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第4章
白船家の人々
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結局その日、白船亭は臨時休業となった。警察が夕方になる頃まで居たことや、喜平にとって親友ともいえる渡辺新造が殺されたこと、そして、喜平自身にも、犯人と推測されている土井宗次郎から脅迫文が届いていることから、さすがに営業をする気にはならなかったのであろう。従業員は、出勤すると当時に乳井しんから事件のことを聞き、全員が驚きながら帰宅していった。
稲荷千太郎と白船喜平は、生々しい殺害現場を見て食欲もわかず、しばらくの時間休息をとった。
「ときに白船さん」
「何かね?」
呆然と一点を見つめたまま喜平は答えた。
「そろそろ、この家のご家族の方々はお帰りになりますかね?」
「さあ、何せあんたと私は、さっきからずっとここにいるのだから私にも分からない」
「そりゃそうですね。では、乳井さんにお願いしてお帰りになった方だけでもここに集めていただけませんか?」
喜平は稲荷がいうように、彼らが居る二階の大広間に帰宅している家族を集めるように仲居の乳井しんに指示した。
稲荷千太郎と喜平は、着座して十分程度沈黙のままで帰宅している家族がそこに現れるのを待っていた。
稲荷は以前に喜平から聞いていた白船家の人々を思い出してみた。まず、現在の家族には関係がないが、喜平には先妻がいる。名前は白船美恵子、そしてその美恵子との間に生まれたのが幸一と幸二である。このうち、幸二は美恵子に連れられて喜平の元から消え去ってしまった。この二人が喜平の愛刀である「村正」を持ち逃げしたと推測されている。幸一は、喜平の元に残り、現在はこの白船亭の跡継ぎとして仕事を行っている。白船美恵子は喜平との婚姻前の氏である「川崎」を名乗っているのか、「白船」のままでいるのか不明である。
後妻である良子は死亡している。この点については、追々説明することとする。この良子と喜平との間に長男である礼次郎、長女である順子、次女の紗枝が生まれている。順子は独身のまま企業で働いている。次女の紗枝は白船亭の板前長をしている田中良太と結婚した。しかし、田中良太は現在失踪している。紗枝と田中良太との間には早紀という娘がいる。つまり、早紀は喜平の孫にあたる。そして、仲居である乳井しん、そして乳井しんの長男の乳井新吉が白船亭に同居している。
稲荷千太郎は、これらの白船家の人々を想像していた。
稲荷千太郎が頭の中を整理していると、ガラリと大広間の襖を開ける音が聞こえ、そちらの方向へ目を向けた。
そこには、乳井がノソっと立っていた。
「幸一さんがお見えです」
喜平は真剣な顔つきで私を見ている幸一に向かい、
「まあ、こっちへ来て座れ。」
と言った。
幸一は、喜平に言われるまま大広間の座布団の上に座った。幸一は比較的大柄な男で、年齢は四十前後、そして独身だった。跡継ぎとして白船亭で働いていたが、取り立てて忙しいわけでもなく、むしろ喜平がこの料亭を仕切り、仲居の乳井しんが喜平の意思を日々実行しているという感じだった。幸一は、いわゆる若旦那で昼間から何をしに行くのかも知られずに、ぶらぶらと外へ出かけている日が多かった。
その後、三十分程度の間に続々と白船家の人々が集まりほぼ全員が揃った。帰宅を待つといっても純粋にこの家から離れていたのは長女の順子と孫の早紀である。順子は会社からの帰宅となり、早紀は学校からの帰宅ということになる。しかし、この両名は未だ帰宅していなかった。他の人々は、元々白船亭に居たので、買い出しやそれぞれの用事でこの家を離れていたに過ぎない。
「さて・・・」
喜平は重々しい口調で言った。
「もう話は聞いているだろうが、渡辺新造さんが今日殺された」
一同は、喜平のいった通りにその話を知っていたらしく、あらためて驚くようなそぶりを見せなかった。
「まず、その話の前にここにいる人を紹介する」
喜平は稲荷千太郎のほうへ顔を向け、そして再び一同をグルリと見渡した。最も、幸一は先ほどからその場にいたので、稲荷千太郎のことは紹介済みであった。
「この人は稲荷千太郎さん。本業は行政書士だが・・・・」
喜平はその後、稲荷千太郎のことを何と表現してよいのか一瞬ためらったような困った表情をしながら、
「この人とは、ひょんなことから知り合い、元刑事だったということもあって私の用心棒を依頼したわけだ。そうしたら、今日、渡辺新造さんが殺されて・・・」
と、口もごりながら言った。
そこに口を挟んだ男が居た。幸一よりもやや若い感じがする三十代と思われる、幸一とは逆に痩せている男だった。
「お父さん、あなたのいっていることは、さっぱり分かりませんよ。一体どうしたのですか?」
この男は、幸一とは似ても似つかない風体で髪の毛が薄く、げっそりと痩せており、不健康そうに見えながら、そして冷たい印象を稲荷千太郎にに与えた。これが、後妻の良子との間に生まれた長男である礼二郎である。
喜平はやや動揺しながら、
「つまりだ。私のもとに脅迫状が来てな。警察にそれを相談にいったら、イタズラだろうということで話は終わった。それでも、不安な私はどうしようもなくて、この稲荷さんに用心棒を頼んだというわけだ」
「お父さん、それは本当なの?」
三十代前半であろうと思われるが、若々しい美貌を備えている女性が叫ぶようにいった。細身で、色白、目は大きくもなく小さくもない。誰が見ても美しいと思うであろう日本的な美女であった。これ田中紗枝、つまり喜平と良子との間に生まれた次女で礼次郎と順子の妹にあたる。
「ああ、本当だ」
「まあ、恐ろしい。いったいどんな脅迫状が来たのかしら。早紀にはこのことを何と説明すればよいのかしら?」
