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第6章
自殺
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稲荷千太郎が白船亭の玄関に到着すると、仲居の乳井しんが、あたかも彼を探しているような素振りでふらりと現れた。
「まあ、稲荷さん。どちらへお出掛けでしたか?旦那様と警部さんが首を長くしてお待ちです」
「はい。お二人はどちらに?」
「二階の大広間です」
稲荷千太郎は階段を小走りで駆け上がり、二人が待機していた二階の大広間に入った。
村越警部と白船喜平が何やら座って話をしていた。
喜平が稲荷千太郎に気が付き、
「稲荷さん。待っていましたよ。どちらへ行っていましたか?」
と、言った。
「すみませんでした。野暮用で・・・。村越さん、早速皆さんに色々お聞きしましょう。お待たせして申し訳ありませんでしたね」
「そうですねそうしましょう。白船さんが、その手配をしてくれています。全員は、まだ揃っていませんが、順番に聞いているうちに、皆さん帰宅するでしょう」
稲荷千太郎は、一息つくと、早速喜平に乳井しんを呼びだすように告げた。
「白船さん。乳井さんをここに呼んでいただけませんか?」
「分かりました」
喜平に命令され、乳井しんは和服姿で数分後に大広間に入ってきた。
「乳井さん、忙しいところ申し訳ありませんが、これからこの家の方々に順番で色々お聞きしたいことがあるのです。ですから、お帰りになった方がいましたら、後で我々が呼びますので、外出しないようにお伝え願えませんか?」
「はい。分かりました。ただ、夕方になると予約の団体さんが来ますので、こちらの部屋ではなく、違う部屋を使っていただけると助かります」
「そうですね。おっしゃるとおりです」
稲荷千太郎は乳井しんの言葉に頷いた。
「白船さん。他に適当な部屋はありますか?」
「自宅のほうに応接間があります。洋間で椅子やソファーがあるから、そっちのほうが楽です。そちらへ移動しましょう」
稲荷千太郎らは、大広間から階段を下りて、自宅で利用している側に向かって、廊下を渡った。白船亭は、道路から見て左側が料亭になっていて、右の三分の一程度が自宅になっている。料亭と自宅は引き戸によって仕切られているが、誰でも行き来できるようになっている。たまに、酔った客が間違って引き戸を開けてしまうことがあるらしいが、開ければ雰囲気が自宅であると分かるために、間違ったお客がそのまま自宅の奥に入り込んだことはないそうである。
応接間は、一階のその引き戸を開けて奥に進んだ突き当たりまで行かない、ちょうど廊下の真ん中に位置している。
稲荷らは、喜平を伴って応接間に入った。革張りのソファーの対面に同じ皮製の椅子が二脚ある。そして、稲荷千太郎と村越警部はソファーに座り、喜平はその対面の椅子に座った。
「さて、では順番に皆さんのお話をお伺いしましょう」
「そうですね」
村越警部は頷いた。
「誰から呼びましょうか?」
喜平は稲荷千太郎に聞いた。
「そ、そりゃあ、白船さん、あなたから」
喜平はすぐに強張った顔付きになり、稲荷千太郎に食って掛ってきた。
「い、稲荷さん。あんた、私があんたを雇っているのですよ。まして、あんたは私の用心棒だ。そのあんたが、なぜ、私のことまで尋問しようというのだ」
稲荷千太郎は閉口しながら、ゆっくりと喜平に言った。
「いえ、白船さんを疑ったりしているわけでも何でもありません。つまり、皆さんのお話を伺いながら事件の全体像を知りたいのです」
「事件の全体像というのは何だね?」
「つまり、アリバイとかそういうことではなく、その人の知っていることを聞きたいのですよ。例えば、皆さんは渡辺新造さんと面識があるはずですが、それぞれの人が渡辺さんに対する違った印象をお持ちでしょうし。そういうことです。但し、事件があったわけですから、アリバイという意味ではなく、当日の行動なんかもお聞きしますがね。これは、疑っているのではないかとお叱りになるかもしれませんが、こちらに警部さんもいることですし、やむを得ません。そして、確かに私は白船さんに雇われている身ですが、事件の解決が白船さんを守ることになると信じています」
稲荷千太郎の話を聞いて喜平は無言で頷いた。
「分かりました。質問があれば聞いてください」
「質問は、私と警部さんとで思い立ったことを聞きますので、白船さんも思い立ったことをいってください」
「分かりました」
喜平は再び無言で頷いた。質問は稲荷千太郎のほうから切り出した。
「まず、渡辺さんが殺害された理由については、どう思いますか?それは、やはり戦地においての土井の恨みでしょうか?」
「それは、最初からいっている通り、それが理由だよ。あの脅迫状がなによりの証拠だ」
「では、犯人が土井であるとした場合、土井は左腕で渡辺さんの首を切断できるでしょうか?」
「それは可能だろう」
「本当にそう思われますか?」
「この間、話もしたが居合をしていたあいつの腕ではそれは可能だ。まして手の内が決まっているからね。あの男は」
「手の内・・・?」
「そう、手の内」
「それはどういう意味ですか?」
「よく手の内を見せるっていう言葉があるでしょう。そのことだ。つまり。流派によって手の内が違う。手の内を相手に見られると次の太刀打ちが見破られたりする。そこから、手の内を見せるとか見せないという言葉ができたのです。簡単にいえば、右手を軸にするか左手を軸にするか、握り方をどうするか、これが流派によって違うわけです。土井は直心影流だったので左手が手の内だった」
「つまり、左手を軸にして刀を握る流派に土井は属していたということですね」
「そう。その通り。しかも、直心影流は、左手を死んでも刀から離さないように強く握って右手は添えている感じだから。その稽古を続けていれば、左手のみでも斬れると思います」
稲荷千太郎は、喜平の専門的で分かりやすい説明に対して、思わず頷いた。聞いたことない言葉に感心しただけでなく、喜平のいうことは、いちいち論理的だったからである。
「では、何故、土井は渡辺さんの首をわざわざ切断したりしたのだと思いますか?」
喜平は強く頷いた。
「それも簡単な話。つまり、私に恐怖を与えるためです。次はお前もこうなる、というような」
「なるほど、なるほど。と、いうことは、土井は白船さんを殺すことがメインであって、渡辺さんを殺害したことは序章だということでしょうか?」
「そういうことになる」
「しかし、その点については、やや疑問がありますね。つまり、渡辺さんを殺害した後にあなたを殺害する計画であった場合ですが、もしも、犯人が渡辺さんを殺害して、すぐに逮捕されてしまったら、計画は未完成で終わってしまう。私なら逮捕される前にさっさと主要目的の方から殺害しますけどね。その点については、どう思われます?」
「確かに稲荷さんの言うことにも一理ありますね。さすが稲荷千太郎。但し、土井はあくまでも新造さんにも恨みを持っていたことには違いない。奴が警察に逮捕されない自信があれば、新造さんから先に殺害するという考えを持っていても不思議ではない」
村越警部は稲荷千太郎と喜平との会話を丹念にメモしていた。
「そういう考え方も確かにできますね。では、幸一さんの話題にも上がったのですが、幸二さんが渡辺さんを殺害した可能性については、どう思いますか?」
「そりゃ、私には想像できない。あくまで、想像できないですね。何故、幸二が新造さんに恨みを抱いているかすら分からない」
稲荷は頷きながら、
「そうでしょうね。分かりました。その件については、否定する方向ですね」
と、確認の意味で言った。
「そうです」
「ところで、片腕のない男が宿泊していた浅草旅館と、その並びにある骨董屋に行きましたが、片腕のない男が骨董屋で脇差を購入した事実が分かりました。これについてはどう思われますか?」
「浅草旅館に土井が泊っていたわけか。あそこの女将さんは欲がなくてね。商売熱心ではないな。逆に骨董屋の親父は商売熱心だ。それで犯人は、あの骨董屋で脇差を購入した?」
「そうなのですよ。要するに浅草旅館に宿泊したときに並びの店で脇差を購入したのです」
「すると、犯行はその脇差を使ったわけだね」
「そう思われますか?
「購入したということなら、そうだろうね。。脇差の方が室内では扱いやすい」
「なるほど、分かりました。白船さんに対する質問はこれで終わりです。ありがとうございました。乳井さんにお願いしていただき、幸一さんを呼んで頂けませんか?」
喜平は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、ステッキを片手に持ち、部屋から出て行った。
数分後、白船亭のハッピを着たままで、脂ぎった丸顔の背の低い風体の幸一が部屋に入ってきた。
「困りますね。帳簿付けや何やらで忙しいのだから。早めに終わりにしてください」
「まあ、こちらに警部さんもいることですし、事件の解決に役立つと思って、少し我慢してください」
幸一は、そのゴム毬のような丸くて大きい体を投げ出すようにドテッと椅子に座った。
「分かりました。分かる範囲のことなら何でも答えます」
「幸一さんは、やはり、犯人は幸二さんだと?」
「それは、言ったとおりです。はっきり、あいつの口から渡辺さんへの恨みを感じましたからね」
「そうすると、あなたのお父さんに届いた土井からの脅迫状については、どう思いますか?」
「幸二がお父さんに出した手紙でしょうね。つまり、犯人を土井に見せかけるためでしょう」
「しかし、あなたは脅迫状の件をお父さんから聞くまでは土井の存在を知らなかった。なのに、幸二さんは土井のことを知っていた。つまり、そういうことなのでしょうか?」
「そうですよ。母は父から土井の話を聞いていたのでしょう。母がそれを幸二に話しさえすれば、幸二は土井を利用して渡辺さんを殺害することができる。それしかない」
今まで無言を通していた村越警部が口を開いた。
「しかし、幸一さん。幸二さんは渡辺さんにどんな恨みをもっていたかを具体的に知らないのでしょう?それは、例えばどういう類の恨みだと思いますか?まあ、人は多かれ少なかれ恨みを抱かれてしまうことはあります。だからといって、いちいち殺されては適いませんね。そして、幸二さんがどういう恨みを渡辺さんに抱いているかも分からないのに、いきなりそれを犯人と決め付けるのはどんなものでしょうかな」
幸一は、やや苦い顔をしながら、
「確かに警部さんの言う通り、幸二がどんな恨みを渡辺さんに抱いていたかは分かりません。私が幸二に呼ばれて金をせびられた時、帰りがけに幸二は渡辺さんなんか死ねばいいと吐き捨てていっただけですからね。ただ、その目には殺気があったのです。何か、渡辺さんを恨む、予想もつかないような何かがあいつの心の中にあったことだけは確かですよ。あの目は普通ではなかった」
「なるほどね。では、幸二さんは、渡辺さん以外の誰かをも恨んでいるようなことはいいませんでしたか?」
「それは、聞いていません」
稲荷千太郎は、しばらく沈黙してから、言った。
「ときに、その幸二さんと会ったのは数回でしたね」
「はい、三回会っています。いずれも電話で呼び出され、会う度に金の無心をされました」
「どこで?」
「居酒屋の時もありましたし、喫茶店のときもありました。目的は金なので、たいした話もしませんでした」
「でも、何らかの話はしたでしょう」
「まあ、世間話程度は・・・」
「その世間話が案外大事なのですよ。教えてください」
幸一は、軽く頷いた。
「分かりました」
「いつ会いましたか?だいたいで結構」
「この件に関しては、この前お話しましたが、最初は、確か二年前位ですね。そし最後は一年前に会いました。概ね一年おきに会いました」
「一年毎に来たわけですね。その一年という期間に意味を感じました?」
「どういう意味ですか?」
「要するに一年ごとに来た、ということについて幸二さんに理由があったと思われますか?」
幸一はしばらく考え込んだ。
「特に意味はないと思います」
「そうですか。では、幸二さんの生活ぶりのようなことは聞きましたか?」
「佐野に住んでいて、工場に勤務しているといっていましたが、作業中に事故で片腕を失った、という話でした」
「そうでしたね。失ったのは右腕ですね」
「右です」
右腕がないという事実は土井宗次郎と一緒だった。偶然のいたずらであるが、このことが今後の捜査を大いに混乱させた。
「町工場だったらしく、片腕を失ったことで、ひそかに職場では使いものにならないため、嫌われたようですよ。給料も安くなり、職場を追われそうな雰囲気だと言っていました」
「なるほど。それで金がなかった訳か?」
村越警部は頷いた。
「母親の話はしていましたか?」
「いえ、していません。私も聞きたくないですしね」
「それは、自分から居なくなった母親だからですか?」
「父が悪かったことは分かっています。しかし、私としては、母親に捨てられた気持ちも強い。まして、幸二だけ連れて私だけ置いて逃げたのですから、尚更のことです。そういう母親の話は聞きたくない。幸二もそれを察してか母親の話はしませんでした」
「そうですよね。うん、分かります」
稲荷千太郎は、そこで幸一に対しての質問をやめた。
「わかりました。最後ですが、渡辺さんが殺された犯行当日は、どのような行動をあなたはとっていましたか?」
やや、幸一はむっとして、
「朝の六時半に起き、七時から朝食をとり、その後は、仕込みの手伝いです。ちょうど、その日は一人急に欠勤となってしまったので、私が手伝いました。十一時頃から営業体制に入りました。その後は、夜間まで仕事ですね」
「その際、いつもと違うようなことがありましたか?」
「特にないですね」
「ありがとうございました。それでは、次に礼二郎さんを呼んでいただけますか?」
「分かりました」
幸一は、部屋から退室した。
礼二郎が部屋に来るまでの数分間、稲荷千太郎と村越警部はとりとめもない話をした。この時点では、何らの新しい情報が得られていないことや、幸二と土井については警察が調査中であるということなどを再確認した。
そこに、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
ドアが開いた。髪の毛が薄く、げっそりと痩せている礼二郎が顔を見せた。
礼二郎は村越警部に勧められるままに椅子に座った。
「私から何を聞きたいのか分かりませんが、分かることは何でもお話します。何とか、早めにこの事件を解決してください」
稲荷千太郎は、礼次郎の不安を軽くするためにニッコリと微笑んだ。
「は、はい。ありがとうございます。では、はじめに聞きますが、今回の渡辺さんの殺害事件について、何を感じますか?」
「ん?何をとは・・・?」
「抽象的でしたね。何でも良いのです。どんなことを思いましたか?」
礼二郎は、困惑した表情になった。
「そ、そうですね。まず、お父さんの元に脅迫状が届いていたという話を聞いてビックリしましたが、それと関連のある渡辺さんが殺害されたということで、次に狙われるのはお父さんではないかと不安に思っています」
稲荷千太郎は、礼二郎の言葉に大きく頷いた。
「そうそう。その通りですね。お父さんが次に狙われている可能性もあります」
幸一は幸二が犯人だと決め付けており、相当にエキサイトしていた。それに引き換え、この礼二郎は頭の中が真っ白な状態にあり、周辺の話を聞きだすには、うってつけの人物であると稲荷千太郎は判断した。
「まあ、あなたに聞くことがあるとすれば、色々と生い立ちなんかも聞きたいのです。幸一さんはエキサイトされていたから、なかなか聞きだすことは難しかったのでね」
「はあ?生い立ちですか?それが、この事件と何か関係があるのでしょうか?」
「それは、分かりません。しかし、土井という人物、そして幸二さんが、話題に上っているものですから、何かに役立つかもしれません。些細なことでも役に立てば、と思っています」
礼二郎はにっこりと笑みを浮かべ、
「分かりました。まず、どんなことを聞きたいのですか?答えられる範囲で協力しますよ」
と、言った。
「幸一さんは、犯人は幸二さんだといって譲りません。その点について、あなたはどう思われますか?」
「幸二さんのことですか?」
「いえ、幸二さんのことも含めて土井のことも・・・」
「まず、私は幸二さんに会ったこともなければ、どんな人間なのかも知りません。幸一兄さんが、私の腹違いの兄であったということ、そして、幸一兄さん以外の兄さんがいるということを知ったのは、小学生の時でした。その話を聞いたときも、そうだったのか、と思った程度です」
「小学生の時に聞かされたのですか?そんな子供の頃に、そんな話を聞かされてはビックリしたでしょうね。それは誰から聞かされました?」
「父です。私が父の部屋に呼ばれました。父の部屋に入ってみると、幸一兄さんと、母の三人が居ました。まあ、父からすれば、全員がいることで、説明は一回で済みますしね。ただ、母はその場に居たくないような顔つきをしていましたよ。それも、母の立場からすれば当たり前の話でしょうが」
「そうでしょうね。お母さんからすれば、あまり居合わせたく場面ですね。ちなみに、あなたのお母さんと白船さんが、結婚した経緯については、聞かされましたか?」
「いえ、そこまではさすがにねぇ。まだ、私も十歳でしたしね」
「なるほど・・・。それで、幸一さんが腹違いのお兄さんだと聞かされたとき、あなたはどう思いましたか?」
「しばらくは、ショックを感じていましたよ。誰かを憎むというようなことはなかったですけどね」
「逆に幸一さんは、あなたにどのように接してきましたか?」
