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第二部
73.胸中いまだ人知れずⅣ
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やくざと深い付き合いがある。怪しい事務所に日々出入りしている。本職の女を寝取ったことがある。最中のホテルに乗り込まれて逆に病院送りにした。
麻薬常習者。密売もやってる。実は親が政界の権力者で犯した罪は都度モミ消されている。
放火歴アリ。殺人歴アリ。地元のヤンキー皆ともだち。
売春してる。隠し子がいる。自分の子供を惨殺して海に捨てた過去もある。
云々かんぬん。なんちゃらかんちゃら。どれもこれも全てあの人にまつわる噂だ。
どんなものか。そうは思っていたが、まさかここまでとは。そんなに暇なのか。
いかにも胡散臭く頭の悪いいこれらを本気で言っている奴らが実際にいるかどうか定かではない。面白おかしく囃し立てられる対象があればそれでいい。そんな程度の生贄だろう。しかし少々耳を澄ませてみただけで、宮瀬裕也に関する噂は大量になだれ込んできた。
暴力沙汰から色事までありとあらゆる下世話な内容。お勉強なんてハナからする気のない奴らにとってはちょうどいい暇潰しに違いない。
しかし本人も本人で、さすがに噂の中身くらいは耳に入っていると思うがどことなく他人事のよう。盛大に脚色されているとは言え、暴力沙汰があることについてはどうやら事実でもあるようだ。
何も信用していない。どいつもこいつもくだらない。そうとでも言いたげに周りを見下したあの雰囲気。それが余計に噂話に拍車をかけているのだろうけど、自ら否定して回る様子もなかった。とにかく興味がなさそうだ。
昼休みに非常階段に行くと、度々宮瀬裕也を見かけた。あの人の友達はヤンキーじゃない。色んな猫と友達だった。茶トラもいれば白黒もいるし、真っ黒いのとかキジ猫だとか。
猫と戯れて笑みを浮かべる。楽しそうだし嬉しそう。ノラたちと遊ぶあの人を、こそこそ隠れながらしばらく見てきた。
「…………」
どうしよう。もしかして、いやもしかしなくても。この状況は軽くストーカーかもしれない。
屋上のドアをほんの少し開かせ、その隙間から覗き見る。数メートル先のフェンス前。そこに寄り掛かって座っているのは、宮瀬裕也。その人だ。
裏庭に猫がいなかったのだろうか。非常階段の方を目指す途中、階段を上っていくその姿を見かけた。それで思わず後を追い、気づかれないように距離を保って付いてきてしまったのがこの場所。宮瀬裕也は屋上のドアを開き、そのまま空の下へと出て行った。
そしてこの状況。覗き行為中。手に何か持っていると思ったら、それは学校指定の数学の教科書。
悪い噂なんてやっぱりアテにならない。汚い手なんて使っていなくて、頭がいいと言われるゆえんは本人の努力の賜物だった。
動物に優しい。猫に懐かれて喜ぶ。非常に真面目でとても勤勉。並べてみたら普通にいい人だ。
常に深く刻まれた眉間の縦筋のせいで怖い印象が強いけど、ここまで知ってしまうとむしろ可愛い。あそこに少々の愛嬌が加われば雰囲気はまるで違っただろう。
それにしても、綺麗な人だ。男にこんなことを思うのもおかしな話だろうけど。それでもあの人の場合、綺麗。それが一番似合う。
笑えば可愛くて、乱雑そうに見えて所作はどこか洗練されている。こうして誰も周りにいなければその目元も穏やかだ。
教科書を持つ手を盗み見れば、その指先はひどく繊細に思えた。着崩した制服の下に隠れている体つきも、ヒョロヒョロしている訳じゃないだろうが高三男子にしては細そう。
「…………」
惹かれるように、足を踏み出していた。頭より先に体が動いている。重い鉄の扉がギイッと音を立て、それに気づいたその人はすぐに顔を上げた。
扉の前に立っている俺。目が合った瞬間に警戒された。キッと急にきつくなり、怪訝そうにこっちを見ている。
「あの……」
バタン、と後ろで扉が閉まった。血迷ってついつい出てきてしまった。ならばここは腹を決めるしかない。
どうしよう。何を言おう。まずはこの前のお礼からかな。あらゆる考えを一瞬で巡らせながら、その人の前で足を止めた。
「宮瀬、先輩……ですよね?」
