白船亭事件考

隅田川一

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第7章

第二の殺人

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 ついに稲荷千太郎が恐れていた第二の殺人が行われた。しかも、稲荷千太郎と警察がその家にいる間に公然と同じ屋根の下で行われたのである。

 現場は二階の幸一の部屋であった。幸一の部屋は、稲荷千太郎と村越警部が各人と面接をしていた応接間の真上に位置している。稲荷千太郎と、村越警部、二名の刑事は、二階へ駆け上がると、大慌てで長い廊下を走った。階下には、彼らが走っている音がドカドカと響き渡った。四名は幸一の部屋のドアの前に立った。異常に緊張した空気が張り詰めた。

 村越警部は、一人の刑事に命令した。

「ドアを開けろ」

「は、はい」

 その刑事が、言われたままにドアノブに手をかけた。そして、それを左右に動かしてみたが、鍵がかかっているようでドアノブは回転しない。

 村越警部は、誰に言うまでなく、大声で叫んだ。

「誰か?こっちへ来てくれ。この家の者。誰か・・来て」

 その声を聞いて、一階のどこからか乳井しんの声がした。

「はい。只今、行きます」

「カ、カギを持ってきて!!」

 乳井しんが息を切らせながら駆け寄ってきた。

「すみません。すみません」

 乳井しんも興奮しているせいか、理由もなく謝り続けた。

「どうした?」

 村越警部が乳井しんに向かって叫んだ。

「実は、合鍵がないのです」

 乳井しんはこの家の合鍵を全部持っており、キーホルダーに全部それを括りつけていた。
 しかし、その時、それが無いと言った。

「先ほど話した通りです」

「そうか。それはどこだっけ?」

「先ほど買い出しにいった帰りに行きつけの喫茶店に寄ったのですが、たぶんそこです。まだ電話していないので、早速電話して聞いてみます」

「え?そんな時間はない。もう良い。誰か、鍵を壊してくれ」

 そこへ、喜平が恐ろしい形相で、その場にやってきた。

「稲荷さん。幸一の部屋から下の部屋に血が滴り落ちていたのですって!!それで。幸一は?幸一は?」

 喜平も当然のことながら興奮して取り乱している。そうこうしていうちに、刑事が強引にドアを開いた。

「あーよかった。開いた。開いた」

 乳井しんは、安堵した表情と、興奮している表情とでかなり複雑な心境にあった。

 村越警部は、

「さあ、皆さん。後ろに下がって」

 と、ドアを一気に開き、部屋の中に突入した。

 同時に稲荷千太郎も部屋の中に入る。

 幸一の部屋の中は予想していた通り、壮絶な状況であった。

 その光景をドアの外から喜平が見てしまい、悲鳴に近いうめき声を上げた。

「あぁぁ・・幸一!!幸一!!。誰が、誰がこんなことを」

 背後で乳井しんが口を押さえて仰天していた。村越警部はとっさに部屋に飛び込んだ。

 その狭い空間で、恐ろしい光景が繰り広げられていた。幸一は、倒れていた。頭部から大量の流血が見られた。その頭部をよく見ると、短刀が脳天に突き刺さっている。幸一は短刀が脳天に突き刺さったまま倒れていたのだ。

「誰が、こんな惨たらしいことを」

 村越警部は絶句した。

 稲荷千太郎は、

「こ、これは・・こんな状況で死ぬなんて」

 と、絶句した。

 それはそうだろう。刺殺といえば、胸部や腹部を突き刺す行為が普通である。それが、脳天に短刀が突き刺さったままの状態で殺害されているのだ。これが可能だとすれば幸一よりも背の高い人間の仕業か、幸一が着座している状態で上から脳天を突き刺したかのいずれかしか想定できない。しかも、幸一が倒れているのは自分の文机の前であり、明らかに刺される前に、一度座布団に座った形跡が感じられた。

 その時、乳井しんは、とっさに部屋に入り込んで、大きな声で叫んだ。

「幸一さん。幸一さん。誰がこんなことを」

 と、言いながら倒れている幸一の体を少し抱きかかえて大声で泣き叫んだのだ。

 村越警部はその姿を見て、

「いかん。遺体に触れてはいかん。おい、乳井さんを部屋から出せ」

 と、刑事に命じた。刑事は、泣き叫び幸一のから離れない乳井しんを背後から起きあがらせ、強引に部屋から退室させた。
 
 乳井しんは、廊下でかがみこんだまま、自分の顔面を両手で覆い、すすり泣いてた。喜平は、乳井しんの背後に立ち、

「妙ですね。この状態は・・・」

 稲荷千太郎は首を傾げた。

「鑑識を呼べ。署へ電話しろ」

 村越警部もいささか興奮しているかのようであった。

 そして、

「さぁ、鑑識が来るまで、ここは戸締めしましょう。さっ、あの大きな客間へ行きましょう」

 と、言った。

 鑑識が白船亭に到着するまでは、それほどの時間を要しなかった。鑑識が到着するなり、村越警部は、犯行現場へ鑑識を伴って再び入室した。稲荷千太郎も村越警部に要請されて、犯行現場すなわち幸一の部屋に続いて入った。

 鑑識は幸一が殺されている状況の写真を撮った。稲荷千太郎はその様子をパニック状態のまま呆然と見つめていた。

「あの・・・」 

「どうしました?稲荷さん。」

 村越警部は稲荷千太郎のほうへ目を向けた。

「この刀は、忍者の手裏剣のようなものですかね?」
「は?」

 村越警部は不思議そうな顔をして稲荷千太郎の顔を見た。

「いえ、手で持つところに穴が開いていますよね。刀身が短い点では短刀だと分かるのですが、何故穴が開いているのでしょうか?しかも、ガムテープのようなものが剥がれかけながら穴の部分に貼ってある」

