白船亭事件考

隅田川一

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第2章

村越警部

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 警察が、パトカーのサイレンを鳴らしながら渡辺産婦人科に到着したのは、それから十分程度経過した後であった。

 ほぼ同時に、交番から自転車で駆けつけた巡査二名が息を切らせながら到着した。

 喜平は、渡辺産婦人科から表に出て、道路に座り込み、顔面を両手で覆い、うずくまるような格好でかがんでいた。稲荷千太郎は、喜平に何と声を掛けてよいのやら分からず、喜平の隣で呆然と立ちすくんでいた。

 到着したパトカーからゆっくりと太った男が降りた。男は、渡辺産婦人科の建物を下からゆっくりと二階まで凝視した。

 この男は警部で、実のところ稲荷千太郎と深い面識のある男だった。

「おお、稲荷千太郎・・・・」
 
 警部は村越という苗字の男で、太った体型に髪型は角刈りで、顔は人のよさそうな優しい顔をしており、一見すると、背広は着ているものの寿司屋の旦那のように見える男だった。日頃は刑事課の課長として事務を執っているが、難事件の予感がすると自ら指揮するつもりで現場にも赴く。今回の事件にかんしては、喜平の通報によって、その殺害現場の残忍性を認め、一般事務を止めて刑事と共に現場に駆け付けたという次第である。

「あ、あなたは、村越さん」

 村越警部は、稲荷千太郎の顔を見ていささか驚いていた。

「な、なんで、あんたがここにいるの?」

 村越警部は稲荷千太郎の顔を見るなり困惑した。

「いやあ・・・ちょっと」
 
 喜平は、顔面に覆った自分の手を除けると、稲荷と村越警部のやり取りを見て、不思議そうな顔をした。

「あ、あのすみませんが、刑事さん。この稲荷さんとお知り合いなのですか?」

「知り合いも何もこの稲荷さんは、元刑事ですよ。しかも色々な意味で有名な。ちなみに私は警部で村越といいます」

「ええ?まさか。稲荷さんは興信所に居たという話だったが、警察にいたとは聞いていない」

 稲荷千太郎は、実のところ、あまり人には話したくなかったが、確かに元職は刑事だった。しかも、この村越警部と共に事件を解決したという経験もある。

「いや、旦那さんね。あんた、白船亭の白船さんですよね。この辺りじゃ名士で通っている人。その白船さんだから言いますが、この稲荷、いや稲荷さんはね、凄腕の刑事だったのですよ」

 稲荷千太郎は苦笑せざるを得ない。

「しかしね。そう、稲荷さん、あんたも今回の事件にどう関っているか分からないが、今後のこともあると思うからある程度はいわせてもらってよいかね?」

「はあ・・・・まあ」

「話を続けるとね。そう、しかし・・・稲荷さんは凄腕といってもね。暴力が絡むような事件は苦手だったのですよ。暴力が絡んだり、凶悪な強盗事件のように、相手を組み伏せなければならないような事件は苦手。だが、それをやらないと警察では勤まらない。だから、自分から辞めたわけだ。もう一ついうとね。凶悪事件ではなく、知能的な犯罪、例えば詐欺とか意味不明の殺人事件、あたかも探偵小説にしか出てこないような怪奇な事件については、この人は、刑事を通り越して、名探偵そのものだった。数限りない有名な事件をその頭脳で解決してきた。そういう意味ではこの人のことを警察の中で知らない者はいない。本人を目の前にしていってよいものかどうか分からないが、この人の話は難事件を解決した数が極めて多いということで伝説化されている。ただ、本人が辞めるというのだから、どうしようもない。その後、どうしているのやらと思っていた矢先にここに居た、というわけです」

「はあ・・・・稲荷さん、あんたすごい人だったのだね」

「いやあ、それは、村越さんが、大げさに褒めてくれているのですよ。ただ、逆にいえば、私がボディガードはできないという理由も理解できましたか?」

「それは分かったが、あんたのボディガードとしての立場をどうこういう前に、もう事件が起こってしまった。こうなれば、今は頭脳明晰なあなたのほうがボディガードとしてのあなたよりも、私には求められる」 

