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漠とした Ⅰ
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馬は4頭立て。荷はアッシスもある程度運ぶことにして、馬の足を早める対策が取られた。
道中の宿泊はビルネンベルクの旅路であるから、アッシスも不便なく休める宿を手配でき、大きな問題もなく、寧ろ順調すぎるぐらいの旅路であった。
「いよいよ見えてきたね」
遠くに連なる白い雪を頂く山々を見つめなら、休憩を道端でとるビルネンベルクが言う。
キルシェは、彼が見つめる先を見た。
あの山の連なりがもっと近くになって、そうしてみてくる丘陵地。その奥の高台に屋敷がある。
所領は標高が高い地域で、今現在いる場所ですでに、帝都に比べて春が終わったところ。萌え出た木々が膨らみ始めた印象だ。
まだまだ風は冷たさがあって、それでも日向は過ごしやすい。
陽光は標高が高いせいか、強く感じられ、温かさをとるか、日差しの不快感からのがれるか、悩ましい選択を休憩毎に迫られる。ただ、どちらにせよ清々しいことに変わりはなかった。
この風を肺いっぱいに吸い込んでいると、気が紛れるのがわかったのは、今朝。
一日目は、そこまでではなかった。
だが、旅が進むに連れ鬱々とした気持ちが膨らんで、自分でも戸惑った。宿に着いた時は、夕食を終えたらすぐに部屋に籠もらなければ、ビルネンベルクやアッシスを困らせそうに思えた。
そこで、疲れているから、ということですぐに下がらせてもらった。実際疲れてはいたから、方便とも言い切れないものである。
その判断は正しかった。部屋に入るや否や、漠然とした不安に襲われて、涙が溢れてきたのだ。
リュディガーがいない不安ではない。確かに離れたことについて寂しさはあるが、それからくる不安ではないことだけは確かだった。原因がわからず、ただただ不安で、不安なことが不義理に思えて、悲嘆に暮れ__知らぬ間に就寝していた。
そして今朝、平静を装って取り繕っているのは、他人の機微をよく読みとるビルネンベルクに露見するのは当然だった。
旅は一日目に比べ、ゆっくりになってしまったのは、休息を多めに取るようになったから。ビルネンベルクの計らいであることは明白だった。
「__疲れもあるだろうが、時間を掛けて君の新天地へ向けているからだろう。嫁ぐ、からね。まさしく」
キルシェは、すぅっと流れ落ちる涙を布で抑えた。
「以前、婚姻を結んだ時は、このようなことは……ありませんでした……。それこそ今回よりも長い7日かかる道のりを行ったのに……所領に近づいても、こんなことは……」
相手は、皮肉にも今回と同じリュディガーだった。
「状況は異なるだろう。当時は嫁げ、と言われ従った。今回は色々と時間を掛けて__掛けざるを得なかったからね。もっとも、時間を掛けずに行っても、挙式後には同じことが起きたかもしれない」
__それは、でも……不誠実では……?
「__不誠実、とは思わなくて良い」
「__っ」
思っていたことを見透かされた、とキルシェは息を詰めて顔を上げた。
ビルネンベルクは、くすり、と穏やかに笑う。
「日常でさえ、会いたくはない、ということはあるだろう? 会う自信がない、気力がない、ということがある。そういうのと一緒で、それがちょっと普段以上に顕著に、唐突に、理由もなく、それこそ吹き出すように出ただけだ。そうなってしまうものだと思うよ」
キルシェは今一度目元を抑え、うつむく。
__どうして、こんな……。
布を離したそこへ、お茶を淹れた湯呑みが差し出された。差し出したのは、優美な長い指先の手。
「辞めたほうがいいかも、とまで思わなくて良い。思ってしまったのだとしても、なんて不義理な不誠実な、と自分を詰ってはいけない」
キルシェはお茶を受け取って、その中を覗き込んだ。湯気が立ち上る向こうに、揺れる水面には、どうやってももはや誤魔化しきれない憔悴した自分の顔があった。
__酷い顔……。
「私でいいのか、と……こんな私で……よくわからない不安に襲われているような……。色々と準備をしてもらって、動いているリュディガーに申し訳なくて……。こうして時間を割いてくださっている先生や、アッシスさんや、ゲオルクさんにも……」
アッシスは御者のゲオルクとともに、馬に休息をとらせつつ状態をよく確認していた。お茶こそ飲んでいるものの、休憩などとっていないような彼らの働きに、余計に申し訳無さが増す。
