白船亭事件考

隅田川一

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第5章

片腕のない男

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 次の日、朝から村越警部が、数人の刑事を伴って白船亭を訪れた。

 白船亭の人々は、昨日起きた出来事をあえて話題にすることなく、普通の生活に戻ろうと努力していた。

 しかし、稲荷千太郎はそれに反して昨日の幸一の話を思い出してはそればかりを考えて、ついに徹夜をしてしまったのだ。何やらこの事件の背景に得体の知れないものが作用しているような気がしてならなくなってきた。

 なぜ、幸二が渡辺新造を恨んでいたのか?まずは、その点が全く理解できない。幸一と幸二の母である美恵子は、自分を捨てた白船喜平を恨みこそすれ、渡辺新造を恨むいわれはない。まして、そのとき、子供であった幸二が独自に渡辺新造を恨むということは考えられない。もしも、幸二が渡辺新造になんらかの恨みを抱くとすれば、子供の頃から母親の美恵子に渡辺新造に関する何かを吹き込まれていなければならないであろう。

 稲荷千太郎は、この件について喜平が何かを知っていないかと、その日の朝に喜平に聞いてみた。ところが、喜平も、幸二が幸一にそのようなことを言ったことに関しては驚くばかりで、その理由などは知り得なかった。

 いずれにしても、稲荷千太郎は、白船亭にやってきた村越警部にその件を話すことにした。

「なるほどな」

 その話を聞いた村越警部は、深く溜息をつきながら頷いた。

「ということは、稲荷さんは、犯人というか、事件の有力な関係者として、幸二さんも視野に入れるというのかね」

 稲荷千太郎は、大きく手を振りながら村越警部の言うところを否定した。

「いえいえ、犯人とか関係者、というように決め付けるのは早いのですが、少なくても渡辺新造さんを恨んでいた者の一人として幸二さんがいる。だから念のために、最低限のことは調べておくのも有益かと思いましてね」

「そうだね。それは分かった。捜査本部に伝えておく。ただ、ここで稲荷さんに言っておくが、私は一ヶ月後に警視庁に戻ることにっている。あまり詳しくは言えんが、色々訳があって浅草橋警察署にいるんのだがね。私の予定はそういうことになっているから、とにかく、この一ヶ月でこの事件を解決する」

 村越警部は、そう言うと、立て続けに喜平に言った。

「まずは、稲荷さんの言う通り、幸二さんの情報を私も聞いておかないとね。白船さんはここにいるとして、幸一さんもこちらに呼んでいただけませんか?」

 喜平は村越警部の言葉で、乳井しんを大きな声で呼び出した。乳井しんは大広間に顔を出し、喜平の指示に頷いた。そして、しばらくして、幸一がやってきた。

 稲荷千太郎は、幸一に村越警部を紹介した。

「幸一さん。こちらが村越警部です」

 幸一は、村越警部の目を見ながら一礼しながら、

「私が長男の幸一です」

 と、言った。

 喜平は疲れきった顔のまま、正座をして下を俯いたまま黙っていた。

「それで幸一さん。今、稲荷さんかお聞きしましたが、幸二さんとお会いしたとか?」

「はい」

 幸一は、昨日稲荷千太郎に述べたことをそっくりそのまま村越警部に話した。

「なるほどねえ。それで、肝心なことなのですが、結局、あなたは、幸一さんの口座に金銭を振り込んだのですね?」

「そうです」

「それでは、そのときの領収証はありますか?」

「領収証というのは、銀行の振込用紙控えのことですね?」

「そうそう。その控えです。要するにどの銀行で口座番号は何番だったかを知りたいのですよ」

「え~・・・・確か残っていると思いますよ。今、必要ですか?」

「はい。今、必要です」

「分かりました。部屋に戻って見てきます」

 幸一は小走りで自室に戻った。そして、十分程度して、再び大広間に戻ってきた。

「ありました。振込み用紙」

 稲荷千太郎を含めて一同が目を合わせた。

 村越警部は、

「そうですか。では、ちょっと見せてください」

 と、言った。

 幸一は、頷きながら村越警部にそれを渡した。稲荷千太郎は、村越警部が手にしたその振込用紙を横から覗き込んだ。

「え、五十万円ですか。こりゃ随分と多額な金銭を援助しましたね」

「私は、金銭的には何の苦労もしていませんからね。幸二がどういう苦労をしてきたのかも分からないですが、手切れ金の意味も含めて、その程度ならばと思って振り込んだのです」

「幸一さんは優しいのですね」

 村越警備は黙って振込用紙を睨みながら口を開いた。

「栃木中央信用組合・・・の佐野支店」

 確かに、振込用紙にはそのように書いてあった。

「調べれば当時の幸二さんの居所は分かりますね。この信用金庫に照会すれば」

 村越警部は独り言のように呟いた。

「栃木県の佐野市ですね。白船さんは、この栃木県佐野市に何か心当たりはありませんか」

 稲荷千太郎は、横から口を挟むように、喜平にそのように問い正した。

 喜平は、黙ったまま首を横に振ってそれを否定した。稲荷千太郎は、更に追いかけるように続けて質問した。

「しかし、住民登録はどこかに移しているでしょう。美恵子さんと幸二さんの分は移動されているはずですよね。それを白船さんが気がつかないはずはない」

「いや、それがですね。何年も住民登録が私と生活していた場所になったままだったので、区に申請して職権で取り消してもらったのです」

「なるほど。結局、家出してからは、全く所在が分からないということですか。戸籍の附表をとれば分かるかもしれません。まあ、これは簡単に判明するでしょう」

「そうですね」

「では、まずは警部さんに頼んで、栃木の信用組合に照会して、幸二さんの住所を調べてもらいましょう」

 しかし、そうはいっても、幸二とこの事件との関わりについては、稲荷千太郎も全く想像がつかなかった。全く関係ないかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、渡辺新造の不可解な死を目の辺りにした稲荷千太郎は、どんな些細なことでも詳細に調べなくてはならない義務のようなものを感じ始めていた。

「栃木県佐野市か・・・・」

 稲荷千太郎は眉間にしわを寄せた。

「そうそう。話を忘れていた。稲荷さんの熱心な話を聞いてしまった。実は、報告するのを忘れておったことがある」

 稲荷千太郎は、この村越警部の話を聞いて、脳天から何かを打ち込まれたような衝撃を受けた。それは、今まで幸二の話を熱心に語っていた稲荷をせせら笑うような事実であった。

「昨日、つまり、渡辺新造さんが殺害された日の朝のことだが・・・。渡辺産婦人科の右隣りのクリーニング店のおかみさんが、片腕がない男を渡辺産婦人科の前で見たという通報を署にしてきたのです」

「あぁ・・・まさか。なぜ・・・・・」

 喜平は頭を抱え、その後に両手で顔面を押さえ、うめき声をあげて、下をうつむいた。

 そこに間髪いれずに幸一が口を挟んだ。

「やはり・・・。あいつだ」

 稲荷千太郎は喜平と幸一の顔を交互に見た。

「幸一さん。やはりとは?」

「幸二ですよ」

 その場は一瞬静まり返った。思いよらない幸一の発言に、稲荷千太郎は異常な興奮を覚えた。

「こ、幸二さん?」

「そうですよ。幸二です」

「なぜ、幸二さんだと?」

「幸二は片腕がないのです」

 この言葉には、稲荷のみならず、喜平も仰天した。村越警部は、黙りこくっていた。

「幸二に片腕がないだと?」

 喜平が興奮しながら幸一に叫んだ。

 それはそうだろう。稲荷千太郎のみならず、喜平も、そして村越警部も当然に片腕がない男と聞けば、戦地において、喜平に片腕を斬り落とされ、そして、その復讐として渡辺新造と喜平とを付け狙ったと目される土井宗次郎以外にないと思うのは自然の成り行きである。