紗枝は、肩をすくめる様に腕組みをして強張った顔で娘の早紀のことを心配した。
「そういえば、早紀はまだ帰ってこないのか?」
礼二郎は紗枝を見ながら聞いた。
「そうだね。早紀ちゃん遅いね。」
それに追加するように幸一が言った。幸一が早紀を「ちゃん」付けで呼ぶのは、幸一は喜平の先妻の子供であり、早紀の母親の紗枝は喜平の後妻の良子の子供であり、早紀から見ると血の繋がりのある叔父にあたらないからである。それ引き換え礼二郎は紗枝と同じ母親から生まれており、直接的な叔父にあたる。
ここで、白船家のほぼ全員が集まったわけだが、未だに早紀と長女の順子、そして仲居である乳井しんの息子の新吉は居なかった。
この白船家の人々の構成は近所の人々から見れば相当変わったものに映っていた。
まず、先妻との間に生まれた子供(幸一)と、後妻との間に生まれた子供(礼二郎と順子、紗枝)、が同居していることだけでも少し変な気がするが、それだけではなく、その紗枝は結婚後も、実家である白船家でそのまま生活している。また、幸一も礼二郎もまだ結婚したことのない独身者、仲居の乳井の息子もいつの間にか白船家に住み着いている独身者である。まるで老人の白船喜平に中年になっている全ての人間が甘えて擦り寄って生活しているようにすら見受けられた。
「早紀は学校のクラブ活動ですよ」
紗枝がそういうと、
「心配だな。学校まで向かいに行くか」
と礼二郎が言った。
しかし、その心配をよそに、その時、早紀が帰宅した。噂をすれば影であった。セーラー服に身を包んだあどけない中学生の少女だが、その目は妙に大人びている。紗枝の子供だけあって、女優になってもおかしくないような凛とした表情をする少女だった。
紗枝は早紀を見て、
「よかった。今、皆であなたのことを心配していたの」
と、早紀の両肩を掴んで言った。
「ど、どうしたの。お母さん。そして、何故ここに皆が集まっているの?」
何事が起ったのか知らない早紀は、きょとんとした顔つきで一同を見渡した。
そこに礼二郎が口を挟んだ。
「いいか、早紀。驚かないように聞きなさい」
早紀は何のことやら分からないような不思議な顔をした。
「実はな。今日、辺新造さんが殺されたのだ」
早紀は、ギョっとした非常をして、手で口を覆いながら、
「本当なの。信じられない。いつも将棋をし来ているあのお爺さん?」
と、言った。
「本当なのだ。そこで、こうして皆に集まってもらっている。この殺人は私にも無関係ではないからな」
喜平が深刻な面持ちで話した。
「え、関係あるの?」
早紀がそういった瞬間、襖が静かに開いた。
仲居の乳井しんがそこに立っていた。
「旦那様。実は息子が帰宅しまして。ここに連れてきたのですが、どう致しましょうか?」
「そうか。では、中に通すように」
乳井しんの背後から中肉中背の全く特徴のない男が立っていた。唯一特徴を見出そうとすれば目が狐のように細く、陰気な雰囲気がするという程度である。この男が仲居の乳井しんの長男の乳井新吉である。
乳井新吉は年齢も四十代であるが、この男も結婚はせず独身であった。話によると、若い頃から役者に憧れ、劇団を色々と渡り歩いていたが、気が付くと今の年齢になっており、婚期を逃すばかりか、収入も小遣い程度しかなく、乳井しんが喜平に頼み込んで、この白船亭の一室を借りて住んでいた。現在は、「弦遊舎」という劇団に所属していた。
乳井新吉は、その陰気臭い顔つきで、
「先ほど、廊下で母から簡単に話を聞きましたが、私のような者が、この大事な席に同席してよろしいのでしょう?」
と、喜平の顔を恐る恐る見た。
「何を言う。この話は、全員が揃って話すことに意味があるのだ。まあそこに座ってくれ」
「は、はい」
乳井新吉は、黙って着座した。
「さて・・・」
と、喜平は再度、稲荷千太郎のことをそこに居た全員に紹介し、更に今日にあった出来事の内容といきさつを説明した。特に土井宗次郎という人間との関係、そして犯人はその土井宗次郎であろうと推測されることを強調した。
後妻との間に生まれた礼二郎がいった。
「お父さんの過去にそんなことがあったとは知らなかった」
「本当に・・・」
紗枝がそれに同意するように頷いた。
すると、突然、先妻との間の子供である幸一が唾を吐き出すような勢いで、
「ち、違うよ。お父さん、犯人は、あいつかもしれない。あいつに決まっている」
と言った。
「あいつとは、誰のことだ?」
「決まっているでしょう。幸二ですよ」
「ば、ばかを言え。冗談でもそんなことをいってはいかん。まさか、そんなことがあるはずもない」
幸二とは、幸一と同じく、先妻の美恵子との間に生まれた次男であることは再三紹介した。幸一は、脅迫状を送りつけてきたのは土井宗次郎ではなく、自分の実の弟である幸二であるというのだ。
稲荷千太郎は思いもかけない言葉にとっさに反応した。
「すみません。横から口出しさせていただきますが、なぜ、あなたは、幸二さんが脅迫状を送りつけてきたと思うのですか?」
幸一は稲荷千太郎を見つめながら、言った。
「それはね。いつかこんなことがあるのではないかと、ずっと私が個人的に思っていたからですよ。つまり、お父さんを恨んでいるは、土井宗次郎という男だけではないということです」
「なるほど」
稲荷千太郎がこの時点でその理由を聞かなかったのは、稲荷千太郎が過去に喜平から聞いた話を思い出したからである。喜平は先妻の美恵子を捨て、良子と一緒になった。美恵子は幸二を連れてどこかに行ってしまった。しかも、喜平の愛刀である「村正」を持ち去ってしまった。この話をここで家族全員の目の前で話してよいかどうか一瞬躊躇し、「なるほど」というだけに留めたのである。
稲荷千太郎は、続けてある疑問を幸一に投げかけた。
「しかし、幸一さん。殺されたのは渡辺新造さんですが、もし、幸二さんが犯人ならば、なぜ、幸二さんは渡辺さんに恨みを持っていたのでしょうか?それが私には分かりません」