不審げに眉をひそめたこの人。どうやら俺のことは覚えていないようだ。そうだよな。人間に興味なさそうだし。
「俺……あぁ、えっと……一年の根本浩平って言います。……それで、あの……」
人前でどもったのなんていつ振りだろう。もしかしたら初めてかもしれない。冷静でありながらも不機嫌そうな目に睨まれて頭が真っ白になりかける。
そんな時ふと目に映った。地面に下ろされたこの人の手元。数学の、教科書だ。
「ッ勉強! 教えてください!!」
「…………あ?」
「…………」
何言ってんだ俺。
アホすぎる発言には真っ先に俺が後悔したが、それ以上にこの人は不審そう。若干引いている。より訝しんだ目で眉間を寄せながら俺を見上げていた。
だけどもうやってしまった。言ってしまった事は取り消せない。妙に吹っ切れた心地になって、というか半ば自棄になり、その場にストンとしゃがみ込んで地面のコンクリに両手をついた。ぐいっと真っすぐその人と目を合わせる。
「先輩すごく頭いいって聞いてます。だから勉強教えてほしいんです。代わりにパシリでもなんでも使ってもらっていいんで、お願いします」
なぜ。などと聞かれたら終わりだ。俺が一番なぜって思ってる。
しかし土下座寸前のこの体勢は少なくとも敵ではないと判断する材料にはなったようで、この人の中の苛立ったような拒絶感は若干和らいだ気がする。とは言えたいして興味もなさそうに、口を開いてくれただけだが。
「他当たれよ。俺にはムリ」
迷惑そうな声と顔。それだけ答えると教科書を閉じた。敵ではなくても邪魔な奴と思ったのか気だるげに立ち上がり、さっさと俺に背を向けてそのままドアの方に歩いていく。
「先輩っ」
「……勉強したきゃここの暇な先公どもに言え。一人くらいはお前みたいのがいるって知ったらあいつらも喜ぶだろ」
面倒そうに顔だけで振り返って言われた。事実俺の学力は担任を非常に喜ばせているが、そんなことは別にどうでもいい。俺はこの人に近付きたい。
しかし無情にもドアは閉まった。屋上に一人取り残された。邪魔してしまったのは俺の方だが、おそらくは生まれて初めての突っ走ったバカな行動。その結果は見事に玉砕。
しばし呆然と佇んだ。空を見上げる。太陽はほぼ真上。
間抜けな俺をジリジリと、焦がしそうなほど照らしていた。
麻薬常習者。密売もやってる。実は親が政界の権力者で犯した罪は都度モミ消されている。
放火歴アリ。殺人歴アリ。地元のヤンキー皆ともだち。
売春してる。隠し子がいる。自分の子供を惨殺して海に捨てた過去もある。
云々かんぬん。なんちゃらかんちゃら。どれもこれも全てあの人にまつわる噂だ。
どんなものか。そうは思っていたが、まさかここまでとは。そんなに暇なのか。
いかにも胡散臭く頭の悪いいこれらを本気で言っている奴らが実際にいるかどうか定かではない。面白おかしく囃し立てられる対象があればそれでいい。そんな程度の生贄だろう。しかし少々耳を澄ませてみただけで、宮瀬裕也に関する噂は大量になだれ込んできた。
暴力沙汰から色事までありとあらゆる下世話な内容。お勉強なんてハナからする気のない奴らにとってはちょうどいい暇潰しに違いない。
しかし本人も本人で、さすがに噂の中身くらいは耳に入っていると思うがどことなく他人事のよう。盛大に脚色されているとは言え、暴力沙汰があることについてはどうやら事実でもあるようだ。
何も信用していない。どいつもこいつもくだらない。そうとでも言いたげに周りを見下したあの雰囲気。それが余計に噂話に拍車をかけているのだろうけど、自ら否定して回る様子もなかった。とにかく興味がなさそうだ。
昼休みに非常階段に行くと、度々宮瀬裕也を見かけた。あの人の友達はヤンキーじゃない。色んな猫と友達だった。茶トラもいれば白黒もいるし、真っ黒いのとかキジ猫だとか。
猫と戯れて笑みを浮かべる。楽しそうだし嬉しそう。ノラたちと遊ぶあの人を、こそこそ隠れながらしばらく見てきた。
「…………」
どうしよう。もしかして、いやもしかしなくても。この状況は軽くストーカーかもしれない。
屋上のドアをほんの少し開かせ、その隙間から覗き見る。数メートル先のフェンス前。そこに寄り掛かって座っているのは、宮瀬裕也。その人だ。