「そうそう、昨日は話すのを忘れていたのですけど、幸二は鉄骨工場に勤務中に機械に腕をもぎ取られたらしいのですよ。別にそれが直接に事件に関わるとは思いもよらないので言いませんでしたが。しかし、片腕が何か?」

 稲荷は、興奮のあまりに、指で鼻毛を抜き始めた。

「あ、あの。実は、容疑者の一人と疑われていた土井なのですが。これが、また片腕がないのです」

「げええ・・・本当ですか?それは、お父さんからも聞いていなかった。斬って傷を付けたという話しまでは聞いていましたが」

喜平は真剣な眼で、

「昨日は、そこまで話す必要もないかと思っていた」

 と、言った。

 村越警部は、ニヤニヤと笑った。

「まあまあ。この事件は、稲荷さん向きですな。謎めいてきた」

「で、警部さん。その片腕がない男の話を聞かせてください」

「そうですね」

 村越警部は語り始めた。

 「正確には昨日の朝の八時頃のことだが、渡辺産婦人科の隣のクリーニング店の女将さんが、店の前を掃除しようと箒を持って表に出た。すると、変な格好をしていた男が渡辺産婦人科を見つめていたという話だ」

「その変な格好といのは?」

 と、言う稲荷の質問に対して、村越警部は、

「もう春だというのに、黒いコートを羽織り、その襟を立て、鳥打帽子をかぶり、手にはステッキを持っていたという話だ」

「そ、そうですか?しかし、なぜ、クリーニング店の方は、その男が片腕だと分かったのでしょうか?」

「うん。つまり、右腕の袖から手が出ておらず、風になびくようにその右の袖が揺れていたらしい」

「なるほど。しかも、帽子を深くかぶり、コートの襟を立てて、なるべく顔を見えないようにすれば、誰だとは特定できなくなりますね」

「その通り。それが、まさにクリーニング店の女将さんのいう結論だね。つまり、若い男なのか年寄りなのかも分からない。ただ、なんとなくだが、雰囲気的に年寄りのように見受けられたらしい。慎重は百七十センチ程度だ」

 稲荷千太郎は村越警部の話を聞き、なんともいえない恐怖心に煽られた。別に稲荷千太郎が殺害のターゲットにされているわけではないのが、この事件に対してはオカルト的な臭いを感じたからだ。

「さて、問題はここからの話だ」

 村越警部が続けて話した。

「検死結果によれば、渡辺新造さんの死亡推定時刻は午前十時だった」

「そ、そうですか。つまり、クリーニング屋の女将さんが片腕のないように見えた男を見かけたのが午前八時だから、それ以降犯行が行われるまで二時間の時間があった、ということですね」

「そういうこと。もしも、その片腕がない男が犯人ならば、二時間という時間を何のために使ったのかということだ。もしかすると、周囲をウロウロとしていたかもしれない。警察が現在、周囲の人々に聞き込みを開始している」

 確かに、その片腕がない男は、クリーニング屋の女将に姿を見られた以降、直ちに渡辺新造宅に侵入したともいえるし、その辺をウロウロしていかもしれない。

 その男の行動を探ることは事件の解決に役立つことかもしれない。しかし、稲荷千太郎は、違うことに関心を抱いていた。

「ところで、警部さん。凶器はやはり、刃物ですよね?」

「ははは。当たり前じゃないか。鋭利なものだね。日本刀のようなものだよ」

「しかし、現場には、その凶器は見当たらなかったのですよね?」

「今のところは見当たらない。」

「そうですか?しかし、私はそこが妙な部分だと思っているのですよ」

「具体的には?」

「つまり、凶器がない、ということは、犯人がその凶器を持ち帰った、ということですよね。逆にいえば、犯人はその凶器を渡辺さんの家に持ち込まなくてはいけない。クリーニング屋の女将が見た片腕のないと思われる男はステッキしかもっていない。しかも、年寄りだと見受けられステッキで体を支えていたような感じだったのでしょう。仮に、その男が犯人だとすればどうやって凶器を渡辺さんの家に運び入れることができるのでしょうか?」

 村越警部は高笑いをしながら、

「稲荷さん。私は凶器が日本刀のようなものと言っただけで、日本刀とは断言していませんよ。ただ、渡辺さんの首が切断されたその斬り口を見ると包丁やナイフのようなものでゴシゴシと刃を何十回も立てて切断したのではなく、スパッと、一回刃を入れただけで綺麗に切断されているのです。つまり、日本刀とは断言できないが、少なくとも首の太さよりは刃渡りがある刃物でないとスパッと一回で切断するのは無理だろうと言っているだけだよ。もっと言うなら、日本刀といっても太刀から打刀から脇差、短刀まで色々な種類もある。殺人を犯す奴は、そんなものはどこからでも入手できるだろうしね」

「なるほど。さすがに警部さんは、警察の人だ。銃以外に刃物にも詳しい」

「つまり、脇差、あるいはそれと同じ長さのものならコートの中のどこかに隠せるかもしれない。長さにもよるがね。ところで、稲荷さん。あんたも以前は刑事だ。刃物が使われた事件は初めてかね」

「はい。こんな異常な使われ方をした刃物は初めてですね」

 確かに村越警部の言う通り、凶器などは色々な種類もあり、利用の仕方、持ち運び方などを考えてもあまり益があるとは思われなかったが、この事件の背後、いや稲荷千太郎の脳裏と言ったほうが正確かもしれないが、とにかく日本刀、つまり「村正」が何らかの役を買っているとしか稲荷千太郎には思えなかった。そう、土井の片腕を斬りおとし、現在は幸二の元にあるのではないかと推測されている「村正」である。

「ところで白船さん。村正という刀はだいいたい何センチ位の長さなのですか?」

 と、稲荷千太郎が喜平に聞いた。

「そうですね。二尺三寸というのだから、約七十センチだね」

「さすがですね。スッとお答えになった」

 稲荷千太郎は、そのような世辞をいった。

「稲荷さんは、その村正の長さを聞いて、仮にそれが犯行に使われたとしたら、それをどのように犯人が運んだのか考えているのですね」

「は、はい。そうです。もしも、村正を利用しているのなら・・・ですがね」

「ははは・・しかし、それはさっき警部さんが言ったとおりですよ。刀でなくても、脇差でも十分に機能しますよ」

「はあ。それも十分に尊重しておりますが、私は村正が犯行に使われてことを想定して考えてみているのです」

「いや、その想定のことをいっているのだよ。警部さんのおっしゃる通り、脇差が使われた可能性もあるわけですよ。そうならば、村正の長さを短く縮めてしまえばよいだけでしょう」

「はあ?」

 日本刀に全く詳しくない稲荷千太郎は白船喜平の言う事を聞いてあっけにとられた。喜平は、刀を短くしてしまえば、脇差にもなるし、短刀にもなるという。

「そ、そうですね」

 苦笑しながら稲荷千太郎は喜平の言うことに納得した。つまり、村正を使う使わないなどということは犯行には関係ない。もしも、村正を使用したということを強調したければ、何らかの象徴を示していただろう。それすらもない。つまり、犯人は鋭利な刃物、あるいは、脇差等で殺害したということを喜平に知らしめれば良いということだったのだろう。