「とても優しかったですね。私のショックを和らげようとして、気を使ってくれていました」
「幸一さん自身は、腹違いの兄弟だということを知っていたのでしょうから、幸一さん自身は肩の荷が下りた反面、相当あなたに気を使ったのでしょうね」
「そうだと思います」
「お母さんはどんな感じでしたか?」
「母は、その後は、一切その話題には触れませんでしたし、幸一兄さんにも今まで通り、自分の子供のように接していました」
繰り返しになるが、礼次郎の母、つまり、良子は、既婚であった喜平と不倫の関係に陥り、そのまま、喜平と結婚した。
「大変失礼な話ですが、お父さんは幸一さんのお母さん、つまり、美恵子さんですが、この美恵子さんと、別れて良子さんと再婚しました。これは、あなたのお母さんの良子さんがアプローチしたものだと思いますか?それとも、お父さんがそう仕向けたのか?」
「ははは・・。稲荷さん。それは分かりきっている話です。父に決まっているではありませんか?母は、そんな淫らな女ではありませんでした」
「お母さんは、その後一切その話題には触れなかったとおっしゃっておりました、お母さんは幸二さんの話題にも触れなかったのでしょうね?」
「はい。一切・・・・触れていません」
稲荷は、フゥーと、ため息をつき、
「お母さんは、どのように亡くなられましたか?」
急に、礼二郎の顔が強張った。稲荷千太郎は、世間話のついでと思ったのだが、どうやら彼にとっては聞かれたくないことを聞いてしまったようであった。
「そ、それが、この事件とどういう関係があるのです?」
「いや、関係があるかどうかは分かりませんが、できれば何でも聞いておきたいのです」
しばらく、礼二郎は沈黙した。
「実は自殺しました・・・」
稲荷と村越警部は顔を見合わせた。
「じ、自殺ですか?」
「はい。事件に関係ないのならば、話したくないことですが」
「いえ、関係があるかもしれない。できればお答えください。いつ、どこで、どのように亡くなられましたか?」
「細かく話す必要がありますか?」
「できるだけ細かく話してください」
礼二郎は話すことをためらった。しかし、その重い口を開いた。
「服毒自殺したのです。母は・・・」
稲荷はギョッとした顔をして、村越警部を見た。村越警部もそれに反応し、お互い顔を見合わせた。
良子が自殺したのは礼二郎が十歳のときであり、それは、礼二郎が幸一とは腹違いの子供であることを知らされてから間もない頃の話であった。
「そうでしたか?しかし、どこで自殺されたのですかね?」
礼次郎は、真剣な面持ちで言った。
「栃木県の藤岡です」
稲荷千太郎と、村越警部は驚いた顔つきでお互いの顔を見合わせた。栃木県の藤岡というのは、群馬県の藤岡と勘違いされることもあるが、佐野から近い位置にある。藤岡から渡良瀬川を渡ると茨城の古河になるところから茨城と栃木の境にあるということができる。
「藤岡?藤岡と言えば、佐野のほとんど隣りではないか?幸二さんが、佐野に住んでいるというのに・・・」
と、村越警部は眉間にしわを寄せて呟いた。
「しかし、なぜ藤岡で・・・・?」
稲荷千太郎も不思議そうな顔をした。
「父から聞いていませんか?」
「何をですか?」
「父の出身は、藤岡なのですよ」
「そうなのですか?それは聞いていませんでした」
「渡辺新造さんも藤岡出身で、父とは昔からの友人です」
「そ、そうだったのですね」
「なぜ、父はそのことを皆さんに言わなかったのでしょうか?」
「そ、それはたぶん、事件と渡辺さんの出身地は関係ないと思っていたのでしょう。しかしお母さんは、なぜ藤岡で・・・?」
「後で父からも詳しく聞いてください。私は簡単に説明します」
「はい。お願いします」
「母は、当時、今の紗枝を妊娠しました。その時、母は紗枝を出産するまで、栃木の藤岡へ引っ越しました」
「お母さんの実家ですか?」
「いえ、貸間を借りました」
「えっ?その辺りから理解が困難になってきました」
「今から話します。う~ん。どこから話せば良いのでしょうか?」
話がやや複雑そうであった。そのため、説明しようとしていた礼次郎自体が悩んでしまった。
「つまり・・・母は、渡辺新造さんを医者として信頼していたのですよ。その渡辺新造さんが、一時浅草から栃木の藤岡へ診療所を移転したのです」
「えっ。それはなぜですか?」
「それは私には分かりません。そのことは父に聞いてください。今は、その説明はさておき、話の流れだけ」
「はい。分かりました」
「母は、私を産むときに相当苦労したのです。帝王切開でしたから。そして、再び妊娠したと分かったときに、信頼していた渡辺新造さんが栃木へ帰ってしまった。母は、出産するまでは渡辺新造さんの側に住みたいと我儘を言って引っ越したわけです」
「渡辺さんが、栃木へ引っ越した理由はさておいて、渡辺さんは確か栃木で開業してから浅草に移転したはずです。その浅草から再度栃木へ戻ったのですかね?」
稲荷千太郎は、大広間で喜平が同席していた時に乳井しんから聞いた話と少し成り行きがずれていることに違和感を感じた。また喜平もそれについては何も口を挟まなかったことを覚えていた。
乳井しんの話だと、渡辺新造は栃木で開業し、その後に浅草に移転してきた際に渡辺新造は乳井しんを白船亭に紹介したことになっていた。幸二の話では、その浅草から再度栃木へ診療所を移したというのである。
「渡辺先生は、浅草の診療所を一旦閉めました。そして栃木へ行きました。その後、落ち着いた頃、再び浅草に戻ってきた。浅草の診療所は借間ではなく、自分の土地と建物のようでしたから」
「つまり、栃木で二度開業し、浅草でも二度開業したことになるわけですね」
「たぶん、そういうことだと思います」
おそらく乳井しんは、渡辺新造の診療所の移転の細かい詳細まで話す必要はないと判断したのだろう。その話を乳井しんから聞いたのは事件が発覚する前だった。
「なるほど。それで、お母さんの話の続きを」
「はい。母が出産するまで、乳井さんも同行することになりました」
「乳井さんが?」
「乳井さんは、過去に渡辺さんの所で働いていましたし、その時点では家の仲居さんをしておりました。母とも仲が良かった。そういう意味も踏まえて同行したのです」
「なるほど・・・」
「ところが、母は紗枝を産んでから数日後に自殺したのです」
「う~ん。さっぱり意味が分からんね」
と、村越警部は横から口を挟んだ。
「子供や自分が大事だからこそ、信頼できる渡辺氏の近くへわざわざ引っ越しておいて、いざ出産したら自殺とは分からん」
「私も分かりません。しかし、聞くところによると、紗枝を産んだ時に再び帝王切開をしなくてはいけなくて、出産時は大変だったそうです。体も心もボロボロになっていたらしいですよ。精神状態がおかしくなって自殺したと渡辺新造さんは思ったそうです」
「なるほど」
村越警部は稲荷千太郎を見て、
「稲荷さん。あんたさっきから、なるほどばかりを連発しているが、何か他にないのかね」
「今、考えていますが、私にも分かりませんね。それで、その後はどうなったのですか」
「はい。乳井さんがしばらくそこで紗枝の面倒を見て、落ち着いた頃に浅草に戻ってきました」
「ありがとうございました。いまいち理解できませんが、これは礼次郎さんに聞くよりも、白船さんや乳井さんに聞いた方がより詳しく分かりますよね」
「まぁ、その通りです。そうしてください」
と、礼次郎は言った。
この件については、村越警部も栃木の警察でそのときの自殺の記録を見つけることにした。
「しかし、自殺した原因は他にはないのでしょうか?」
稲荷千太郎は礼二郎に更に問い正した。
「私は、当時子供でしたから、母が幸一兄さんと私が腹違いの子供であったということを隠してきた罪の意識で自殺したと思い込みました。そう思うと、当時はその責任は私にあるように思えました」
「なるほど・・・。確かに、それを隠していたという後ろめたさをお母さんは持っていたことには違いないですが、さすがにそれを理由に自殺するとも思えませんね」
「そうなのです。今から思うと、母の性格からして、それを理由に自殺するとは思えません」
「他に思い当たる理由もないわけですね」
「先ほど申し上げたとおり、原因は分かりません。しかし、警察が言うように、母が人から恨まれるようなこともありませんでしたし、謎のままですよ。渡辺さんのいう通りかもしれません。精神的におかしくなった、という理由です」
「そのとき、お父さんもかなり動揺したでしょうね」
「はい。父は言葉も失って、それから通夜、葬式を過ぎてもショックで口をあまりききませんでした。まあ、当たり前ですが」
「それはそうでしょうね。いきなり、愛する奥さんが亡くなったわけですから」
これ以上この話を追求することを稲荷千太郎は止めた。そして、渡辺新造について尋ねた。
「では、渡辺さんについて、お聞きします。あなたは、渡辺さんが殺害されたことについてどう思いますか?」
「はい。何の証拠もありませんが、父が思うとおり、父と渡辺さんを恨んでいた土井という男でしょう。先ほど、話したとおり、兄と幸二さんの会話を直に聞いたわけでもないし、普通に考えれば土井が犯人だと思いますよね」
稲荷千太郎は頷きながら、
「そうですね。それが自然ですね」
と、言った。
「渡辺さんと面識があったと思いますが、どういう人でしたか?それと、どんな生活をしていたようでしたか?」
「まあ、生活といっても、一部始終を知っているわけではありませんが、私から見た渡辺さんのことなら・・・」
「そうそう、あなたから見た渡辺さんで結構なのです。むしろその方が良い」
「渡辺さんは、父とは戦友でしたが、見たところは、それ以上の関係のように思えました。週に数回は渡辺さんが家に来ていたし、逆に父が渡辺さんの家に行ったりと、互いに行き来していました」
「そうでしたか。渡辺さんは、この家でよく食事をとったりしたことはありますか?まあ、言わば親戚のような付き合いをしていたかどうかですが」
「そういうことはありませんね。だいたい渡辺さんは日中にこの家に来ていましたし、私などが顔を合わせても、挨拶をかわす程度でした。ただ、どうも、渡辺さんは父に対して命令口調というか、威張っていたというかそういう印象があります」
「え?そうなのですか?なんとなく私のイメージでは白船さんのほうが、親分肌ではないかと勝手に想像していましたが。もちろん、渡辺さんの人柄は会ったことがないので分かりませんが」
「いえいえ、それは逆でしたね。いつも、父をお前呼ばわりしていましたね」
「そうだったのですね。ときに、渡辺さんの産婦人科は忙しそうでしたかね?」
「あはは・・稲荷さん。あの病院を外から見ましたよね。もしも、儲かっていたら、とっくに建物を建て直しているでしょう。まあ、この辺りは、総合病院も多くないのであそこで出産もしていましたよ。ベッドも数個ありましたし、看護婦さんも居ました。今は、時代遅れの病院になってしまって、あそこも暇が続いていたようです」
「なるほど。それはそうかもしれませんね。失礼な言い方ですが、渡辺さんの診療所は古くさい感じでとても患者が多く訪れるというイメージは沸きませんね。分かりました。長い時間ありがとうございました。次に紗枝さんをこちらに呼んでいただけませんか?」
「分かりました」
礼二郎は、部屋に来た時と違って、ニコニコと愛想のよい笑顔を見せながら退室した。
数分後、ドアをノックする音が聞こえた。紗枝が来たのであろうと稲荷千太郎は思った。
「どうぞ、中にお入りください。」
ドアが開き、無言で紗枝が中に入ってきた。紗枝は稲荷千太郎の顔を見て、不安そうな面持ちをしながら、ふと笑みを漏らした。和風の美しさの中に、どこか寂しさの感じる女性であった。
「あの・・・・」
「はい。何か?」
「実は、ドアの外に早紀がいるのです。中に入れてもよいですか?全員から話を聞いているということだったので、早紀も同席させたほうが、時間の短縮にもなりますし、早紀も安心しますので」
「そうですね。それも一理ありますね。どうぞ、早紀ちゃんも中に入れてあげてください」
早紀が、開けられたドアの前に立っていた。紗枝の子供だけあって、早紀も細面で目元がはっきりとした芸能人のような顔つきをしていた。まだ中学生だというのに美人な女性に成長することは誰にでも予想できた。
「あの・・・一体なぜ順番にこの家の人を呼んで何事かを聞いているのですか?」
紗枝が不安そうな顔つきで稲荷千太郎に聞いた。
「事件の当日の話もありますが、それに関する情報を得るのはあまり期待できないと思っていますので、渡辺さんの生前の話を知っている範囲でお聞きするのが目的です」
「なるほど、そういうことですか?」
「そう。そういう意味で、最近の話でも結構ですし、何十年も前の話でも結構です。渡辺さんの知り得る話を教えてくださいませんか?」
「渡辺さんは、厳密に言うと、浅草で産婦人科を開業したのですけど、一時、栃木の実家付近に病院を移動したことがありました」
「それは先ほど礼次郎さんから聞きました。理由は分からないといっていました」
「この件は、後で白船さんにも再度確認しますが、渡辺さんは、一時栃木へ病院を移動したわけですね?しかし、それはいつごろの話ですか?」
「私が産まれる前です」
「それも礼次郎さんから聞いた話と一致しています」
「そうです。私が産まれる前。そして、私は、その栃木の病院で生まれたのです」
稲荷は、礼次郎から聞いた話と紗枝の話との一致を確認し、大きく頷いた。
「なぜ、お母さんは栃木であなたを産んだのでしょうね」
「たぶん、渡辺先生が浅草から栃木へ移動するまでの間に、浅草で主治医のように診察を受けていたので、そのまま継続して診てもらいたかったのではないでしょうか?母の実家も栃木でしたから」
「ほお・・・また、栃木ですね」
「稲荷さんは、栃木という言葉を聞いていちいち驚いていますけど、少しも驚くことなんてないのですよ」
「と、いうのは?」
「ここは、浅草です。東武線というのがすぐ側から出ていますが、それは群馬、栃木へ向かう電車です。出稼ぎの人は案外群馬、栃木の方が多いのですよ。まして、浅草と上野も近いですけど、上野は北の玄関口と言われているように、東北地方からの上京者が降り立つ駅ですから」
紗枝のいうことに稲荷千太郎は感心した。なるほど、紗枝のいうとおり、栃木からの出身者が偶然に重なるのは、この浅草では不自然ではないことなのかもしれない。
「分かりました。しかし、紗枝さんは、具体的な話は聞かされていないでしょうね。お母さんから」
「そうなのですよ。私を産んでから直ぐに自殺をしてしまったので、私にはお母さんの記憶がありません」
「いきさつなどは白船さんに聞いたほうがいわけですね」
「そういうことになりますね」
「では、渡辺さんは、あなたにそういう話をしたことはありますか?」
「渡辺先生も、そのようなことを口にされたことはありません」
「そうなのですか?では、渡辺さんは、白船さんの友人として、この家に度々来てはいたけど、あなたとは特別な会話などはなかったということなのですね」
「そうです。挨拶程度ですね」
「ところで、早紀ちゃんは、渡辺さんのところで産んだわけではないのですか?」
「妊娠したかどうかの検査だけして、いざ、妊娠が分かった後は大きな病院に通院しました」
稲荷千太郎は腕時計に目を向けた。午後三時を過ぎていた。
「時に紗枝さん。あとは、お話を聞いていないのが乳井さん親子と順子さんなのですが、この家の中にいらっしゃいますかね?」
「たぶん、順子姉さんはいると思います。今日は仕事を休むと言ってましたからいると思います。新吉さんは帰ってないと思います。なにせ、舞台稽古で忙しいみたいなので・・・」
「そうですか?まあ、それはそれとして・・・」
稲荷千太郎は次に、早紀のほうに目を向けた。
「早紀ちゃんは、ここ最近変なものを見なかった?家の前とかで変なおじさんを見たとか、そういうこと」
早紀は、中学生らしい態度をとって、きちんと両手を膝の上に乗せたまま、きょとんとした表情をしていた。そこに、母親である紗枝が助け舟を出すように会話に割り込んできた。
「稲荷さん。実は、早紀に質問される前に、いっておきたいことがあるのです」
「はあ?何か特別なことでも?」
「実は・・・」
紗枝は話しづらそうな苦い顔をした。
「実は、この子は、少し人より変わったところがありまして」
「人と違うところがあるのですね?」
「そうなのです」
「どんな?」
「実は、夢を見て、その夢の内容が実際に起こるというような・・・。なんと、言えばよいのかしら?予知能力とでもいうのでしょうか?例えば、昨日の夢で○○おじさんが家に来る夢を見たから、近いうちに○○おじさんが来るよってこの子が言うと、本当に数日後にその人が来てしまったり・・・。何度も、そんなことがあると、親の私まで信じてしまうようになってしまって」
「なるほど・・・。で、早紀ちゃんは、良くそういう夢を見るの?」
「時々見ます。夢って現実的じゃないものが多いけど、たまに妙に現実っぽい夢を見るのです。顔がはっきり分かったり、出来事がはっきり理解できたり・・・」
「なるほどね。それを毎回お母さんに教えたりしているの?」
「いいえ。都合の悪いときは教えません」
「例えば?」
「テストの結果が夢で分かってしまったとき」
稲荷と村越警部は顔を見合わせて、思わず苦笑した。なるほど、子供らしい利巧な考えだと納得した。
「他にはありますか?」
「そうですねえ。あまり、たいした内容の夢でないときもいいません。そういう夢を見ることも、月に数回程度しかないし、自分で見たいと思ってみることもできないし、自分でもなんとなく気持ち悪くて。友達が夢に出てきたり、学校のこととか、部活のこととか、そういうことはいちいち夢で見てもお母さんには言いません。逆に、運動会の日が雨だった夢を見たとき、それが運動会の数日前だったためお母さんにいいました。なぜかというと、雨で運動会が中止になれば、母さんお弁当をつくらなくてもよいからです」
