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帝都の大学
猛り、溢レ、フルベ
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しゃなりしゃなり、とその割れた間からまるで滑るようにして歩み寄るのは、優美な法衣を纏う妖精族と、それに付き従うのは、天を突く兎の耳を戴いた獣人族の者。
「レナーテル学長。ビルネンベルク先生」
リュディガー以下、身体を向けて踵を合わせ、最敬礼をとる。
「__ここは、脱衣所でも更衣室でもないのだがな」
ちらり、と衆目へ視線を流すレナーテル。
彼女らの背後に、さらに遅れて多くの教官らが現れる。これでおそらく、今この時、大学にいた全ての教官だろう。
「お騒がせ致しましたこと、並びにお見苦しいものを晒したこと、お詫び申し上げます。召集が__」
「知っている。__これを持たずに行くつもりか?」
リュディガーの言葉を黙殺する形で言って差し出されるのは、リュディガーの得物。そしてそこに添えられているのは、咆哮を上げる鷲獅子の紋が彫られた認識票を兼ねるメダリオン。
得物は、彼女に封じられているままである。
すっかり失念していて、はっ、として、思わずいつも得物を佩いていた腰に触れるリュディガー。
レナーテルは妖艶に口元を歪め、得物を軽く撫でる。
「《フルベ》……」
吐息のような言葉に呼応するように、ふわり、と光と風が溢れて広がり、その風の中に金糸__否、髪が舞う。
彼女が封じるのに用いたのが、彼女自身の__耳長の髪だったのを思い出した。
「然るべき筋を飛び越えて、暇をもらっている龍騎士に直接声をかけるほどだ。よほどの状況とみえる」
「仔細は存じ上げませんが、おそらく」
「これも持っていきなさい。餞別だ」
__影身玉。
龍騎士が国から支給されるもののひとつ。
龍騎士はそもそもの素質に加え、日々の鍛錬によって常人以上に瘴気への耐性があるが、それでもやはり瘴気に晒され続ければ疲弊する。
それをさらに緩和するための道具として、口布以外に携行するのが、影身玉と呼ばれる魔石。任意に効果を発揮させることができるものである。
しかしながらこれは魔石の中でも稀な石。天然のものは効果が高いが流通が少ない。
人為的に生み出すこともできるが、かなりの時間と労力をかけるため、一人ひとつまでの支給が限界という代物だ。
レナーテルが寄越したのは、天然ものだとわかる整えられていない形の石で、透明度が高いものだった。
「よろしいのですか」
「たまたま手元にあったのだ。拾い物だよ。__昨夜から妙に空気が揺らいでいてな。そなたの得物も、解け解け、となにやら騒がしかった。備えておいただけだ」
__昨夜から。
妖精族は往々にして、ヒトの中でも“もの”や“アニマ”とよばれる不可知の領分への感応能力が高い。古の血が濃ければ濃いほど、その能力は研ぎ澄まされている。
「備える……ですか」
「__私の息を吹きかけてある。付け焼き刃だが、無いよりはましだろう」
孤高で気高そうなレナーテル。まさかそんな彼女が甲斐甲斐しいことをしていたとはゆめゆめ思いもしなかったリュディガーは、驚きに目を見開いてしまう。
それを鋭く射抜かれて、咳払いをしてごまかした。
「……久方ぶりの戦線で、相手の力量はもちろん、己自身をも見誤る可能性も無いとは言い切れない」
「仰るとおりで」
「引き際を辨えろ」
「はい」
レナーテルの言葉のはしばしには、相変わらず武官の長のような風格がある。
「……ところで、オーリオルがいないようだが」
オーリオルは金色の羽毛に覆われた、猫ほどの龍。愛くるしいその龍は、龍帝従騎士団でのみ使われる、生ける通信手段だ。
「現地にて」
レナーテルの疑問に答えたのは、エノミアだった。
「左様か。__ならば致し方ない。シュタウフェンベルクに言うことがあったのだがな」
静かに頷き、改めて居住まいを正す翠雨の谷のレナーテル。
「得物を封じこそすれ、そなたも、一応私にとって可愛い学生のひとりだ」
「ありがとう存じます」
「今日のこの騒ぎを起こした非礼を詫びに、生きて帰るよう。__武運を」
言葉を受け、最敬礼を取れば、背後で麾下も倣った気配がする。
「戻ったら、弓射の試験の免除は__」
「それはない」
くつり、と笑うレナーテルに対してリュディガーは笑って兜を被り、眉庇から視線を向けるとともに、身体もビルネンベルクへ向け、踵を合わせて胸に手を当てる礼を取る。
いつになく険しい顔のビルネンベルクに、リュディガーは口布の下で笑うが、おそらく笑みは目元にも現れてしまっているのだろう。彼の表情に難しい色がにじみ出たのが見えた。
「……脱いだ衣服等は預かろう。置いていくといい」
「感謝します」
そして、リュディガーらは踵を返して龍に駆け寄ると、見越したように沈められた背の鞍にそれぞれ跨った。
手綱を持てば翼を広げ、ひとつ羽撃けば、ふわり、と浮き上がり、開けていく景色。建物の影に、弓射の鍛錬場が見えた。
__今日は弓射は無理だな……。
離れていく人垣を見る__歓声とも感嘆ともわからない声を上げる皆。
その中にある人物を探したが、見当たらない。
そういえば、その人物は、今日はブリュール夫人との約束の日だった。
__まあ、先生が、弓射は休みだと伝えてくれるだろう。
もはや、いつもの日課。
それは当たり前の日常の一部。
この地だけでなく、地上の遍くに日常を送る人々がいる。