ここで喜平が話しに割って入った。
「ところで、稲荷さん。先妻の話は、この家族は全員が知っているから遠慮しないで話をしていいですよ」
「はあ・・・。分かりました」
なぜ、幸一が弟の幸二をそこまで疑うのか稲荷には理解できなかった。どんな反証があったにせよ、幸一は幸二を疑うことを止める気配は感じられない。
確かに、幸二が犯人でないともいいきれない。喜平に相当の恨みがあったのなら、土井宗次郎になりすまし、捜査を混乱させるために、恨みもない渡辺新造を殺害するということも考えられる。しかし、そうであるとすれば、渡辺を殺害することにより、喜平がガードを強め、また警察の目もうるさくなることは間違いないのであるから、むしろ、喜平を殺害するという本来の目的が達成困難になる。
あるいは、幸二が喜平のみならず、渡辺新造にまで恨みがあるというのか。
稲荷千太郎は、無意味な議論を避け、全員に向けて簡潔にいった。
「皆さん、とにかく、白船さんは狙われている可能性があります。近所で不審者を見かけたりした場合には警察にすぐ電話してください。それと、白船さんに脅迫状が届いているわけですから、今後は何があるか分かりません。皆さん自身も気をつけてください」
そこにいた全員が無言で頷いた。
紗枝が口を開いた。
「ところで、渡辺さんはどんな殺され方をしたのですか?」
喜平は、紗枝を見つめながらゆっくりと言った。
「鋭利なもので、首を切られた。たぶん、日本刀に違いない」
「ほ、本当に?恐ろしい」
紗枝は右手の手のひらを口に当て、非常に驚いた表情を見せた。
「やはりそうか。日本刀か」
再び幸一が苦い顔しながら言った。
「やはり、あいつだ。村正だよ。その刀は」
稲荷千太郎は、幸一の口からとっさに村正という固有名詞が飛び出したことに驚いた。
「幸一さんは刀に詳しいのですか?」
「なぜ?」
「いやあ、いきなり村正という名前が出てきたものですから」
幸一は、細く笑いながら、
「稲荷さん。正宗という刀を聞いたことがありますか?」
「はあ、なんとなく聞いたことがありますね」
「そうでしょう。正宗は聞いたことがあるかもしれないね。しかし、村正も有名な刀なのです。意外とみんな知っていますよ。つまり、幸二いや、母が持っていった刀が村正だと聞いて、その名を忘れるはずがない」
その時、礼次郎が幸一に助け船を出した。
「実は稲荷さん。何故、お兄さんが幸二さんにこだわるのか、私が説明しますよ。実はね、幸二さんにいつか何らかの仕返しを受けるのではないかと随分と昔からお兄さんは心配していたのですよ。要するにお父さんが捨ててしまった女の子供ですからね」
幸一が礼二郎を睨み付けた。
「おいおい、俺もその捨てられた女の長男だぞ」
「これはごめん。幸一兄さんは子供の頃から私と一緒だから、そういう意識はないのだけどね。幸二という人は会ったこともないし、遠慮する必要がないから、今のような表現になってしまった」
稲荷千太郎は礼二郎の言葉に深く頷きながら、
「なるほど。幸一さんの気持ちも分かりますね。但し、渡辺さんが殺害されたことと、幸二さんが白船さんに恨みを持っていることとがどうしても結びつきませんね」
と、言った。
稲荷千太郎達の言葉のやりとりを紗枝や、その娘の早紀は、ただ黙って聞いていた。とりわけ仲居の乳井しんと、その息子の新吉などは、この家庭のいざこざに口を挟めるわけもなく、下をうつむいたままで正座をしていた。
「確かに冷静に考えれば稲荷さんの言う通りですね。幸二が渡辺さんを殺したというのは理由がつかない。土井であれば、戦地で腕を切られ、そのまま放置して逃げられたという恨みがあるから父さんのみならず、渡辺さんにも恨みがある。普通に考えれば、土井が容疑者というしかないですね。しかし、稲荷さん。ひとつだけお話ししたいことがあるのです。こういう事態が起きてしまったものですから」
「はぁ、何でしょう?」
「実はお父さんにも、礼二郎や紗枝にも話をしていないことがあるのです」
喜平は、幸一に何事かの隠し事があったのかといわんばかりの鋭い目で彼を睨んだ。
「かれこれ、一年も前の話になりますけどね。無言電話が度々鳴ったことがあったのです。はじめは、いたずら電話かと思っていたのですけどね。それが、そうではなかった。こちらが、もしもしといっても黙って電話を切ってしまう。そんなことが数回続きました。ただ、それは単なるいたずら電話ではなく、電話の向こうの人間は、何かをいいたいのだが何もいえずにいる、そんな雰囲気が感じられたのです。そして、数回電話があった後に、その電話の主はついに自分が誰であるかを言ったのです。つまり、幸二」
「何?」
喜平はギョっとした表情で幸一を見ながら、唾を吐き散らさんとする勢いだった。
「そう、それは幸二だったのですよ。ところが、子供の頃に幸二と離れてしまった私は、突然その名前をいわれてもピンと来ない。とりあえず、会ってくれということで、浅草の居酒屋で会ったのです。この話は、お父さんにも誰にも話していなかったけれど、この場に及んで話しました。明日には警察にもこの話をしようと思う」
幸一の話に関心を寄せた稲荷千太郎は、話の続きを聞くことにした。
「それで、幸二さんと会ってどうなったのですか?」
幸一にかかってきた無言電話は、適当な苗字を使って、幸一を電話口に呼び出した上で、幸一が電話に出ると無言のままでいるという体裁であった。しばらく、無言電話が続いた理由は幸二に会って説明を求めても明確な回答はなかったらしい。おそらくは、幸二は幸一に何と話しかけてよいのか迷った挙句に、結局は無言のままで電話を切ってしまったのであろうと推測できた。
幸二は幸一と会いたいと申し出てきた。