「なるほど。早紀ちゃんは優しいのですね」
と、稲荷千太郎は紗枝に言った。
「そう。確かにそういうこともありました。母親の私としては、娘がそういう夢を見たからっていっても、それを全面的に信用して、お弁当をつくらないっていうのは変なので、
ちゃんと、用意はしました。だけど、朝起きると、本当に雨。天気予報が晴れだというのに・・・」
稲荷千太郎は、この紗枝が、彼と早紀が話そうとした直前に、このような話が持ち上がるとは予想していなかった。
「そうですか。分かりました。ときに、早紀ちゃんは、何かの夢を見たの?今回の事件に関係する何かを見たのでしょう?私は早紀ちゃんの話を信じますよ。だから、安心して話してみて」
村越警部は横で腕を組んだまま、複雑な表情をしながら腕時計と稲荷千太郎の顔を交互にチラチラと見ていた。
「分かりました。お話します。実は、夢で見たのです。片腕のない男の人を」
「そ、そうなの?そ、それはいつ?」
「はい。昨日です」
「それはこの前、渡辺新造さんが殺されてしまった日に、色々な話を聞いてしまったから早紀ちゃんの無意識の中にその男がいて、それを夢で見てしまったのかな?」
早紀は少し困ったような顔をした。
「う~ん、だからこういう話をするのは嫌だったのです。だって、見た理由も分からないし、見たから何かが起こるとも限らないし、ただ、私はそういう夢を見たっていうことしか・・・。」
早紀は極めて頭脳が明晰な少女であると稲荷千太郎は思った。的確な回答としかいいようがない。
「そうだよね。それはそうだ」
と、恐縮しながら稲荷千太郎は自分の頭をボリボリと指で掻いた。
「で、その夢で見た片腕のない男ってどういう男だった?」
早紀は、下を俯いたまま小声でいった。少し肩が震えているように見えた。
「そ、それが、顔は分からないのです。夢の中の話だけど、その人が私の部屋の入り口に立っていた。今から思うと怖くて体が震えてきます。怖くて怖くて、うなされる様に目が覚めてしまいました」
「どんな服装?そして、どんな感じの人?」
「黒い帽子をかぶっていて、そして黒いコートを着ていた。それは、この前、こういう男の人を見かけたら注意するようにって稲荷さんに言われたイメージとピッタリでした」
「年齢は何となく分かる?顔は分からなくても」
「年齢は分かりませんが、老人ではないと思います。なんとなく雰囲気が・・・」
「幾つくらい?」
「そ、そこまでは分かりません」
村越警部は、稲荷のほうをやや呆れた顔つきで見た。
「稲荷千太郎ともいうべき人が、このお嬢さんの夢の話をどこまで聞けばいいのだろう?時間もないことだし、稲荷さん、別の質問にしたら?」
稲荷は逆にムッとした表情で村越警部を見返した。
「いえいえ、大事なことですよ。予知能力というのは、認められる方向にありますしね。まして、早紀ちゃんには、予知が当たったという実績がたくさんある。今は、どんなことでも情報が欲しいのは、村越さんも分かっていることではないですか?」
紗枝は我々の会話に割って入った。
「いえ、私が悪いのです。こんな話を娘にさせてしまって。そして、皆様まで混乱させてしまいました」
「そんなことはありません。是非、続きが聞きたい」
「実は、娘が片腕のない男の人の夢を見たっていうものですから、幸一兄さんと礼次郎兄さんにもこの話をしたのです。すると、できれば、警察の人に話をしたほうが良いといっていたので・・。もっとも、幸一兄さんも、礼二郎兄さんも、直接は皆様にお話はしなかったでしょうけど。これは、早紀と母である私の役目かな、と思いまして」
「ありがたいですよ。続けましょう。それで、早紀ちゃんに聞くけど、なぜ、その人は老人ではないって思ったの?」
「う~ん、根拠はないです。シルエットというか・・・。はっきりいえば、子供やお兄さんっていう感じではないと思います。老人でもなく、どちらかといえば、おじさんっていうイメージ」
「おじさん・・・」
「はい。おじさんです」
「では、次の質問だけど、それは何かの予知なの?」
「何かの予知かどうか分かりません。ただ、そういう夢を見ただけなのです。その男の人の夢を見た、ってお母さんにいったら、警察の人にいいなさいっていうから」
紗枝が口を挟んだ。
「そうなのです。この子が夢を見た片腕のない男性は、老人ではなかった、ということを話しなさいといったのです」
稲荷千太郎は、紗枝の話しを聞きながら右の手の平を広げて、イヤイヤと恐縮した。
「いえいえ、助かります。非常に有力な情報です」
村越警部は、ややムッとしていた。
「本当ですか?」
「本当ですとも。早紀ちゃんの夢の予知能力というか、現実性を帯びている夢を見る力というか、そういうものは皆さんが知っていることですし、信用するに値するものですよ。ただ、それに科学的な証拠が認められないということと、残念ながら今回の夢では、その男の顔がはっきりと分からなかったということが引っ掛かりますが、早紀ちゃんの夢の能力を否定するわけではありません。と、いうか早紀ちゃんにお願いだけど、また、同じような夢を見たら、おじさんに教えてくれるかな?」
「はい。喜んで」
「ありがとう。そうだ・・・。もう、ひとつ、その夢について聞いて良いかな?」
「はい」
早紀は、稲荷千太郎が早紀の能力を完全に否定しなかったことで、少しうれしかったようで、ニコニコしながら返事をした。
「顔が分からなかったということだけど、何か他に特徴はなかったかな?」
早紀はしばらく、思い出すように考え込んでいた。
「そ、そういえば、何か棒のようなものを持っていました。左手に・・・」
「棒?」
「はい。黒い棒のようなもの・・・。それが、顔と同じだけど、ぼんやりしていて何だか分からないのですけど」
「刀ではなくて?」
「刀というのはギラギラ光るようなものですか?」
「そう。時代劇に出てくるような刀」
「いえ、そういうものではありませんでした。光っていなかったし、刃物ではないような・・」
「長さは?」
「竹刀のような長さでした。竹刀っていうのは、刀と同じような長さなのかなあ?」
「そうだね。たぶん、竹刀と刀は同じような長さだね。もしかしたら、鞘に入った刀ってことはあるかもね?」
「鞘って?」
「う~ん、そこまで言われると早紀には分かりません。鞘だか棒だか・・と、いうところまでは・・・。」
「いや、早紀ちゃん、ありがとう。非常に参考になりました」
早紀は、うれしそうな笑顔を見せた。
「本当?」
「ああ、本当ですよ。だけど、ひとつだけ心配が・・・」
村越警部と、紗枝が不思議そうな顔をして稲荷千太郎を見た。
そして、紗枝が言った。
「何が心配なのですか?」
「いやぁ・・・早紀ちゃんのことが心配なのです。つまり・・・早紀ちゃんが狙われないかと」
村越警部は吐き捨てるようにいった。
「い、稲荷さん。何ということを言うのだね。犯人は、現在は土井が怪しいという前提で捜査を進めているのだよ。その土井が、なぜ、早紀ちゃんの夢の能力が分かるのだ?根拠のないことをいって、この家の人たちを不安にさせることはないだろう」
紗枝も同じようなことを言った。
「そ、そうですよ。稲荷さん。気持ちの悪いことをいわないで下さい。早紀も不安になるではありませんか?」
稲荷千太郎は困った表情をした。
「いえ、用心に越したことはないと思うのです。まだ、犯人は土井だとは決まっていませんから。現に幸一さんなんかは、幸二さんが犯人だと決め付けていますしね。私も、まだ、土井に断定はできないと思います。そういう意味でも気をつけないと。たとえば、早紀ちゃんに不思議な能力があることを犯人が、何らかの方法で知ったらどうでしょうか?そういう人の存在は気になるはずですよ」
村越警は、苦い顔をしながら、
「つまり、稲荷さんは、早紀ちゃんの能力を全面的に信頼するわけか?私は、早紀ちゃんを罵倒するわけではないが、科学的な証拠能力はないと思っている。私のように思う人間も多いはずだ」
と、言った。
更に村越警部は、
「じゃあ、稲荷さんは、早紀ちゃんの言うとおり、犯人は老人ではない、つまり、土井ではない、と思っているわけだね?」
「いやあ・・・村越さんは、極端に過ぎますよ。完全肯定か、完全否定か、どちらかに決めないと気がすまないようですね。私は、あくまでも、可能性を模索しているだけです。早紀ちゃんも用心に越したことないし、そして、早紀ちゃんの見た老人ではない片腕のない男が犯人なのかどうかも分からないと思っています。早紀ちゃんの夢は当たることもあるでしょうし、外れることもあるでしょう。ただ、問題提起としては、大事な視点を早紀ちゃんは示してくれています。必ずしも犯人は土井とも限らないということです。逆にいえば、土井の可能性もある。幅広い考えが必要でしょう?」
「まあ、稲荷千太郎らしい答えだ」
ここで、稲荷千太郎は沈黙した。ふと、思ったのである。現在のところ、容疑者として考えられるのは土井宗次郎と幸二である。しかし、いずれの容疑者も、犯行に至る経緯に疑問がある。
まず、土井が犯人である場合、最も素朴に思うのは、何故、今頃になって犯行を行う理由があるのだろうか、ということである。喜平や渡辺新造に恨みがあるのだったら、自分が老人になってからその恨みを晴らすべく殺人という犯行を行う必要があったのだろうか。もっと、自分に体力があった年齢に行えばよかったのではないか?それとも、今になって初めて犯行の動機を持ったのだろうか?
そして、幸二が犯人であったとしても、違和感がある。早紀の夢の通り、片腕のない男が老人でないとすれば、まず、幸二という名前が思い浮かぶ。しかし、幸二が犯人だとしても、渡辺新造を殺害する動機が不明である。そして喜平にまで脅迫状を送るということは喜平をも殺人の対象としているのだろうか?いずれの二人も容疑者になれる資格があるが、そのどちらかが犯人であったとしても、何となく違和感がある。稲荷は、そんなことを考えていた。
しばらく沈黙が続いた。
紗枝が、言った。
「そろそろ、質問は終わりですか?そうであれば、退室してもよろしいですか?」
はっと、紗枝の言葉で、稲荷千太郎は我に返った。
「ああ・・・。そうですね。失礼しました。
これで、質問は終わりです。ありがとうございました」
紗枝と、早紀が椅子から立ち上がり、室内から廊下に出て行こうとした。
その時、稲荷千太郎は紗枝を呼び戻した。
「紗枝さん。ちょっと」
紗枝は稲荷千太郎に声を掛けられ、足を止めた。
「はい」
「紗枝さん。次は乳井さんを呼んでいただけませんか?但し、十分後に来て頂けるように伝えて下さい。少し休憩します」
「分かりました」
村越警部と稲荷千太郎は、タバコを吸い、それぞれが思いにふけりながら休憩した。
そして、十分後ちょうどにドアをノックする音が聞こえた。指示通りに乳井しんが来たのである。
乳井しんは、痩せ型で年齢も六十歳を超えているが、白船亭のことは何でも知っている女番頭の役目を果たしていた。そのためか、年齢の割には若く見えた。和服姿が多いため、常日頃、髪はアップにしていた。
そのときは、乳井しんは髪はアップしたままで、ズボン姿で室内に入ってきた。
「あれ?乳井さん、珍しいですね」
「何がですか?」
と、乳井しんはニコニコと笑顔だった。
「いえ、ズボン」
「あぁ。これですか。食材のブリが足りなくて、先ほど買い出しに行ってきたのです。着物だと動きにくくて」
「そうでしたか?その格好のままでよろしいですか?それとも着替えてきますか?」
「別にお話しするだけですから、この格好のままで結構です。着物には後で着替えますから」
「そうですか?では、そこにお座りになってください」
「はい」
乳井しんは、先ほど紗枝が座ったのと同じ位置に座った。
稲荷千太郎は、その正面に座り穏やかに言った。
「実は、乳井さんには聞きたいことがたくさんあるのです」
乳井しんは、意外な顔をした。
「私にですか?」
「そうです」
村越警部は、その光景を稲荷千太郎の背後の椅子に座って見守っていた。村越警部が座っていた椅子の前には洋風の文机があり、そこい白い陶器製の灰皿が置いてあった。ゴールデンバットのタバコを背広のポケットから取り出すと、文机に吸い口側をトントンと叩いてから口に咥えた。そして、マッチを吸って火を付け、「フー」と一服した。
乳井しんは、その光景を見ながら言葉だけを稲荷千太郎へ返した。
「なぜ私に聞きたいことがたくさんあるのですか?」
「あなたが中立的な立場であるからです。そして何よりもこの家に一番古くからいらっしゃり、この家の人々のことも、渡辺新造さんのことも良く知ってらっしゃる」
乳井しんは黙って頷いた。
「そうかもしれません。と、いうかその通りですね」
と、乳井しんは細く微笑んだ。
しかし、乳井しんはその時、落ち着かない様子だった。稲荷千太郎の話をどこか上の空で聞いているように見受けられた。
「乳井さん、どうかしましたか?」
「いえ、鍵をどこかに忘れたようでして」
「鍵?」
「はい。私はこの家の合鍵を全部持っています。その鍵をひとつに束ねているのですが、それが見当たらないのです。泥棒にでも入られたら私のせいになってしまいます」
「覚えはないのですか?」
「先ほど、買い出しに行った帰りに喫茶店に寄ったのですが、そこに置き忘れたのかもしれません。大丈夫です。お話しが終わったら、そこに電話してみます」
「分かりました。では、話を進めますね。あなたは、古くから渡辺新造さんを御存知かと思います。渡辺さんが殺害されたことについては、どのように感じましたか」
「そりゃもう驚きました。土井宗次郎という人の話は以前に旦那様から聞いていたので、まさかと思いました」
村越警部は、稲荷千太郎の代りにすかさず口を挟んだ。
「と、いうことは、あんたは犯人を土井宗次郎だとお思いかね?」
「はい」
乳井しんは何のためらいもなく答えた。
「その根拠は?」
「土井宗次郎という人が旦那さまを恨んでいることを聞きましたから」
「それはいつ頃ですか?」
乳井しんは淡々と細い目をより細めて答えた。
「脅迫状が来たときです」
村越警部は深くため息をついた。
「それじゃ、あんまり意味はないのだよ」
「え?」
乳井しんは、不思議そうな顔した。
「つまり、脅迫状が本当に土井から届いたものかどうかが論点になっているのだから、あんたの話だと脅迫状は土井から届いたものだと決めつけた格好になる」
「土井宗次郎という人からの脅迫状なのではないのですか?」
稲荷千太郎は、穏やかにいった。
「それが、土井ではなく、幸二さんが土井になりすまして、脅迫状を送った可能性がある、ということも捜査対象になっているのですよ」
「幸二さんが送ったとは思えません」
「それはなぜ?」
稲荷千太郎は執拗に迫った。
「旦那様が土井宗次郎という人からの脅迫状だといい切っていましたので。私は旦那様のいうことを信じます」
「そうですか?幸二さんが送ったという可能性についてはどう思いますか?」
「幸二さんはそんなことをする人ではありませんよ」
「ときに、乳井さん。あなたは、渡辺新造さんの紹介でこの白船亭に勤めることになったという話ですが、少し詳しく教えていただけませんか?」
「はい、私は元を正せば渡辺医院の従業員だったのです。ところが、病院の経営もおぼつかなくなってきて、渡辺先生は私が困ると思って転職先を紹介してくれました。それが、この白船亭でした。渡辺医院と近い位置にあったので驚きました。旦那様は、渡辺さんの頼みは断れないと言って、私を雇ってくれました。それから何十年経ったか分かりませんが、この家に住まわせて頂きながら働いて今日に至りました。渡辺先生と白船の旦那様には本当にお世話になっているのです。渡辺先生は、はじめは栃木県で開業していましたが、これからは東京だと言って、旦那様がいる東京へ越してきました。私は、渡辺先生と一緒に浅草へ栃木から来たのです。ところが渡辺先生は、十年程してまた栃木へ帰るといいました。先ほど申し上げた通り、その理由は景気が悪いということでした。栃木へ帰ったのは、違う理由ではないかと今でも思っています。そして、渡辺先生は、再び浅草に戻ってきたのです。浅草の病院は、自分で購入した土地と建物だったので、気楽に戻ってくることが出来ました」
「な、なるほど。しかし、渡辺さんの行動は変ですね」
「なぜですか?」
「いえ、いくら景気が悪くても浅草と栃木を行ったり来たりするのは変ですよ」
稲荷千太郎は首をひねった。
村越警部は沈黙したまま、新しいタバコに火を付けた。
「その辺については、あんたはどう思うのかね?」
村越警部が聞いた。
「分かりません。私などには経営のことや景気のことはさっぱり分かりませんので」
「そりゃそうだな」
確かに渡辺新造が、診療所を転々としたことについては、何か理由があったように思われた。しかし、この時点では、稲荷千太郎にも、その理由は全く予想できなかった。
「ときに乳井さん。先ほど、聞いた話ですが、あなたは良子さんと浅草から栃木の診療所へ行ったそうですね」
「はい。良子さんが妊娠したときです」
「その時の話しをお聞かせ願いませんか?」
「私で分かることなら・・・」
「分かることで構いません。まず、なぜ良子さんは、妊娠したときにわざわざ渡辺さんがいる栃木へ行く必要があったのですか?」
乳井しんは、細い目をテーブルに向けたまま答えた。
「良子さんが礼次郎さんを産んだ時、実は帝王切開だったのです。そのとき、渡辺先生の診療所では対応できないということで、渡辺先生の良く知っている栃木の病院へ入院したのですよ。そこで無事に出産できました。その時に、渡辺先生が良子さんの心の支えにもなったようです。凛月までは渡辺先生の診療所で診察も受けていました。そして、それがトラウマにもなってしまいました」