 村越警部は、苦笑した。

「これですか?これは目釘穴というもので全ての刀に開いている穴です」

「すみませんが、刀に詳しくないので教えてくれませんか?」

「簡単に説明しますよ。本来刀というのは、こういう状態なのです。いわゆる裸身です。
しかし、これでは手で持つことが出来ないし、持ち運びも出来ない。そのために、手で持つところには柄をはめます。刃の部分は鞘に収めます。この柄と鞘の全体を拵えと呼ぶ訳です」

「では、なぜ手で持つところに穴が開いているのですか?」

「柄をはめるときに、ただ柄をはめるだけだと、抜けてしまいます。そのために柄をはめた後に、柄にも同じ位置に穴が開いているので、穴が一致したところに、木のつっかえ棒を釘のように打ち込んで固定するのです。この木の釘を目釘と言います。そしてこの穴は目釘穴というのです」

 稲荷千太郎は、村越警部の詳しい説明に感心した。しかし、穴が開いていることについては理解できたが、尚も疑問が深まった。

「では、村越さん。なぜ、この短刀には柄がないのですか?柄は刀を持ちやすくするためのものであり、そして持ち運びをするために必要なものでしょう?なぜ、それがないのですか?なぜ、裸身なのですか?また、このガムテープのようなものがなぜ貼ってあるのですか。しかも半分剥がれかけている」

 稲荷千太郎はむきになって村越警部に迫った。

「そ、それはそうだな・・。うん。それは確かに変だ」

 村越警部も稲荷千太郎の質問に閉口した。

「確かに稲荷さんの言う通りだね。なぜ裸身のままで使用されたのか?柄と鞘だけ持ち帰ったというのか?その辺は謎だ。そして、なぜ目釘穴の部分にガムテープが貼ってあるのかも分からん」

「警部さん・・・。その短刀、思い出したのですが、浅草旅館に宿泊した土井宗次郎のことを思い出しました。確か、浅草旅館に泊まった自称土井宗次郎が浅草旅館の隣の刀剣屋から、白鞘の短刀を購入しましたよね」

「あっ。そうだ。そんな話だったね」

「これ・・・。もしかしたら、そのことに関係ありはしませんかね?」

「う~ん。それも分からない。しかし、早速、鑑識に調べさせた上で、具体的に調査しましょう」

「そ、それと古典的な話ですが、乳井さんの話だと内側から鍵がかかっていた。簡単な鍵のようですが、密室の中で亡くなっていることには違いありませんね」

「推理小説でもあるまいし・・・。まっ、確かに現状としてはそのようだが」

 幸一の死亡についての状況は以下の通りであった。室内の畳の上にはおびただしい量の血液が水溜りのように広がっていた。幸一は、恐らく自分の文机の前の座布団に腰を下ろした後に、背後から脳天を突き刺された。そして、幸一のこの血液が二階の床から一階の天井に染み渡るまでは三十分程度は要するであろうと、その時点では推測がついた。すなわち、犯人は、稲荷らが一階で各人から聴取を行っている最中に二階に侵入し、犯行に及んだのである。そして、幸一の室内に侵入し、幸一を殺害した。

 この犯行の流れとして、疑問になる点は次のようなことであった。

 第一に、白船亭は仕事の従業員による仕込みも行っていたし、仲居の乳井しんの他に家族も家屋内にいた。犯人は、その者達に気づかれずに、どのよう方法で家屋に侵入したのか、という点である。

 第二は、仮に侵入を達成したとしても、幸一を殺害する段階で、幸一との口論や格闘が行われたと考えるのが普通であるが、全く、騒音や振動等を感じることはなかった、という点である。あるいは、人見知りが犯人であって、気を許すことができる相手に殺害されたのであろうか?

 第三に、幸一が殺害された短刀が裸身だったという点である。通常は柄が付いたまま刀を利用するはずだが、その短刀はわざわざ柄まで外して裸身の状態で使用されていた。また、目釘穴付近に剥がれかけているガムテープが付着していた。

 第四に、殺害現場である幸一の部屋の鍵がかかっていた。つまり、密室で殺害されていたという点である。

 ただ、何者かに殺害されたとしても、第一の疑問点であるどのようにして家屋に入ることが出来たか、第二の疑問点である口論等の形跡が見当たらない、ということに関する疑問は、幸一が知り合いを家屋に上がらせ、自分の部屋に通し、不意に刺されたと仮定すれば説明がつかないわけでもない。つまり、顔見知りの犯行かもしれないという推論である。

 第三の疑問である短刀が裸身だった点、ガムテープが付着している点ついては、まったく推測も出来ない。第四の幸一の部屋が密室状態だった、という点に関しても、合鍵を持っている人間しか犯人として想定できないが、その合鍵を持っていた乳井しんが、鍵を喫茶店に置き忘れたということだった。他に合鍵を持っていた人間がいたのか不明である。また、犯人が故意に密室状態を作り上げたとしてもそれをどうやって作り上げたのかもこの時点で推測は出来ないし、また幸一を殺害するために犯人がわざわざ密室状態にする理由も見当たらない。

 稲荷千太郎は、そんなことを思いながら、幸一の部屋をつぶさに検証することにした。

 幸一の遺体は解剖するために警察によって運ばれた。

 稲荷千太郎は、幸一の室内を見渡した。六畳間の閑散とした部屋であった。

 犯人の侵入経路を稲荷千太郎は考えた。

 まず、犯人が窓から侵入してきたことも考えられる。しかし、稲荷千太郎が幸一の部屋の窓ガラスに手を触れると鍵が掛けられたままだった。

 「ダメですね。鍵が掛っています」

「そうか?他に侵入口はもうないな」

「そのようですね。しかし、この窓は建付けが悪いですね。ガタガタしていますし、窓がキチンと閉まりません。少し隙間が開いていて風が入り込みますね」

 と、稲荷千太郎は、窓の鍵を解錠して窓を開けてから再びそれを閉めて見せながらいった。その窓は縦が約一メートル、横が約二メートルの木の脇にガラスが四枚はめ込まれたものだった。鍵は、ネジ込み式の鍵でしっかりと絞められていた。