「分かりました。村正が利用されたという前提は犯人が幸二さんだと言わんばかりなのでそれは止めますよ。あくまで、犯人は鋭利な刃物を利用して渡辺さんの首を一刀で切断した。そういうことですね?しかし、今のところ、怪しいと思われる人物は、土井と幸二さんしか考えられませんが」

「そうだね。稲荷さんの言うとおり、現在は土井、幸二さんに動機があるということになる。もっとも、警察がそれだけで容疑者と断定することはないがね」

 村越警部は、本音を言いつつも、保身の意味も込めた。

「しかし、警部さん。警部さんの言うことは最もですが、いずれにせよ土井と幸二さんの両人の行方は調査してくださいね」

「もちろん。特に土井は最重要だね。何せ老人と思われる片腕のない男が犯行当日に実際に現れているのだからね」

 そこに喜平が水を差すように言った。

「しかし、警部さん。私の元に脅迫状が届いたときに、土井の行方について警察に調査して欲しいと願い出たのですが、その時、警察は土井は戦地から帰国していない可能性が強く、日本では調査が不能だという話をしていたのです」

 村越警部は苦々しい顔つきをしながら、

「そう。それは分かっています。だから、フンドシを締め直すつもりです」

 と、苦い顔をした。

「では、私は一旦、署に戻ります。今日、来たのは。片腕のない男がこの周辺をウロウロしていたことが分かったので、白船さんに、十分に注意していただくことを伝えに来たのです」

 村越警部は、そういい残すと白船亭から警察署に戻った。
 稲荷千太郎は村越警部が帰った後、混乱した自分の頭の中の整理を始めた。

「片腕のない男」。この事件の中には既に二名の片腕のない男が登場している。一人は、土井宗次郎、二人目は白船喜平の子供の幸二である。土井は、喜平に脅迫状を送りつけ、そして渡辺新造にも同じような恨みを抱いている。今回の被害者である渡辺新造に対しても十分な動機を持っている。他方の幸二は、その理由は分からないが、幸一に浅草で再会したときに、渡辺新造を恨んでいるような言葉を投げかけて去っていった。恨みの理由が不明であるために、十分な動機があるかどうかは判断がつかない。十分な動機が判明しないまま、仮に幸二が容疑者である場合に、喜平に脅迫状を送りつける理由は何なのであろうか?それも見当たらない。

 このように考えれば、一義的には容疑者は、土井に限られることになる。しかし、どこかが割り切れない、何か得体の知れないことが、この事件の背景に潜んできるような気がしてならない。そんな風に、稲荷千太郎は感じていたのだった。そして、事件に関係があるかどうかは分からないが、紗枝の夫の田中良太が行方不明であることも気になっていた。

「ところで、幸一さん。きっと片腕のない男が、この辺をウロウロしている。これだけは、ここに住んでいる家族の方に、必ずお伝えしていただき、しばらくの間は注意するように言ってくださいね」

「もちろん」

「私は少し出かけてきます」

 稲荷千太郎は立ち上がった。

「稲荷さん。どこへ行くのですか?」
 
喜平は、不安そうに稲荷千太郎の目を見ていった。

「いやあ、その辺です。私は警察でもないのですが、この辺で、片腕のない男がウロウロしていなかったかを聞き込みしようと思うのです」

「なんだ。そういうことですか?それならば、私も行きましょう」

 と、幸一が言った。

「それは助かります」

「いきなり、この辺の人にそんなことを聞いて周っても稲荷さんが怪しまれるだけですよ。私が一緒なら問題もない」
「ありがとうございます。では、早速出かけましょう」

 稲荷千太郎と幸一は白船亭の玄関から表に出た。

「ところで、幸一さん。仕事のほうは大丈夫ですか?」

 平日であり、昼食時間から商売を開始する白船亭であるから、愛想でもそれを聞く必要があった。

「まあ、見ていてお分かりかと思いますが、家には従業員が十人もいますから、私は最近、経理ばかりしていて、どうせ他の部分ではあまり役に立っていないので大丈夫です。気にしないでください。そんなことよりも、まず、どのお宅から周りますか?」

 稲荷千太郎は白船亭の玄関先に立って、一歩も移動しないまま周囲を見た。白船亭は、約六メートル程度の幅の道路と道路が交差する角に位置している。そして、店の入り口が、その角に設けられているので、そこに立って周囲を見ると案外遠くまで見ることができるのである。

「まず、その目の前のお豆腐屋さんへ行きましょう」

 白船亭の入り口の前に、豆腐屋があった。老夫婦が営んでいる古くからある豆腐屋だった。どうせ、片腕のない男がこの周囲をウロウロしていたとしても、それを偶然に見かけた人間を探すのは容易ではない。いや、片腕のない男は偶然に渡辺新造の家の辺りにいただけで事件には何も関係のない人間で、白船亭の周りなどには、そもそも現れていないかもしれない。そんな風にも思いながら稲荷千太郎は豆腐屋の女将さんに声を掛けた。

「すみません」

 奥から元気の良い声で女将らしい老婆が出てきた。白髪で身長が低い老婆で、汚れたエプロンを掛けていた。

「はいはい、いらっしゃい。豆腐ですか?」

「いえ・・・・」

 女将は、幸一の顔を見るなりニッコリと微笑んだ。

「あら、幸一さんじゃないの?この方とご一緒かしら?」

 稲荷千太郎の背後に隠れていた幸一を見かけて女将は言った。
 幸一は、頭を手で掻きながら、

「そう。一緒なのですよ。実は、この人は警察の人ではないのですが、まあ、そんな感じの人でね。聞きたいことがあるらしいのです」

 確かに稲荷千太郎は警察でも何でもない。

 女将は不思議そうな顔をした。

「そういえば、昨日、産婦人科の渡辺先生が事件に巻き込まれたそうですね。この辺の人たちは、皆ビックリしていますよ。あの渡辺先生が人に恨まれるようなことをしているとは思えないといっています。だから、強盗の仕業ではないかって近所の噂になっていますよ。たった一日しか経過していないというのに噂は駆け巡っているわ」

 稲荷千太郎と、幸一は女将の勢いのある話口調に閉口し、沈黙してしまった。

 そこに女将が、我に返って、
  
「で、どんなことを聞きに来ましたか?まさか、その渡辺先生のこと?」

 と、ニッコリ笑った。

「実は・・・・。ちょっと変な質問なのですがね。昨日、いや、昨日でなくても良いのです。そうですねえ。数日前とでもいいましょうか?その数日前から、白船亭の周りをうろついている男を見かけませんでしたか?」

 豆腐屋の女将は何のためらいもなく、

 「ええ、見ましたよ」

 と、言った。

 稲荷千太郎の背筋は一瞬のうちに凍りついた。白船亭の周辺は戸建住宅の割合が多く、店舗は表の雷門通りまで出ないとない。その中で、白船亭の正面だけは、この豆腐屋だった。住宅の人々はあまり家から外を気にする人はいないだろうが、店を営んでいる人は比較的外を気にしている。偶然にも白船亭の目の前が店舗だったことが情報収集においては
幸いだった。

 しかも、豆腐屋の女将の記憶にまで入り込んでいるということは、よほど印象の深い人間だったに違いない。それは、幸一も稲荷千太郎と同様な気持ちだったであろう。二人は顔を見合わせて固唾を呑んだ。