幸二が浅草まで出てくるという話だった。ので幸一はそれを了解した。そして幸二は、そのことを誰にも告げないように幸一に釘を刺した。
その当日、幸一は一足先に待ち合わせ場所の居酒屋の椅子に座って幸二を待った。なにせ子供の時から会っていないので、幸一にも幸二の顔など知る由もない。ただ、彼らは双子の兄弟であるため、きっと幸二は自分と同じ顔をしているのだろう幸一は思っていた。
そこに、一人の男が現れた。
双子である二人は、顔がほぼ同じなので、案の定、幸一も幸二も互いに兄弟であることをすぐさま理解できた。
最初は、互いに何を話して良いのやら沈黙する時間もあったが、ビールを数杯飲んだ時に、幸二のほうから話を切り出した。
要するに、金が欲しいということであった。
幸一は薄々そんなことだろうと予想していた。子供のときに別れてから一度も会ったこともない人間がいきなり会おうというのだから金の無心以外に用事はないと思っていたらしい。
幸二は幸一の知らない自分の生きてきた道を語った。母親と二人で栃木県に引っ越し、そこで母親が細腕で働いて幸二を育ててきた。小銭を貯めて、やっとのことで、開いた母親の小料理店が不景気になり、潰れる寸前であり、金銭が必要であるという話を聞いた。
幸一にとっては、もはやどうでもよい話に思えたが、何も協力しないよりは、二度と浅草に現れないように約束した上で、金銭を与えたほうが無難であると考え、幸二の預金口座を聞き、後日金銭を振り込むことにして、幸二に帰ってもらった。
ただ、その際に幸一は村正の件について幸二に訊ねた。要するに、美恵子が幸二と行方不明になるときに持ち去ったという村正の行方である。
幸一は、その村正が時価六百万円もするのだから、その刀について幸二が知らないはずはないと主張したのである。しかし、幸二は幸一に対して村正の存在について肯定するような素振りを見せながら、真実は曖昧にした。
幸二のいったことの真偽は分からないが、諸々の会話から、幸一は村正を幸二が持っているはずだという確証を得た。
これといった根拠はないが、終始一貫していた幸二の目つきは、喜平のみならず、幸一までも呪い殺そうという狂気地味たものだった。笑顔ひとつないその顔が、村正という名称を述べた瞬間、一瞬ニヤリと不気味な笑みを浮かべ、「あの刀は、よく斬れるだろうな。試してみたいくらいだ」と語ったのだ。どうにも、幸一にはそのときの幸二の表情が忘れられない。ただ、幸二が村正を保有しているかどうかについては回答を得られなかった。
以上が、幸一が幸二に会ったときのいきさつである。
「ところで、幸一さん。その話は分かりましたが、その幸二さんが渡辺さんを殺害するような理由はお話してくださった部分からは、イメージできないのですが」
「そうですね。そのことですが、実はこの話には続きがあるのです」
「はあ。どんな続きですか?」
「帰り際にあいつが言ったのですよ」
「何を?」
「渡辺さんは、元気かと」
「渡辺さんが・・・?」
「そうです。しかも、正確には渡辺さんといういい方ではなく、新造さんは元気か、といっていましたね」
「そ、それで?」
稲荷千太郎はその後の会話に嫌な予感を感じた。
「そう、それで、奴はいったのです。俺はあいつを恨んでいる。まだ、生きているのか。てっきり年をとって病気にでもなって死んでいるかと思ったぜ、と」
「そ、それで、その理由は聞いたのですか?」
「聞きましたよ。そうしたら、あいつは、帰り際に後ろを振り向いて、そんな理由をあんたに話す必要はない。あいつは死んだほうがいい。俺が殺したいくらいだ、と、捨て台詞を残して立ち去ったのです」
「なるほど・・・」
稲荷千太郎は、犯人は土井以外しかないというありきたりの推理しか立てていなかった。最も、これが推理としては当たり前の話なのだが。
しかし、今まで意味不明だと思われた幸一の発言が、やや信憑性を帯びてきたと同時に、稲荷千太郎の潜在的な謎解きの欲求が、思い出されたようにフツフツと蘇ってきたのだ。
稲荷千太郎は思わずうれしそうな顔を無意識でしてしまった。うれしくなると、稲荷千太郎は鼻毛を指で抜く癖がある。彼は、人差し指と親指を鼻に突っ込み、ブツブツと鼻毛を抜き始めた。
「いやあ・・・。そうですか」
幸一は不思議そうな顔をした。
「何がおかしいのですか?」
「いや、これは失礼しました。一瞬、想像もしないような言葉が幸一さんの口から出てきたもので」
「だからおかしいのですか?」
「いえ、おかしいのではなくて・・・。う~ん、すみません。説明できないですが、おかしいのではないのです」
「ふん。まあいいです」
幸一は呆れた顔を稲荷千太郎に向け、そして全員を見渡した。
実際、幸一の話によって、今までは単なる人ごとにしか思えなかったこの事件が、稲荷千太郎のために行われたような錯覚すら彼は覚えた。
彼は警察を退職し、このような事件に遭遇するとは思わなかった。しかし、ここで稲荷千太郎の眠っていた潜在意識が呼び起こされたのである。
「そ、そうですか。そうですか」
稲荷千太郎は、幸一の話に何度もうなずいた。
「最後に今の話をまとめますと、幸二さんは村正を持っている可能性がある。そして、渡辺新造さんを恨んでいる。ただ、その理由を幸一さんは分からない。そういうことですね」
「そういうことです」
「分かりました。ところで、この話を明日、警察の方にお話してよいですね」
「もちろんですよ。私からも話します」
「では、今日はこの辺で話をやめて、休みましょう」
稲荷千太郎は全員の顔色を伺いながら、休むことを勧めた。
「私、なんか怖い」
急に、まだあどけない顔の早紀が不安気な顔で言った。
そこに仲居の乳井しんが早紀に優しく語りかけた。
「早紀ちゃん。大丈夫。早くお風呂に入って寝なさい。私が部屋まで連れて行くから」
喜平はそれを見ながら、
「ああ、そうしてやってくれ。」