「トラウマ?」
「はい。帝王切開に対する恐怖です」
「それで、紗枝さんを妊娠した時に・・・」
「そうです。紗枝さんを妊娠したときに、そのトラウマが心に現れたようです。良子さんはつわりがひどかったから、まだお腹が出てない妊娠三ヶ月程度のときから自分が妊娠したということを感じたのです。ところが、頼りになる渡辺先生は栃木へ行ってしまった。日帰りで栃木の渡辺先生の診療所へ行ったら、やはり妊娠しているということが分かったのです」
「なるほど、それでその後は?」
村越警部は興味深そうに身を乗り出した。
「何度か良子さんは日帰りで栃木へ通いましたが、疲れも出てきました。そんな時期に良子さんは私に言ったのです。面倒だから栃木へ住もうかな、と。どう思うかと聞かれたので、私もそれはいいことです、と答えました」
「しかし、結果的に白船さんがそれを良く許可しましたね」
稲荷千太郎は、鼻毛を抜きながら感心した。
「良子さんも、旦那様にそんなお願いをしたら怒られるだろうと最初は心配しておりましたが、私も一緒に旦那様に頼んであげますよ、と勇気付けたのです」
「それで、白船さんは?」
「はい。仕方ないな、とあっさり許可しました。その代りに私も良子さんに同行しますので安心して下さいといいました」
「えっ、乳井さんが同行ですか?」
「はい。渡辺先生のことも一番知っているのは私でしたし、妊婦のことも少しは詳しいですし。そして何より私は良子さんのことが好きでした。姉妹のような気がして。あの人は、お嬢さんでしたから、私のほうが旦那様よりも心配していたのかもしれません」
「そういうことでしたか」
「ただ、少し変わった生活振りでした」
「というのは?」
「良子さんは渡辺先生の診療所から歩いて五分程度の距離の家に住みましたが、そこは平屋建てで小さい家でした。私がそこで同居するのも気が引けましたので、私は渡辺先生の診療所兼自宅の一間を使わせていただきました」
「確かにそれは変わっていますね」
「実は、旦那様にあまり金銭的な負担をお掛けしたくないという私の希望もありまして、良子さんが出産するまでの間、私は渡辺先生の診療の手伝いもして、わずかばかりの給金を頂きました。ですから、私は朝と夕方に良子さんのお住まいに顔を出して家事の手伝いをした訳です」
「お話を聞いていると、乳井さんも大変だったことが分かりますね」
「いえ、元々から体力勝負だと思っていますので、私は平気でした」
「しかし、その頃には新吉さんも生まれていたわけですからその世話も大変でしたね」
「はい。新吉も連れて行きましたので。あの子は面倒がかからない良い子で、一人で近所の公園等で遊んでいました。今から思うと、寂しかった思いますね。当時は可哀想なことをしました」
稲荷千太郎は、改まったような深刻な目つきをした。
「ときに、乳井さん。本題に入りますが、良子さんの自殺の動機は何だったのですか?そして、具体的にどのように自殺したのでしょうか?」
「動機ですか?」
「はい。先ほどから質問させていただいていることは、全て白船さんからも聞こうとは思いますが、白船さんの頭も今は混乱していますので、まずは、良子さんの近くに居て、そして自殺の詳細を知っているあなたから聞きたいと思いましてね」
「はあ・・・」
乳井しんは、顔色も変えずに淡々としていた。
「良子さんの部屋に置き紙があったのです」
「置き手紙?」
「手紙ではなく、置き紙です。つまりメモのような」
「日記ではなくて?」
「良子さんは日記を付けていませんでした。紙に書いてあったのですよ。遺書のようなものが」
「遺書ではなく、遺書のようなものですか?」
「はい。少し曖昧な文章でした」
「どういう意味ですか?」
稲荷千太郎と乳井しんのやり取りを見ながら、村越警部はタバコを吸いながら何やら考え込んでいた。
「つまり、死ぬとは書いてなかったのです」
「え?益々分からない。具体的に説明してください」
「完全な文章は覚えていませんが、大まかには覚えています。ただ、このことは誰にも言わないでください。それは約束していただけますか?」
乳井しんは意外な言葉を放った。今更、良子が自殺した件に関して隠し事をする必要があるのだろうか、と稲荷千太郎は思った。
「は、はい。もちろんですよ。誰にもいいません」
乳井しんは少し安堵した面持ちになった。
「実は、良子さんは顔には出さなかったのですが、恵美子さんを憎んでいました」
「えっ、白船さんの先妻の?」
「そうです」
「そ、それは意外ですね」
「そう。だから内緒にして欲しいのです。こんなことを幸一さんが知ったら可哀想過ぎますので」
「た、たしかに・・・」
稲荷千太郎は乳井しんの言葉に納得した。
「良子さんは、馬鹿ではありません。ですから幸一さんは、自分の子供と同様に育てたことと思います。しかし、幸一さんではなく、恵美子さんに対しては恨みを抱いていた」
「それはなぜですか?」
「残念ながらそれは分かりません。ある種の嫉妬かもしれません」
乳井しんは、当時の事実を語っているだけで、良子の胸の内までは理解できていなかった。
「そうですか。それで、どんなことが書かれていましたか?」
「恵美子さんが憎い。この存在は私の中で消えることはない。だったら私がこの世から消えても良い。たしか、こんな内容でした」
稲荷千太郎は、ニコニコしながら鼻毛を抜き始めた。村越警部は、稲荷千太郎のその姿を見て呆れていた。
「稲荷さん、その笑い顔と鼻毛を抜く癖は直らんのかね。相手に失礼だろうが」
「えっ?これは失礼しました。ところが、この癖は直りません」
「それは直そうとしないからだろう」
乳井しんは二人のやり取りを呆れ顔で笑いもせずにそれを見ていた。
「つまり、乳井さん。良子さんの書いた内容は、その時の精神状態が表れていた訳ですね」
「そうです。そうです」
「目の前に先妻の恵美子さんが居なくても良子さんの心の中に大きい存在となっていた。理由は分からないけれど、その存在が大きくなりすぎて、精神的に追い詰められた良子さんは自分が死んだ方が楽だと考えたというようなイメージですね」
「その通りだと思います。私が説明するまでもなく、稲荷先生の推理通りだと私も思います」
「問題は自殺した方法と時期ですね。これについては?」
「それが私にも解せないです」
「と、いうのは?」
「良子さんは、紗枝さんを産んでから五日後に毒物を飲んで死にました。実は、帝王切開を恐れていたのですが、紗枝さんについては普通の分娩で産むことができました。渡辺先生の診療所に産婆さんを呼んでそこで産みました。大きい病院に行かなくても良かったのです」
「帝王切開を恐れていた良子さんは、結局は普通分娩で紗枝さんを産めたわけですか?非常に喜ばしいことだと思いますが、出産後に直ぐ自殺するなんて、どう考えても変ですね。それをなぜ当時の警察は自殺と断定したのでしょうね」
乳井しんは当時を思い出す様な遠い目をした。
「たしか、自室の中で、服毒したのです。そして、倒れている遺体の側の文机の上に、先ほど申しました遺書があったのだと記憶しています」
「それにしてもなぜ自殺をするような人がわざわざ浅草から栃木まで行って出産して、しかもその喜ばしい出来事の後に自殺するのでしょうか?」
「それは、たぶんですが、良子さんは以前から自殺を考えていたのではないかと思うのです。ただ、妊娠してしまいましたからお腹の子供には罪がないと思っていたのでしょう。
逆から言えば、出産が出来たことで自殺も出来たのだと・・・」
稲荷千太郎は、再び、鼻の穴に人差し指と親指を挿入して鼻毛を抜き始めた。
「警察もそのように判断したのですかね?」
「はい。たしか、そうでした」
「他に自殺を裏付ける動機があったはずですね。そうでないと変な気がする」
村越警部は、稲荷千太郎のその言葉を聞いて頷いた。
「確かに変だな。その当時の記録があるかどうか、私が栃木の警察で調べましょう」
「ときに、乳井さん。その服毒した毒というのは、どんな毒でしたか?」
「たしか、トリカブトだったかと」
「トリカブト?あの猛毒の花ですか」
「はい。その毒を飲み物に混入して飲んだそうです」
「第一発見者は?」
「私です」
「乳井さんが?」
「渡辺先生に、良子さんの様子を身に行くように言われた私は、良子さんの住んでいる借家に行きました。いくら呼んでも出て来ないので、失礼して合鍵で中に入りました。すると、良子さんが部屋で倒れていたのです。私は一大事と思って、直ぐに警察に電話を呼びました。死んでいることが分かったからです」
「そ、そうですか・・・。しかし、白船さんもショックでしたね。子供が生まれてすぐに奥さんが自殺するなんて」
「はい。そのために、この話を旦那様は多くを語りたがらないと思います。稲荷さんがお聞きすることは止めませんが、このことを一応は心に置いて下さい」
「分かりました」
一瞬、三者の間での会話が途切れた。稲荷千太郎は、ここで乳井しんからの聴取を終了しようと考えていた。
そのとき、乳井しんが何かを思い出し、ポソリと呟いた。
「そう言えば、事件に関係があるかどうか分かりませんが、渡辺先生と良子さんの間には一風変わった関係がありました」
「どんな関係ですか?」
稲荷千太郎は、身を乗り出した。
「宗教です」
「ど、どんな宗教ですか?」
「信言教という新興宗教です」
「信言教?」
乳井しんの話によると信言教とは「しんげんきょう」と読む新興宗教であるらしく、その本山は東京の墨田区にあるという。しかし、寺ではなく、通常の民家を本山とし、そこに信者が出入りしていたらしい。
「何を信仰しているのですか?その信言教では」
「白い狐らしいです。私も詳しくは知りませんが」
「白い狐?」
「そうです」
「渡辺さんと良子さんと、その信言教との関係は?」
「渡辺先生は、浅草へ来てから比較的早期に、その宗教団体に加入したらしいです。私が仕事を手伝っていたときも、時々、その宗教の話も聞いていましたし。その後、良子さんが幸二さんを出産する時に帝王切開をしなくてはならないと決まって、良子さんは非常に心配になって恐怖も感じていました。そんなときに、渡辺先生は、良子さんをその宗教団体に誘ったようです。気弱になってしまった良子さんは、日頃から信頼している渡辺先生の誘いに何の疑いもなく乗ってしまって、その宗教団体に加入してしまったのです。そういう繋がりもあって、良子さんは紗枝さんを妊娠した時にわざわざ栃木へ引っ越して渡辺先生の診察を受けることを希望したということですね」
「なるほど。これで良子さんが引っ越しをしてまで栃木の渡辺さんの元へ向かった理由が分かりました。なるほど、なるほど」
稲荷千太郎は、乳井のこの話に痛く感心した。
「それで、白船さんは、良子さんが、その信言教とやらに加入していたことは知っていたのですよね」
「もちろんです」
「白船さんは、それをどう思っていたのですか?」
「後で旦那様本人に聞いてください。私が感じたところでは、無関心でした。いえ、無関心というよりは、渡辺先生も余計な真似をして困ったものだといっていましたが、特に害があるようにも思えなかったので、放っていましたね。積極的には賛成はできないという程度でしょうか」
「分かりました。渡辺さんが殺害されたことに関して、その宗教団体が絡んでいるというようなことは考えられませんか?」
「それも旦那様に聞いてください。私の感じるところでは、それは予想も出来ません。宗教団体との交流関係も分かりませんし」
「そうですか。分かりました。最後にもうひとつ質問ですが、良子さんは幸二さんを産んだ時は大きな病院だったと聞きましたが、紗枝さを産んだ時は産婆さんを利用したのですね。それはなぜですか?」
「病院も信じられなかったのでしょう。良子さんは、色々な意味で精神的に追い詰められていたようですから。過去の経験からして。渡辺先生が、昔から良く知っていた産婆さんによる出産を勧めたのです。その方が良子さんの精神にとっては良かったのではないかと私も思いました」
稲荷千太郎は深々と頭を下げた。
「非常に長々とお話しをしていただきまして、ありがとうございました。乳井さんは何でも知っていると思っていたので、こういうことになってしまいました。どうぞ、お仕事へ御戻り下さい。ありがとうございました」
乳井しんは、席を立ち、一礼をして部屋から退室した。
最後に、長女の順子が部屋に入ってきた。順子は証券会社の事務をしている会社員だったが、この日は喜平の指示で会社を休んでいた。紗枝と違って比較的大柄の女性で、髪はストレートのロングヘアで洗練されていた都会の美人という雰囲気だった。紗枝は日本女性というイメージで切れ長の目をしていたが、順子は目元がはっきりとしていて、同じ兄弟でもタイプが異なっていた。
「順子さん、会社まで休ませてすみませんでしたね」
と、稲荷千太郎は喜平に代わって詫びを言った。
「本当に、迷惑ですわ。仕事が忙しい時期なのに。私と渡辺さんは全く接点もないので
何も答えられませんよ」
順子は迷惑そうにいった。
「分かりました。手短に質問させていただきます」
「はい。そうしてください」
「今日は、この家の方のほぼ全員にお話しを聞いています」
順子は笑いもせずに、
「アリバイですか?」
と、言った。
稲荷千太郎はやや恐縮した面持ちになった。
「いえ、そんなことではありません。私もこの家の方を良く知らないので、知っておきたいという気持ちもありましてね」
「なぜですか?殺されたのは渡辺先生でしょう?渡辺先生に関係ない人に聞いても仕方ないのではないかしら」
稲荷千太郎は、深くため息をついた。
「この家の誰かが次に狙われているかもしれません」
「まさか。そんなことはないでしょう」
「土井宗次郎の件は知っていますよね?」
「聞きましたよ」
「犯人が土井宗次郎なら、この家の誰かが狙われる可能性があります」
「そのことも何となしに聞いています。だけど、私は渡辺先生のことはよく分かりません。そういう前提で私が次に狙われたとしても、防御しようもありませんよね」
稲荷千太郎は、この順子の言葉に感心した。
「なるほど。その通りですね。話は聞いていましたが、あなたは合理的で頭が良い人ですね」
「いえ、私は頭が良いわけではありません。誰でも分かることでしょう。そう、稲荷先生にも」
「いやあ。これは参った」
と、稲荷千太郎は指で頭を掻いた。
「順子さんは、どんな仕事をしているのですか?」
「私は証券会社の営業です」
「証券会社ですか。なるほど、頭がきれるわけだ」
「そんな話をするためにここに来たわけではありません。失礼していいですか?」
「いえ、もう少し。もう少しだけお話しを聞かせてください」
「手短にお願いします」
「順子さんが、渡辺さんと接点がないことは分かりました。事件に関係ないかもしれませんが、お母さんの良子さんのことについて少しお聞かせ下さい」
「母のこと?」
「はい。お母さんのことです」
「分かる範囲のことなら」
「お母さんが自殺したことは当然、知っていますよね」
「はい。私が成人になった後に、父から聞きました」
「自殺の仕方も?」
「はい。聞きました。毒物を飲んだと聞いています」
「そのことについてどう思いますか?」
「なぜ、自殺したのだろうかと思っています」
「そうですか?遺書らしきものがあったという話は聞いていますか?」
「それも聞きました。母が自殺に追い込まれるほどに、父の先妻の恵美子さんを恨んでいたとは思いもよりませんでした」
「お母さんから、そういう話は聞いたことはありませんか?」
「全くないです」
「と、いうことは、お母さんが恵美子さんを恨んでいたということは、あくまでお母さんの胸の内ということですかね?」
「いえ、完全にそういうことではないと思いますよ」
「と、いうのは?」
「母は渡辺先生に勧められて宗教団体の信者になっていました。たぶん、精神的な悩みが多かったのでしょうね。だから、渡辺先生や、その宗教団体の人にはそういう悩みを打ち明けていたのではないかしら。あくまで私の想像ですけどね」
「なるほど。それは十分に考えられることですね。しかし、そんなお母さんが自殺してしまったということに関してはどう思いますか?」
「全く想像ができません」
順子はきっぱりといった。
「自殺するはずはないと?」
「いえ、自殺をするしないということではなくて、想像することができないのです」
「意味が良く分かりませんが」
「つまり、自殺したということを後から聞いたのですけど、それが妙かどうかの判断ができません。自殺したと聞けば、そうなのかとも思いますし、そのまま自殺せずに生存していてもそうなのかと思います」
「分かったような分からない感じですね」
稲荷千太郎は閉口した。
「ただ、母は少し鬱状態というか、精神的な病気を持っていました。そのため、救いを求めて渡辺先生が勧められた宗教団体にも加入したわけですから、栃木で一人暮らしをしているときに、何らかの心境の変化が起きても不思議ではないような気もします。だけど、色々考えるとやっぱり私には分かりません」
「そ、そうですか。分かりました。これ以上はその質問は止めます」
と、稲荷千太郎は少し取り乱している順子を見て言った。
しばらく、稲荷千太郎と村越警部、順子との間に沈黙が続いた。
その瞬間、稲荷千太郎の左の頬に何か冷たい物質が付着したのを感じた。左手で、その物質を確かめた。それが何らかの液体であることはすぐに分かった。
稲荷千太郎は、頬に垂れるその物質を自分の汗かと思った。
すると、彼の頬を触っていた自分の左手の指先に、再び、新たに液体が付着した感覚を覚えた。
稲荷千太郎の体内からの液体ではない。天井から落ちてきたものだった。稲荷千太郎は、液体が付着した自分の左手を見た。
