなかった。そう考えると、白船さんの心配は無用なのではないでしょうか?恐らく、そういうイタズラは同時に届くはずです」
「分かった。分かった稲荷さん。あなたの言う通りかもしれない。あくまで、私、いや老人のいらぬ心配と思ってください。但し、老人は頑固でね。やはり、この目で確認しないと健康に悪いのだよ。だから、あなたに付き合って欲しいのです」
この話しを聞いた瞬間、稲荷千太郎は嫌な印象を覚えた。なぜなら、戦友である渡辺新造がこの近所にいるという不意な事実に対して驚いたことが気持ちの中で先行していたからである。しかし、冷静に考えると、一週間前に喜平には脅迫状が届いているのに、五日前の段階では、渡辺新造には届いていない。そうであれば、これは白船喜平に対してだけのいたずらであり、渡辺新造にはまったく関係のないことではないか。
「しかし、白船さん。私はあなたのボディガードとして雇われただけなのに、ご友人の安全確認までしなくてはならないのですか?」
「まあ、そんなに固いことを言わんでも良いだろう。ついでの話だよ」
「分かりました。それで気が済むのなら一緒に行きましょう」
稲荷千太郎と白船喜平は、その足で渡辺新造の家に向かうことにした。白船亭から三百メートルの位置にあるおいうことで、特に何の準備もなく、気楽に出かけるという雰囲気で二人は白船亭を出る準備をした。その時点では、喜平も渡辺新造のことを心配しているとはいえ、それは老人の要らぬ心配にすぎず、いわば「気持ちの問題」というより他はなかった。
「おーい、しんさんよ」
喜平は仲居の乳井しんを呼んだ。
乳井しんは、長い廊下を和服姿で小走りしながら大広間に再び顔を出した。
「私と稲荷先生は、これから新造さんの家に行って来る。あんたに話した通り、ドアを壊してまで中に入ろうと思う」
乳井しんは、ビックリしながら、
「本当ですか?」
と、言った。
「本当だよ。行かないとまずいだろう」
稲荷千太郎は、この二人のやり取りを黙って聞いていた。
「ときに稲荷さん。このしんさんも渡辺新造さんに無関係な人間ではないのだよ。しかも、私のような経営者には何かと相談相手が必要なのだが、私はこのしんさんを信頼していてね。何でも相談できる立場にいる。だから、土井宗次郎らしき人間からの脅迫状の件も話してあるし、私が渡辺新造さんのことを心配している理由も話してある。遺言書も書いたこともね」
「えっ、遺言書の内容を他人に話すのはまずいですよ」
「内容までは話していない」
「そ、そうですか」
稲荷千太郎は、喜平がよほど、この乳井しんという仲居を信頼していることが分かった。
「ところで、こちらの乳井さんが、なぜ渡辺新造さんと関わりがあるのですか」
「それはね」
と、喜平が話そうとした瞬間、乳井しんが横から割って入ってきた。
「それは、私から説明させていただきます」
「ああ、そうかい。では、そうしてくれ」
「はい。実は稲荷先生。私には、こちらの白船亭でお世話になったいきさつというのがございます。私がこちらの職場を紹介してくれたのが渡辺先生だったのです」
「なるほど。そういうことだったのですね」
「でも、ただの紹介ということではなく、渡辺先生が栃木から浅草へ産婦人科の診療所を移す時に私も栃木から一緒に浅草へ来たのです」
「そ、それはどういうことですか」
「私は栃木で渡辺先生の診療所で働いていたのです。看護婦ではありません。ただの手伝い程度の仕事でした。渡辺先生が、仕事が上手くいかないので浅草へ移転するといった時、働き先がなくなってしまう私は困りました。そこで、渡辺先生にお願いして、白船の旦那様を紹介していただき、私はこちらにお勤めする前提で渡辺先生と上京したのです」
稲荷千太郎は深く頷いた。
「御苦労なさったのですね」