「一昨日の挙式の時にでさえなかったのに……急に……」
背中に掛けられる羽織。そしてその上から、大きな手が擦ってくれる。さらにぼろぼろと涙が溢れてきて、両手で持つ湯呑みを握り込んだ。
「婚儀の最中であるし……まあ、あれかなぁ。いよいよ結婚したんだ、と実感したからかもしれないね」
「そう……なのでしょうか……」
ビルネンベルクは石垣に腰を据えていたが、長身の彼にはいくらか低いらしく、少しばかり伸ばすような状態の足を組み変え、お茶を口に運んだ。
「私の兄も、挙式は2度だったよ。__まあ、細かく分けると3度か」
ビルネンベルクは遠い視線で、東の彼方を見やった。
「君たち同様、帝都でまずは挙式をして……そのときは、我が家とゆかりが深いのは均衡の神だから、そちらの聖堂でだね。あとは、ネツァク州の州都の神殿と、地元の聖ニノの廟へ挨拶をしたという形だった」
静かに彼の話題に耳を傾けていたキルシェ。見つめる先の彼は、東の彼方をみやったままで、唐突に、くすり、と小さく笑った。
「君も会っただろう義姉さん。実は、聖ニノの廟へ挨拶をしにいく前夜に、家を飛び出したんだ」
「え……」
驚いて思わず声を漏らすと、ビルネンベルクはキルシェへと顔を向けた。
「本当に探したよ。夜だから、白い影は見つけやすいだろうに、なかなか見つからなくてね。いよいよ雨まで降り出して……攫われたんじゃないか、って州軍にも手伝ってもらって」
白い影、とは義姉エレオノーリアの姿を表した言葉だろう。南兎族は個体差はあるものの、白い肌と耳、白銀に近い御髪と紅玉の双眸を持つことが多い。
「__で、未明に大祖父が見つけた、と戻ってきた。だが、見つけたのに連れていないから、どういうことだ、と兄は珍しく気色ばんだよ。対して、お前さんが迎えに行くべきだろう、とさも当然と大祖父は言い放つだけだったが。どこで見つかったと思う?」
「……どこかの、お宿……ですか?」
「聖ニノの廟だ」
ビルネンベルクの所領には、この帝国の建国に深く関わったニノという聖女を祀る廟があり、ビルネンベルクはこの管理も担っている。
聖ニノに縁がある地ビルネンベルクの所領はネツァクの州にあり、州旗には聖ニノの紋章である葡萄十字。それほど縁が深い。
「なんでも、森で迷った挙げ句、雨が降ってきて、途方に暮れていたら小さな建物があって……そこで雨宿りをしていたら寝てしまったのだそうだ」
「建物というのは……」
「それが、聖ニノの廟だよ。確かに初めての人で、暗がりであれをみたら、偉人の廟にしては質素だからね。そう思ってしまうだろう。実はね、廟は2つあるのだよ。ひとつは一般人が詣でる為の廟。そしてもうひとつは、本来の廟。そこそこの奥地にあるし、誰彼構わず踏み入られるのは、ビルネンベルクの土地であるから具合が悪くてね……それで2つ目を用意したのだ。だいぶ昔にね」
帝国では知らない者はいないはずの偉人。ネツァク州に訪れる者は、聖ニノの廟に訪れる者が大多数だと聞く。
そのすべてが足繁く詣でるとなると、ビルネンベルクの領内では捌くのが面倒なのかもしれない。
「__で、兄がそこへ迎えに行って……そのまま、二人だけで挨拶を終えたことになった。控えていた儀式というのはね、二人で挨拶へ赴くという儀式だったから、ちょうどよかったわけさ」
「それは……エレオノーリア様は、よろしかったのですか……?」
ビルネンベルクはお茶を一口さらに飲んで、にこり、と笑う。
「この話は、今じゃ本人が笑い話にしている。__早朝、虹が掛かっている空の下、単騎で駆けつけた兄をみて、心が軽くなった、と言っていた。不安にふるえているのが馬鹿らしく思えた、と」
「馬鹿、らしい……ですか」
「そのようだよ。加えて言えば、兄が迎えにいかなかったら、たぶん離縁していたらしい。__逃げてよかったのよ、とも言っていたっけ」
キルシェはきょとん、としてしまった。
流石に逃げようとまでは思わないが、そういう人もいるのか__と自分と無意識に比べてしまう。
「義姉さんは、何故かどうしようもなく不安で不安でいられなかったのだそうだ。急激に不安だけが膨らんで……弱音を吐くようなことはできなかった。そう義姉さんの家でも、やはり躾けられていたらしいからね……。ちょっと気分転換のつもりだったはずなのに、とにかく逃げるように離れて行くことだけが頭のなかを支配して__で、そうなった、と。たぶんだが、多くの人が抱くのだと思う。理由はなく……いや、あるのだろうけれど、よくわからないまま起こってしまうのだろうね」