その瞬間、言葉も出ないほどに驚いた。
「こ、これは、血だ。あぁぁ・・・。」
「まあ、稲荷さん。どちらへお出掛けでしたか?旦那様と警部さんが首を長くしてお待ちです」
「はい。お二人はどちらに?」
「二階の大広間です」
稲荷千太郎は階段を小走りで駆け上がり、二人が待機していた二階の大広間に入った。
村越警部と白船喜平が何やら座って話をしていた。
喜平が稲荷千太郎に気が付き、
「稲荷さん。待っていましたよ。どちらへ行っていましたか?」
と、言った。
「すみませんでした。野暮用で・・・。村越さん、早速皆さんに色々お聞きしましょう。お待たせして申し訳ありませんでしたね」
「そうですねそうしましょう。白船さんが、その手配をしてくれています。全員は、まだ揃っていませんが、順番に聞いているうちに、皆さん帰宅するでしょう」
稲荷千太郎は、一息つくと、早速喜平に乳井しんを呼びだすように告げた。
「白船さん。乳井さんをここに呼んでいただけませんか?」
「分かりました」
喜平に命令され、乳井しんは和服姿で数分後に大広間に入ってきた。
「乳井さん、忙しいところ申し訳ありませんが、これからこの家の方々に順番で色々お聞きしたいことがあるのです。ですから、お帰りになった方がいましたら、後で我々が呼びますので、外出しないようにお伝え願えませんか?」
「はい。分かりました。ただ、夕方になると予約の団体さんが来ますので、こちらの部屋ではなく、違う部屋を使っていただけると助かります」
「そうですね。おっしゃるとおりです」
稲荷千太郎は乳井しんの言葉に頷いた。
「白船さん。他に適当な部屋はありますか?」
「自宅のほうに応接間があります。洋間で椅子やソファーがあるから、そっちのほうが楽です。そちらへ移動しましょう」
稲荷千太郎らは、大広間から階段を下りて、自宅で利用している側に向かって、廊下を渡った。白船亭は、道路から見て左側が料亭になっていて、右の三分の一程度が自宅になっている。料亭と自宅は引き戸によって仕切られているが、誰でも行き来できるようになっている。たまに、酔った客が間違って引き戸を開けてしまうことがあるらしいが、開ければ雰囲気が自宅であると分かるために、間違ったお客がそのまま自宅の奥に入り込んだことはないそうである。
応接間は、一階のその引き戸を開けて奥に進んだ突き当たりまで行かない、ちょうど廊下の真ん中に位置している。
稲荷らは、喜平を伴って応接間に入った。革張りのソファーの対面に同じ皮製の椅子が二脚ある。そして、稲荷千太郎と村越警部はソファーに座り、喜平はその対面の椅子に座った。
「さて、では順番に皆さんのお話をお伺いしましょう」
「そうですね」
村越警部は頷いた。
「誰から呼びましょうか?」
喜平は稲荷千太郎に聞いた。
「そ、そりゃあ、白船さん、あなたから」
喜平はすぐに強張った顔付きになり、稲荷千太郎に食って掛ってきた。
「い、稲荷さん。あんた、私があんたを雇っているのですよ。まして、あんたは私の用心棒だ。そのあんたが、なぜ、私のことまで尋問しようというのだ」
稲荷千太郎は閉口しながら、ゆっくりと喜平に言った。
「いえ、白船さんを疑ったりしているわけでも何でもありません。つまり、皆さんのお話を伺いながら事件の全体像を知りたいのです」
「事件の全体像というのは何だね?」
「つまり、アリバイとかそういうことではなく、その人の知っていることを聞きたいのですよ。例えば、皆さんは渡辺新造さんと面識があるはずですが、それぞれの人が渡辺さんに対する違った印象をお持ちでしょうし。そういうことです。但し、事件があったわけですから、アリバイという意味ではなく、当日の行動なんかもお聞きしますがね。これは、疑っているのではないかとお叱りになるかもしれませんが、こちらに警部さんもいることですし、やむを得ません。そして、確かに私は白船さんに雇われている身ですが、事件の解決が白船さんを守ることになると信じています」
稲荷千太郎の話を聞いて喜平は無言で頷いた。
「分かりました。質問があれば聞いてください」
「質問は、私と警部さんとで思い立ったことを聞きますので、白船さんも思い立ったことをいってください」
「分かりました」
喜平は再び無言で頷いた。質問は稲荷千太郎のほうから切り出した。
「まず、渡辺さんが殺害された理由については、どう思いますか?それは、やはり戦地においての土井の恨みでしょうか?」
「それは、最初からいっている通り、それが理由だよ。あの脅迫状がなによりの証拠だ」
「では、犯人が土井であるとした場合、土井は左腕で渡辺さんの首を切断できるでしょうか?」
「それは可能だろう」
「本当にそう思われますか?」
「この間、話もしたが居合をしていたあいつの腕ではそれは可能だ。まして手の内が決まっているからね。あの男は」
「手の内・・・?」
「そう、手の内」
「それはどういう意味ですか?」
「よく手の内を見せるっていう言葉があるでしょう。そのことだ。つまり。流派によって手の内が違う。手の内を相手に見られると次の太刀打ちが見破られたりする。そこから、手の内を見せるとか見せないという言葉ができたのです。簡単にいえば、右手を軸にするか左手を軸にするか、握り方をどうするか、これが流派によって違うわけです。土井は直心影流だったので左手が手の内だった」
「つまり、左手を軸にして刀を握る流派に土井は属していたということですね」
「そう。その通り。しかも、直心影流は、左手を死んでも刀から離さないように強く握って右手は添えている感じだから。その稽古を続けていれば、左手のみでも斬れると思います」
稲荷千太郎は、喜平の専門的で分かりやすい説明に対して、思わず頷いた。聞いたことない言葉に感心しただけでなく、喜平のいうことは、いちいち論理的だったからである。
「では、何故、土井は渡辺さんの首をわざわざ切断したりしたのだと思いますか?」
喜平は強く頷いた。
「それも簡単な話。つまり、私に恐怖を与えるためです。次はお前もこうなる、というような」
「なるほど、なるほど。と、いうことは、土井は白船さんを殺すことがメインであって、渡辺さんを殺害したことは序章だということでしょうか?」
「そういうことになる」
「しかし、その点については、やや疑問がありますね。つまり、渡辺さんを殺害した後にあなたを殺害する計画であった場合ですが、もしも、犯人が渡辺さんを殺害して、すぐに逮捕されてしまったら、計画は未完成で終わってしまう。私なら逮捕される前にさっさと主要目的の方から殺害しますけどね。その点については、どう思われます?」
「確かに稲荷さんの言うことにも一理ありますね。さすが稲荷千太郎。但し、土井はあくまでも新造さんにも恨みを持っていたことには違いない。奴が警察に逮捕されない自信があれば、新造さんから先に殺害するという考えを持っていても不思議ではない」
村越警部は稲荷千太郎と喜平との会話を丹念にメモしていた。
「そういう考え方も確かにできますね。では、幸一さんの話題にも上がったのですが、幸二さんが渡辺さんを殺害した可能性については、どう思いますか?」
「そりゃ、私には想像できない。あくまで、想像できないですね。何故、幸二が新造さんに恨みを抱いているかすら分からない」
稲荷は頷きながら、
「そうでしょうね。分かりました。その件については、否定する方向ですね」
と、確認の意味で言った。
「そうです」
「ところで、片腕のない男が宿泊していた浅草旅館と、その並びにある骨董屋に行きましたが、片腕のない男が骨董屋で脇差を購入した事実が分かりました。これについてはどう思われますか?」
「浅草旅館に土井が泊っていたわけか。あそこの女将さんは欲がなくてね。商売熱心ではないな。逆に骨董屋の親父は商売熱心だ。それで犯人は、あの骨董屋で脇差を購入した?」
「そうなのですよ。要するに浅草旅館に宿泊したときに並びの店で脇差を購入したのです」
「すると、犯行はその脇差を使ったわけだね」
「そう思われますか?
「購入したということなら、そうだろうね。。脇差の方が室内では扱いやすい」
「なるほど、分かりました。白船さんに対する質問はこれで終わりです。ありがとうございました。乳井さんにお願いしていただき、幸一さんを呼んで頂けませんか?」
喜平は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、ステッキを片手に持ち、部屋から出て行った。
数分後、白船亭のハッピを着たままで、脂ぎった丸顔の背の低い風体の幸一が部屋に入ってきた。
「困りますね。帳簿付けや何やらで忙しいのだから。早めに終わりにしてください」
「まあ、こちらに警部さんもいることですし、事件の解決に役立つと思って、少し我慢してください」
幸一は、そのゴム毬のような丸くて大きい体を投げ出すようにドテッと椅子に座った。
「分かりました。分かる範囲のことなら何でも答えます」
「幸一さんは、やはり、犯人は幸二さんだと?」
「それは、言ったとおりです。はっきり、あいつの口から渡辺さんへの恨みを感じましたからね」
「そうすると、あなたのお父さんに届いた土井からの脅迫状については、どう思いますか?」
「幸二がお父さんに出した手紙でしょうね。つまり、犯人を土井に見せかけるためでしょう」
「しかし、あなたは脅迫状の件をお父さんから聞くまでは土井の存在を知らなかった。なのに、幸二さんは土井のことを知っていた。つまり、そういうことなのでしょうか?」
「そうですよ。母は父から土井の話を聞いていたのでしょう。母がそれを幸二に話しさえすれば、幸二は土井を利用して渡辺さんを殺害することができる。それしかない」
今まで無言を通していた村越警部が口を開いた。
「しかし、幸一さん。幸二さんは渡辺さんにどんな恨みをもっていたかを具体的に知らないのでしょう?それは、例えばどういう類の恨みだと思いますか?まあ、人は多かれ少なかれ恨みを抱かれてしまうことはあります。だからといって、いちいち殺されては適いませんね。そして、幸二さんがどういう恨みを渡辺さんに抱いているかも分からないのに、いきなりそれを犯人と決め付けるのはどんなものでしょうかな」
幸一は、やや苦い顔をしながら、
「確かに警部さんの言う通り、幸二がどんな恨みを渡辺さんに抱いていたかは分かりません。私が幸二に呼ばれて金をせびられた時、帰りがけに幸二は渡辺さんなんか死ねばいいと吐き捨てていっただけですからね。ただ、その目には殺気があったのです。何か、渡辺さんを恨む、予想もつかないような何かがあいつの心の中にあったことだけは確かですよ。あの目は普通ではなかった」
「なるほどね。では、幸二さんは、渡辺さん以外の誰かをも恨んでいるようなことはいいませんでしたか?」
「それは、聞いていません」
稲荷千太郎は、しばらく沈黙してから、言った。
「ときに、その幸二さんと会ったのは数回でしたね」
「はい、三回会っています。いずれも電話で呼び出され、会う度に金の無心をされました」
「どこで?」
「居酒屋の時もありましたし、喫茶店のときもありました。目的は金なので、たいした話もしませんでした」
「でも、何らかの話はしたでしょう」
「まあ、世間話程度は・・・」
「その世間話が案外大事なのですよ。教えてください」
幸一は、軽く頷いた。
「分かりました」
「いつ会いましたか?だいたいで結構」
「この件に関しては、この前お話しましたが、最初は、確か二年前位ですね。そし最後は一年前に会いました。概ね一年おきに会いました」
「一年毎に来たわけですね。その一年という期間に意味を感じました?」
「どういう意味ですか?」
「要するに一年ごとに来た、ということについて幸二さんに理由があったと思われますか?」
幸一はしばらく考え込んだ。
「特に意味はないと思います」
「そうですか。では、幸二さんの生活ぶりのようなことは聞きましたか?」
「佐野に住んでいて、工場に勤務しているといっていましたが、作業中に事故で片腕を失った、という話でした」
「そうでしたね。失ったのは右腕ですね」
「右です」
右腕がないという事実は土井宗次郎と一緒だった。偶然のいたずらであるが、このことが今後の捜査を大いに混乱させた。
「町工場だったらしく、片腕を失ったことで、ひそかに職場では使いものにならないため、嫌われたようですよ。給料も安くなり、職場を追われそうな雰囲気だと言っていました」
「なるほど。それで金がなかった訳か?」
村越警部は頷いた。
「母親の話はしていましたか?」
「いえ、していません。私も聞きたくないですしね」
「それは、自分から居なくなった母親だからですか?」
「父が悪かったことは分かっています。しかし、私としては、母親に捨てられた気持ちも強い。まして、幸二だけ連れて私だけ置いて逃げたのですから、尚更のことです。そういう母親の話は聞きたくない。幸二もそれを察してか母親の話はしませんでした」
「そうですよね。うん、分かります」
稲荷千太郎は、そこで幸一に対しての質問をやめた。
「わかりました。最後ですが、渡辺さんが殺された犯行当日は、どのような行動をあなたはとっていましたか?」
やや、幸一はむっとして、
「朝の六時半に起き、七時から朝食をとり、その後は、仕込みの手伝いです。ちょうど、その日は一人急に欠勤となってしまったので、私が手伝いました。十一時頃から営業体制に入りました。その後は、夜間まで仕事ですね」
「その際、いつもと違うようなことがありましたか?」
「特にないですね」
「ありがとうございました。それでは、次に礼二郎さんを呼んでいただけますか?」
「分かりました」
幸一は、部屋から退室した。
礼二郎が部屋に来るまでの数分間、稲荷千太郎と村越警部はとりとめもない話をした。この時点では、何らの新しい情報が得られていないことや、幸二と土井については警察が調査中であるということなどを再確認した。
そこに、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
ドアが開いた。髪の毛が薄く、げっそりと痩せている礼二郎が顔を見せた。
礼二郎は村越警部に勧められるままに椅子に座った。
「私から何を聞きたいのか分かりませんが、分かることは何でもお話します。何とか、早めにこの事件を解決してください」
稲荷千太郎は、礼次郎の不安を軽くするためにニッコリと微笑んだ。
「は、はい。ありがとうございます。では、はじめに聞きますが、今回の渡辺さんの殺害事件について、何を感じますか?」
「ん?何をとは・・・?」
「抽象的でしたね。何でも良いのです。どんなことを思いましたか?」
礼二郎は、困惑した表情になった。
「そ、そうですね。まず、お父さんの元に脅迫状が届いていたという話を聞いてビックリしましたが、それと関連のある渡辺さんが殺害されたということで、次に狙われるのはお父さんではないかと不安に思っています」
稲荷千太郎は、礼二郎の言葉に大きく頷いた。
「そうそう。その通りですね。お父さんが次に狙われている可能性もあります」
幸一は幸二が犯人だと決め付けており、相当にエキサイトしていた。それに引き換え、この礼二郎は頭の中が真っ白な状態にあり、周辺の話を聞きだすには、うってつけの人物であると稲荷千太郎は判断した。
「まあ、あなたに聞くことがあるとすれば、色々と生い立ちなんかも聞きたいのです。幸一さんはエキサイトされていたから、なかなか聞きだすことは難しかったのでね」
「はあ?生い立ちですか?それが、この事件と何か関係があるのでしょうか?」
「それは、分かりません。しかし、土井という人物、そして幸二さんが、話題に上っているものですから、何かに役立つかもしれません。些細なことでも役に立てば、と思っています」
礼二郎はにっこりと笑みを浮かべ、
「分かりました。まず、どんなことを聞きたいのですか?答えられる範囲で協力しますよ」
と、言った。
「幸一さんは、犯人は幸二さんだといって譲りません。その点について、あなたはどう思われますか?」
「幸二さんのことですか?」
「いえ、幸二さんのことも含めて土井のことも・・・」
「まず、私は幸二さんに会ったこともなければ、どんな人間なのかも知りません。幸一兄さんが、私の腹違いの兄であったということ、そして、幸一兄さん以外の兄さんがいるということを知ったのは、小学生の時でした。その話を聞いたときも、そうだったのか、と思った程度です」
「小学生の時に聞かされたのですか?そんな子供の頃に、そんな話を聞かされてはビックリしたでしょうね。それは誰から聞かされました?」
「父です。私が父の部屋に呼ばれました。父の部屋に入ってみると、幸一兄さんと、母の三人が居ました。まあ、父からすれば、全員がいることで、説明は一回で済みますしね。ただ、母はその場に居たくないような顔つきをしていましたよ。それも、母の立場からすれば当たり前の話でしょうが」
「そうでしょうね。お母さんからすれば、あまり居合わせたく場面ですね。ちなみに、あなたのお母さんと白船さんが、結婚した経緯については、聞かされましたか?」
「いえ、そこまではさすがにねぇ。まだ、私も十歳でしたしね」
「なるほど・・・。それで、幸一さんが腹違いのお兄さんだと聞かされたとき、あなたはどう思いましたか?」
「しばらくは、ショックを感じていましたよ。誰かを憎むというようなことはなかったですけどね」
「逆に幸一さんは、あなたにどのように接してきましたか?」
「とても優しかったですね。私のショックを和らげようとして、気を使ってくれていました」
「幸一さん自身は、腹違いの兄弟だということを知っていたのでしょうから、幸一さん自身は肩の荷が下りた反面、相当あなたに気を使ったのでしょうね」
「そうだと思います」