「いえ、苦労だなんて。私はこちらの旦那様のお陰でその後は、楽しく生活させていただいています。ただ、浅草に来ても、渡辺先生のところは相変わらず患者が少なかったようですけど。そういうわけで、旦那様に今回の話しを聞いて、私も渡辺先生のことをいささか心配しているのです。ただ、旦那様が行かれるといっていましたので、それも心配ですしね。稲荷先生が一緒に行って下さるということで、少し安心しましたわ」
稲荷千太郎は、やや苦笑した。
「いやあ、そんなに期待されても私には腕力もないですし、用心棒は務まりませんよ」
乳井しんは、稲荷千太郎の言葉を聞いてクスクス笑いながら、
「確かに、こう言っては失礼ですが、稲荷先生は強そうには見えませんね」
と、言った。
稲荷千太郎と、乳井しんは共に大笑いした。
しかし、喜平は黙り込んで神妙な顔をしていた。
「稲荷先生、笑っている場合ではないのだよ。しんさんもそうだ。稲荷先生がここにいる訳は、ここが今現在普通な状態ではないからなのだぞ。その辺は理解しなさい」
乳井しんはそれでも笑いが止まらなかったが、喜平の言葉で笑いのトーンを少し抑えた。
「すみません、旦那様。以後、気をつけます」
「そうしてくれ。我々はこれから新造さんのお宅へ行ってくるから、後は頼む」
「分かりました」
喜平はYシャツにノーネクタイで、グレーのやや疲れた背広を羽織り、手にはステッキを持ち、玄関を出た。稲荷千太郎も、喜平の歩く速度に合わせてゆっくりと歩いた。
それだけゆっくり歩いても、渡辺新造の家までは五分とかからない距離にあった。
二人が白船亭から真っすぐ南方向へ直進すると、やがて左側に「渡辺産婦人科」と書かれた看板が見えた。
渡辺新造の家は、外壁はモルタル塗りの瓦屋根の木造家屋で、看板がなければ只の住宅に見える外観だった。
その診療所、いやその家屋全体が約二メートル程度の高さの塀で囲まれていた。道路から見ると、門の正面は産婦人科の入り口なので、自宅の入り口がどこにあるのかは分からない。しかし、先ほど喜平がいったとおり、産婦人科の入り口から建物へ入るのではなく、産婦人科の入り口を無視して右から塀と建物間の隙間をぐるっと周ると勝手口があった。
勝手口は木製のドアだった。
二人は、ドアの前に立つと、しばらくじっと立ちすくんだ。何事もないだろうと予想しながらも他人の家のドアを開くのは、気が引ける面があった。
しばらくして、喜平がドアに手をかけ、ノブを右に回したところ、そのドアは開いた。喜平の後ろに稲荷千太郎は立っていた。
二人ともかなり緊張していた。何が起こるのか僅かばかりの不安もあり、予想がつかないからである。木製のドアは、きしみ音と共に静かに開いた。
「開いた。ということは、居る?」
稲荷千太郎は緊張した面持ちで独り言を呟いた。額にはうっすらと汗を掻いていた。
ドアを開くとすぐに右側に階段があり、左側にもうひとつのドアがあった。
「おい、新造さん、いるかい?」
喜平は何度も大きな声で渡辺新造の名を呼んだ。何回呼んでも返事がないために中に入ろうと喜平は稲荷千太郎に言った。
「いや、止めときましょう。きっと、近くへ買い物にでも出かけているのでしょう。勝手に入ると住居侵入罪になってしまいますよ」
稲荷千太郎は、先ほど白船亭でいったセリフをここでも繰り返した。本音は勝手に人の家に入ることが嫌だったのである。
喜平は稲荷千太郎の話を無視し、更に大声で叫んだ。
「おい、新造さん、居ないのなら勝手に中に入るぞ」
喜平は稲荷千太郎が制止するのを無視して、靴を脱ぎ、さっさと階段を上がった。
「あんた、いやならそこで待っていても良い」
喜平は階段を登りながら後ろを振り向いて、吐き捨てるように稲荷千太郎にそう言った。稲荷千太郎は、その言葉通りに、玄関先で立ったままだった。