と、乳井しんに指示した。
乳井しんは早紀の肩を抱きながら、退室した。
礼二郎はどこか納得しない面持ちで、そして乳井しんの息子の新吉は何事もなかったような顔つきで黙ったまま部屋を出て行った。
「白船さん。私たちも休みましょう」
喜平は無言で頷いた。
稲荷千太郎と白船喜平は、生々しい殺害現場を見て食欲もわかず、しばらくの時間休息をとった。
「ときに白船さん」
「何かね?」
呆然と一点を見つめたまま喜平は答えた。
「そろそろ、この家のご家族の方々はお帰りになりますかね?」
「さあ、何せあんたと私は、さっきからずっとここにいるのだから私にも分からない」
「そりゃそうですね。では、乳井さんにお願いしてお帰りになった方だけでもここに集めていただけませんか?」
喜平は稲荷がいうように、彼らが居る二階の大広間に帰宅している家族を集めるように仲居の乳井しんに指示した。
稲荷千太郎と喜平は、着座して十分程度沈黙のままで帰宅している家族がそこに現れるのを待っていた。
稲荷は以前に喜平から聞いていた白船家の人々を思い出してみた。まず、現在の家族には関係がないが、喜平には先妻がいる。名前は白船美恵子、そしてその美恵子との間に生まれたのが幸一と幸二である。このうち、幸二は美恵子に連れられて喜平の元から消え去ってしまった。この二人が喜平の愛刀である「村正」を持ち逃げしたと推測されている。幸一は、喜平の元に残り、現在はこの白船亭の跡継ぎとして仕事を行っている。白船美恵子は喜平との婚姻前の氏である「川崎」を名乗っているのか、「白船」のままでいるのか不明である。
後妻である良子は死亡している。この点については、追々説明することとする。この良子と喜平との間に長男である礼次郎、長女である順子、次女の紗枝が生まれている。順子は独身のまま企業で働いている。次女の紗枝は白船亭の板前長をしている田中良太と結婚した。しかし、田中良太は現在失踪している。紗枝と田中良太との間には早紀という娘がいる。つまり、早紀は喜平の孫にあたる。そして、仲居である乳井しん、そして乳井しんの長男の乳井新吉が白船亭に同居している。
稲荷千太郎は、これらの白船家の人々を想像していた。
稲荷千太郎が頭の中を整理していると、ガラリと大広間の襖を開ける音が聞こえ、そちらの方向へ目を向けた。
そこには、乳井がノソっと立っていた。
「幸一さんがお見えです」
喜平は真剣な顔つきで私を見ている幸一に向かい、
「まあ、こっちへ来て座れ。」
と言った。
幸一は、喜平に言われるまま大広間の座布団の上に座った。幸一は比較的大柄な男で、年齢は四十前後、そして独身だった。跡継ぎとして白船亭で働いていたが、取り立てて忙しいわけでもなく、むしろ喜平がこの料亭を仕切り、仲居の乳井しんが喜平の意思を日々実行しているという感じだった。幸一は、いわゆる若旦那で昼間から何をしに行くのかも知られずに、ぶらぶらと外へ出かけている日が多かった。
その後、三十分程度の間に続々と白船家の人々が集まりほぼ全員が揃った。帰宅を待つといっても純粋にこの家から離れていたのは長女の順子と孫の早紀である。順子は会社からの帰宅となり、早紀は学校からの帰宅ということになる。しかし、この両名は未だ帰宅していなかった。他の人々は、元々白船亭に居たので、買い出しやそれぞれの用事でこの家を離れていたに過ぎない。
「さて・・・」
喜平は重々しい口調で言った。
「もう話は聞いているだろうが、渡辺新造さんが今日殺された」
一同は、喜平のいった通りにその話を知っていたらしく、あらためて驚くようなそぶりを見せなかった。
「まず、その話の前にここにいる人を紹介する」
喜平は稲荷千太郎のほうへ顔を向け、そして再び一同をグルリと見渡した。最も、幸一は先ほどからその場にいたので、稲荷千太郎のことは紹介済みであった。
「この人は稲荷千太郎さん。本業は行政書士だが・・・・」
喜平はその後、稲荷千太郎のことを何と表現してよいのか一瞬ためらったような困った表情をしながら、
「この人とは、ひょんなことから知り合い、元刑事だったということもあって私の用心棒を依頼したわけだ。そうしたら、今日、渡辺新造さんが殺されて・・・」
と、口もごりながら言った。
そこに口を挟んだ男が居た。幸一よりもやや若い感じがする三十代と思われる、幸一とは逆に痩せている男だった。
「お父さん、あなたのいっていることは、さっぱり分かりませんよ。一体どうしたのですか?」
この男は、幸一とは似ても似つかない風体で髪の毛が薄く、げっそりと痩せており、不健康そうに見えながら、そして冷たい印象を稲荷千太郎にに与えた。これが、後妻の良子との間に生まれた長男である礼二郎である。
喜平はやや動揺しながら、
「つまりだ。私のもとに脅迫状が来てな。警察にそれを相談にいったら、イタズラだろうということで話は終わった。それでも、不安な私はどうしようもなくて、この稲荷さんに用心棒を頼んだというわけだ」
「お父さん、それは本当なの?」
三十代前半であろうと思われるが、若々しい美貌を備えている女性が叫ぶようにいった。細身で、色白、目は大きくもなく小さくもない。誰が見ても美しいと思うであろう日本的な美女であった。これ田中紗枝、つまり喜平と良子との間に生まれた次女で礼次郎と順子の妹にあたる。
「ああ、本当だ」
「まあ、恐ろしい。いったいどんな脅迫状が来たのかしら。早紀にはこのことを何と説明すればよいのかしら?」
紗枝は、肩をすくめる様に腕組みをして強張った顔で娘の早紀のことを心配した。
「そういえば、早紀はまだ帰ってこないのか?」
礼二郎は紗枝を見ながら聞いた。
「そうだね。早紀ちゃん遅いね。」
それに追加するように幸一が言った。幸一が早紀を「ちゃん」付けで呼ぶのは、幸一は喜平の先妻の子供であり、早紀の母親の紗枝は喜平の後妻の良子の子供であり、早紀から見ると血の繋がりのある叔父にあたらないからである。それ引き換え礼二郎は紗枝と同じ母親から生まれており、直接的な叔父にあたる。