「お母さんはどんな感じでしたか?」
「母は、その後は、一切その話題には触れませんでしたし、幸一兄さんにも今まで通り、自分の子供のように接していました」
繰り返しになるが、礼次郎の母、つまり、良子は、既婚であった喜平と不倫の関係に陥り、そのまま、喜平と結婚した。
「大変失礼な話ですが、お父さんは幸一さんのお母さん、つまり、美恵子さんですが、この美恵子さんと、別れて良子さんと再婚しました。これは、あなたのお母さんの良子さんがアプローチしたものだと思いますか?それとも、お父さんがそう仕向けたのか?」
「ははは・・。稲荷さん。それは分かりきっている話です。父に決まっているではありませんか?母は、そんな淫らな女ではありませんでした」
「お母さんは、その後一切その話題には触れなかったとおっしゃっておりました、お母さんは幸二さんの話題にも触れなかったのでしょうね?」
「はい。一切・・・・触れていません」
稲荷は、フゥーと、ため息をつき、
「お母さんは、どのように亡くなられましたか?」
急に、礼二郎の顔が強張った。稲荷千太郎は、世間話のついでと思ったのだが、どうやら彼にとっては聞かれたくないことを聞いてしまったようであった。
「そ、それが、この事件とどういう関係があるのです?」
「いや、関係があるかどうかは分かりませんが、できれば何でも聞いておきたいのです」
しばらく、礼二郎は沈黙した。
「実は自殺しました・・・」
稲荷と村越警部は顔を見合わせた。
「じ、自殺ですか?」
「はい。事件に関係ないのならば、話したくないことですが」
「いえ、関係があるかもしれない。できればお答えください。いつ、どこで、どのように亡くなられましたか?」
「細かく話す必要がありますか?」
「できるだけ細かく話してください」
礼二郎は話すことをためらった。しかし、その重い口を開いた。
「服毒自殺したのです。母は・・・」
稲荷はギョッとした顔をして、村越警部を見た。村越警部もそれに反応し、お互い顔を見合わせた。
良子が自殺したのは礼二郎が十歳のときであり、それは、礼二郎が幸一とは腹違いの子供であることを知らされてから間もない頃の話であった。
「そうでしたか?しかし、どこで自殺されたのですかね?」
礼次郎は、真剣な面持ちで言った。
「栃木県の藤岡です」
稲荷千太郎と、村越警部は驚いた顔つきでお互いの顔を見合わせた。栃木県の藤岡というのは、群馬県の藤岡と勘違いされることもあるが、佐野から近い位置にある。藤岡から渡良瀬川を渡ると茨城の古河になるところから茨城と栃木の境にあるということができる。
「藤岡?藤岡と言えば、佐野のほとんど隣りではないか?幸二さんが、佐野に住んでいるというのに・・・」
と、村越警部は眉間にしわを寄せて呟いた。
「しかし、なぜ藤岡で・・・・?」
稲荷千太郎も不思議そうな顔をした。
「父から聞いていませんか?」
「何をですか?」
「父の出身は、藤岡なのですよ」
「そうなのですか?それは聞いていませんでした」
「渡辺新造さんも藤岡出身で、父とは昔からの友人です」
「そ、そうだったのですね」
「なぜ、父はそのことを皆さんに言わなかったのでしょうか?」
「そ、それはたぶん、事件と渡辺さんの出身地は関係ないと思っていたのでしょう。しかしお母さんは、なぜ藤岡で・・・?」
「後で父からも詳しく聞いてください。私は簡単に説明します」
「はい。お願いします」
「母は、当時、今の紗枝を妊娠しました。その時、母は紗枝を出産するまで、栃木の藤岡へ引っ越しました」
「お母さんの実家ですか?」
「いえ、貸間を借りました」
「えっ?その辺りから理解が困難になってきました」
「今から話します。う~ん。どこから話せば良いのでしょうか?」
話がやや複雑そうであった。そのため、説明しようとしていた礼次郎自体が悩んでしまった。
「つまり・・・母は、渡辺新造さんを医者として信頼していたのですよ。その渡辺新造さんが、一時浅草から栃木の藤岡へ診療所を移転したのです」
「えっ。それはなぜですか?」
「それは私には分かりません。そのことは父に聞いてください。今は、その説明はさておき、話の流れだけ」
「はい。分かりました」
「母は、私を産むときに相当苦労したのです。帝王切開でしたから。そして、再び妊娠したと分かったときに、信頼していた渡辺新造さんが栃木へ帰ってしまった。母は、出産するまでは渡辺新造さんの側に住みたいと我儘を言って引っ越したわけです」
「渡辺さんが、栃木へ引っ越した理由はさておいて、渡辺さんは確か栃木で開業してから浅草に移転したはずです。その浅草から再度栃木へ戻ったのですかね?」
稲荷千太郎は、大広間で喜平が同席していた時に乳井しんから聞いた話と少し成り行きがずれていることに違和感を感じた。また喜平もそれについては何も口を挟まなかったことを覚えていた。
乳井しんの話だと、渡辺新造は栃木で開業し、その後に浅草に移転してきた際に渡辺新造は乳井しんを白船亭に紹介したことになっていた。幸二の話では、その浅草から再度栃木へ診療所を移したというのである。
「渡辺先生は、浅草の診療所を一旦閉めました。そして栃木へ行きました。その後、落ち着いた頃、再び浅草に戻ってきた。浅草の診療所は借間ではなく、自分の土地と建物のようでしたから」
「つまり、栃木で二度開業し、浅草でも二度開業したことになるわけですね」
「たぶん、そういうことだと思います」
おそらく乳井しんは、渡辺新造の診療所の移転の細かい詳細まで話す必要はないと判断したのだろう。その話を乳井しんから聞いたのは事件が発覚する前だった。
「なるほど。それで、お母さんの話の続きを」
「はい。母が出産するまで、乳井さんも同行することになりました」
「乳井さんが?」
「乳井さんは、過去に渡辺さんの所で働いていましたし、その時点では家の仲居さんをしておりました。母とも仲が良かった。そういう意味も踏まえて同行したのです」
「なるほど・・・」
「ところが、母は紗枝を産んでから数日後に自殺したのです」
「う~ん。さっぱり意味が分からんね」
と、村越警部は横から口を挟んだ。
「子供や自分が大事だからこそ、信頼できる渡辺氏の近くへわざわざ引っ越しておいて、いざ出産したら自殺とは分からん」
「私も分かりません。しかし、聞くところによると、紗枝を産んだ時に再び帝王切開をしなくてはいけなくて、出産時は大変だったそうです。体も心もボロボロになっていたらしいですよ。精神状態がおかしくなって自殺したと渡辺新造さんは思ったそうです」
「なるほど」
村越警部は稲荷千太郎を見て、
「稲荷さん。あんたさっきから、なるほどばかりを連発しているが、何か他にないのかね」
「今、考えていますが、私にも分かりませんね。それで、その後はどうなったのですか」
「はい。乳井さんがしばらくそこで紗枝の面倒を見て、落ち着いた頃に浅草に戻ってきました」
「ありがとうございました。いまいち理解できませんが、これは礼次郎さんに聞くよりも、白船さんや乳井さんに聞いた方がより詳しく分かりますよね」
「まぁ、その通りです。そうしてください」
と、礼次郎は言った。
この件については、村越警部も栃木の警察でそのときの自殺の記録を見つけることにした。
「しかし、自殺した原因は他にはないのでしょうか?」
稲荷千太郎は礼二郎に更に問い正した。
「私は、当時子供でしたから、母が幸一兄さんと私が腹違いの子供であったということを隠してきた罪の意識で自殺したと思い込みました。そう思うと、当時はその責任は私にあるように思えました」
「なるほど・・・。確かに、それを隠していたという後ろめたさをお母さんは持っていたことには違いないですが、さすがにそれを理由に自殺するとも思えませんね」
「そうなのです。今から思うと、母の性格からして、それを理由に自殺するとは思えません」
「他に思い当たる理由もないわけですね」
「先ほど申し上げたとおり、原因は分かりません。しかし、警察が言うように、母が人から恨まれるようなこともありませんでしたし、謎のままですよ。渡辺さんのいう通りかもしれません。精神的におかしくなった、という理由です」
「そのとき、お父さんもかなり動揺したでしょうね」
「はい。父は言葉も失って、それから通夜、葬式を過ぎてもショックで口をあまりききませんでした。まあ、当たり前ですが」
「それはそうでしょうね。いきなり、愛する奥さんが亡くなったわけですから」
これ以上この話を追求することを稲荷千太郎は止めた。そして、渡辺新造について尋ねた。
「では、渡辺さんについて、お聞きします。あなたは、渡辺さんが殺害されたことについてどう思いますか?」
「はい。何の証拠もありませんが、父が思うとおり、父と渡辺さんを恨んでいた土井という男でしょう。先ほど、話したとおり、兄と幸二さんの会話を直に聞いたわけでもないし、普通に考えれば土井が犯人だと思いますよね」
稲荷千太郎は頷きながら、
「そうですね。それが自然ですね」
と、言った。
「渡辺さんと面識があったと思いますが、どういう人でしたか?それと、どんな生活をしていたようでしたか?」
「まあ、生活といっても、一部始終を知っているわけではありませんが、私から見た渡辺さんのことなら・・・」
「そうそう、あなたから見た渡辺さんで結構なのです。むしろその方が良い」
「渡辺さんは、父とは戦友でしたが、見たところは、それ以上の関係のように思えました。週に数回は渡辺さんが家に来ていたし、逆に父が渡辺さんの家に行ったりと、互いに行き来していました」
「そうでしたか。渡辺さんは、この家でよく食事をとったりしたことはありますか?まあ、言わば親戚のような付き合いをしていたかどうかですが」
「そういうことはありませんね。だいたい渡辺さんは日中にこの家に来ていましたし、私などが顔を合わせても、挨拶をかわす程度でした。ただ、どうも、渡辺さんは父に対して命令口調というか、威張っていたというかそういう印象があります」
「え?そうなのですか?なんとなく私のイメージでは白船さんのほうが、親分肌ではないかと勝手に想像していましたが。もちろん、渡辺さんの人柄は会ったことがないので分かりませんが」
「いえいえ、それは逆でしたね。いつも、父をお前呼ばわりしていましたね」
「そうだったのですね。ときに、渡辺さんの産婦人科は忙しそうでしたかね?」
「あはは・・稲荷さん。あの病院を外から見ましたよね。もしも、儲かっていたら、とっくに建物を建て直しているでしょう。まあ、この辺りは、総合病院も多くないのであそこで出産もしていましたよ。ベッドも数個ありましたし、看護婦さんも居ました。今は、時代遅れの病院になってしまって、あそこも暇が続いていたようです」
「なるほど。それはそうかもしれませんね。失礼な言い方ですが、渡辺さんの診療所は古くさい感じでとても患者が多く訪れるというイメージは沸きませんね。分かりました。長い時間ありがとうございました。次に紗枝さんをこちらに呼んでいただけませんか?」
「分かりました」
礼二郎は、部屋に来た時と違って、ニコニコと愛想のよい笑顔を見せながら退室した。
数分後、ドアをノックする音が聞こえた。紗枝が来たのであろうと稲荷千太郎は思った。
「どうぞ、中にお入りください。」
ドアが開き、無言で紗枝が中に入ってきた。紗枝は稲荷千太郎の顔を見て、不安そうな面持ちをしながら、ふと笑みを漏らした。和風の美しさの中に、どこか寂しさの感じる女性であった。
「あの・・・・」
「はい。何か?」
「実は、ドアの外に早紀がいるのです。中に入れてもよいですか?全員から話を聞いているということだったので、早紀も同席させたほうが、時間の短縮にもなりますし、早紀も安心しますので」
「そうですね。それも一理ありますね。どうぞ、早紀ちゃんも中に入れてあげてください」
早紀が、開けられたドアの前に立っていた。紗枝の子供だけあって、早紀も細面で目元がはっきりとした芸能人のような顔つきをしていた。まだ中学生だというのに美人な女性に成長することは誰にでも予想できた。
「あの・・・一体なぜ順番にこの家の人を呼んで何事かを聞いているのですか?」
紗枝が不安そうな顔つきで稲荷千太郎に聞いた。
「事件の当日の話もありますが、それに関する情報を得るのはあまり期待できないと思っていますので、渡辺さんの生前の話を知っている範囲でお聞きするのが目的です」
「なるほど、そういうことですか?」
「そう。そういう意味で、最近の話でも結構ですし、何十年も前の話でも結構です。渡辺さんの知り得る話を教えてくださいませんか?」
「渡辺さんは、厳密に言うと、浅草で産婦人科を開業したのですけど、一時、栃木の実家付近に病院を移動したことがありました」
「それは先ほど礼次郎さんから聞きました。理由は分からないといっていました」
「この件は、後で白船さんにも再度確認しますが、渡辺さんは、一時栃木へ病院を移動したわけですね?しかし、それはいつごろの話ですか?」
「私が産まれる前です」
「それも礼次郎さんから聞いた話と一致しています」
「そうです。私が産まれる前。そして、私は、その栃木の病院で生まれたのです」
稲荷は、礼次郎から聞いた話と紗枝の話との一致を確認し、大きく頷いた。
「なぜ、お母さんは栃木であなたを産んだのでしょうね」
「たぶん、渡辺先生が浅草から栃木へ移動するまでの間に、浅草で主治医のように診察を受けていたので、そのまま継続して診てもらいたかったのではないでしょうか?母の実家も栃木でしたから」
「ほお・・・また、栃木ですね」
「稲荷さんは、栃木という言葉を聞いていちいち驚いていますけど、少しも驚くことなんてないのですよ」
「と、いうのは?」
「ここは、浅草です。東武線というのがすぐ側から出ていますが、それは群馬、栃木へ向かう電車です。出稼ぎの人は案外群馬、栃木の方が多いのですよ。まして、浅草と上野も近いですけど、上野は北の玄関口と言われているように、東北地方からの上京者が降り立つ駅ですから」
紗枝のいうことに稲荷千太郎は感心した。なるほど、紗枝のいうとおり、栃木からの出身者が偶然に重なるのは、この浅草では不自然ではないことなのかもしれない。
「分かりました。しかし、紗枝さんは、具体的な話は聞かされていないでしょうね。お母さんから」
「そうなのですよ。私を産んでから直ぐに自殺をしてしまったので、私にはお母さんの記憶がありません」
「いきさつなどは白船さんに聞いたほうがいわけですね」
「そういうことになりますね」
「では、渡辺さんは、あなたにそういう話をしたことはありますか?」
「渡辺先生も、そのようなことを口にされたことはありません」
「そうなのですか?では、渡辺さんは、白船さんの友人として、この家に度々来てはいたけど、あなたとは特別な会話などはなかったということなのですね」
「そうです。挨拶程度ですね」
「ところで、早紀ちゃんは、渡辺さんのところで産んだわけではないのですか?」
「妊娠したかどうかの検査だけして、いざ、妊娠が分かった後は大きな病院に通院しました」
稲荷千太郎は腕時計に目を向けた。午後三時を過ぎていた。
「時に紗枝さん。あとは、お話を聞いていないのが乳井さん親子と順子さんなのですが、この家の中にいらっしゃいますかね?」
「たぶん、順子姉さんはいると思います。今日は仕事を休むと言ってましたからいると思います。新吉さんは帰ってないと思います。なにせ、舞台稽古で忙しいみたいなので・・・」
「そうですか?まあ、それはそれとして・・・」
稲荷千太郎は次に、早紀のほうに目を向けた。
「早紀ちゃんは、ここ最近変なものを見なかった?家の前とかで変なおじさんを見たとか、そういうこと」
早紀は、中学生らしい態度をとって、きちんと両手を膝の上に乗せたまま、きょとんとした表情をしていた。そこに、母親である紗枝が助け舟を出すように会話に割り込んできた。
「稲荷さん。実は、早紀に質問される前に、いっておきたいことがあるのです」
「はあ?何か特別なことでも?」
「実は・・・」
紗枝は話しづらそうな苦い顔をした。
「実は、この子は、少し人より変わったところがありまして」
「人と違うところがあるのですね?」
「そうなのです」
「どんな?」
「実は、夢を見て、その夢の内容が実際に起こるというような・・・。なんと、言えばよいのかしら?予知能力とでもいうのでしょうか?例えば、昨日の夢で○○おじさんが家に来る夢を見たから、近いうちに○○おじさんが来るよってこの子が言うと、本当に数日後にその人が来てしまったり・・・。何度も、そんなことがあると、親の私まで信じてしまうようになってしまって」
「なるほど・・・。で、早紀ちゃんは、良くそういう夢を見るの?」
「時々見ます。夢って現実的じゃないものが多いけど、たまに妙に現実っぽい夢を見るのです。顔がはっきり分かったり、出来事がはっきり理解できたり・・・」
「なるほどね。それを毎回お母さんに教えたりしているの?」
「いいえ。都合の悪いときは教えません」
「例えば?」
「テストの結果が夢で分かってしまったとき」
稲荷と村越警部は顔を見合わせて、思わず苦笑した。なるほど、子供らしい利巧な考えだと納得した。
「他にはありますか?」
「そうですねえ。あまり、たいした内容の夢でないときもいいません。そういう夢を見ることも、月に数回程度しかないし、自分で見たいと思ってみることもできないし、自分でもなんとなく気持ち悪くて。友達が夢に出てきたり、学校のこととか、部活のこととか、そういうことはいちいち夢で見てもお母さんには言いません。逆に、運動会の日が雨だった夢を見たとき、それが運動会の数日前だったためお母さんにいいました。なぜかというと、雨で運動会が中止になれば、母さんお弁当をつくらなくてもよいからです」
「なるほど。早紀ちゃんは優しいのですね」