「よくあることなのですか……?」
「母もそうだったらしいし、義姉さんも……他にも聞いたことはある。そして、君だ。可笑しいことではないのだろうな、と思う。__こうなってしまうことは、実のところ私の中では織り込み済みだったのだよ、キルシェ」
きゅっ、と胸が詰まって、目頭が熱くなる。鼻も、つん、と痛くなって、新たに涙が溢れてきそうになるのを、キルシェは息をひっそりと止めて堪える。
「リュディガーは、知らないだろうが……なにせ、私は、後見人で、そこらの輩以上に知見もあるし、ね」
冗談めかしていうビルネンベルクに、キルシェは思わず笑ってしまった。
「キルシェ、いいかい。万が一、離縁なんてことになっても、君には戻る家はあるよ。ビルネンベルクという家がね。そのあたりの不安は抱かなくて良い」
「……は、い……」
なんとも頷いていいのか悩ましい言葉だ。
自分は戻るつもりはないし、離縁も考えてはいないことだからだ。だが、それでもとても心強い言葉であることに違いない。
離縁などやはり外聞がいいことではないというのに、戻ってきてもいい、などと言われて嬉しくないはずがない。
__赤の他人なのに……。
「とりあえずは、行こう。ここで引き返してもいいが、それはきっと後々君がもっとひどく自分のことを詰るだろう?」
それは否定できない。キルシェは、もとより戻るという考えはないが。
「とりあえずは、行く__それはいいね?」
「……はい」
震えてしまう声のままだが、視線は逃げずにビルネンベルクを見つめて、いくらか微笑む余裕も生まれた。
「なんなら向こうに着いて会ってみて、あぁ無理だな、と思ったのなら私がそのまま連れ帰ってあげるから」
これには、キルシェは困ったような笑顔になってしまった。
道中の宿泊はビルネンベルクの旅路であるから、アッシスも不便なく休める宿を手配でき、大きな問題もなく、寧ろ順調すぎるぐらいの旅路であった。
「いよいよ見えてきたね」
遠くに連なる白い雪を頂く山々を見つめなら、休憩を道端でとるビルネンベルクが言う。
キルシェは、彼が見つめる先を見た。
あの山の連なりがもっと近くになって、そうしてみてくる丘陵地。その奥の高台に屋敷がある。
所領は標高が高い地域で、今現在いる場所ですでに、帝都に比べて春が終わったところ。萌え出た木々が膨らみ始めた印象だ。
まだまだ風は冷たさがあって、それでも日向は過ごしやすい。
陽光は標高が高いせいか、強く感じられ、温かさをとるか、日差しの不快感からのがれるか、悩ましい選択を休憩毎に迫られる。ただ、どちらにせよ清々しいことに変わりはなかった。
この風を肺いっぱいに吸い込んでいると、気が紛れるのがわかったのは、今朝。
一日目は、そこまでではなかった。
だが、旅が進むに連れ鬱々とした気持ちが膨らんで、自分でも戸惑った。宿に着いた時は、夕食を終えたらすぐに部屋に籠もらなければ、ビルネンベルクやアッシスを困らせそうに思えた。
そこで、疲れているから、ということですぐに下がらせてもらった。実際疲れてはいたから、方便とも言い切れないものである。
その判断は正しかった。部屋に入るや否や、漠然とした不安に襲われて、涙が溢れてきたのだ。
リュディガーがいない不安ではない。確かに離れたことについて寂しさはあるが、それからくる不安ではないことだけは確かだった。原因がわからず、ただただ不安で、不安なことが不義理に思えて、悲嘆に暮れ__知らぬ間に就寝していた。
そして今朝、平静を装って取り繕っているのは、他人の機微をよく読みとるビルネンベルクに露見するのは当然だった。
旅は一日目に比べ、ゆっくりになってしまったのは、休息を多めに取るようになったから。ビルネンベルクの計らいであることは明白だった。
「__疲れもあるだろうが、時間を掛けて君の新天地へ向けているからだろう。嫁ぐ、からね。まさしく」
キルシェは、すぅっと流れ落ちる涙を布で抑えた。
「以前、婚姻を結んだ時は、このようなことは……ありませんでした……。それこそ今回よりも長い7日かかる道のりを行ったのに……所領に近づいても、こんなことは……」
相手は、皮肉にも今回と同じリュディガーだった。
「状況は異なるだろう。当時は嫁げ、と言われ従った。今回は色々と時間を掛けて__掛けざるを得なかったからね。もっとも、時間を掛けずに行っても、挙式後には同じことが起きたかもしれない」