裏庭に猫がいなかったのだろうか。非常階段の方を目指す途中、階段を上っていくその姿を見かけた。それで思わず後を追い、気づかれないように距離を保って付いてきてしまったのがこの場所。宮瀬裕也は屋上のドアを開き、そのまま空の下へと出て行った。
そしてこの状況。覗き行為中。手に何か持っていると思ったら、それは学校指定の数学の教科書。
悪い噂なんてやっぱりアテにならない。汚い手なんて使っていなくて、頭がいいと言われるゆえんは本人の努力の賜物だった。
動物に優しい。猫に懐かれて喜ぶ。非常に真面目でとても勤勉。並べてみたら普通にいい人だ。
常に深く刻まれた眉間の縦筋のせいで怖い印象が強いけど、ここまで知ってしまうとむしろ可愛い。あそこに少々の愛嬌が加われば雰囲気はまるで違っただろう。
それにしても、綺麗な人だ。男にこんなことを思うのもおかしな話だろうけど。それでもあの人の場合、綺麗。それが一番似合う。
笑えば可愛くて、乱雑そうに見えて所作はどこか洗練されている。こうして誰も周りにいなければその目元も穏やかだ。
教科書を持つ手を盗み見れば、その指先はひどく繊細に思えた。着崩した制服の下に隠れている体つきも、ヒョロヒョロしている訳じゃないだろうが高三男子にしては細そう。
「…………」
惹かれるように、足を踏み出していた。頭より先に体が動いている。重い鉄の扉がギイッと音を立て、それに気づいたその人はすぐに顔を上げた。
扉の前に立っている俺。目が合った瞬間に警戒された。キッと急にきつくなり、怪訝そうにこっちを見ている。
「あの……」
バタン、と後ろで扉が閉まった。血迷ってついつい出てきてしまった。ならばここは腹を決めるしかない。
どうしよう。何を言おう。まずはこの前のお礼からかな。あらゆる考えを一瞬で巡らせながら、その人の前で足を止めた。
「宮瀬、先輩……ですよね?」
不審げに眉をひそめたこの人。どうやら俺のことは覚えていないようだ。そうだよな。人間に興味なさそうだし。
「俺……あぁ、えっと……一年の根本浩平って言います。……それで、あの……」
人前でどもったのなんていつ振りだろう。もしかしたら初めてかもしれない。冷静でありながらも不機嫌そうな目に睨まれて頭が真っ白になりかける。
そんな時ふと目に映った。地面に下ろされたこの人の手元。数学の、教科書だ。
「ッ勉強! 教えてください!!」
「…………あ?」
「…………」
何言ってんだ俺。
アホすぎる発言には真っ先に俺が後悔したが、それ以上にこの人は不審そう。若干引いている。より訝しんだ目で眉間を寄せながら俺を見上げていた。
だけどもうやってしまった。言ってしまった事は取り消せない。妙に吹っ切れた心地になって、というか半ば自棄になり、その場にストンとしゃがみ込んで地面のコンクリに両手をついた。ぐいっと真っすぐその人と目を合わせる。
「先輩すごく頭いいって聞いてます。だから勉強教えてほしいんです。代わりにパシリでもなんでも使ってもらっていいんで、お願いします」
なぜ。などと聞かれたら終わりだ。俺が一番なぜって思ってる。
しかし土下座寸前のこの体勢は少なくとも敵ではないと判断する材料にはなったようで、この人の中の苛立ったような拒絶感は若干和らいだ気がする。とは言えたいして興味もなさそうに、口を開いてくれただけだが。
「他当たれよ。俺にはムリ」
迷惑そうな声と顔。それだけ答えると教科書を閉じた。敵ではなくても邪魔な奴と思ったのか気だるげに立ち上がり、さっさと俺に背を向けてそのままドアの方に歩いていく。
「先輩っ」
「……勉強したきゃここの暇な先公どもに言え。一人くらいはお前みたいのがいるって知ったらあいつらも喜ぶだろ」
面倒そうに顔だけで振り返って言われた。事実俺の学力は担任を非常に喜ばせているが、そんなことは別にどうでもいい。俺はこの人に近付きたい。
しかし無情にもドアは閉まった。屋上に一人取り残された。邪魔してしまったのは俺の方だが、おそらくは生まれて初めての突っ走ったバカな行動。その結果は見事に玉砕。
しばし呆然と佇んだ。空を見上げる。太陽はほぼ真上。
間抜けな俺をジリジリと、焦がしそうなほど照らしていた。
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