 但し、幸一の文机から窓に向かって右側の建付けが悪く、二センチ程の隙間が出来ている。この程度の隙間では人間が侵入することはできない。但し、隙間風が入り込むと冬の室内が寒くなることは間違いなさそうだった。

「幸一さんの部屋の窓の外は白船亭の勝手口のある方向ですね。塀と壁までの間が約四メートルって感じですね。窓の前に木が生えていますね。この木の太い枝から幸一さんの部屋に手が掛けられそうですが・・・」

 幸一の部屋の前に立木が一本あった。その木は約八メートル程度の高さで、幸一の部屋の窓から近い位置に立っていたため、太い枝から幸一の部屋に手を伸ばせば渡れそうだった。

「しかし、犯人がこの木の枝から部屋に渡れても鍵が掛った密室状態なのだから部屋には入ることが出来ませんね」

 その後、稲荷千太郎は幸一の部屋の押入れなども見たが、何の変哲もなかった。幸一の部屋で特徴的な事と言えば、幸一は模型が好きで、部屋の机や天井に模型が飾られていた。特に天井には無数の金属製のホックがネジ止めされており、そのホックに糸をぶら下げその糸に飛行機の模型を括りつけていた。二十機程度の飛行機の模型が空を飛んでいるかのように天井からぶら下がっていた。幸一の文机は、廊下のドアを開けた正面にある。窓がドアの正面になるので、文机は窓に向かって置かれていた。要するに窓側を向いて机が置いてあるので、座りながら手を伸ばして窓を開けることが可能である。

「幸一さんは特に飛行機の模型が好きだったようですね。本当はもっと多くの飛行機の模型があったのですね。ほら、使用していないホックが天井にあと十個はありますよ」

 確かに、縦横無尽に天井にホックがあった。飛行機をぶら下げる位置を気分で変えるために予備のホックが括りつけられているのか、以前にはこのホックの数に相応する飛行機がぶら下がっていたのかは不明である。

 稲荷千太郎と村越警部は、玄関から庭に出て、幸一の部屋の真下に移動した。

 二人は、幸一の部屋を立木の下から見上げた。

「なるほど、この木をよじ登るのも困難ですね。しかも、最初の枝はちょうど幸一さんの部屋の窓の辺りですから、そこまで登るためには足や手を掛けるものもない」

 その後、稲荷千太郎と村越警部は鑑識が調査中に間、大広間で喜平を混ぜて多少の推論を話し合った。

「まず、不審人物がいたかどうかだが、概ね犯行の時間にこの家にいた従業員を含む全員に聞いたところ、犯人らしい人物は誰も見かけていない、ということだ」

 と、村越警部は稲荷千太郎に言った。

「そうですか・・・。しかし、考えてみれば廊下に血はないようですね。もしも、犯人が逃亡していれば、返り血を浴びているはずなので、廊下に血が付着しているはずですね。どうやら、そのような跡も見当たりませんね。こりゃ、自殺かもしれませんねぇ」

 稲荷千太郎は、深刻に眉間にしわを寄せて黙りこくった。

「確かにねえ。まあ、トリックとしては、古典的ですが内側から鍵も掛かっていましたし、普通に考えれば自殺ということですな」

「まあ、内側から鍵が掛かっていたことを私は重視していませんけどね」

「と、いうと?」

「だって、警部さん。合鍵を持っていれば、誰でも部屋に入れるし、そして鍵を外側から掛けることもできるのですから・・・」

「と、いうことは稲荷さんは、合鍵を持っている人間が犯人だと?」

「いえ、断定はしていませんが、そういう可能性もあるでしょうね」

「しかし、この家では合鍵は乳井さんしか持ってない。しかも、犯行時にはその乳井さんも合鍵を喫茶店に忘れて帰宅している」

 村越警部が苦笑いをした。

 稲荷千太郎は頷いていた。そして、

「確かにそうでしょう。しかし、乳井さんに事情を聞いてみましょう。乳井さんが気がつかないうちに、誰かに合鍵を作られてしまった可能性もありますしね」

 喜平は、大広間から出て、数分後に乳井しんを伴って帰ってきた。乳井しんは、先ほどの興奮を少し和らげ、落ち着きを取り戻していた。

 乳井しんは、少し緊張したような面持ちで軽く会釈をした。

「さぁ、乳井さんどうぞこちらへ」

 稲荷千太郎は乳井の緊張を和らげるために、乳井を中に招き入れ、座布団の上に座るように勧めた。

 乳井はどうしたらよいのか困った顔をしていた。

「合鍵は喫茶店にありましたか?」

「はい。先ほど電話でそれを確認して取りに行きました」

「その鍵を見せて下さい」

 乳井しんは、エプロンのポケットから鍵を取り出した。

 キーホルダーには約十個の鍵が括り付けられている。

「まあ、これには私の部屋の鍵もついていますし、お店の玄関や勝手口の鍵もついています。だから、いつも離さずに持っているのです。買い物に行くときも玄関の鍵を閉めなくてはいけないときもありますしね」

「ときに、白船さん。乳井さん以外に幸一さんの部屋の鍵を持っている人は他にいませんか?」 

「そりゃ、幸一本人です」

 稲荷はケタケタ笑いながら

「そ、そうですよね。それを忘れていました。警部さん、鑑識の方を呼んで聞いてもらえませんか?幸一さんの鍵が部屋にあったかどうかを」

 村越警部に呼ばれて一人の鑑識が大広間に来た。

「幸一さんの部屋の鍵はどこかにあったか?」

 村越警部が聞いた。

「はっ。遺体のズボンのポケットの中にキーホルダーがありまして、そこに部屋の鍵らしいものがついております」

「そうか。ありがとう」

 鑑識は室内から出ていった。

「白船さん。他にはないですかね?幸一さんの部屋の鍵・・。」

「ないと思うね」

 つまり、この段階では、外から鍵を掛けられるのは、乳井しんだけということになる。あるいは、自殺か?それとも密室殺人か?または誰かが合鍵を持っていたのか?