「で、もしかしたら、その男は何か特徴はありませんでしたか?」
「特徴?男性でしたけど」

「いえ、性別ではなくて身体的な特徴です」

「禿げているとか?たしか帽子を被っていたので禿かどうかは分かりません」

 稲荷千太郎は、やや閉口した面持ちになった。

「いえ、禿とかではなくて・・・。端的に言えば、片腕がないとか、そういう身体的なことです」

 女将は、一瞬驚いた顔つきを見せた。

「やっぱりそうなのですか?」

 女将はそのように妙な答えを出した。

「やっぱりっていうのは?」

「レインコートのようなものを羽織っていたのですけどね。右腕の袖がブラブラと風でなびいていました。左手にはステッキを持っていたので左手があることは分かったのですけど。鳥打帽をかぶっていて、まあ、暑くないのかなって思いました。なので禿かどうかは分かりませんけどね」

「で、その男は、年齢はどんな感じですか?」

「年寄りでしたね。帽子ではっきりと顔は見えませんでしたけど、雰囲気で分かりました。あれは七十歳も超えているような老人」

「その男は、何をしていたのですか?」

「はい。その男は、白船亭さんの周りを何度も何度も行ったり来たりしながら、歩いていました。しかも、途中で立ち止まっては、白船亭さんの建物を見つめていました」

「それを見て、何を思いましたか?」

「う~ん。お店がまだ閉まっていた時間ですからねえ。おとといの午前十時くらいでしたね。白船亭さんは、十一時半からの営業でしょう?だから、お店が開くまで、お店の周りをウロウロしながら待っているお客さんかなとも思いました。しかし、それにしては、動き過ぎていました。年寄りのわりには、よくウロウロと歩く老人だなと思いました。そして、あまりにも白船亭さんの中の様子が気になるらしく、覗き込むように庭を見たりしていましたから、何か変な人だなと思い直しました。警察にでも通報しようかと、旦那にいったら、余計なことはするなといわれ、通報は止めました。そうこうしているうち、いつの間にかその老人はいなくなっていました」

「なるほど。おとといの午前十時頃ですね」
 
やはり、白船亭の目の前にも片腕のない男は現れていたのだ。しかもそれは、おとといの話で、渡辺新造が殺害された昨日よりも、一日前ということになる。

 つまり、片腕のない男は、おととい、昨日と、二日間に渡り、この辺りに登場している。もしかすると、殺害の順序が逆転していれば、喜平から殺害されていたかもしれないのである。それとも、渡辺新造から殺害することは最初からの計画で、それとは別に、白船亭は、偵察だけで止めておくつもりだったのであろうか?ただ、片腕のない男の行動は単純であった。稲荷千太郎は、周辺に聞き込みをして有力な情報を得るには相当な努力と時間を要すると思っていた訳だが、白船亭の目の前の豆腐屋の女将があっさりとそれを目撃していたからである。あたかも、わざと自分の存在をひけらかしているかの如き錯覚すら感じた。

 とりあえず、二人は豆腐屋の女将に礼をいい、白船亭に戻った。

「稲荷さん。どうしますかな?」

 幸一は稲荷千太郎の顔を覗き込むようにしていった。

「まず、今、村越警部に電話をして、豆腐屋の女将から聞いたことを伝えます。それから、お父さん、つまり白船さんと、今、この家に居る方々を昨日の広間に呼んでください」

 稲荷千太郎は、早速電話で村越警部へ電話をして、豆腐屋の女将から聞いた話を伝え、捜査を継続してくれるように頼んだ。電話を切り、広間に顔を出すと、既に喜平、幸一、そして喜平の後妻の長男である礼二郎、後妻の長女である紗枝が座っていた。

「稲荷さん。この家の周りでも変な男がウロウロしていたのだってね?」

 喜平が稲荷千太郎に聞いた。

「そうなのです。今、目の前の豆腐屋の女将さんからその話を聞きましてね。今朝、警部さんから聞いた話と合わせて、これらの出来事について皆さんを集めてお話しておいたほうが良いかと思いましてね。実は片腕のない男の目撃情報を得ることは困難だと思っていたのですが、あっさりと豆腐屋の女将さんが目撃しています。こんなことは滅多にないと思いますし。もっと言うなら危険が非常に身近に接近しています」

「分かった。皆に注意してくれ」

 喜平も納得した。

「そういえば、しんさんはどうした?」

 喜平は、思い出すかのような顔で、礼二郎に乳井しんの居場所を聞いた。

 礼二郎は、相変わらずやつれた顔をしながら、

「呼んできましょうか?」

 と言った。

 そして、仲居である乳井しんを探しに広間から廊下へ出て行った。しかし、特段にこの話を仲居である乳井しんにまで話す必要があるのだろうか。喜平は、長い年月の間、この乳井しんを住み込みとして働かせていることもあり、家族同然として扱っていたのだろう。その時、稲荷千太郎はそんなことをぼんやりと考えていた。

 やがて、乳井しんが和服姿で広間に顔を出した。

 喜平は乳井しんにいった。

「しんさん。あんたもこれから言う話を聞いて欲しいのだが、その前に新吉君と、順子を呼んでくれないか?特に順子は昨日会社からの帰宅が遅かったようで、ろくに事件の話を聞いていない」

 乳井しんは、了解して、その二名を呼びに行った。そして、数分後に乳井しんは、喜平の長女である順子を伴って広間に戻ってきた。自分のせがれの新吉は居なかった。

「あれ?新吉君は?」

「はい。部屋に行ってみましたが、居ませんでした」

「そ、そうか。では、あんたから新吉君に今後は注意するように伝えてくれ」

「はい。分かりました」

 これで、ほぼ白船家の全員が集まった。

 順子は疲れきった顔で適当な位置にドカンと座り込んだ。

「順子。少しは昨日の話を聞いただろう?」

 と、喜平は順子に言った。

 順子は、笑顔も見せずに、無愛想な顔つきで、

 「聞いた」

 と、だけ答えた。

 次女の紗枝は比較的小柄で、純日本風の女性だが、順子は紗枝よりも身長が高い。基本的な顔は紗枝と異なっており、目元がはっきりしている。肩口程度まで長い髪の毛で現代風の女だった。

 順子は独身のまま、会社員として日本橋の証券会社に勤務していた。異性よりも仕事に興味があり、男性社員と競い合って営業をしており、これも当時としては珍しかった。男勝りの性格といって良いだろう。そのためか、いつも順子の頭の中は仕事のことが一杯で、常に何やら考えているような印象を受ける。それが、今のような態度にあらわれてしまい、喜平は、順子のいつもこの態度のことはあきらめていた。たぶん、嫁にも行かずに、仕事をしたまま、この家に住み続けるのだろうと喜平は順子の嫁入りはあきらめていた。

 稲荷千太郎は、渡辺新造が殺害された朝に渡辺新造の家の付近で片腕のない男が現れたこと、一昨日に、その男と同じ男と思われる男が、この白船亭をも偵察にきていた可能性が強いことを全員に説明した。

 紗枝は口に手を当てて、

「恐ろしい。そんなことが・・・」

 と、絶句した。

「と、いうことは、具体的に渡辺さんが殺されたような危険が家に迫っているということなのですか?」

 礼二郎は細く白い顔を強張らせながら身震いした。

「実際にそうなのかどうかは、分かりません」

 と、稲荷千太郎は一見矛盾するようなことを言った。

「そうなのかどうかって、いうのはどういう意味ですか?」

「つまり、危険が迫っているかどうか分からないということです。ただ、明らかにいえることは、そう思ったら、戸締りをしっかりすることや、不審者を見かけたら警察に通報するなどの対策をしっかりとって欲しいのです。まして、ここは料亭で、しかも広いですから、お客の振りをして飲食した者が、そのままどこかに隠れるということが出来そうな雰囲気がありますし」