__それは、でも……不誠実では……?
「__不誠実、とは思わなくて良い」
「__っ」
思っていたことを見透かされた、とキルシェは息を詰めて顔を上げた。
ビルネンベルクは、くすり、と穏やかに笑う。
「日常でさえ、会いたくはない、ということはあるだろう? 会う自信がない、気力がない、ということがある。そういうのと一緒で、それがちょっと普段以上に顕著に、唐突に、理由もなく、それこそ吹き出すように出ただけだ。そうなってしまうものだと思うよ」
キルシェは今一度目元を抑え、うつむく。
__どうして、こんな……。
布を離したそこへ、お茶を淹れた湯呑みが差し出された。差し出したのは、優美な長い指先の手。
「辞めたほうがいいかも、とまで思わなくて良い。思ってしまったのだとしても、なんて不義理な不誠実な、と自分を詰ってはいけない」
キルシェはお茶を受け取って、その中を覗き込んだ。湯気が立ち上る向こうに、揺れる水面には、どうやってももはや誤魔化しきれない憔悴した自分の顔があった。
__酷い顔……。
「私でいいのか、と……こんな私で……よくわからない不安に襲われているような……。色々と準備をしてもらって、動いているリュディガーに申し訳なくて……。こうして時間を割いてくださっている先生や、アッシスさんや、ゲオルクさんにも……」
アッシスは御者のゲオルクとともに、馬に休息をとらせつつ状態をよく確認していた。お茶こそ飲んでいるものの、休憩などとっていないような彼らの働きに、余計に申し訳無さが増す。
「一昨日の挙式の時にでさえなかったのに……急に……」
背中に掛けられる羽織。そしてその上から、大きな手が擦ってくれる。さらにぼろぼろと涙が溢れてきて、両手で持つ湯呑みを握り込んだ。
「婚儀の最中であるし……まあ、あれかなぁ。いよいよ結婚したんだ、と実感したからかもしれないね」
「そう……なのでしょうか……」
ビルネンベルクは石垣に腰を据えていたが、長身の彼にはいくらか低いらしく、少しばかり伸ばすような状態の足を組み変え、お茶を口に運んだ。
「私の兄も、挙式は2度だったよ。__まあ、細かく分けると3度か」
ビルネンベルクは遠い視線で、東の彼方を見やった。
「君たち同様、帝都でまずは挙式をして……そのときは、我が家とゆかりが深いのは均衡の神だから、そちらの聖堂でだね。あとは、ネツァク州の州都の神殿と、地元の聖ニノの廟へ挨拶をしたという形だった」
静かに彼の話題に耳を傾けていたキルシェ。見つめる先の彼は、東の彼方をみやったままで、唐突に、くすり、と小さく笑った。
「君も会っただろう義姉さん。実は、聖ニノの廟へ挨拶をしにいく前夜に、家を飛び出したんだ」
「え……」
驚いて思わず声を漏らすと、ビルネンベルクはキルシェへと顔を向けた。
「本当に探したよ。夜だから、白い影は見つけやすいだろうに、なかなか見つからなくてね。いよいよ雨まで降り出して……攫われたんじゃないか、って州軍にも手伝ってもらって」
白い影、とは義姉エレオノーリアの姿を表した言葉だろう。南兎族は個体差はあるものの、白い肌と耳、白銀に近い御髪と紅玉の双眸を持つことが多い。
「__で、未明に大祖父が見つけた、と戻ってきた。だが、見つけたのに連れていないから、どういうことだ、と兄は珍しく気色ばんだよ。対して、お前さんが迎えに行くべきだろう、とさも当然と大祖父は言い放つだけだったが。どこで見つかったと思う?」
「……どこかの、お宿……ですか?」
「聖ニノの廟だ」
ビルネンベルクの所領には、この帝国の建国に深く関わったニノという聖女を祀る廟があり、ビルネンベルクはこの管理も担っている。
聖ニノに縁がある地ビルネンベルクの所領はネツァクの州にあり、州旗には聖ニノの紋章である葡萄十字。それほど縁が深い。
「なんでも、森で迷った挙げ句、雨が降ってきて、途方に暮れていたら小さな建物があって……そこで雨宿りをしていたら寝てしまったのだそうだ」