「警部さん。誰かが合鍵を持っていた可能性を考えるべきですね。当然、それは白船さんや乳井さんも知らなかった事実として」

「まあ、その可能性しかないね。あるいは自殺か?それとも、自殺に見せかけるために古典的な密室殺人というトリック使った」

 稲荷は、いくつかの可能性の中で、誰かが合鍵を持っている、という部分に着目しているようであった。

「密室殺人というのは、結局は自殺に見せかけるための工夫なのですけど、今回の殺人で自殺に見せかける理由はあるのでしょうか?まして、脳天に突き刺さっている短刀を見て、それを自殺したと推測する人はいるのでしょうか?」

 稲荷千太郎は首をひねっていった。

「確かにそうだね」

 村越警部は頷いた。

 続いて、稲荷千太郎は、断言的な発言をしたが、彼自身の心の内としては、この断定には自信がなかった。

「たぶんですが、犯人は合鍵を持っていた。そして、幸一さんを殺害したのですが、そのまま幸一さんの部屋から逃げるように出て行けばよいところ、やたらに落ち着いていた。故意に鍵を閉めていった・・。あわよくば自殺に勘違いされれば越したことはない、というようなイメージで・・」

「し、しかし、稲荷さん。そんなに余裕のある犯人なんているのでしょうかね?」

 村越警部が眉を細めて、稲荷千太郎を凝視した。

「精神状態の話ですから・・・。十分にあり得ると思いますよ。精神状態を平静に保つことが出来れば可能でしょうね。まるで、武道家のような人間なら・・」

「武道家?まさに、土井宗次郎だな。居合をやっていたそうだしね」

「そうそう、そういう人間ですよ。あるいは・・?」

「あるいは?」

 村越警部と白船喜平は稲荷千太郎の顔を見つめた。

「あるいは、この家のことに詳しい人間です」

「と、いうのは?」

「この家のことと言うのは、この家の内部構造、つまり、部屋の位置や階段や廊下の位置などのこと、それと、そういう物理的なことばかりではなく、何時頃にはどこに人がいて、ここに人はいないというようなこの家の中にいる人間の行動までという広い範囲のことです。そういうことを分かっている人間なら何もあわてる必要もありませんし」

「ははは・・・。稲荷さん。それは、無理でしょう。その言い方だと、まるで犯人はこの家の人間だって言わんばかりではないですか?」 

 稲荷千太郎は、手を横に振りながら、

「いやいや、この家の人間が犯人だといっているわけではありませんよ。いつものことですが、この家について、そこまで詳しい人間がいるかどうかとう可能性を考えているだけです。まして、詳しくない人間が侵入して幸一さんを殺害して、鍵を閉めて落ち着き払ってこの家から出て行った、と考えることもできるわけですからね。断定はしていませんよ」

「では、先ほど武道家ということも言っていましたけど、土井が犯人なのですか?」

「いえいえ、それも今いったとおり、武道家のような気持で平静にいられる人間なら可能かもしれないという意味で、これもあくまで可能性ですよ」

「確かにね。まだ、動機もわからない。土井が犯人かどうかも分からない」

「そうそう。むしろ動機が何かということの方が大事でしょうね」

「確かに・・・」

 村越警部は稲荷千太郎の話に頷いた。

「白船さん。幸一さんが部屋の合鍵を渡すような人はいましたか?例えば恋人とか・・・」

「稲荷さん。幸一の部屋の鍵だけを持っていても、そもそも玄関の鍵を持っていなければ、家屋自体に入ることができませんよ。幸一が、家族共用の玄関の鍵まで他人に渡すということは有り得ない。しかも、幸一には女性の影がなかった。デートとかいう理由で出かけたこともほとんどないし、そういうウワサも聞いたことがない」

「そ、そうですか。では、幸一さん自身が鍵を誰かに渡している可能性はないということですね」

「今、言ったとおり、玄関の鍵まで渡しているのならそれも理解できるが、それはないだろうね。この家には人が大勢いるのだから、知らない人間が玄関から入ってくれば、泥棒に勘違いされるよ」

「確かにそれもそうですね」

 稲荷千太郎は、黙りこくってしまった。このまま探偵小説に出てくる「密室殺人」を許容しなくてはいけないのか、と思ったのである。彼の脳裏では、誰かが合鍵を持っていて、幸一を殺害した後に冷静にその合鍵で施錠して現場を去ったという粗筋しか思い浮かばなかった。幸一の自殺ということも考えられなくはない。しかし、幾度となく難事件を解決してきた稲荷千太郎の直感としては、誰かが合鍵を持っており、幸一を殺害したのもその人間であるというイメージを抱いた。 

そして、彼は「自殺」という部分に関しては否定的に考えていた。やはり脳天に自ら短刀を突き刺す行為は現実的ではないと感じていたためである。

「では、白船さん。幸一さんが自殺したと仮定した場合に、彼には自殺の動機はあったのでしょうか?」

「そんな動機はないね」 

「例えば、何かに悩んでいたとか。そうですねぇ・・・そう、人間関係に悩んでいたとか、仕事に悩みがあったとか・・」

「稲荷さん。まず、仕事には悩みはないね。家業として、ここで一緒に頑張ってきたのだから、あいつの思いや考えは私も分かっているさ。それに人間関係の悩みもないと思うね。年齢的に友人との関係なんて希薄化しているし、あまり接触もしていないようだったね。それと、あいつが外部で人間関係があるとすれば、友同会の人たちくらいかな」