 稲荷千太郎の忠告に対して、幸一は神妙な顔で頷いた。

 喜平は乳井しんの顔を見ながら、

「あんたは、お得意さんの顔を全員知っているだろう。あまり見かけない顔でも見かけたら、よくよく監視してくれ。片腕があろうとなかろうと不審者であれば、誰かに報告するように。それと、今、稲荷さんがいったとおり、戸締りはしっかりしてくれよ」

 乳井しんは、

「はい。分かりました旦那様」

 と、笑みも浮かべず、喜平の顔も見ず、俯いたまま首を縦に振った。

 以前に聞かされていたが、この家の戸締りをはじめとして、合鍵の管理まで乳井しんは喜平から信用されて任されていたことを稲荷千太郎は思い出した。

「そうそう乳井さん」

 稲荷千太郎は、とっさに、この場にいない乳井しんの息子のことを思い出した。

「新吉さんは今日はどこへ?」

「今日は、演劇の稽古に行っております」

「そうですか。新吉さんが帰ってきたら、私が今ここで話したことを伝えてください。不審者を見かけたら、警察か私にいうようにと」

「はい。分かりました」

 乳井しんは下を俯いたまま広間から出ていった。

「それと、紗枝さん。お嬢さんは・・・・早紀さんでしたっけ?そう、早紀さんが帰ってきたら、同じことをいってくださいね。まだ、子供だけど、危険があることは、きちんと伝えてください」

「分かりました」

 稲荷千太郎は、この事件の経緯を頭の中で整理してみた。

 まず、脅迫状が喜平の元に届いた。喜平は土井宗次郎の仕業と断定している。喜平は、それと同じようなものが渡辺にも届いていると思っており、心配になって、稲荷千太郎と共に渡辺の家に行ったところ、喜平が心配した通りに渡辺は殺されていた。

 しかし、喜平の長男であり、先妻の子供である幸一が、渡辺を殺したのは幸二である可能性もあると懸念している。仮にその可能性があるとしても、幸二が渡辺新造を恨んでいる決定的な理由は分からない。

 渡辺新造が殺される当日に、渡辺宅の前のクリーニング店の人間が片腕のない男を目撃し、そして、その前日には、白船亭の前でもその男は発見されている。しかも、片腕のない男は土井だけでなく、幸二も同じである。恐ろしい偶然というべきであろう。もしかすると、これは必然ではないかと勘違いしてしまうほどの確率であると思われる。

 この一連の事象を単純化して考えると、この事件を解くキーワードは現在のところ、脅迫状」と「片腕のない男」ということになる。

 そして、その時点では、犯人像をはっきりと浮き彫りにはイメージできるほどの資料も証拠もなかったが、三通りの犯人が想定できた。一人目は、土井宗次郎である。二人目は、幸二。そして三人目は土井でも幸二でもない第三者である。

 土井が犯人であるという考えが最も単純で分かりやすい。なぜなら脅迫状を送りつけてくる理由もはっきりしているし、土井宗次郎は渡辺新造にも恨みを抱いているからである。

 幸二が犯人だった場合はどう解釈できるのだろうか。まず、脅迫状を捏造し、土井に成りすます。そして、あくまで土井に成りすますことによって全てを遂行する。

 第三者の場合は、幸二の場合と同じで、土井宗次郎に成り済ますことが必要である。幸二に成りすますということも考えられるが、喜平に送られてきた脅迫状は、あくまで土井宗次郎を想定して作られたものであるから、土井宗次郎に成りすましたと解釈するのが普通であろう。しかし、この場合の犯人は、土井宗次郎と喜平の具体的な関係を知る者でなければならず、そう考えると、この想定は現実的ではないようにも思われた。

 しかし、あらゆることを模索してしまう癖が警察時代から稲荷千太郎にはあり、彼はどうしても全ての可能性を想定しなくては気がすまなかった。また、事件に直接関係があるかどうかは、その段階では不明であったが、紗枝の夫である田中良太が行方不明であることも彼は気になっていた。

 稲荷千太郎は、色々と考ながら、人差し指と親指を鼻の穴に入れて鼻毛を抜いていた。

 そして、村越警部に電話をし、白船亭の目の前の豆腐屋の女将が、渡辺が殺害された前日に片腕のない男を目撃したことを説明した。そして、片腕のない男は二日間に渡り、この周辺をウロウロしていた事実があったことを再認識してもらい、浅草の全旅館、ホテルの宿泊状況を調査してもらうように願い出たのである。犯人が日帰りで浅草に来れる場所に住んでいるか、あるいはどこか遠い場所に住んでおり、そこから浅草にやってきたのか、その両方が考えられたからである。 

 それから数日間、稲荷千太郎は白船亭で用心棒という役目を果たしているように見せかけながら、犯人像のことばかり考えていた。

 新たに警察で明らかになった事実がある。渡辺新造の元に脅迫状があったことが判明した。それは、喜平に届いていた脅迫状と全く同じものであった。この脅迫状については、説明を要する。切手も貼られていない状態であった。封筒を捨てて別の封筒に被害者の渡辺新造がこの脅迫状を保管していたということも考えられるが、その点については調査ができない。切手を貼った状態で郵便局により配達されていないとすれば、犯人は封筒にこの脅迫状を入れて、郵便ポストにダイレクトに投函したということになる。これが、正しい推理であるとすれば、喜平の元に脅迫状が届いた形態と同一である。

 やはり、犯人は土井宗次郎なのであろうか。そのようなことを稲荷千太郎は、おぼろげに考えていた。

 すると、村越警部が、いくつかの捜査結果を持って、白船亭にやってきた。

 喜平と稲荷千太郎は、大広間に村越警部を招き、その話を聞くことにした。

「いやあ、稲荷さん。色々遅くなって済みませんね」

「いえいえ、こちらこそ、早速来ていただいてありがとうございます」

「さて、稲荷さん。まず、土井宗次郎の件ですが・・・」

 喜平は土井という言葉を聞き、村越警部の唇を見つめるように真剣な眼になった。

「そう。土井宗次郎の行方は、まだ分からない。当時の軍の資料から現在の戸籍まで追っかけているけど、はっきりとは分からない」

 稲荷千太郎はこの点については、仕方がないと思っていた。脅迫状が喜平の元に届いた時点で、ある程度の調査は警察によって行われたわけであるから、今更それを蒸し返しても結果は変わらないであろう。

「そして、幸二さんについては、まだ捜査を開始したばかりです。本日から栃木に刑事が向かっています」

「そうですか?何か分かれば良いのですがね」 

「ときに稲荷さん。片腕のない男の情報が入りました」

「え?何か分かりましたか?」

 稲荷千太郎と喜平は神妙な顔をして村越警部を見つめた。やはり、片腕のない男の影が見え隠れしていたのであろうか?