「建物というのは……」
「それが、聖ニノの廟だよ。確かに初めての人で、暗がりであれをみたら、偉人の廟にしては質素だからね。そう思ってしまうだろう。実はね、廟は2つあるのだよ。ひとつは一般人が詣でる為の廟。そしてもうひとつは、本来の廟。そこそこの奥地にあるし、誰彼構わず踏み入られるのは、ビルネンベルクの土地であるから具合が悪くてね……それで2つ目を用意したのだ。だいぶ昔にね」
帝国では知らない者はいないはずの偉人。ネツァク州に訪れる者は、聖ニノの廟に訪れる者が大多数だと聞く。
そのすべてが足繁く詣でるとなると、ビルネンベルクの領内では捌くのが面倒なのかもしれない。
「__で、兄がそこへ迎えに行って……そのまま、二人だけで挨拶を終えたことになった。控えていた儀式というのはね、二人で挨拶へ赴くという儀式だったから、ちょうどよかったわけさ」
「それは……エレオノーリア様は、よろしかったのですか……?」
ビルネンベルクはお茶を一口さらに飲んで、にこり、と笑う。
「この話は、今じゃ本人が笑い話にしている。__早朝、虹が掛かっている空の下、単騎で駆けつけた兄をみて、心が軽くなった、と言っていた。不安にふるえているのが馬鹿らしく思えた、と」
「馬鹿、らしい……ですか」
「そのようだよ。加えて言えば、兄が迎えにいかなかったら、たぶん離縁していたらしい。__逃げてよかったのよ、とも言っていたっけ」
キルシェはきょとん、としてしまった。
流石に逃げようとまでは思わないが、そういう人もいるのか__と自分と無意識に比べてしまう。
「義姉さんは、何故かどうしようもなく不安で不安でいられなかったのだそうだ。急激に不安だけが膨らんで……弱音を吐くようなことはできなかった。そう義姉さんの家でも、やはり躾けられていたらしいからね……。ちょっと気分転換のつもりだったはずなのに、とにかく逃げるように離れて行くことだけが頭のなかを支配して__で、そうなった、と。たぶんだが、多くの人が抱くのだと思う。理由はなく……いや、あるのだろうけれど、よくわからないまま起こってしまうのだろうね」
「よくあることなのですか……?」
「母もそうだったらしいし、義姉さんも……他にも聞いたことはある。そして、君だ。可笑しいことではないのだろうな、と思う。__こうなってしまうことは、実のところ私の中では織り込み済みだったのだよ、キルシェ」
きゅっ、と胸が詰まって、目頭が熱くなる。鼻も、つん、と痛くなって、新たに涙が溢れてきそうになるのを、キルシェは息をひっそりと止めて堪える。
「リュディガーは、知らないだろうが……なにせ、私は、後見人で、そこらの輩以上に知見もあるし、ね」
冗談めかしていうビルネンベルクに、キルシェは思わず笑ってしまった。
「キルシェ、いいかい。万が一、離縁なんてことになっても、君には戻る家はあるよ。ビルネンベルクという家がね。そのあたりの不安は抱かなくて良い」
「……は、い……」
なんとも頷いていいのか悩ましい言葉だ。
自分は戻るつもりはないし、離縁も考えてはいないことだからだ。だが、それでもとても心強い言葉であることに違いない。
離縁などやはり外聞がいいことではないというのに、戻ってきてもいい、などと言われて嬉しくないはずがない。
__赤の他人なのに……。
「とりあえずは、行こう。ここで引き返してもいいが、それはきっと後々君がもっとひどく自分のことを詰るだろう?」
それは否定できない。キルシェは、もとより戻るという考えはないが。
「とりあえずは、行く__それはいいね?」
「……はい」
震えてしまう声のままだが、視線は逃げずにビルネンベルクを見つめて、いくらか微笑む余裕も生まれた。
「なんなら向こうに着いて会ってみて、あぁ無理だな、と思ったのなら私がそのまま連れ帰ってあげるから」
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