「友同会?」

「そう。聞いたことはないですか?友同会」

「はじめて聞きました」

「そうかい。友同会というのは、いわゆる異業種の人間達の交流会だよ。ここは、浅草支部ということになっている。」

「浅草支部ですか?」

「そう、浅草支部。この区では上野支部もあるが、家は浅草支部に所属しているよ。私も十年前までは参加していたが、幸一にバトンタッチして、それ以降はあいつが参加していた」

「具体的にはどういう活動をしているのですか?」

「まあ、酒を飲んだり、講習会を開いたり、旅行へ行ったり、東京大会や全国大会もあったりと、色々だね。幸一は、浅草支部の副会長をやっている」

「副会長ですか?」

「そう。副会長・・・。しかし、稲荷さん、それが何か?」

「いえ、幸一さんが他殺あるいは、自殺したとしてもその動機を調査しなくてはいけません。そのためには、幸一さんの交際範囲も調べる必要があるものですから・・・」

「なるほどねえ・・」

「で、幸一さんは、月にどの程度の頻度でその友同会で出かけたりしていましたか?会合とか・・」

「そうですねえ・・。月に二回程度かな。必ず月に一回は定例会があるから、それには参加していた。残りは、仲間の経営している居酒屋に行ったりしていたね」

「なるほど・・・。その居酒屋とは、どこに?」

「ここから十分程度。浅草寺の裏手にある。屋号は・・・熱燗だったね。藤田さんという人が経営している。そうそう、その藤田さんの所へいくときは、だいたい村上さんという人が一緒だったようだが」

「その藤田さんと村上さんは友同会の役員か何かですか?」

「そう。藤田さんは、幸一と同じ浅草支部の副会長。副会長は二名必要だからね。それと、村上さんは幹事さん」

「白船さんは、随分詳しいのですね」

「そりゃ、私も過去には役員していたしね。それと、藤田さんと村上さんは、幸一の話にも良く出てきている人物だし、実際に家にも飲食に着てくれているよ」

「なるほど・・・。その藤田さんや村上さんに聞けば、幸一さんの個人的な話も聞けるかもしれませんね」

「うん。そりゃよい考えです」

 稲荷は、両腕を組んで村越警部を見つめた。

「さて。村越警部」

 その言葉に村越警部は小さく頷いた。

「今までの話は通常考えられる話ですが、これからは、少し推測を入れて話さないといけませんね」

 村越警部は再び頷いた。そして、

「片腕のない男の話だね?」

 と、言った。

「さすがですね。村越警部は・・・」

「あはは・・・既に警察官に周辺の聞き込みを命令してある」

 渡辺新造が殺害されたときも片腕のない男の気配が多方面で感じられた。この、片腕のない男は、土井宗次郎であると推理されていた。聞き込みによって再び土井宗次郎の足跡が発見されるのかどうかが注目されるべきであった。

「土井宗次郎の形跡を早く調べないといけませんね」

 と、村越警部は言った。稲荷千太郎はニヤリと微笑んだ。

「土井かどうかは分かりませんが、片腕のない男の影はありましたね」

「稲荷さん、何を言う。一体どこに片腕のない男の影があったと言うのだ?」

「早紀ちゃんが先ほど見た、と言いましたよね」

「えっ早紀ちゃんが?」

「はい。夢で」

 村越警部はいささか驚いた表情をした。

「た、確かに・・・。やはり、あの娘が予知夢を見るという話は本当だったのか」

「時に白船さん。早紀ちゃんの部屋はどこにありますか?」

「早紀の部屋は殺された幸一の部屋の隣です。先ほど、紗枝に早紀と応接間へしばらく行っていなさいと指示しました。相当ショックと恐怖を覚えていましたので」

「なるほど。と、いうことは早紀ちゃんの部屋の入り口は幸一さんの部屋の入り口と同じようなつくりなのですね」

「そうです。同じつくりの部屋ですから」

「これで分かりました。先ほど早紀ちゃんが、片腕のない男が自分の部屋の前に立っていた夢を見た、と言いましたが、それは幸一さんの部屋の前に立っていた場合と場面は同じことになりますね」

「そうです」

「まさに早紀ちゃんは予知夢を見たってことになります」

 村越警部は、

「そうなら、早紀ちゃんをもう一度ここに呼んで話を聞こう」

 と言ったが、

「いや、村越さん。既に話は聞きました。夢の話なので先ほど聞いた話で十分ですよ。今はそっとしておいてあげましょう」

と、稲荷は提案した。

「そうですね。分かった」

「早紀ちゃんを呼ばないまでも、大事な点は覚えています」

「はて、どんなことですか?」

「早紀ちゃんが言っていましたけど、夢に見た片腕のない男は老人ではなかったということでした。もしも、早紀ちゃんが見た夢が予知夢として正しいものであった場合、犯人は土井ではない、ということになりますね」

「う~む。確かに早紀ちゃんはそう言っていたし、それが予知夢なら結論として稲荷さんが言う通り、犯人は土井ではないということになりますな」

 村越警部は、大きく頷いた。

「ということは、幸二さんがここで浮上してきますね」

 稲荷は、天井を見つめながらポソリと言った。

「幸二さんが犯人だとすれば、幸一さんを殺害する動機もよく分かりませんがね」

「確かにそうですね。動機は分からない。しかし、今のところ、片腕のない男は幸二さんと土井しか居ない。そういう意味では、犯人とまでは言えなくても、臭い人物ということには変わりはないです」

 白船喜平は二人の会話を聞いて、いささかあきれ返っていた。

「お二人さん。確かに、片腕のない男は土井と幸二しか現在はいませんが、何等の証拠もないのに、この二人を犯人扱いするのは、少し気が早いような気がしますね。もちろん、土井の肩を持つ気持ちは全くありませんし、個人的には土井が犯人だと思いますが」