「稲荷さんのご指摘通りに、浅草周辺のホテルや旅館を聞いて周ったのです。つまり、犯行の前日にどこかに泊まっていないかと」

「はい。それで?」

「それらしい話が聞けましてね。浅草旅館というありきたりな名前の旅館でね」

 稲荷千太郎と喜平は顔を見合わせた。そして、背筋に冷たいものが流れていくようなゾッとした感覚を覚えた。

 確実とはいえなかったことであるが、片腕のない男は、浅草で一泊して、それから犯行に及んだのだ。

「そ、それで、その浅草旅館というのはどこにあるのですか?」
「浅草寺の裏手にあります」

「ちょ、ちょっと話をその旅館へ行き直接聞きたいのです。警部さん、申し訳ありませんが私とそこに行っていただけませんか?」

 稲荷千太郎は興奮のあまり、ややニヤケ顔になった。これは、可笑しいからニヤケ顔になるのではなく、話が複雑になると興奮してそういう顔になるらしい。そして、興奮すると鼻毛を抜く癖があり、その癖が治らない。

「ま、分かりました。では、いきましょうか」

 稲荷千太郎と村越警部は、さっそく、その浅草旅館という宿に向かった。

 浅草旅館というのは、白船亭から、雷門を潜り、仲見世を通り抜け、浅草寺に入り、そのまま浅草寺を裏側に抜けたあたりに位置している。数件の骨董屋が並んでおり、その旅館はその一角にあった。

 古びた木造二階建の、下町ならではの小さい旅館である。客室がせいぜい五室程度しかないようなこじんまりした雰囲気であった。
 
 村越警部が旅館のドアを開き、声を出した。

「すみませんが」

「はい。はい」

 奥から中年の女性の声がした。

「はい。いらっしゃい。ご予約は?」

「いや、昨日きた警察の者だよ」

 旅館の女将と思われる女性は笑いながら、

「ああ、そうでしたね。ごめんなさい。思い出しました。それで、今日の御用は?」

「この人・・・・。まあ、警察関係者なのだが・・・。この人が昨日、私が聞いたこととほぼ同じことを聞きたいということなのだ。それで、何度も悪いが、この人の質問に答えてあげてくれないか?」

 女将は人の良さそうな顔をして、

「はいはい」

と、笑顔で答えた。

 なるほど、明治後期くらいに建てられたと見える古びた木造の旅館である。稲荷千太郎と村越警部は、ガラス戸を開けて旅館の中に入った。玄関の土間に立ちすくみ、内部をジロジロ見ていて、旅館の古き良き雰囲気の感心していた稲荷千太郎は、女将の返事で現実に戻った。

「あの、三日前ですかね。怪しい男がこちらに宿泊したそうですね。その男について、教えて欲しいのです」

「はい」

「まず、その男はどんな年恰好でしたか?」

「年寄りだと思います。暖かくなってきているのに、しかも晴れているのにレインコートを着ていました。黒のね」

 旅館の女将の発言の内容は、クリーニング屋と、豆腐屋の女将の言っていた風体と一致していた。

「そ、そうですか?しかし、年寄りだと思うということは年寄りだと断定はできないということですか?」

「そうです。鳥打帽をかぶっていて、それを取らないのですよ。だから、正確にはわかりません」

「なるほど・・。では、その辺の話を時系列でお話してくれませんか?」

「はあ?」

「つまり、何時頃にこちらに着て、その後、その男はどんな行動をとったということを詳しく聞きたいのです」

「かしこまりました。じゃあ、まずは、こちらに座ってください。お茶でも入れますから」

 稲荷千太郎と村越警部は浅草旅館の玄関にある、イスに腰を下ろした。いわば、レストランの入り口に座席が空くまでお客を待たせるために置いてある椅子と同じような小さな木製の椅子であった。村越警部と稲荷千太郎は、横に並ぶ形でそこに座った。そこに女将がお茶を入れて持ってきて、二人の手にそれを持たせた。

 女将は、玄関の上に正座で腰を下ろした。

 「はい。それで、何から話しましょう」

 「昨日こちらの警部に話をしたことの繰り返しになると思いますが、その男がこちらに来た時から、その模様をお聞かせください」

「夜の八時頃でしたね。五分や十分はずれるかもしれませんが・・・。家は夜の十二時、つまり0時までは、外出をOKにしているのです。だから、まだ八時というのは序の口でしたけど・・・。その、戸が開いたので、外出している宿泊客が戻っていたのだなと思って、玄関まで顔を出さなかったのです。そうしたら、玄関から人を呼ぶ声がしたのです。ごめんください、という言葉でしたね」

「はい。それから?」

「私は、玄関に行きました。すると、何せ妙な格好の男性がその戸を開けて、中に入って突っ立っていました。先ほど説明した通り、レインコートを着て、深々と鳥打帽をかぶって、下を俯いたまま、ボーとしていました」
 
「声はいかがでしたか?」

「声と申しますと?」

「若い感じか?年寄りの感じか?それも先ほど聞きましたが、詳しくお話ください」

「そうですね。それも先ほど申し上げましたが、どちらかというと、年寄りという感じです。でも、声も小さく、はっきり聞き取れない感じでした。若いか、年寄りかといえば、 
年寄りとしかいいようがなかったです」

「そうですか?ただ、あくまでも年寄りとか、若いとか断定ができていないのですね?」

 と、稲荷千太郎は言った。

「そうなのですよ。先ほど話したとおり、帽子を深くかぶっていましたね。ただ、特徴的なのは帽子の脇から覗ける頬の肌の張りとか艶とかいうのが若い人ではない感じなのです。目はよく見えませんでしたけど」

「なるほどね。そして、その男は、右の袖がブラブラしていませんでしたか?つまり、片腕ではなかったですか?」

「はい。コートを羽織っているのかなと思いましたが、左腕は袖を通していました。でも右腕の方は袖がブラブラしていました。えっそれは片腕がないということだったのですか?」

 女将はやや怪訝そうな顔つきをした。

「そのコートのボタンは締めてありましたか?」

「はい。全部閉めてありました」

「わかりました。で、その次はどのような会話がなされましたか?」

「小さいかすれた声で、一泊させてくれないかといいました。ちょうど、部屋がひとつ余っていたので、部屋に通しました」

「あっ」

 村越警部が突然、声を上げた。

「いい忘れた。稲荷さん、忘れていた。そうそう、今の女将の話に関連して、ここの宿泊記録、昔でいうところの宿帳に、その男が住所と名前を記載しておりました」

 と、いいながら村越警部は少し微笑んだ。

「え?何と書いてあったのです。」

「それなら、これです」

 女将は、予めそれを手に持っており、稲荷千太郎に手渡した。

 「一番最後のページから一枚手前にめくってもらうと、そこに書いてあります」

 稲荷千太郎は無我夢中でそのページを開いた。
 「あった」

 と、同時にそれを見て愕然とした。

「住所・・・・栃木県佐野市・・・・。こ、これは、幸二の住所なのか?幸二の住所と同じ町ではないか?名前・・・・土井宗次郎」

 ああ、恐ろしいことだ。その時点で、警察は幸二の居所を調査している最中であり、正確な幸二の住所などは把握できていなかった。

 しかし、土井が栃木県佐野市に住所を置いているはずがない。幸一が幸二と再会し、その時に聞いた居所が、栃木県佐野市であったことを稲荷千太郎は思い出したのだ。つまり、名前は土井、住所は幸二のものであるという推測が成り立ったのである。