と、稲荷千太郎は紗枝に言った。
「そう。確かにそういうこともありました。母親の私としては、娘がそういう夢を見たからっていっても、それを全面的に信用して、お弁当をつくらないっていうのは変なので、
ちゃんと、用意はしました。だけど、朝起きると、本当に雨。天気予報が晴れだというのに・・・」
稲荷千太郎は、この紗枝が、彼と早紀が話そうとした直前に、このような話が持ち上がるとは予想していなかった。
「そうですか。分かりました。ときに、早紀ちゃんは、何かの夢を見たの?今回の事件に関係する何かを見たのでしょう?私は早紀ちゃんの話を信じますよ。だから、安心して話してみて」
村越警部は横で腕を組んだまま、複雑な表情をしながら腕時計と稲荷千太郎の顔を交互にチラチラと見ていた。
「分かりました。お話します。実は、夢で見たのです。片腕のない男の人を」
「そ、そうなの?そ、それはいつ?」
「はい。昨日です」
「それはこの前、渡辺新造さんが殺されてしまった日に、色々な話を聞いてしまったから早紀ちゃんの無意識の中にその男がいて、それを夢で見てしまったのかな?」
早紀は少し困ったような顔をした。
「う~ん、だからこういう話をするのは嫌だったのです。だって、見た理由も分からないし、見たから何かが起こるとも限らないし、ただ、私はそういう夢を見たっていうことしか・・・。」
早紀は極めて頭脳が明晰な少女であると稲荷千太郎は思った。的確な回答としかいいようがない。
「そうだよね。それはそうだ」
と、恐縮しながら稲荷千太郎は自分の頭をボリボリと指で掻いた。
「で、その夢で見た片腕のない男ってどういう男だった?」
早紀は、下を俯いたまま小声でいった。少し肩が震えているように見えた。
「そ、それが、顔は分からないのです。夢の中の話だけど、その人が私の部屋の入り口に立っていた。今から思うと怖くて体が震えてきます。怖くて怖くて、うなされる様に目が覚めてしまいました」
「どんな服装?そして、どんな感じの人?」
「黒い帽子をかぶっていて、そして黒いコートを着ていた。それは、この前、こういう男の人を見かけたら注意するようにって稲荷さんに言われたイメージとピッタリでした」
「年齢は何となく分かる?顔は分からなくても」
「年齢は分かりませんが、老人ではないと思います。なんとなく雰囲気が・・・」
「幾つくらい?」
「そ、そこまでは分かりません」
村越警部は、稲荷のほうをやや呆れた顔つきで見た。
「稲荷千太郎ともいうべき人が、このお嬢さんの夢の話をどこまで聞けばいいのだろう?時間もないことだし、稲荷さん、別の質問にしたら?」
稲荷は逆にムッとした表情で村越警部を見返した。
「いえいえ、大事なことですよ。予知能力というのは、認められる方向にありますしね。まして、早紀ちゃんには、予知が当たったという実績がたくさんある。今は、どんなことでも情報が欲しいのは、村越さんも分かっていることではないですか?」
紗枝は我々の会話に割って入った。
「いえ、私が悪いのです。こんな話を娘にさせてしまって。そして、皆様まで混乱させてしまいました」
「そんなことはありません。是非、続きが聞きたい」
「実は、娘が片腕のない男の人の夢を見たっていうものですから、幸一兄さんと礼次郎兄さんにもこの話をしたのです。すると、できれば、警察の人に話をしたほうが良いといっていたので・・。もっとも、幸一兄さんも、礼二郎兄さんも、直接は皆様にお話はしなかったでしょうけど。これは、早紀と母である私の役目かな、と思いまして」
「ありがたいですよ。続けましょう。それで、早紀ちゃんに聞くけど、なぜ、その人は老人ではないって思ったの?」
「う~ん、根拠はないです。シルエットというか・・・。はっきりいえば、子供やお兄さんっていう感じではないと思います。老人でもなく、どちらかといえば、おじさんっていうイメージ」
「おじさん・・・」
「はい。おじさんです」
「では、次の質問だけど、それは何かの予知なの?」
「何かの予知かどうか分かりません。ただ、そういう夢を見ただけなのです。その男の人の夢を見た、ってお母さんにいったら、警察の人にいいなさいっていうから」
紗枝が口を挟んだ。
「そうなのです。この子が夢を見た片腕のない男性は、老人ではなかった、ということを話しなさいといったのです」
稲荷千太郎は、紗枝の話しを聞きながら右の手の平を広げて、イヤイヤと恐縮した。
「いえいえ、助かります。非常に有力な情報です」
村越警部は、ややムッとしていた。
「本当ですか?」
「本当ですとも。早紀ちゃんの夢の予知能力というか、現実性を帯びている夢を見る力というか、そういうものは皆さんが知っていることですし、信用するに値するものですよ。ただ、それに科学的な証拠が認められないということと、残念ながら今回の夢では、その男の顔がはっきりと分からなかったということが引っ掛かりますが、早紀ちゃんの夢の能力を否定するわけではありません。と、いうか早紀ちゃんにお願いだけど、また、同じような夢を見たら、おじさんに教えてくれるかな?」
「はい。喜んで」
「ありがとう。そうだ・・・。もう、ひとつ、その夢について聞いて良いかな?」
「はい」
早紀は、稲荷千太郎が早紀の能力を完全に否定しなかったことで、少しうれしかったようで、ニコニコしながら返事をした。
「顔が分からなかったということだけど、何か他に特徴はなかったかな?」
早紀はしばらく、思い出すように考え込んでいた。
「そ、そういえば、何か棒のようなものを持っていました。左手に・・・」
「棒?」
「はい。黒い棒のようなもの・・・。それが、顔と同じだけど、ぼんやりしていて何だか分からないのですけど」
「刀ではなくて?」
「刀というのはギラギラ光るようなものですか?」
「そう。時代劇に出てくるような刀」
「いえ、そういうものではありませんでした。光っていなかったし、刃物ではないような・・」
「長さは?」
「竹刀のような長さでした。竹刀っていうのは、刀と同じような長さなのかなあ?」
「そうだね。たぶん、竹刀と刀は同じような長さだね。もしかしたら、鞘に入った刀ってことはあるかもね?」
「鞘って?」
「う~ん、そこまで言われると早紀には分かりません。鞘だか棒だか・・と、いうところまでは・・・。」
「いや、早紀ちゃん、ありがとう。非常に参考になりました」
早紀は、うれしそうな笑顔を見せた。
「本当?」
「ああ、本当ですよ。だけど、ひとつだけ心配が・・・」
村越警部と、紗枝が不思議そうな顔をして稲荷千太郎を見た。
そして、紗枝が言った。
「何が心配なのですか?」
「いやぁ・・・早紀ちゃんのことが心配なのです。つまり・・・早紀ちゃんが狙われないかと」
村越警部は吐き捨てるようにいった。
「い、稲荷さん。何ということを言うのだね。犯人は、現在は土井が怪しいという前提で捜査を進めているのだよ。その土井が、なぜ、早紀ちゃんの夢の能力が分かるのだ?根拠のないことをいって、この家の人たちを不安にさせることはないだろう」
紗枝も同じようなことを言った。
「そ、そうですよ。稲荷さん。気持ちの悪いことをいわないで下さい。早紀も不安になるではありませんか?」
稲荷千太郎は困った表情をした。
「いえ、用心に越したことはないと思うのです。まだ、犯人は土井だとは決まっていませんから。現に幸一さんなんかは、幸二さんが犯人だと決め付けていますしね。私も、まだ、土井に断定はできないと思います。そういう意味でも気をつけないと。たとえば、早紀ちゃんに不思議な能力があることを犯人が、何らかの方法で知ったらどうでしょうか?そういう人の存在は気になるはずですよ」
村越警は、苦い顔をしながら、
「つまり、稲荷さんは、早紀ちゃんの能力を全面的に信頼するわけか?私は、早紀ちゃんを罵倒するわけではないが、科学的な証拠能力はないと思っている。私のように思う人間も多いはずだ」
と、言った。
更に村越警部は、
「じゃあ、稲荷さんは、早紀ちゃんの言うとおり、犯人は老人ではない、つまり、土井ではない、と思っているわけだね?」
「いやあ・・・村越さんは、極端に過ぎますよ。完全肯定か、完全否定か、どちらかに決めないと気がすまないようですね。私は、あくまでも、可能性を模索しているだけです。早紀ちゃんも用心に越したことないし、そして、早紀ちゃんの見た老人ではない片腕のない男が犯人なのかどうかも分からないと思っています。早紀ちゃんの夢は当たることもあるでしょうし、外れることもあるでしょう。ただ、問題提起としては、大事な視点を早紀ちゃんは示してくれています。必ずしも犯人は土井とも限らないということです。逆にいえば、土井の可能性もある。幅広い考えが必要でしょう?」
「まあ、稲荷千太郎らしい答えだ」
ここで、稲荷千太郎は沈黙した。ふと、思ったのである。現在のところ、容疑者として考えられるのは土井宗次郎と幸二である。しかし、いずれの容疑者も、犯行に至る経緯に疑問がある。
まず、土井が犯人である場合、最も素朴に思うのは、何故、今頃になって犯行を行う理由があるのだろうか、ということである。喜平や渡辺新造に恨みがあるのだったら、自分が老人になってからその恨みを晴らすべく殺人という犯行を行う必要があったのだろうか。もっと、自分に体力があった年齢に行えばよかったのではないか?それとも、今になって初めて犯行の動機を持ったのだろうか?
そして、幸二が犯人であったとしても、違和感がある。早紀の夢の通り、片腕のない男が老人でないとすれば、まず、幸二という名前が思い浮かぶ。しかし、幸二が犯人だとしても、渡辺新造を殺害する動機が不明である。そして喜平にまで脅迫状を送るということは喜平をも殺人の対象としているのだろうか?いずれの二人も容疑者になれる資格があるが、そのどちらかが犯人であったとしても、何となく違和感がある。稲荷は、そんなことを考えていた。
しばらく沈黙が続いた。
紗枝が、言った。
「そろそろ、質問は終わりですか?そうであれば、退室してもよろしいですか?」
はっと、紗枝の言葉で、稲荷千太郎は我に返った。
「ああ・・・。そうですね。失礼しました。
これで、質問は終わりです。ありがとうございました」
紗枝と、早紀が椅子から立ち上がり、室内から廊下に出て行こうとした。
その時、稲荷千太郎は紗枝を呼び戻した。
「紗枝さん。ちょっと」
紗枝は稲荷千太郎に声を掛けられ、足を止めた。
「はい」
「紗枝さん。次は乳井さんを呼んでいただけませんか?但し、十分後に来て頂けるように伝えて下さい。少し休憩します」
「分かりました」
村越警部と稲荷千太郎は、タバコを吸い、それぞれが思いにふけりながら休憩した。
そして、十分後ちょうどにドアをノックする音が聞こえた。指示通りに乳井しんが来たのである。
乳井しんは、痩せ型で年齢も六十歳を超えているが、白船亭のことは何でも知っている女番頭の役目を果たしていた。そのためか、年齢の割には若く見えた。和服姿が多いため、常日頃、髪はアップにしていた。
そのときは、乳井しんは髪はアップしたままで、ズボン姿で室内に入ってきた。
「あれ?乳井さん、珍しいですね」
「何がですか?」
と、乳井しんはニコニコと笑顔だった。
「いえ、ズボン」
「あぁ。これですか。食材のブリが足りなくて、先ほど買い出しに行ってきたのです。着物だと動きにくくて」
「そうでしたか?その格好のままでよろしいですか?それとも着替えてきますか?」
「別にお話しするだけですから、この格好のままで結構です。着物には後で着替えますから」
「そうですか?では、そこにお座りになってください」
「はい」
乳井しんは、先ほど紗枝が座ったのと同じ位置に座った。
稲荷千太郎は、その正面に座り穏やかに言った。
「実は、乳井さんには聞きたいことがたくさんあるのです」
乳井しんは、意外な顔をした。
「私にですか?」
「そうです」
村越警部は、その光景を稲荷千太郎の背後の椅子に座って見守っていた。村越警部が座っていた椅子の前には洋風の文机があり、そこい白い陶器製の灰皿が置いてあった。ゴールデンバットのタバコを背広のポケットから取り出すと、文机に吸い口側をトントンと叩いてから口に咥えた。そして、マッチを吸って火を付け、「フー」と一服した。
乳井しんは、その光景を見ながら言葉だけを稲荷千太郎へ返した。
「なぜ私に聞きたいことがたくさんあるのですか?」
「あなたが中立的な立場であるからです。そして何よりもこの家に一番古くからいらっしゃり、この家の人々のことも、渡辺新造さんのことも良く知ってらっしゃる」
乳井しんは黙って頷いた。
「そうかもしれません。と、いうかその通りですね」
と、乳井しんは細く微笑んだ。
しかし、乳井しんはその時、落ち着かない様子だった。稲荷千太郎の話をどこか上の空で聞いているように見受けられた。
「乳井さん、どうかしましたか?」
「いえ、鍵をどこかに忘れたようでして」
「鍵?」
「はい。私はこの家の合鍵を全部持っています。その鍵をひとつに束ねているのですが、それが見当たらないのです。泥棒にでも入られたら私のせいになってしまいます」
「覚えはないのですか?」
「先ほど、買い出しに行った帰りに喫茶店に寄ったのですが、そこに置き忘れたのかもしれません。大丈夫です。お話しが終わったら、そこに電話してみます」
「分かりました。では、話を進めますね。あなたは、古くから渡辺新造さんを御存知かと思います。渡辺さんが殺害されたことについては、どのように感じましたか」
「そりゃもう驚きました。土井宗次郎という人の話は以前に旦那様から聞いていたので、まさかと思いました」
村越警部は、稲荷千太郎の代りにすかさず口を挟んだ。
「と、いうことは、あんたは犯人を土井宗次郎だとお思いかね?」
「はい」
乳井しんは何のためらいもなく答えた。
「その根拠は?」
「土井宗次郎という人が旦那さまを恨んでいることを聞きましたから」
「それはいつ頃ですか?」
乳井しんは淡々と細い目をより細めて答えた。
「脅迫状が来たときです」
村越警部は深くため息をついた。
「それじゃ、あんまり意味はないのだよ」
「え?」
乳井しんは、不思議そうな顔した。
「つまり、脅迫状が本当に土井から届いたものかどうかが論点になっているのだから、あんたの話だと脅迫状は土井から届いたものだと決めつけた格好になる」
「土井宗次郎という人からの脅迫状なのではないのですか?」
稲荷千太郎は、穏やかにいった。
「それが、土井ではなく、幸二さんが土井になりすまして、脅迫状を送った可能性がある、ということも捜査対象になっているのですよ」
「幸二さんが送ったとは思えません」
「それはなぜ?」
稲荷千太郎は執拗に迫った。
「旦那様が土井宗次郎という人からの脅迫状だといい切っていましたので。私は旦那様のいうことを信じます」
「そうですか?幸二さんが送ったという可能性についてはどう思いますか?」
「幸二さんはそんなことをする人ではありませんよ」
「ときに、乳井さん。あなたは、渡辺新造さんの紹介でこの白船亭に勤めることになったという話ですが、少し詳しく教えていただけませんか?」
「はい、私は元を正せば渡辺医院の従業員だったのです。ところが、病院の経営もおぼつかなくなってきて、渡辺先生は私が困ると思って転職先を紹介してくれました。それが、この白船亭でした。渡辺医院と近い位置にあったので驚きました。旦那様は、渡辺さんの頼みは断れないと言って、私を雇ってくれました。それから何十年経ったか分かりませんが、この家に住まわせて頂きながら働いて今日に至りました。渡辺先生と白船の旦那様には本当にお世話になっているのです。渡辺先生は、はじめは栃木県で開業していましたが、これからは東京だと言って、旦那様がいる東京へ越してきました。私は、渡辺先生と一緒に浅草へ栃木から来たのです。ところが渡辺先生は、十年程してまた栃木へ帰るといいました。先ほど申し上げた通り、その理由は景気が悪いということでした。栃木へ帰ったのは、違う理由ではないかと今でも思っています。そして、渡辺先生は、再び浅草に戻ってきたのです。浅草の病院は、自分で購入した土地と建物だったので、気楽に戻ってくることが出来ました」
「な、なるほど。しかし、渡辺さんの行動は変ですね」
「なぜですか?」
「いえ、いくら景気が悪くても浅草と栃木を行ったり来たりするのは変ですよ」
稲荷千太郎は首をひねった。
村越警部は沈黙したまま、新しいタバコに火を付けた。
「その辺については、あんたはどう思うのかね?」
村越警部が聞いた。
「分かりません。私などには経営のことや景気のことはさっぱり分かりませんので」
「そりゃそうだな」
確かに渡辺新造が、診療所を転々としたことについては、何か理由があったように思われた。しかし、この時点では、稲荷千太郎にも、その理由は全く予想できなかった。
「ときに乳井さん。先ほど、聞いた話ですが、あなたは良子さんと浅草から栃木の診療所へ行ったそうですね」
「はい。良子さんが妊娠したときです」
「その時の話しをお聞かせ願いませんか?」
「私で分かることなら・・・」
「分かることで構いません。まず、なぜ良子さんは、妊娠したときにわざわざ渡辺さんがいる栃木へ行く必要があったのですか?」
乳井しんは、細い目をテーブルに向けたまま答えた。
「良子さんが礼次郎さんを産んだ時、実は帝王切開だったのです。そのとき、渡辺先生の診療所では対応できないということで、渡辺先生の良く知っている栃木の病院へ入院したのですよ。そこで無事に出産できました。その時に、渡辺先生が良子さんの心の支えにもなったようです。凛月までは渡辺先生の診療所で診察も受けていました。そして、それがトラウマにもなってしまいました」
「トラウマ?」
「はい。帝王切開に対する恐怖です」
「それで、紗枝さんを妊娠した時に・・・」