「あはは。白船さんのおっしゃる通りです。二人が犯人ではないかもしれない。しかし、今の会話は、私と村越警部が好き勝手に話をしていただけで、推測に過ぎません。誤解を与えてしまって申し訳ありません。ただ、こういう議論も大事です。何故か言えば、第三の殺人を防止するためには、容疑者の範囲も特定する必要があるからです。できれば容疑者的な人物が多ければ多いほど良いです」

 喜平は、タバコを取り出して火を付けると、

「えっ、第三の殺人?そんなことがあるのですか?」

「はい。有り得ます」

 と、稲荷千太郎は答えた。

「おい、おい稲荷さん。その根拠がない一言は白船さんに要らぬ恐怖を与えることになる。少し、控えたほうがよいですね」

 村越警部は苦い顔をした。

「いえ、村越さん。私は控えません。あえて言いますが、第三の殺人は十分に有り得ます。気を付ける方こそが大事なことです」

「なぜ、そう言い切れる?」

「私は、渡辺新造さんが殺害されたことと、幸一さんが殺害されたことに結びつきを感じないのです。つまり、普通に考えると犯人は渡辺新造さん、幸一さんの両名に恨みがある人間であると考えるのが普通だと思うのですが、この両名に恨みを持つという事実が結びつかないのです。渡辺さんと幸一さんは、近くに住んでいても遠い存在です」

「なるほど。そこまでは分かる。しかし・・・」

「そう。この両名に対して同時に同一人が恨みを持つということが想定しにくいのです。もしも、そういう人間がいたとすれば土井しかいない。土井ならば、渡辺さんと白船さんの両名に恨みがあります。殺されたのは、幸一さんですが、土井の恨みが単に喜平さんのみならず、白船家全体に及んでいるとすれば動機になります。しかし、早紀ちゃんの予知夢を信じれば、犯人は老人ではない。ここで、推理が止まってしまうのです。犯人が、幸二さんでもなく、土井でもないとすれば、動機が分からなのですから、第三の殺人が有り得るわけです。私は、どうも渡辺さんと幸二さんが殺された背景には、犯人には単に両名に恨みがあるという動機だけではなく、もっと大きな動機があるような気がしてならないのです」

「稲荷さん。あんたの言っていることは、分かるような、分からないような感じで、頭が痛くなる」

 と、村越警部は言った。

「確かに自分でも何が言いたいのかよく分からなくなりました。しかし、今後も気をつけていただきたい、という思いは強いです」
 
 三人は、大きい広間の中で、しばらく沈黙してしまった。

 そこに鑑識の人間が血相を変えて大広間に飛び込んできた。

「警部。机の上にメモを発見しました」
 
「なんだ?どんな?」

「そのメモには、村正参上、と書かれていました」

「何?また、それか・・」  

 鑑識はそれだけ告げると退室し、再び現場へ向かった。

「稲荷さん。私は気分が少し悪くなってきた。少し自室で休んで良いかね?」

と、喜平は苦い顔つきで言った。

「どうぞ、どうぞ。そうして下さい。お疲れでしょう」

 村越警部は賛成した。

 喜平は疲れた様子で、少しもたつきながら広間から廊下へ出ようとした。

 その瞬間、喜平は低い悲鳴を上げた。

「ワッ」

 喜平の目の前に仲居の乳井しんがボーとして立っていた。喜平は、下を向いたまま移動していたので、乳井にぶつかりそうになり、目の前に黙って立っていた乳井しんの存在に驚いたのである。

「な、何だ。ビックリさせるな」

 乳井しんは笑顔も見せずに、

「せがれの新吉が戻りましたが、こちらへ通しましょうか?」

 と、言った。

「えっ?それは、後ろの両名に聞いてくれ。私は少し休憩する」

 喜平は、そのまま廊下に出て、自分の部屋に向かった。

 その様子を見ていた稲荷は言った。

「乳井さん。差障りなければ、あなたと新吉さんの両名からお話をお伺いしたいのですが」

「はい。分かりました。では、新吉も連れてまいります」

 しばらくして、乳井しんは、その長男である新吉を伴って広間に来た。稲荷千太郎は、先日、新吉に会ったことがあるが、あらためて新吉を見ると、体型は標準で、顔もありきたりで、街中を歩いていても全く目立たないタイプの男であることをつくづく感じた。

「どうぞ、こちらへ」

 稲荷は新吉を招き入れた。そして、乳井しんと共に座布団の上に座った。

 稲荷もそれと同時に座布団に座った。村越警部は既に座布団に座っており、タバコを吸っていた。

「あらためまして、先日お会いしましたが、私は稲荷千太郎です。こちらも先日お会いしていると思いますが、村越警部です」

 村越警部は、沈黙したまま軽く会釈をした。

「はい、数日前の話ですから覚えていますよ。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「しかし、稲荷さんも大変でしたね。今回は大変なことに巻き込まれましたね」

 新吉は深刻な顔つきで言った。

「そうなのですよ。実際、大変です。私のことや事件のことはお母さんから聞きましたか?」

「はい。先ほど、五分程度の時間で簡単に概略だけ聞きました。驚きと恐怖で、何が何だか分からなくなっています」

「そうでしょうね。皆さんも同じ気持ちだと思います」

 乳井しんと新吉の親子は座布団に正座して緊張な面持ちで稲荷の話を聞いていた。

「新吉さんには、幸一さん渡辺さんが殺された件について、意見をお聞きしたいのですが」

 新吉は軽く頷いた。

「新吉さんは、渡辺さんを御存知ですよね?」

「もちろんです。近所ですからね」

「渡辺さんが殺されたことについて、あなたはどういう感想を持たれていますか?」

「申し訳ありませんが、驚いてはおりますが、何の感想もありません」

 新吉は稲荷の目を見つめながら、そう言った。

「何の感想もありませんか?」

「はい。何せ、最近は話したこともありませんので。白船さんと渡辺さんが知り合いと言うか、友人と言えば良いのか、そういう関係にあることは当然知っていましたが、ただそれだけですし、渡辺さんが何故殺されなければならなかったのかも全く予想もできません。つまり、私としてみれば、渡辺さんの交友関係も分からないので、感想の持ちようもないです。幼い頃にお世話になった記憶はありますが、昔の話ですし。殺されてしまったという事実には驚きました」