「はあ、ただ、今回の事件はこうして村越さんが来たわけですし、きっとこれ以上は私の出番はないですよ」

「あはは・・・そういうわけにはいかない。もうお金も払ったし」

 このときの喜平の発言から、稲荷千太郎と警察の奇妙な関係が今後も続くことになるとは、この時の彼には予想もつかなかった。    

 村越警部は喜平から今までのいきさつについて簡単に説明を受けた。

「なるほどね。そういうことがあったのだね。そりゃ稲荷さん、あんたここで抜けては男ではない。これから、私も警察に連絡し、今回は稲荷千太郎が関わっていることも伝えるから、あんたも事件解決に協力してくれ」

「はあ・・・。分かりました。しかし、村越さん、被害者の状況もまだ見てないあなたです。これが事件かどうかも分からないでしょう?」

 明らかに渡辺新造殺害は事件であるとしか思えないが、稲荷千太郎はやや意地悪に村越警部に言った。            

村越警部は、思い出したように、慌てた。  

「ああ、そうだね。そうそう。世間話しなどをしている暇はないね。現場を見よう。稲荷さん、あんたももう一度中に入ってくれ」
 
 殺された死体を見るのは、何年ぶりであろうか。先ほどは、突然の出来事に遭遇したせいか、あまりにも驚いたが、この時点では稲荷千太郎は冷静さを取り戻していた。

 すでに室内は、数名の鑑識の人間や刑事が捜査を行っている最中であった。未だに渡辺新造の死体は、そのまま椅子に座ったままの状態にあった。しかも、先ほどのまま、自分の首を自らの両手で抱えたままで。
「どうだ。変わった物品や現象はないか?」

 村越警部は、ハンカチで自分の口を覆いながら鑑識に対して叫ぶように言った。その後、苦い顔で分娩椅子の正面に立ち、風変わりな遺体の状況をまじまじと観察した。

 鑑識の一人が、村越警部に報告した。

「まず、首の切断は、これから調べないと正確なことは分かりませんが、肉眼で見るところ、かなり鋭利な刃物のようなもので行われているようです。鎌や刀のようなものですね。それと、被害者のこの机の上のメモがおいてありました」

「何?メモ?どれ、見せてくれ」

村越警部は、そのメモを開いた。いわゆる白い用紙が二つ折りにしてあるだけの紙で血などは一切に付着していない、真っ白なものであった。

 メモには・・・・・村正参上・・・・と記されていた。しかも、その字は新聞紙の文字を切り取って貼り付けているものであった。

 「何・・・村正参上・・・だと」

 村越警部は首を傾げた。

 稲荷千太郎は、その村正という言葉で瞬間的にある事実を思い出した。そう、村正というのは、まさに喜平の刀ではないか。しかもこの刀は前妻の美恵子が二男の幸二を連れて失踪した時に美恵子によって持ち去られたものである。前妻の美恵子は喜平が料亭の娘である良子と不倫の関係にあったときに、幸一を置いて、なぜか二男の幸二だけを連れ去り、そのまま行方知らずになっていた。他に財産的なものは何も無かったので、喜平が戦争へ行くときに両親から与えられた「村正」を美恵子は持ち去ったと喜平は推測を立てていた。
 
 その件について、稲荷千太郎は村越警部に簡単に説明をした。当然に、その話しの流れの中で、喜平に届いた土井宗次郎からの脅迫状の一件や、それに対して警察に助けを求めたが、事件性がなくイタズラの可能性があるということで、相談も打ち切りにされたという事実があったことも説明した。

「まあ、警察の対応は、その時点ではやむを得なかったな」

 村越警部は苦笑いを見せた。

 いずれにせよ。そのメモには「村正参上」というメモが置かれていたことに違いはない。しかも、机の上などは大量の血が付着している状態で、全く血が付着していないメモは、明らかに殺害後に誰かが血で汚れていない場所に置いたものとしかいいようがなかった。真っ白な用紙が丁寧に中央から半分に折られていた。

「ところで、警部さん。ここに居るのは辛いですよ。このすごい光景の中にまだここに居ろというのですか?」 

 稲荷千太郎は右の掌で口を覆いながら言った。

「それもそうだね。まずは、ここから出よう。現場は鑑識に任せせればよいのだから」

 稲荷千太郎と村越警部は、その血なまぐさい現場から再び診療所の外に出た。

「本来ならば、白船さんも、稲荷さんも署に同行してもらうところだが、稲荷さんが事件に絡んでいるというで、白船さんのお宅を借りてもう少しお話しを聞くことにしましょう」