ここで、白船家のほぼ全員が集まったわけだが、未だに早紀と長女の順子、そして仲居である乳井しんの息子の新吉は居なかった。
この白船家の人々の構成は近所の人々から見れば相当変わったものに映っていた。
まず、先妻との間に生まれた子供(幸一)と、後妻との間に生まれた子供(礼二郎と順子、紗枝)、が同居していることだけでも少し変な気がするが、それだけではなく、その紗枝は結婚後も、実家である白船家でそのまま生活している。また、幸一も礼二郎もまだ結婚したことのない独身者、仲居の乳井の息子もいつの間にか白船家に住み着いている独身者である。まるで老人の白船喜平に中年になっている全ての人間が甘えて擦り寄って生活しているようにすら見受けられた。
「早紀は学校のクラブ活動ですよ」
紗枝がそういうと、
「心配だな。学校まで向かいに行くか」
と礼二郎が言った。
しかし、その心配をよそに、その時、早紀が帰宅した。噂をすれば影であった。セーラー服に身を包んだあどけない中学生の少女だが、その目は妙に大人びている。紗枝の子供だけあって、女優になってもおかしくないような凛とした表情をする少女だった。
紗枝は早紀を見て、
「よかった。今、皆であなたのことを心配していたの」
と、早紀の両肩を掴んで言った。
「ど、どうしたの。お母さん。そして、何故ここに皆が集まっているの?」
何事が起ったのか知らない早紀は、きょとんとした顔つきで一同を見渡した。
そこに礼二郎が口を挟んだ。
「いいか、早紀。驚かないように聞きなさい」
早紀は何のことやら分からないような不思議な顔をした。
「実はな。今日、辺新造さんが殺されたのだ」
早紀は、ギョっとした非常をして、手で口を覆いながら、
「本当なの。信じられない。いつも将棋をし来ているあのお爺さん?」
と、言った。
「本当なのだ。そこで、こうして皆に集まってもらっている。この殺人は私にも無関係ではないからな」
喜平が深刻な面持ちで話した。
「え、関係あるの?」
早紀がそういった瞬間、襖が静かに開いた。
仲居の乳井しんがそこに立っていた。
「旦那様。実は息子が帰宅しまして。ここに連れてきたのですが、どう致しましょうか?」
「そうか。では、中に通すように」
乳井しんの背後から中肉中背の全く特徴のない男が立っていた。唯一特徴を見出そうとすれば目が狐のように細く、陰気な雰囲気がするという程度である。この男が仲居の乳井しんの長男の乳井新吉である。
乳井新吉は年齢も四十代であるが、この男も結婚はせず独身であった。話によると、若い頃から役者に憧れ、劇団を色々と渡り歩いていたが、気が付くと今の年齢になっており、婚期を逃すばかりか、収入も小遣い程度しかなく、乳井しんが喜平に頼み込んで、この白船亭の一室を借りて住んでいた。現在は、「弦遊舎」という劇団に所属していた。
乳井新吉は、その陰気臭い顔つきで、
「先ほど、廊下で母から簡単に話を聞きましたが、私のような者が、この大事な席に同席してよろしいのでしょう?」
と、喜平の顔を恐る恐る見た。
「何を言う。この話は、全員が揃って話すことに意味があるのだ。まあそこに座ってくれ」
「は、はい」
乳井新吉は、黙って着座した。
「さて・・・」
と、喜平は再度、稲荷千太郎のことをそこに居た全員に紹介し、更に今日にあった出来事の内容といきさつを説明した。特に土井宗次郎という人間との関係、そして犯人はその土井宗次郎であろうと推測されることを強調した。
後妻との間に生まれた礼二郎がいった。
「お父さんの過去にそんなことがあったとは知らなかった」
「本当に・・・」
紗枝がそれに同意するように頷いた。
すると、突然、先妻との間の子供である幸一が唾を吐き出すような勢いで、
「ち、違うよ。お父さん、犯人は、あいつかもしれない。あいつに決まっている」
と言った。
「あいつとは、誰のことだ?」
「決まっているでしょう。幸二ですよ」
「ば、ばかを言え。冗談でもそんなことをいってはいかん。まさか、そんなことがあるはずもない」
幸二とは、幸一と同じく、先妻の美恵子との間に生まれた次男であることは再三紹介した。幸一は、脅迫状を送りつけてきたのは土井宗次郎ではなく、自分の実の弟である幸二であるというのだ。
稲荷千太郎は思いもかけない言葉にとっさに反応した。
「すみません。横から口出しさせていただきますが、なぜ、あなたは、幸二さんが脅迫状を送りつけてきたと思うのですか?」
幸一は稲荷千太郎を見つめながら、言った。
「それはね。いつかこんなことがあるのではないかと、ずっと私が個人的に思っていたからですよ。つまり、お父さんを恨んでいるは、土井宗次郎という男だけではないということです」
「なるほど」
稲荷千太郎がこの時点でその理由を聞かなかったのは、稲荷千太郎が過去に喜平から聞いた話を思い出したからである。喜平は先妻の美恵子を捨て、良子と一緒になった。美恵子は幸二を連れてどこかに行ってしまった。しかも、喜平の愛刀である「村正」を持ち去ってしまった。この話をここで家族全員の目の前で話してよいかどうか一瞬躊躇し、「なるほど」というだけに留めたのである。
稲荷千太郎は、続けてある疑問を幸一に投げかけた。
「しかし、幸一さん。殺されたのは渡辺新造さんですが、もし、幸二さんが犯人ならば、なぜ、幸二さんは渡辺さんに恨みを持っていたのでしょうか?それが私には分かりません」
ここで喜平が話しに割って入った。
「ところで、稲荷さん。先妻の話は、この家族は全員が知っているから遠慮しないで話をしていいですよ」
「はあ・・・。分かりました」
なぜ、幸一が弟の幸二をそこまで疑うのか稲荷には理解できなかった。どんな反証があったにせよ、幸一は幸二を疑うことを止める気配は感じられない。