 稲荷は頷きながら、

「ごもっともな話です。ただ、私は新吉さんに何らかの感想があればお聞きしたいと思っただけで、なければそれで良いのです。ありがとうございました」

 と、言った。

 村越警部は、腕を組んだまま新吉を正面から見つめていた。

「では、幸一さんが殺害されたことについてはいかがですか?」

 稲荷の代りに村越警部が口を開いた。

「はい。その件については、体が震えるほどに驚きました。そして、恐怖と不安を感じました。悲しみはまだ湧いてきません。実感がないからです。だけど、不思議に恐怖と不安があります」

「そりゃ分りますよ。恐怖感は直ちに生じますから。幸一さんが誰かに恨まれていたとか、何か事件解決に役立つような情報をお持ちではないですか?」

「幸一さんについては、少し思うことがあります」
「え?」

「幸一さんが殺害されたと聞いて、直感的に感じたことがあるのです」

「それは何だね?」

村越警部は身を乗り出した。

「以前に幸一さんから聞いた話があるのです。幸一さんは、実の弟の幸二さんという方に何度も会っては、その度にお金をせびられていると言っていました。幸一さんばかり良い思いをして、自分は貧乏で苦労しているということを繰り返し言われて、相当恨まれている、と言うことでした。場合によっては、自分は殺されるのではないか、というようなことも言っていました。その言葉を今思い出したのです」

「殺されるかもしれない?」

「はい。そう言っていました」

 稲荷千太郎は、続いて新吉に聞いた。

「その理由は言っていませんでしたか?」

「理由までは言っていませんでした。ただ、幸二さんという人は不公平感を強く抱いていたのではないでしょうか?幸一さんの話を聞くとそんな気がしてなりませんでした」

「なるほど。とても参考になりました」
 
 と、稲荷千太郎は軽く頭を下げた。

「ところで、渡辺さんと幸一さんの繋がりを知っていますか?二人の関連性というか」

「全く知りませんし、全く予想もできません」

「そうですよね。時に、新吉さんは俳優だそうで?」

「はい。俳優と言っても小さな劇団の役者です」

「その劇団はどちらにあるのですか?」

「文京区です。幻影舎と言います」

「何名くらいの人で構成されている劇団なのですか?」

「約二十名程度です。男女の人数は半々です」

「主にどんな演劇を?」
「現代劇も時代劇もやります」 

「ほお。時代劇も?最近ではどんな作品を?」

「今は現代劇ですけど、前回は時代劇でしたよ。その時は、新撰組を題材にしたフィクションです」

 「新撰組?当ててみましょうか?新吉さんの役を・・・」

 稲荷千太郎は首をひねりながら考えた。

「たぶん、土方歳三?」

「違います。それは主役です」

「では、近藤勇?」

「それも脇役とはいえ重要な役です。私にはその配役は回ってきませんよ。私は池田屋事件の池田屋の主人の役です。この作品ではストーリーに大した影響のない役柄です」

「なるほど。失礼な質問ですが、配役はいつも脇役ですか?」

 新吉は、少しムッとした。

「はい。いつも脇役です。主役は無理です。実力もないし、選んでもらえませんよ」

「これは、大変失礼な質問をしました」

 稲荷千太郎は、新吉に頭を軽く下げた。

 新吉によると、彼の所属する劇団は、文京区の本郷にあり、東京大学の赤門から概ね徒歩五分の距離にある木造住宅だった。二階建の木造家屋で、一階は団長の自宅兼事務所、二階は稽古場である。二階の稽古場は三十畳程のスペースしかないため、時代劇の殺陣稽古等を行う場合には学校の体育館等を借りて行うことが常であった。

「では、今度はしんさんにお聞きします」

 乳井しんは、新吉の隣で正座したまま俯き加減で、軽く頷いた。

「今日を含めて、ここ数日間で合鍵を作られた形跡みたいなものはありませんか?形跡まで至らなくても、少し変だなと思える程度の出来事でも結構なのですが」

「先ほど、申しました通り、ここ数日間は特に変な出来事はありませんでした」

「そうですか。確かに先ほど、同じことを聞きましたね。しかし、私はどうも納得がいかないのですよ。合鍵を誰かが持っていないとすれば、幸一さんが殺害されたのは密室殺人ということになります」

「私は、事件のことは分かりませんが、幸一さんが自殺したとは言えないのですか?」

「自殺ではないように感じています」

 一同、しばらく沈黙が続いた。

「乳井さん。渡辺さんの死と幸一さんの死との間に何があるのでしょう?古くからこの家のことを知っているあなたに、何か予想できることはありませんか?」

 乳井しんはしばらく沈黙した。そして口を開いた。

「あの・・・。渡辺さんを殺した犯人と、幸一さんを殺した犯人は違う人間だっていう
ことはないのですか?」

 村越警部は仰天した。

「ちょっと、あんた。これは連続殺人事件だ。何てことを言う」

「まあ、まあ。村越さん。ここは乳井さんの話を聞いてみましょうよ。乳井さん、それはどういうことですか?」

 乳井しんは軽く会釈してから言った。

「土井と言う人が渡辺さんや旦那様を恨んでいるという話を聞きました。と、いうことは、土井と言う人が渡辺さんを殺したのでしょう。そして、幸二さんは幸一さんを恨んでいた。だから、幸二さんが幸一さんを殺したのでしょう。私のような頭の悪い人間には、このようなことしか考えられません」