「そうしましょう」

稲荷千太郎はとっさに喜平の代わりに答えた。

稲荷千太郎と村越警部及び数名の刑事と喜平は白船亭までのわずかな距離をパトカーで移動した。

白船亭では、住み込みの仲居である乳井しんが心配そうに玄関で出迎えてくれた。

「何か大そうなことが起きたそうな」

「ああ・・・」

喜平は乳井しんに対して、暗い表情のまま、うつむき加減で答えた。

「奥の部屋に行く」

「はい」

稲荷千太郎ら一行は、乳井しんに連れられて、一室の和室に入り、腰を降ろした。

「さて、白船さん。もう一度話をおさらいしましょう」
 
 村越警部がかしこまって喜平を見つめながら言った。

「そうですな。さっきは慌てて説明不足の部分もある」

「まず、白船さん、お宅に来た例の脅迫状を警察で預かるので見せて欲しい」


 喜平は乳井しんを呼びつけ、脅迫状が置いてある場所を告げるとこれを持ってこさせ、それを村越警部に手渡した。


村越警部はそれを読むと、

「なるほど」

 と、一言すると、黙りこくった。

「どうしました?警部」

 稲荷千太郎は村越警部に話しかけた。

「うん。つまり、犯人は、この手紙を書いた土井宗次郎だな」

 村越警部は、喜平が心配していた土井宗次郎の復讐を肯定した。
 
「しかし、渡辺新造の家にもこれと同様な脅迫状はあったのでしょうか?」

 稲荷千太郎は村越警部に問い正した。
 
「それは分からん。今後、出てくるかもしれん」

「確かに警部のいう通りに土井宗二郎をまずは疑うのが普通ですね」

 村越警部は強く頷いた。

「そう。土井宗次郎は、あなた方に腕を切られ、その恨みを晴らすために、まず手始めに渡辺新造を殺害した」

「では、次は白船さんが狙われる?」

 喜平は、稲荷千太郎の発言に、やや嫌悪感を示すような苦い顔色を示した。

「さて、容疑者を仮に土井としよう。白船さん、土井は、戦時中にあなたが村正をもっていることは知っていたのかね?」

 喜平はその点については悩むことなく即座に肯定した。

「もちろん、土井は私の刀が村正であることは知っていますよ。逆に、土井の刀の銘も覚えている。土井の刀は、源良近」

 稲荷千太郎は、土井宗次郎の愛方の名称を即座に答えた喜平の記憶の良さに感心してしまった。

「いやあ、白船さんは記憶が良いのですね」

 喜平はムッとした表情をした。

「稲荷さん。あんたは、まだ若いし、戦争を知らない世代に生まれているから日本刀など興味はないだろうがね。戦争中は軍刀を腰にぶら下げて、それを自分の身を守る守護神としていたのだよ。ある者は父親が実家の蔵の中から伝家の宝刀を持ち出し、戦争へ行く息子のためにその刀を軍刀拵えにして持たせたりしたものだ。金のない家でも、それなりの軍刀を持っていた。つまり、軍刀は自分の命を守るものであって、相当の思い入れがあるのだよ。あるときは刀の自慢話もし、あるときは人の刀の話も良く聞いたものだ」

「なるほど。そのような意味で土井は白船さんがお持ちの刀の名前を知っているわけですね」

 更に稲荷千太郎は村越警部へ次の疑問を投げかけた。

「ところで、警部さんは土井を容疑者としていますが、村正は、実際には、美恵子さんが持っている。その美恵子さんというのは、さっき話した白船さんの先妻ですがね。美恵子さんが白船さんとの間に生まれた二人の子供の一人である幸二さんを連れて失踪したときに村正を持っていってしまったのですよ」