「稲荷さん。すまん。すまん。これはわざといわなかった。これを見てあんたがどう思うのか少し楽しみでね。これについては、現在調査を開始している。後で詳しく話そう」

「わ、分かりました。しかし、村越さんも意地悪だなあ」

 旅館の女将は、稲荷達の顔を不思議そうに覗いていた。

「それから、その後、その男はどういう行動をとりましたか?」

「はい。部屋に通しましたら、真っ先に何時までに帰ればいいかと聞いてきました。それを教えたら、私は不気味になってすぐにその場から離れました」

「そのときは、帽子やコートは脱がなかった?」

「脱ぎませんでした。そういうところが気味が悪かったです」

「それで、その男は出かけたのですか?」

「それが、結局出かけませんでした。ただ、
一度、玄関先まで降りてきて、明日は九時頃に出るからといって、先に一泊分の宿泊料を払いました」

「夜中とかは、何か変わった行動とかとりませんでしたか?」

「夜中は私も寝てしまいますが、特に物音がしたわけでもなく、騒いだこともなく、全く静かでした」

「朝は?」

「それが、翌朝の九時頃に部屋を出ると前の晩に言っていましたので、その時間に部屋に行ってみました。すると、部屋のドアが少し開いていました。それをそっと開けてみると、お客さんはもういませんでした。七時には私達もお客さんの対応を開始しますから、それ以前の時間にお出かけになったのではないかと思いますが。まあ、こういう旅館ですから、こっそり出ようと思えばいつでも出られます。正確に、お出かけになった時間はわかりません」

 ふー、と稲荷千太郎はため息をついた。要するにその男は、静かに泊まっただけの話で、特別に不可思議な形跡を残したわけではない。ただ、その男が触れたと思われる箇所の指紋の調査程度ができるに過ぎない。

 我々は女将に例を言うと旅館から表に出た。

「村越警部」

「何ですか?」

「ひとつだけ、分かったことがあります。余計に事件を複雑化してしまうかもしれませんが」

「どういうことですか?」

「つまり・・・。女将の話によれば、年寄りかそうでないかは雰囲気で判断しているだけで、顔をマジマジと見たわけではない、ということです」

「たしかに、そう言っていましたね」

「それから・・・。宿帳の件ですけどね。
おかしいと思いませんか?」

「おかしいねえ。なぜ、名前が土井で、住所が幸二さんの住所らしき場所になっていたのか?」

「そう。そこです。つまり、つまりですね。
犯人は、土井でもなく、幸二でもない可能性も出てきたということです」

 村越警部は、正面を向いて歩いていたが、ふいに足を止めた。

「どういうことです?」

「だって、妙じゃありませんか?例えば、土井が犯人だとして、馬鹿正直にも、自分の名前を書いたとすれば自分の住所を書けばよいでしょう。逆にそれが幸二だった場合でも同じです。また、土井が幸二を犯人に仕立てようとする。あるいは、幸二が土井を犯人に仕立てる場合も同じですが、その場合は、やはり、名前と住所は統一すべきでしょうね。それが、なぜ、ちぐはぐなのか?」

「たしかに・・・そうですね」

「だから、犯人は第三者であって、我々を挑発する意味も含めて、事件を混乱させている可能性もある」

「なるほど」

「しかし、それは、そういう可能性もあるということだけですよ。土井が、我々を挑発しようとすれば、同じ行為をしても不思議ではない」

「と、いうことは、犯人は第三者であるともいい切れないということですな」

「はい。そうです。土井、幸二、そして、この両者でもない第三者の可能性もある。しかも、老人であるとは確実には断定できない」

「そう考えると、この事件は全く検討がつかなくなりますね」

「いえ、そんなことはないですよ。幸二さんの住所などが判明すれば、何かが分かるかもしれない」

「それに関しては、現在調査中で、一両日には、何かが分かるでしょう」

「そうですか。分かりました。ところで、村越さん。私は、現在この事件に登場している人物とでも言えばよいでしょうか。つまり、白船亭の人々のことですが、事件当日を含む数日前までの行動を聞こうと思うのです」

「あ、あんた、まさか、白船亭の誰かが、犯人だとでも言いたいのですか?」

「いえいえ、そうではないのです。可能性を模索しているのですよ。毎度のことですが、色々な人の話を聞くと意外なことが分かったりしますからね。ですから、行動を聞くことが主眼ですが、世間話も含めて一人づつ話を聞こうかと」

「そういうことですか。ならば、私も同席しましょう。警察は、動機もなければ証拠もないような犯人像は描きませんから、こういう場合は、刑事などが同席することはないのですが、私が個人的に同席します」

「それは、ありがとうございます。では、村越さんは先に白船亭に戻っておいてください」

「稲荷さんは?」

「ああ私は、先ほどの旅館の五軒ほど並びに刀屋さんがありましたよね。あそこに寄ってから帰ります」

 稲荷千太郎と、村越警部が浅草旅館に行く途中に、稲荷千太郎は刀屋をみつけた。ちょうど、浅草旅館の並びにあるということは、浅草寺の裏手にある。木造の二階建で、いかにも骨董商という匂いがする古ぼけた建物で、それが妙に町並みにマッチしていた。そこへ向けて、稲荷千太郎は、たった今来た道を引き返した。 

 その刀屋は、刀だけでなく、壷や甲冑などの骨董も扱っているらしく、看板には、骨董品と書かれていた。刀屋というよりも、単純に骨董屋といえた。ガラス越しに、中を覗くと、壁面にそって、ガラスケースがあり、その中に刀が鞘を抜いた状況で何振りも陳列されていた。稲荷千太郎はそのドアを開いた。

「すみませんが・・・・」

 奥から主人らしき男の声が聞こえた。

「はい」

 頭が禿げ上がった痩せ型の初老の男性が顔を覗かせた。私の姿を見るなり、道案内と思ったのか渋い顔つきをして、

「何の用?」

 と、ぶっきらぼうに言った。

「刀のことについて聞きたいのですか?」

 主人は、やや顔つきを改めた。

「刀をお求めですか?」

「はあ。まあ、そうです」

「どんな刀がいいですか?古刀、新刀、現代刀?」

 主人のいう意味は、稲荷千太郎には理解できなかったが、要するに彼は「村正」と、刀全般について聞きたかったのである。そこで端的に聞いた。

「村正はありますか?」

「はあ?」

「村正です」

「はあ?」

 主人は、首をひねって不思議そうな顔をした。

「村正はありませんか?」

「う~ん。お客さんは刀のことは、詳しくないようですな」

「と、申しますと?」

「村正というのは、いわゆる名刀だよ」

「はい。そのようですね」

 主人は、ややあきれた顔をした。

「そこまで分かるなら、こんな下町の骨董屋にそんな名刀があるわけがないということも想像がつくだろうに」

 確かにそうであろう。しかし、稲荷千太郎は、ここに村正があるということを期待していたわけではない。村正についての知識や情報を得ようとしていただけで、そのために客になりすましたのである。

「お客さんは、刀を知っている振りをして実際は全く分かっていないのだね」

「はあ・・・まあ、そんなところですね」

「村正というのは、妖刀といわれている」

「え?妖刀?」

「そう」

「それはどういう意味なのですか?」

「そういうことも知らないのだね」

 主人は稲荷千太郎の無知に呆れ返っていた。

「村正という刀は正確には千五村正というのだがね。なぜ、これが妖刀といわれているかといえば、徳川家から見て不吉な刀だということなのだよ。まず、第一に、家康の祖父が、陣地で味方に敵と勘違いされて斬られてしまった。この時の刀が村正。次に家康の父だが、これは故意だったが、味方に斬られた。このときの刀も村正。その次は、家康の子供が信長に切腹を命じられたときに介錯で利用された刀が村正。最後に、関が原の戦いで、配下の者が敵将を槍で刺し殺し、そのときの槍を検分しようと思った家康が誤って自分の指を傷付けてしまった。このときの槍が村正。つまり徳川家にとっては、妖刀というわけ。しかし、村正は、そんなことに関係ない人にとっては、名刀にかわりがない。そういう意味で、現存している物も少ないが、もしも、現存していてそれが市場に出ていれば、数百万円はしてしまうということだよ」