確かに、幸二が犯人でないともいいきれない。喜平に相当の恨みがあったのなら、土井宗次郎になりすまし、捜査を混乱させるために、恨みもない渡辺新造を殺害するということも考えられる。しかし、そうであるとすれば、渡辺を殺害することにより、喜平がガードを強め、また警察の目もうるさくなることは間違いないのであるから、むしろ、喜平を殺害するという本来の目的が達成困難になる。
あるいは、幸二が喜平のみならず、渡辺新造にまで恨みがあるというのか。
稲荷千太郎は、無意味な議論を避け、全員に向けて簡潔にいった。
「皆さん、とにかく、白船さんは狙われている可能性があります。近所で不審者を見かけたりした場合には警察にすぐ電話してください。それと、白船さんに脅迫状が届いているわけですから、今後は何があるか分かりません。皆さん自身も気をつけてください」
そこにいた全員が無言で頷いた。
紗枝が口を開いた。
「ところで、渡辺さんはどんな殺され方をしたのですか?」
喜平は、紗枝を見つめながらゆっくりと言った。
「鋭利なもので、首を切られた。たぶん、日本刀に違いない」
「ほ、本当に?恐ろしい」
紗枝は右手の手のひらを口に当て、非常に驚いた表情を見せた。
「やはりそうか。日本刀か」
再び幸一が苦い顔しながら言った。
「やはり、あいつだ。村正だよ。その刀は」
稲荷千太郎は、幸一の口からとっさに村正という固有名詞が飛び出したことに驚いた。
「幸一さんは刀に詳しいのですか?」
「なぜ?」
「いやあ、いきなり村正という名前が出てきたものですから」
幸一は、細く笑いながら、
「稲荷さん。正宗という刀を聞いたことがありますか?」
「はあ、なんとなく聞いたことがありますね」
「そうでしょう。正宗は聞いたことがあるかもしれないね。しかし、村正も有名な刀なのです。意外とみんな知っていますよ。つまり、幸二いや、母が持っていった刀が村正だと聞いて、その名を忘れるはずがない」
その時、礼次郎が幸一に助け船を出した。
「実は稲荷さん。何故、お兄さんが幸二さんにこだわるのか、私が説明しますよ。実はね、幸二さんにいつか何らかの仕返しを受けるのではないかと随分と昔からお兄さんは心配していたのですよ。要するにお父さんが捨ててしまった女の子供ですからね」
幸一が礼二郎を睨み付けた。
「おいおい、俺もその捨てられた女の長男だぞ」
「これはごめん。幸一兄さんは子供の頃から私と一緒だから、そういう意識はないのだけどね。幸二という人は会ったこともないし、遠慮する必要がないから、今のような表現になってしまった」
稲荷千太郎は礼二郎の言葉に深く頷きながら、
「なるほど。幸一さんの気持ちも分かりますね。但し、渡辺さんが殺害されたことと、幸二さんが白船さんに恨みを持っていることとがどうしても結びつきませんね」
と、言った。
稲荷千太郎達の言葉のやりとりを紗枝や、その娘の早紀は、ただ黙って聞いていた。とりわけ仲居の乳井しんと、その息子の新吉などは、この家庭のいざこざに口を挟めるわけもなく、下をうつむいたままで正座をしていた。
「確かに冷静に考えれば稲荷さんの言う通りですね。幸二が渡辺さんを殺したというのは理由がつかない。土井であれば、戦地で腕を切られ、そのまま放置して逃げられたという恨みがあるから父さんのみならず、渡辺さんにも恨みがある。普通に考えれば、土井が容疑者というしかないですね。しかし、稲荷さん。ひとつだけお話ししたいことがあるのです。こういう事態が起きてしまったものですから」
「はぁ、何でしょう?」
「実はお父さんにも、礼二郎や紗枝にも話をしていないことがあるのです」
喜平は、幸一に何事かの隠し事があったのかといわんばかりの鋭い目で彼を睨んだ。
「かれこれ、一年も前の話になりますけどね。無言電話が度々鳴ったことがあったのです。はじめは、いたずら電話かと思っていたのですけどね。それが、そうではなかった。こちらが、もしもしといっても黙って電話を切ってしまう。そんなことが数回続きました。ただ、それは単なるいたずら電話ではなく、電話の向こうの人間は、何かをいいたいのだが何もいえずにいる、そんな雰囲気が感じられたのです。そして、数回電話があった後に、その電話の主はついに自分が誰であるかを言ったのです。つまり、幸二」
「何?」
喜平はギョっとした表情で幸一を見ながら、唾を吐き散らさんとする勢いだった。
「そう、それは幸二だったのですよ。ところが、子供の頃に幸二と離れてしまった私は、突然その名前をいわれてもピンと来ない。とりあえず、会ってくれということで、浅草の居酒屋で会ったのです。この話は、お父さんにも誰にも話していなかったけれど、この場に及んで話しました。明日には警察にもこの話をしようと思う」
幸一の話に関心を寄せた稲荷千太郎は、話の続きを聞くことにした。
「それで、幸二さんと会ってどうなったのですか?」
幸一にかかってきた無言電話は、適当な苗字を使って、幸一を電話口に呼び出した上で、幸一が電話に出ると無言のままでいるという体裁であった。しばらく、無言電話が続いた理由は幸二に会って説明を求めても明確な回答はなかったらしい。おそらくは、幸二は幸一に何と話しかけてよいのか迷った挙句に、結局は無言のままで電話を切ってしまったのであろうと推測できた。
幸二は幸一と会いたいと申し出てきた。
幸二が浅草まで出てくるという話だった。ので幸一はそれを了解した。そして幸二は、そのことを誰にも告げないように幸一に釘を刺した。
その当日、幸一は一足先に待ち合わせ場所の居酒屋の椅子に座って幸二を待った。なにせ子供の時から会っていないので、幸一にも幸二の顔など知る由もない。ただ、彼らは双子の兄弟であるため、きっと幸二は自分と同じ顔をしているのだろう幸一は思っていた。
そこに、一人の男が現れた。