「うん、それが?」

「つまり、事件にこの事実が何らかの関係持っているのではないかと、心配しているのですが」

 村越警部は鼻で笑いながら、

「稲荷さんの言葉とは思えませんな。脅迫状を送りつけてきたのはあくまで土井ですよ。当然にその土井が犯人ですよ」

「しかし、その脅迫状というのは、厳密には誰が送ったのかは、まだ分かりません。まして土井が参上したのなら、自分の刀である源良近参上とするこのほうが正しいですしね」

「え、じゃあ何かね。君は、白船さんの先妻の美恵子または幸二が、昔の恨みで今回の犯行に及んだ可能性があるというのかね」

 喜平は、その顔にやや嫌悪感を浮かばせて、村越警部と稲荷千太郎の会話に耳を傾けた。

「いえ、そこまではいっていません。白船さんを恨んでいる人間が他にもいるのではないか、ということをいっているのです。今のは、その一例であって、他にもいるかもしれない」

「うん、その意味は分かるがね。今回は土井が一番の有力な容疑者だろう。脅迫状が何よりの証拠だ。何せ土井宗次郎しか分からない白船さんのあだ名を知っていたわけだし。脅迫状に書かれていた」

 確かに村越警部のいうとおりだったのかもしれない。「きの字」というあだ名は土井宗次郎と殺された渡辺新造しか知らない。

 稲荷千太郎は事件を複雑化して捉えてしまう癖があり、有りもしないような部分まで憶測を及ぼすことがあった。おそらく今回もその憶測に過ぎないのだろう。村越警部の自信に満ちた口調から、稲荷千太郎は、自分に対する自信を持つことができなかったことは事実である。

「さて、土井が有力な容疑者ということで話しを進めるが・・・・。白船さん。あなたは、土井のどちらの腕を斬りおとしたって?」

「右腕ですね」

「右腕?」

「はい間違いない。右腕です。」

 稲荷千太郎を含めて、その場が静まり返った。
 
 村越警部がとっさに口を開いた。

「と、ということは、左腕だけで渡辺新造さんの首を斬り落としたということか?」

「と、いうことになりますね」

 稲荷千太郎が村越警部の当たり前の言葉に頷いた。

「し、しかし、左腕だけで、首を斬り落としたりできるのかね?」

 稲荷千太郎は喜平が居合いをやっていたということを思い出した。

「そういえば、白船さんは居合いをやっていたことがあるのですよね?もしも、その辺のことが分かるようでしたら教えてくれませんか?」

「はあ・・。そうですなあ。確か、当時土井も居合いの有段者であるという話は聞いたことがありますね。もちろん、ただ有段者であるというだけではとうてい物は斬れるものではない」

「ん?その辺の意味が分かりませんので、もう少し詳しくお聞かせくれませんか?」

「つまりですね。まず、斬るためには、刀も粗悪なものでは斬れません。腕がいくらよくても刀が悪ければどうにもならないでしょう。そして、次に、居合いといっても幅が広いので、実際に試し斬りをしていないとダメですね。いわゆる形稽古だけを練習していても斬れない」

「なるほどね。つまり奥が深いわけですね。
でも、土井はその辺はどうだったのですか?」

「うん。正直に言うとね。本当はあまり話したくはないのだが・・・」

「そこは聞いておかないとなりません」

「仕方ないな・・・。土井はとにかく刀の自慢をする人間でね。野菜を斬って見せたり、竹なんかを斬って見せたりしながら、よく自分の刀と腕を自慢していたよ」

「なるほど」

「ところが、やがてはそれがエスカレートしてしまった」

 一同は沈黙した。

「つまり、戦地において、罪もない敵国の軍人でもない農民などを殺めるようになってしまった。捕虜にした人間をその場で土下座させ目を閉じさせる。どうせ日本語は通じないとばかりに、周辺の仲間に、今度は左袈裟斬りにするか逆袈裟斬りにするか、あるいは、片手で袈裟斬りにするかなどと相談しおって・・・。そして、無言で正座している現地の民間人を斬ったのだ」