喜平が階段を上がり、数分が経過した。やがて、ゆっくりと階段を下りる足音と階段のきしみ音が聞こえてきた。ミシミシという木造家屋独特の階段がきしむ音だ。喜平は、勝手口へ戻り、稲荷千太郎に、
「誰もいない」
と、言った。
「そうでしょう。私はそんな気がしていました。白船さんが、これだけ呼んでも返事がないのですから渡辺さんはいないのですよ」
喜平は鋭い目つきを稲荷千太郎に向けた。
「いや、そっちの診療所をまだ見ていない」
「いやあ、もう返事がないのですから。帰りましょう」
稲荷千太郎は執拗にそういったが喜平はそんな彼を無視して、玄関から見て左のドアを開いた。この左側のドアが診療所へ通じるドアだった。
稲荷千太郎は喜平の態度に半分あきれてドアの外に立ち、ぼんやりと空の雲を見ていた。
その時、にわかに家の中が静まりかえった。
その瞬間であった。
「ギャー」
という声が診療所のほうから聞こえた。それは、あきらかに喜平の悲鳴であった。
「稲荷、稲荷さん、来てくれ、来てくれ」
稲荷はその声を聞いて、靴も脱がずに、喜平が先ほど入っていったドアの方向へ走った。
中に踏み込みとすぐに違うドアが二つあった。
右をとっさに開けた。しかし、そこはトイレのドアだった。すかさず左のドアに手をかけた。
「ギャー・・・・」
稲荷千太郎もとっさに悲鳴をあげた。驚いたことに、ドアを開けた先の、その部屋の床が血まみれの状態だったのである。
その部屋は渡辺新造の診療室だった。稲荷千太郎が開けたドアの方向からは、産婦人科で見かける分娩イスがあり、そのイスの背面が見える状況であった。そして、稲荷千太郎の目線から見ると、左と右の壁面には書棚くらいの大きさの物入れがあり、左側の壁面には文字通り医学書などが格納されている書棚があり、右側には医療器具の入った棚があった。そして、分娩イスの奥の窓際には渡辺新造の机が置かれている。
床には、まるで血の池が乾燥したかのような跡が出来上がっており、多量の血液が水溜りのような様相を呈した後、その大部分が既に乾燥していた。
「ああああ・・・警察を・・・・」
喜平は腰を抜かした姿勢で目玉を大きく広げたまま、分娩イスを指差した。
稲荷千太郎の位置からは分娩イスの背後しか見えず、喜平が指を指しているものが何であるかを知ることができなかった。
「し、白船さん・・・そ、そこに何かあるのですか?」
稲荷千太郎も、腰が抜けたような状態で、開けたドアにもたれかかりながら叫ぶように言った。室内はパニック状態に陥った。
「あああ・・・早く来てくれ」
喜平は腰を抜かしたまま立ち上がることが出来ない。稲荷千太郎は、急ぐことも出来ずに、ゆっくりと分娩イスに近づいた。
そして、イスに手を掛けて、恐る恐る覗き込むようにイスの腰掛の部分を見た。
「ぎゃー、あああああ」
稲荷千太郎はそのまま弾き飛ばされるように自ら背後に腰を抜かした。結局、彼も喜平と同じような格好になり起き上がることが出来なくなった。
そのイスには、恐ろしいことに首のない死体が腰掛けているではないか。しかも、その死体は白衣を着たままで血まみれになっており、おそらく犯人がやったのであろうと思われるが、自分の両方の手の平で自らの首を抱えて持っていた。
その残酷な被害者の姿を見て、たまげない者はいないであろう。しかも、大量の血がその死体から流れ落ち、その血が床に水溜りのような血の池をつくっていたのである。既に大部分は乾燥しているとはいえ、床は未だに湿っており、それが血液であることは誰の目にも明らかであった。
しかも、死んでいる本人は、両手の手のひらの上に自分の首を持ったままである。
「警察を呼べ」
と、喜平は稲荷千太郎に向かって叫んだ。
稲荷千太郎は、床を這うようにして、机の上の電話機の受話器を持ち、警察へ通報した。
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