「そうです。紗枝さんを妊娠したときに、そのトラウマが心に現れたようです。良子さんはつわりがひどかったから、まだお腹が出てない妊娠三ヶ月程度のときから自分が妊娠したということを感じたのです。ところが、頼りになる渡辺先生は栃木へ行ってしまった。日帰りで栃木の渡辺先生の診療所へ行ったら、やはり妊娠しているということが分かったのです」
「なるほど、それでその後は?」
村越警部は興味深そうに身を乗り出した。
「何度か良子さんは日帰りで栃木へ通いましたが、疲れも出てきました。そんな時期に良子さんは私に言ったのです。面倒だから栃木へ住もうかな、と。どう思うかと聞かれたので、私もそれはいいことです、と答えました」
「しかし、結果的に白船さんがそれを良く許可しましたね」
稲荷千太郎は、鼻毛を抜きながら感心した。
「良子さんも、旦那様にそんなお願いをしたら怒られるだろうと最初は心配しておりましたが、私も一緒に旦那様に頼んであげますよ、と勇気付けたのです」
「それで、白船さんは?」
「はい。仕方ないな、とあっさり許可しました。その代りに私も良子さんに同行しますので安心して下さいといいました」
「えっ、乳井さんが同行ですか?」
「はい。渡辺先生のことも一番知っているのは私でしたし、妊婦のことも少しは詳しいですし。そして何より私は良子さんのことが好きでした。姉妹のような気がして。あの人は、お嬢さんでしたから、私のほうが旦那様よりも心配していたのかもしれません」
「そういうことでしたか」
「ただ、少し変わった生活振りでした」
「というのは?」
「良子さんは渡辺先生の診療所から歩いて五分程度の距離の家に住みましたが、そこは平屋建てで小さい家でした。私がそこで同居するのも気が引けましたので、私は渡辺先生の診療所兼自宅の一間を使わせていただきました」
「確かにそれは変わっていますね」
「実は、旦那様にあまり金銭的な負担をお掛けしたくないという私の希望もありまして、良子さんが出産するまでの間、私は渡辺先生の診療の手伝いもして、わずかばかりの給金を頂きました。ですから、私は朝と夕方に良子さんのお住まいに顔を出して家事の手伝いをした訳です」
「お話を聞いていると、乳井さんも大変だったことが分かりますね」
「いえ、元々から体力勝負だと思っていますので、私は平気でした」
「しかし、その頃には新吉さんも生まれていたわけですからその世話も大変でしたね」
「はい。新吉も連れて行きましたので。あの子は面倒がかからない良い子で、一人で近所の公園等で遊んでいました。今から思うと、寂しかった思いますね。当時は可哀想なことをしました」
稲荷千太郎は、改まったような深刻な目つきをした。
「ときに、乳井さん。本題に入りますが、良子さんの自殺の動機は何だったのですか?そして、具体的にどのように自殺したのでしょうか?」
「動機ですか?」
「はい。先ほどから質問させていただいていることは、全て白船さんからも聞こうとは思いますが、白船さんの頭も今は混乱していますので、まずは、良子さんの近くに居て、そして自殺の詳細を知っているあなたから聞きたいと思いましてね」
「はあ・・・」
乳井しんは、顔色も変えずに淡々としていた。
「良子さんの部屋に置き紙があったのです」
「置き手紙?」
「手紙ではなく、置き紙です。つまりメモのような」
「日記ではなくて?」
「良子さんは日記を付けていませんでした。紙に書いてあったのですよ。遺書のようなものが」
「遺書ではなく、遺書のようなものですか?」
「はい。少し曖昧な文章でした」
「どういう意味ですか?」
稲荷千太郎と乳井しんのやり取りを見ながら、村越警部はタバコを吸いながら何やら考え込んでいた。
「つまり、死ぬとは書いてなかったのです」
「え?益々分からない。具体的に説明してください」
「完全な文章は覚えていませんが、大まかには覚えています。ただ、このことは誰にも言わないでください。それは約束していただけますか?」
乳井しんは意外な言葉を放った。今更、良子が自殺した件に関して隠し事をする必要があるのだろうか、と稲荷千太郎は思った。
「は、はい。もちろんですよ。誰にもいいません」
乳井しんは少し安堵した面持ちになった。
「実は、良子さんは顔には出さなかったのですが、恵美子さんを憎んでいました」
「えっ、白船さんの先妻の?」
「そうです」
「そ、それは意外ですね」
「そう。だから内緒にして欲しいのです。こんなことを幸一さんが知ったら可哀想過ぎますので」
「た、たしかに・・・」
稲荷千太郎は乳井しんの言葉に納得した。
「良子さんは、馬鹿ではありません。ですから幸一さんは、自分の子供と同様に育てたことと思います。しかし、幸一さんではなく、恵美子さんに対しては恨みを抱いていた」
「それはなぜですか?」
「残念ながらそれは分かりません。ある種の嫉妬かもしれません」
乳井しんは、当時の事実を語っているだけで、良子の胸の内までは理解できていなかった。
「そうですか。それで、どんなことが書かれていましたか?」
「恵美子さんが憎い。この存在は私の中で消えることはない。だったら私がこの世から消えても良い。たしか、こんな内容でした」
稲荷千太郎は、ニコニコしながら鼻毛を抜き始めた。村越警部は、稲荷千太郎のその姿を見て呆れていた。
「稲荷さん、その笑い顔と鼻毛を抜く癖は直らんのかね。相手に失礼だろうが」
「えっ?これは失礼しました。ところが、この癖は直りません」
「それは直そうとしないからだろう」
乳井しんは二人のやり取りを呆れ顔で笑いもせずにそれを見ていた。
「つまり、乳井さん。良子さんの書いた内容は、その時の精神状態が表れていた訳ですね」
「そうです。そうです」
「目の前に先妻の恵美子さんが居なくても良子さんの心の中に大きい存在となっていた。理由は分からないけれど、その存在が大きくなりすぎて、精神的に追い詰められた良子さんは自分が死んだ方が楽だと考えたというようなイメージですね」
「その通りだと思います。私が説明するまでもなく、稲荷先生の推理通りだと私も思います」
「問題は自殺した方法と時期ですね。これについては?」
「それが私にも解せないです」
「と、いうのは?」
「良子さんは、紗枝さんを産んでから五日後に毒物を飲んで死にました。実は、帝王切開を恐れていたのですが、紗枝さんについては普通の分娩で産むことができました。渡辺先生の診療所に産婆さんを呼んでそこで産みました。大きい病院に行かなくても良かったのです」
「帝王切開を恐れていた良子さんは、結局は普通分娩で紗枝さんを産めたわけですか?非常に喜ばしいことだと思いますが、出産後に直ぐ自殺するなんて、どう考えても変ですね。それをなぜ当時の警察は自殺と断定したのでしょうね」
乳井しんは当時を思い出す様な遠い目をした。
「たしか、自室の中で、服毒したのです。そして、倒れている遺体の側の文机の上に、先ほど申しました遺書があったのだと記憶しています」
「それにしてもなぜ自殺をするような人がわざわざ浅草から栃木まで行って出産して、しかもその喜ばしい出来事の後に自殺するのでしょうか?」
「それは、たぶんですが、良子さんは以前から自殺を考えていたのではないかと思うのです。ただ、妊娠してしまいましたからお腹の子供には罪がないと思っていたのでしょう。
逆から言えば、出産が出来たことで自殺も出来たのだと・・・」
稲荷千太郎は、再び、鼻の穴に人差し指と親指を挿入して鼻毛を抜き始めた。
「警察もそのように判断したのですかね?」
「はい。たしか、そうでした」
「他に自殺を裏付ける動機があったはずですね。そうでないと変な気がする」
村越警部は、稲荷千太郎のその言葉を聞いて頷いた。
「確かに変だな。その当時の記録があるかどうか、私が栃木の警察で調べましょう」
「ときに、乳井さん。その服毒した毒というのは、どんな毒でしたか?」
「たしか、トリカブトだったかと」
「トリカブト?あの猛毒の花ですか」
「はい。その毒を飲み物に混入して飲んだそうです」
「第一発見者は?」
「私です」
「乳井さんが?」
「渡辺先生に、良子さんの様子を身に行くように言われた私は、良子さんの住んでいる借家に行きました。いくら呼んでも出て来ないので、失礼して合鍵で中に入りました。すると、良子さんが部屋で倒れていたのです。私は一大事と思って、直ぐに警察に電話を呼びました。死んでいることが分かったからです」
「そ、そうですか・・・。しかし、白船さんもショックでしたね。子供が生まれてすぐに奥さんが自殺するなんて」
「はい。そのために、この話を旦那様は多くを語りたがらないと思います。稲荷さんがお聞きすることは止めませんが、このことを一応は心に置いて下さい」
「分かりました」
一瞬、三者の間での会話が途切れた。稲荷千太郎は、ここで乳井しんからの聴取を終了しようと考えていた。
そのとき、乳井しんが何かを思い出し、ポソリと呟いた。
「そう言えば、事件に関係があるかどうか分かりませんが、渡辺先生と良子さんの間には一風変わった関係がありました」
「どんな関係ですか?」
稲荷千太郎は、身を乗り出した。
「宗教です」
「ど、どんな宗教ですか?」
「信言教という新興宗教です」
「信言教?」
乳井しんの話によると信言教とは「しんげんきょう」と読む新興宗教であるらしく、その本山は東京の墨田区にあるという。しかし、寺ではなく、通常の民家を本山とし、そこに信者が出入りしていたらしい。
「何を信仰しているのですか?その信言教では」
「白い狐らしいです。私も詳しくは知りませんが」
「白い狐?」
「そうです」
「渡辺さんと良子さんと、その信言教との関係は?」
「渡辺先生は、浅草へ来てから比較的早期に、その宗教団体に加入したらしいです。私が仕事を手伝っていたときも、時々、その宗教の話も聞いていましたし。その後、良子さんが幸二さんを出産する時に帝王切開をしなくてはならないと決まって、良子さんは非常に心配になって恐怖も感じていました。そんなときに、渡辺先生は、良子さんをその宗教団体に誘ったようです。気弱になってしまった良子さんは、日頃から信頼している渡辺先生の誘いに何の疑いもなく乗ってしまって、その宗教団体に加入してしまったのです。そういう繋がりもあって、良子さんは紗枝さんを妊娠した時にわざわざ栃木へ引っ越して渡辺先生の診察を受けることを希望したということですね」
「なるほど。これで良子さんが引っ越しをしてまで栃木の渡辺さんの元へ向かった理由が分かりました。なるほど、なるほど」
稲荷千太郎は、乳井のこの話に痛く感心した。
「それで、白船さんは、良子さんが、その信言教とやらに加入していたことは知っていたのですよね」
「もちろんです」
「白船さんは、それをどう思っていたのですか?」
「後で旦那様本人に聞いてください。私が感じたところでは、無関心でした。いえ、無関心というよりは、渡辺先生も余計な真似をして困ったものだといっていましたが、特に害があるようにも思えなかったので、放っていましたね。積極的には賛成はできないという程度でしょうか」
「分かりました。渡辺さんが殺害されたことに関して、その宗教団体が絡んでいるというようなことは考えられませんか?」
「それも旦那様に聞いてください。私の感じるところでは、それは予想も出来ません。宗教団体との交流関係も分かりませんし」
「そうですか。分かりました。最後にもうひとつ質問ですが、良子さんは幸二さんを産んだ時は大きな病院だったと聞きましたが、紗枝さを産んだ時は産婆さんを利用したのですね。それはなぜですか?」
「病院も信じられなかったのでしょう。良子さんは、色々な意味で精神的に追い詰められていたようですから。過去の経験からして。渡辺先生が、昔から良く知っていた産婆さんによる出産を勧めたのです。その方が良子さんの精神にとっては良かったのではないかと私も思いました」
稲荷千太郎は深々と頭を下げた。
「非常に長々とお話しをしていただきまして、ありがとうございました。乳井さんは何でも知っていると思っていたので、こういうことになってしまいました。どうぞ、お仕事へ御戻り下さい。ありがとうございました」
乳井しんは、席を立ち、一礼をして部屋から退室した。
最後に、長女の順子が部屋に入ってきた。順子は証券会社の事務をしている会社員だったが、この日は喜平の指示で会社を休んでいた。紗枝と違って比較的大柄の女性で、髪はストレートのロングヘアで洗練されていた都会の美人という雰囲気だった。紗枝は日本女性というイメージで切れ長の目をしていたが、順子は目元がはっきりとしていて、同じ兄弟でもタイプが異なっていた。
「順子さん、会社まで休ませてすみませんでしたね」
と、稲荷千太郎は喜平に代わって詫びを言った。
「本当に、迷惑ですわ。仕事が忙しい時期なのに。私と渡辺さんは全く接点もないので
何も答えられませんよ」
順子は迷惑そうにいった。
「分かりました。手短に質問させていただきます」
「はい。そうしてください」
「今日は、この家の方のほぼ全員にお話しを聞いています」
順子は笑いもせずに、
「アリバイですか?」
と、言った。
稲荷千太郎はやや恐縮した面持ちになった。
「いえ、そんなことではありません。私もこの家の方を良く知らないので、知っておきたいという気持ちもありましてね」
「なぜですか?殺されたのは渡辺先生でしょう?渡辺先生に関係ない人に聞いても仕方ないのではないかしら」
稲荷千太郎は、深くため息をついた。
「この家の誰かが次に狙われているかもしれません」
「まさか。そんなことはないでしょう」
「土井宗次郎の件は知っていますよね?」
「聞きましたよ」
「犯人が土井宗次郎なら、この家の誰かが狙われる可能性があります」
「そのことも何となしに聞いています。だけど、私は渡辺先生のことはよく分かりません。そういう前提で私が次に狙われたとしても、防御しようもありませんよね」
稲荷千太郎は、この順子の言葉に感心した。
「なるほど。その通りですね。話は聞いていましたが、あなたは合理的で頭が良い人ですね」
「いえ、私は頭が良いわけではありません。誰でも分かることでしょう。そう、稲荷先生にも」
「いやあ。これは参った」
と、稲荷千太郎は指で頭を掻いた。
「順子さんは、どんな仕事をしているのですか?」
「私は証券会社の営業です」
「証券会社ですか。なるほど、頭がきれるわけだ」
「そんな話をするためにここに来たわけではありません。失礼していいですか?」
「いえ、もう少し。もう少しだけお話しを聞かせてください」
「手短にお願いします」
「順子さんが、渡辺さんと接点がないことは分かりました。事件に関係ないかもしれませんが、お母さんの良子さんのことについて少しお聞かせ下さい」
「母のこと?」
「はい。お母さんのことです」
「分かる範囲のことなら」
「お母さんが自殺したことは当然、知っていますよね」
「はい。私が成人になった後に、父から聞きました」
「自殺の仕方も?」
「はい。聞きました。毒物を飲んだと聞いています」
「そのことについてどう思いますか?」
「なぜ、自殺したのだろうかと思っています」
「そうですか?遺書らしきものがあったという話は聞いていますか?」
「それも聞きました。母が自殺に追い込まれるほどに、父の先妻の恵美子さんを恨んでいたとは思いもよりませんでした」
「お母さんから、そういう話は聞いたことはありませんか?」
「全くないです」
「と、いうことは、お母さんが恵美子さんを恨んでいたということは、あくまでお母さんの胸の内ということですかね?」
「いえ、完全にそういうことではないと思いますよ」
「と、いうのは?」
「母は渡辺先生に勧められて宗教団体の信者になっていました。たぶん、精神的な悩みが多かったのでしょうね。だから、渡辺先生や、その宗教団体の人にはそういう悩みを打ち明けていたのではないかしら。あくまで私の想像ですけどね」
「なるほど。それは十分に考えられることですね。しかし、そんなお母さんが自殺してしまったということに関してはどう思いますか?」
「全く想像ができません」
順子はきっぱりといった。
「自殺するはずはないと?」
「いえ、自殺をするしないということではなくて、想像することができないのです」
「意味が良く分かりませんが」
「つまり、自殺したということを後から聞いたのですけど、それが妙かどうかの判断ができません。自殺したと聞けば、そうなのかとも思いますし、そのまま自殺せずに生存していてもそうなのかと思います」
「分かったような分からない感じですね」
稲荷千太郎は閉口した。
「ただ、母は少し鬱状態というか、精神的な病気を持っていました。そのため、救いを求めて渡辺先生が勧められた宗教団体にも加入したわけですから、栃木で一人暮らしをしているときに、何らかの心境の変化が起きても不思議ではないような気もします。だけど、色々考えるとやっぱり私には分かりません」
「そ、そうですか。分かりました。これ以上はその質問は止めます」
と、稲荷千太郎は少し取り乱している順子を見て言った。
しばらく、稲荷千太郎と村越警部、順子との間に沈黙が続いた。
その瞬間、稲荷千太郎の左の頬に何か冷たい物質が付着したのを感じた。左手で、その物質を確かめた。それが何らかの液体であることはすぐに分かった。
稲荷千太郎は、頬に垂れるその物質を自分の汗かと思った。
すると、彼の頬を触っていた自分の左手の指先に、再び、新たに液体が付着した感覚を覚えた。
稲荷千太郎の体内からの液体ではない。天井から落ちてきたものだった。稲荷千太郎は、液体が付着した自分の左手を見た。
その瞬間、言葉も出ないほどに驚いた。
「こ、これは、血だ。あぁぁ・・・。」
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