「そ、それは何人位斬ったのですか?」

「私の知る限りで?」

「はい。あなたの知る限りで」

「二十人程度・・・」

「その事件の中には、左腕だけで斬った事件も含まれていますか?」

「そう、私もそれを今思い出していた。しかし、あまりに強烈な記憶として残っているので、すぐに思い出したよ」

「はい・・・。それで?」
 
ここのところはしつこく聞く必要があると、稲荷千太郎は執拗に喜平に質問をした。

「左のみで人を斬るという行為は意味がないですな。右手がある以上は、右手で斬ればよい。両手があるのなら両手で斬るべきでしょうな」

「それはそうですね。あえて、左腕だけで。斬る必要はない」

「しかし、稲荷さん。結論からいいますとね」

「はい」

「土井は左腕だけで人の首を跳ねることができますよ。いわゆる試し斬をするときは、彼も色々と試しながら、周囲の人間に見物させて自分の腕や刀を自慢していましたからな。私もそういう光景は何度も見ています。彼の腕なら簡単に人の首を左腕だけで跳ねることが可能です」

「なるほど。そうですか」

 しかし、刀を扱う腕には個人差がある。また、土井が仮にこの事件の犯人であるとしても喜平が土井の試し斬りを見てからすでに数十年も経過しており、土井も老人になっている。果たして、老人がこんなむごい殺人を行うことができるのだろうか、そんなことを稲荷千太郎はボンヤリと考えていた。

「分かりました。とりあえず土井が容疑者であると仮定した場合であっても左腕のみで首を跳ねることができることを前提としましょう。ね、警部さん」

「あ、ああ。まあ、詳しく調べる必要はあるがね。とりあえずは、そういうことにしておこう。さて、刀の話はそこまでとして・・・」
 
村越警部は、ゴールデンバットのタバコに火を付けながら、

「白船さんは、渡辺新造さんのところには良く顔を出すのですか?」 

 と言った。

「ええ、五日前に新造さんの家に行きました。そのときには脅迫状は届いていないといっていましたがね。私は、自分のところへ来た脅迫状を新造さんに見せて、お前も気をつけるようにといったのです」

「なるほど。それで渡辺さんは、その脅迫状を見てどんな感じでしたか?」

「黙っていました。笑いもせず、そして驚きもせずに黙っていました」

「そうですか。ところで、渡辺さんの机の上にあったメモは一体何なのですかね?」

 稲荷千太郎は、話に割って入るように言った。

「村正参上、と書かれていたね」

 喜平は深刻な顔で眉をひそめて、メモに書かれていた文字を思い出した。そして、立て続けに、

「しかし、殺害した後にあんな変なメモを置くというのはどういうことなのだろうね?謎掛けなのだろうか」

 と、首をひねった。

 村越警部はタバコの煙を吐き出しながらいった。

「現段階では分からん。さて、白船さん、次の質問をします。今日は、この質問が終ったら帰りますので安心してください。仮に容疑者が土井だとした場合、なぜ、土井は自分が犯人であることをわざわざ脅迫状としてあなた方に知らせる必要があったのでしょうかね?どう思われます?」

「そ、それは簡単なことですよ。」

「どういうことですか?」

「土井は、それだけ我々を恨んでいるということです。土井も私と同じ老人なのだから、人生の最後に恨みを晴らすということを考えて、それを実行に移すということはあの男の性格からしてありえる」

「なるほど」
 
 村越警部は、深く頷いたが、稲荷千太郎はそう簡単には事の判別が出来ない性質であった。

「ときに、白船さん。紗枝さんの御主人かつ白船亭の板前長である田中良太さんは、かれこれ失踪して一か月以上は経過している訳ですが、この事件と関連していませんかね?」

「え?」

 村越警部は鋭い視線を喜平に向けた。

「そんなことがあったのか?」

 稲荷千太郎は、稲荷千太郎の事務所で喜平が語った、娘の紗枝と田中良太が結婚した経緯や理由もなく白船家から失踪したことを説明した。

「それは穏やかな話ではないね」

 しかし、喜平は田中良太と、この事件が関係しているとは到底思えなかった。

「私は田中が、この事件に関係しているとは思っていません。田中は紗枝の旦那ですが、渡辺を殺す動機がありません」

「なるほど・・」

 村越警部は喜平の言葉に頷いた。

「但し、警部さん。田中が失踪した理由が見当たらないとはいえ、田中の失踪に関しては紗枝に詳しく聞いて下さい。それはそれで心配しているので」

「分かりました。そうしましょう。とりえず、今日は署に一旦戻ります」

 村越警部はそう言うと、一礼して大広間から出て行った。
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