 稲荷千太郎は、嬉しそうに指で鼻毛を抜き始めた。乳井しんは、その稲荷千太郎を冷ややかな目で見ていた。

「なるほど。はるほど。そうですよね。乳井さんのおっしゃる通りです。犯人を限定的に考えることはない。もしかすると違う人間かもしれません。しかし、しかしです。今回の事件は同一犯人による連続殺人の可能性を一番最初に疑う必要があります。ただ、乳井さんが思うように、人を錯乱させることが上手い犯人だ。例えば、幸二さんも土井も同じように片腕がない。もしも、この両名が片腕だと知っていたとすれば、これは捜査を錯乱させるために使える道具となります」

「私は、少し役立つことを言ったのかしらね」

「はい。とても。ありがとうございました。初心に帰った気分です」

 黙って話を聞いていた乳井新吉は芝居の稽古帰りで疲れていた。

「ときに、警部さん。私は、もう部屋に行って良いですか?今日は疲れてしまいました」

 村越警部は稲荷千太郎のほうを向いて、
 
「稲荷さん、いいかな?」

 と、伺いを立てた。

「はい。どうぞ、部屋に戻っていただいて結構です」

 新吉は、正座していた状態から急に立ち上がった。そのため、足が痺れており立ち上がった瞬間に足元がもたついた。少しヨタヨタしながら自分の部屋の方へ行った。

「乳井さん。再度幸一さんの部屋の鍵について伺います。今日、喫茶店に鍵を忘れて来た、ということとは別に、鍵が一時的に自分の手から離れたことはありませんか?例えば、風呂に入っていた時間とか」

「いえ、ありません。昼間ですし、お風呂には入りません。そして、他の時間帯もそのような覚えはありません」

「そうですか。では、幸一さんが誰かに合鍵を渡していたというような話を聞いたことはありませんか」

「幸一さんは、幸一さんの世界があるでしょうから私には分かりません。私はただの仲居ですし。そして、アパートとは違いますから、人に合鍵を渡しても意味はないでしょう。建物の入り口の鍵なんかは他人に渡せるわけはありませんし」

「それはそうですね。失礼しました。先ほど、面白い発想のお話が聞けたので、乳井さんに推理をお願いしたいのですが、なぜ、犯人は、密室に見せかけようとしたのでしょう?どうも、私は頭が悪くて、その理由が分かりません」

 稲荷千太郎はニコニコしながら乳井しんに質問をした。

 乳井しんは、しばらく考え込んでいた。

「もしかしたら・・」

 稲荷千太郎はニコニコした笑顔を見せた。

「もしかしたら?」

「いえ、何でもないです」

「いやあ、乳井さん。そこまで言ってそれはないでしょう」

 稲荷千太郎は苦笑した。

「では、話しますが。幸一さんは自分で鍵を閉めた、なんてことはないでしょうね」

 と、乳井しんは自分の言っていることが分からなくなってきたまま言った。

「え?どういうことですか?」

「いえ、ですから、幸一さんは脳天を刺された後に、自分で鍵を閉めてしまった」

「何のために?」

「それは分かりません」

 村越警部がそこで横槍を入れた。

「そんなバカなことがあるわけない。脳天を刺されているのだから、ほぼ即死に近い」

 乳井しんは村越警部の烈しい言葉に圧倒された。

「そ、そうですよね。では、やはり密室殺人なのでは?」

 そこで稲荷千太郎が言った。

「何のために?」

「私を犯人に仕立てるためです」

「え?」

「合鍵は、私しか持っていないので、合鍵を使って幸一さんのドアの鍵を閉めることができるのは私だけです。つまり、犯人は私を犯人にするために密室殺人を実行したのではないかしら」

「乳井さんを犯人にするため?」

「いえ、犯人は私が鍵を持っていることは知らないでしょう。だから、とにかくこの家で幸一さんの部屋の合鍵を持っている人間を犯人と勘違いさせるだけの目的です。私じゃなくても、誰でも良いのですよ。合鍵を持っている人間が居さえすれば・・・」

 稲荷千太郎は、再び鼻毛を抜きながら満面の笑みを浮かべた。

「やはり、乳井さんに聞いて良かった。なるほど、そういうことかもしれませんね。とにかく、密室殺人を実行することで、合鍵を持っている人間を犯人に仕立て上げることが出来る。それが出来なくても、少なくとも捜査を混乱させることはできます。しかし、合鍵を持っているのは、この家では乳井さんしかいないため、犯人を乳井さんに仕立てることになってしまったのは、結論的に失敗でしたね」

「本当にそうですね」

 乳井しんは、ここで少しだけ白い歯を見せた。稲荷千太郎と村越警部も同様に、溜息と
笑みを浮かべた。

「ときに稲荷さん。この家でまだこのような殺人事件は続くのですか?」

 乳井しんは稲荷千太郎におびえた顔で聞いた。

「ここにいる村越警部をはじめとする捜査機関はそれを止めないといけません。村越警部はきっとそれを阻止してくれますよ。しかし、犯人の狙いだけを考えて言えば、恐らくは、まだ殺人を狙っていることと思います」

「え?次は誰を狙っているというのですか」

「断定できませんが、当然考えられるのは白船家の人々、全員ですよ」

「えっ、私も含めてですか?」

「いえ、従業員は除きます。白船さんと血族にある人々です。礼次郎さんをはじめとして紗枝さん、早紀さん、順子さん。全員危ない」

「皆さんに注意するように言っておかないといけませんね」

「はい。それはお願いします。私からも皆さんにお伝えします」

 乳井しんは退室した。
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