双子である二人は、顔がほぼ同じなので、案の定、幸一も幸二も互いに兄弟であることをすぐさま理解できた。
最初は、互いに何を話して良いのやら沈黙する時間もあったが、ビールを数杯飲んだ時に、幸二のほうから話を切り出した。
要するに、金が欲しいということであった。
幸一は薄々そんなことだろうと予想していた。子供のときに別れてから一度も会ったこともない人間がいきなり会おうというのだから金の無心以外に用事はないと思っていたらしい。
幸二は幸一の知らない自分の生きてきた道を語った。母親と二人で栃木県に引っ越し、そこで母親が細腕で働いて幸二を育ててきた。小銭を貯めて、やっとのことで、開いた母親の小料理店が不景気になり、潰れる寸前であり、金銭が必要であるという話を聞いた。
幸一にとっては、もはやどうでもよい話に思えたが、何も協力しないよりは、二度と浅草に現れないように約束した上で、金銭を与えたほうが無難であると考え、幸二の預金口座を聞き、後日金銭を振り込むことにして、幸二に帰ってもらった。
ただ、その際に幸一は村正の件について幸二に訊ねた。要するに、美恵子が幸二と行方不明になるときに持ち去ったという村正の行方である。
幸一は、その村正が時価六百万円もするのだから、その刀について幸二が知らないはずはないと主張したのである。しかし、幸二は幸一に対して村正の存在について肯定するような素振りを見せながら、真実は曖昧にした。
幸二のいったことの真偽は分からないが、諸々の会話から、幸一は村正を幸二が持っているはずだという確証を得た。
これといった根拠はないが、終始一貫していた幸二の目つきは、喜平のみならず、幸一までも呪い殺そうという狂気地味たものだった。笑顔ひとつないその顔が、村正という名称を述べた瞬間、一瞬ニヤリと不気味な笑みを浮かべ、「あの刀は、よく斬れるだろうな。試してみたいくらいだ」と語ったのだ。どうにも、幸一にはそのときの幸二の表情が忘れられない。ただ、幸二が村正を保有しているかどうかについては回答を得られなかった。
以上が、幸一が幸二に会ったときのいきさつである。
「ところで、幸一さん。その話は分かりましたが、その幸二さんが渡辺さんを殺害するような理由はお話してくださった部分からは、イメージできないのですが」
「そうですね。そのことですが、実はこの話には続きがあるのです」
「はあ。どんな続きですか?」
「帰り際にあいつが言ったのですよ」
「何を?」
「渡辺さんは、元気かと」
「渡辺さんが・・・?」
「そうです。しかも、正確には渡辺さんといういい方ではなく、新造さんは元気か、といっていましたね」
「そ、それで?」
稲荷千太郎はその後の会話に嫌な予感を感じた。
「そう、それで、奴はいったのです。俺はあいつを恨んでいる。まだ、生きているのか。てっきり年をとって病気にでもなって死んでいるかと思ったぜ、と」
「そ、それで、その理由は聞いたのですか?」
「聞きましたよ。そうしたら、あいつは、帰り際に後ろを振り向いて、そんな理由をあんたに話す必要はない。あいつは死んだほうがいい。俺が殺したいくらいだ、と、捨て台詞を残して立ち去ったのです」
「なるほど・・・」
稲荷千太郎は、犯人は土井以外しかないというありきたりの推理しか立てていなかった。最も、これが推理としては当たり前の話なのだが。
しかし、今まで意味不明だと思われた幸一の発言が、やや信憑性を帯びてきたと同時に、稲荷千太郎の潜在的な謎解きの欲求が、思い出されたようにフツフツと蘇ってきたのだ。
稲荷千太郎は思わずうれしそうな顔を無意識でしてしまった。うれしくなると、稲荷千太郎は鼻毛を指で抜く癖がある。彼は、人差し指と親指を鼻に突っ込み、ブツブツと鼻毛を抜き始めた。
「いやあ・・・。そうですか」
幸一は不思議そうな顔をした。
「何がおかしいのですか?」
「いや、これは失礼しました。一瞬、想像もしないような言葉が幸一さんの口から出てきたもので」
「だからおかしいのですか?」
「いえ、おかしいのではなくて・・・。う~ん、すみません。説明できないですが、おかしいのではないのです」
「ふん。まあいいです」
幸一は呆れた顔を稲荷千太郎に向け、そして全員を見渡した。
実際、幸一の話によって、今までは単なる人ごとにしか思えなかったこの事件が、稲荷千太郎のために行われたような錯覚すら彼は覚えた。
彼は警察を退職し、このような事件に遭遇するとは思わなかった。しかし、ここで稲荷千太郎の眠っていた潜在意識が呼び起こされたのである。
「そ、そうですか。そうですか」
稲荷千太郎は、幸一の話に何度もうなずいた。
「最後に今の話をまとめますと、幸二さんは村正を持っている可能性がある。そして、渡辺新造さんを恨んでいる。ただ、その理由を幸一さんは分からない。そういうことですね」
「そういうことです」
「分かりました。ところで、この話を明日、警察の方にお話してよいですね」
「もちろんですよ。私からも話します」
「では、今日はこの辺で話をやめて、休みましょう」
稲荷千太郎は全員の顔色を伺いながら、休むことを勧めた。
「私、なんか怖い」
急に、まだあどけない顔の早紀が不安気な顔で言った。
そこに仲居の乳井しんが早紀に優しく語りかけた。
「早紀ちゃん。大丈夫。早くお風呂に入って寝なさい。私が部屋まで連れて行くから」
喜平はそれを見ながら、
「ああ、そうしてやってくれ。」
と、乳井しんに指示した。
乳井しんは早紀の肩を抱きながら、退室した。
礼二郎はどこか納得しない面持ちで、そして乳井しんの息子の新吉は何事もなかったような顔つきで黙ったまま部屋を出て行った。
「白船さん。私たちも休みましょう」
喜平は無言で頷いた。
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