 稲荷千太郎は、主人の話を聞いて、背筋がぞっとした。確かに不気味な刀である。しかも、血が絡んでいる逸話ばかりである。この不気味な刀がこの度の事件の犯行に使われている可能性があるのだ。犯人が幸二の場合は、その可能性が大きくなる。

 稲荷千太郎は、更に主人に違う質問をした。

「ちなみに居合いをやろうと思うのですが、どのような刀が良いでしょうか?」

「ほお、居合いですか?流派は?」

「いえ、まだ流派は決めていません」

「それは困りますね。どの流派で居合いをするかも決まっていないのに、先に刀を買おうとするのは?」

「なぜですか?」

「流派によっては、軽い刀を使用するし、その逆もあるからね」

「なるほど。しかし、重い刀と軽い刀とではそんなに違いがあるものですか?」

「違いはあるよ。重いもので一キロ以上あるし、軽いものなら七百グラムとか。振れば分かるが、それぞれの重さは全然違います」

「では、軽いものとした場合ですが、軽いものでも物は良く斬れるのですか?」

「刀によりますな。やはり、良いものであれば良く斬れる」

「では、片手で斬れるものですか?たとえば、左腕で」

「う~ん、何を斬るかですがね。例えば何を斬ると仮定して?」

 まさか、人間の首とは言えない。

「居合いではどんなものを斬りますか?」

「畳表を水に一日漬けたものを斬るようですね。よく、畳表一枚が人間の首と同じようなものだといわれているようですが」

「そ、そうですか?畳表一枚が首ねえ。では、それを左手で斬ることは可能ですか?」

「左手ねえ・・・。不可能ではないが、なかなか難しいですねえ。」

「具体的には?」

「まあ、左腕で斬るということは、基本的には六通りありますね。横で左右、斜め袈裟斬りで左右、逆袈裟斬りで左右、の六通り」

「すみません。いまいち良く分かりませんので詳しく説明してください」

「つまり、左手に刀を持つ。横で斬る場合は、刀を地面と水平に振るわけですが、左から右に水平に斬る場合と、右から左に向かって水平に斬る場合がありますね。自分で刀を持ってみると分かりますが、左手で刀を持ち、左側に水平に刀を引いて右に斬るというのは、まず、不可能です」

 と、言って刀を主人は稲荷千太郎に手渡した。稲荷千太郎は店内で刀を振るわけにはいかず、左手で刀を手に持ち、軽く左側に持ち上げてみた。なるほど、持ち上げるだけでわかるが、左手で刀を持ち、左から右に水平に横で斬るのは至難の業であることが理解できた。刀屋の主人の話だと、右から左へ抜ける水平の横斬りは可能であるという。確かに両腕で腕組みし、その腕を左右に開くと先ほどの左から刀を振るよりも力が入る。

 刀屋の主人は袈裟斬りについても説明してくれた。袈裟斬りというのは、要するに斜めに斬ることをいう。右斜め上から左斜め下に斬る場合、そして、その逆がある。逆袈裟斬りというのは、右斜め下より、左斜め上に斬り上げることをいい、そして、またその逆もある。刀屋の主人の話だと、左腕のみで斬る場合、水平斬りと同じく、同一方向からの袈裟斬りは難しいということである。つまり、左腕に刀を持ち、左斜め上より右斜め下に斬り下げるよりも、左手に持った刀を右の肩の上にもっていき、右斜め上より斜め下に斬るほうが楽である。しかし、この斬り口については、どの角度から斬られていても参考にはならない。なぜなら、たとえば、袈裟斬りで斬る場合、正面から斬ったか、背後から斬ったかが分からないからである。つまり、正面から見て左斜め上より右斜め下に斬ったというように思えても、背後から斬った場合は、その斬り口は、右斜め上から左斜め下に斬ったと見えるからである。

 なるほど、と思いながら、稲荷千太郎は思いにふけった。

「ときに、ご主人。そこに置いてある刀で、鍔が付いている物と、何も付いていない物がありますがその違いは?」

「えっ?あんた真面目にその質問をしているのかい?」

「真面目ですが」

 稲荷千太郎は、少しムッとして答えた。

「鍔が付いていて、鞘が色塗りしてあるのは拵えというのだ。柄も正絹で巻いてある。時代劇の侍が腰に差しているのがこれだよ。つまり、この拵えというのは刀の洋服だね。拵えも良い物になれば刀身と同じ位の値段がする。鞘も良い漆で塗ってあれば高いし、鍔だって名人が作ったものなら大した金額がする」

「では、その拵えが付いていない物は?」

「これは、寝かせ鞘と言う。正式には白鞘ってやつだ。つまり、拵えが洋服なら白鞘は
寝巻ってわけさ。自宅に置いておく場合は、この白鞘に納めて箪笥に入れておくことが多い。鍔が付いていないために、これを振り回すことは出来ない。というか危ない」

「なぜ、危ないのですか?」

「鍔っていうのは、手が滑って刀身の方に手の平が滑るのを防止する役目もあるのだ。それがなくて、手が滑って手の平が刀身までスッと滑ったら自分の手の平が斬れてしまうだろう」

「なるほど・・・。その白鞘っていうのは、まるで太い杖のようですね」

「これは樫の木で制作されることが多いね。最初は白いが時の経過とともに、少し茶色に変色してきて良い味が出て来る」

「とても勉強になりました。ありがとうございました」

「そういえば、先日珍しく白鞘の脇差が売れた」

「滅多に売れないのですか?」

「高価だからね。安い茶器の方がよく売れる」

「そうですか」

「そういえば、その脇差を買った人間は、片腕がなかったよ。さっきから、あんたは片腕で斬ることばかり聞いているからね。ふと思い出した」

 稲荷千太郎はその言葉で仰天した。

 稲荷千太郎が主人に聴取した結果、隣りに宿泊した片腕のない男と全く同じ特徴の人間が、脇差を購入した事実が判明した。稲荷千太郎は、あまりにも分かりやすい行動をとる
片腕のない男にあきれかえっていた。まるで自分たちを嘲笑うかのようでもあり、またはわざと足がつくように仕向けているとも受け取られた。

 主人は黙り込んだ稲荷千太郎に向かって言った。

「え、お客さん。刀は買わないの?」


「はい。今はお金がなくて買えません」

 稲荷千太郎は申し訳なさそうな顔をした。主人はあきれた顔をして彼を見た。

「では、また立ち寄らせていただきます」

 稲荷は、いそいそと刀屋を出た。

 刀屋からは有益な情報を得ることができた。
いわゆる村正伝説、そして、左腕しかない場合の刀の使い方。これらのことが事件に何からの関係を有しているのではないだろうか?

また、犯人が、豆腐屋の女将に気付かれたり、自分が宿泊した旅館の並びの骨董屋で脇差を買うなどという、直ちに足がつくような単純な行動に出たことは、捜査撹乱を誘発し、同時に捜査機関への挑発を行っていることが目的だと分かった。

まず、片腕のない男が脇差を購入した事実。この事実は直ちに稲荷千太郎から村越警部に伝えられた。
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