__そう。そうした日常がある。
そこから自分は、最もかけ離れた場所へ向かう。
この当たり前を甘受できるように。保つために。
自分だって平穏を心置きなく甘受したいのだ。やるべきことは多いし、やりたいことも、やり遂げられていないこともある。
__志半ばで斃れるつもりはない。
それをしたいのであれば、平穏な日常がなければならない。
誰が好んで平穏でない世を望むというのか。少なくとも自分の周りにはいない。
誰もが凍えることなく、誰もが飢えることなく、誰もが蔑まれることなく__過ぎ去る日常。
__やっと、そこに居ることが許されたのだから。
リュディガーが自嘲していると、エノミアの龍がわずかに寄った。
「先行します」
「任せた」
跨る騎龍は、人の言葉を喋られないが解することはできる。故にやり取りを聞き、いくらか後ろに下がり、エノミアの龍へ先を譲った。
それを見て、いい子だ、と鞍のそば__首の根本を強めに叩けば、ぐるぐる、と猫のように喉を鳴らして喜んだ。
愛嬌のある愛龍だ。
ぐん、と前へ引っ張られる身体。先行した龍に追従し、背後の騎龍が加速したのだ。
横にはデッサウの騎龍__三角形の陣形は、追従する龍の体力を温存するためのもの。
急激な加速に身体を支えている最中、視界を滑るように流れる景色。
足元にあった帝都は、すでに彼方の地平へとなりつつある。
__まったく……柔になったものだ……この程度で寒いとは……。
初夏の陽気でもこれほどの速度の龍の翼に身を任せると、嘘のように身体が冷える。
リュディガーは、一度呼吸を整え、手綱を握り直して、すっ、と前を見据えた。
__龍帝従騎士団・龍勅。
__一に曰く、己を省みよ。己より遅れる者たちあらばこれを待て。思慮深く周囲を見よ。衆生とともに正しく前へ進め。これを以て均衡をとりなし、魂と魄とを救済せよ。
__二に曰く、忠義の果は概して忘恩なり。
__三に曰く、諸々の禍事、罪穢れを祓い、標となれ。
「__帰命せよ」
口の中で唱える文言。心得。
龍騎士が最初に諳んじるそれは、龍騎士にのみ発せられた龍帝の勅令。
途端に鼓舞される心地に、リュディガーは胸底から震えるのがわかった。
この感覚。この心地__。
__やはり俺は、どこまでも龍帝従騎士団の龍騎士なのだ。
「レナーテル学長。ビルネンベルク先生」
リュディガー以下、身体を向けて踵を合わせ、最敬礼をとる。
「__ここは、脱衣所でも更衣室でもないのだがな」
ちらり、と衆目へ視線を流すレナーテル。
彼女らの背後に、さらに遅れて多くの教官らが現れる。これでおそらく、今この時、大学にいた全ての教官だろう。
「お騒がせ致しましたこと、並びにお見苦しいものを晒したこと、お詫び申し上げます。召集が__」
「知っている。__これを持たずに行くつもりか?」
リュディガーの言葉を黙殺する形で言って差し出されるのは、リュディガーの得物。そしてそこに添えられているのは、咆哮を上げる鷲獅子の紋が彫られた認識票を兼ねるメダリオン。
得物は、彼女に封じられているままである。
すっかり失念していて、はっ、として、思わずいつも得物を佩いていた腰に触れるリュディガー。
レナーテルは妖艶に口元を歪め、得物を軽く撫でる。
「《フルベ》……」
吐息のような言葉に呼応するように、ふわり、と光と風が溢れて広がり、その風の中に金糸__否、髪が舞う。
彼女が封じるのに用いたのが、彼女自身の__耳長の髪だったのを思い出した。
「然るべき筋を飛び越えて、暇をもらっている龍騎士に直接声をかけるほどだ。よほどの状況とみえる」
「仔細は存じ上げませんが、おそらく」
「これも持っていきなさい。餞別だ」
__影身玉。
龍騎士が国から支給されるもののひとつ。
龍騎士はそもそもの素質に加え、日々の鍛錬によって常人以上に瘴気への耐性があるが、それでもやはり瘴気に晒され続ければ疲弊する。
それをさらに緩和するための道具として、口布以外に携行するのが、影身玉と呼ばれる魔石。任意に効果を発揮させることができるものである。
しかしながらこれは魔石の中でも稀な石。天然のものは効果が高いが流通が少ない。
人為的に生み出すこともできるが、かなりの時間と労力をかけるため、一人ひとつまでの支給が限界という代物だ。
レナーテルが寄越したのは、天然ものだとわかる整えられていない形の石で、透明度が高いものだった。
「よろしいのですか」
「たまたま手元にあったのだ。拾い物だよ。__昨夜から妙に空気が揺らいでいてな。そなたの得物も、解け解け、となにやら騒がしかった。備えておいただけだ」
__昨夜から。
妖精族は往々にして、ヒトの中でも“もの”や“アニマ”とよばれる不可知の領分への感応能力が高い。古の血が濃ければ濃いほど、その能力は研ぎ澄まされている。
「備える……ですか」
「__私の息を吹きかけてある。付け焼き刃だが、無いよりはましだろう」
孤高で気高そうなレナーテル。まさかそんな彼女が甲斐甲斐しいことをしていたとはゆめゆめ思いもしなかったリュディガーは、驚きに目を見開いてしまう。
それを鋭く射抜かれて、咳払いをしてごまかした。
「……久方ぶりの戦線で、相手の力量はもちろん、己自身をも見誤る可能性も無いとは言い切れない」
「仰るとおりで」
「引き際を辨えろ」
「はい」
レナーテルの言葉のはしばしには、相変わらず武官の長のような風格がある。
「……ところで、オーリオルがいないようだが」
オーリオルは金色の羽毛に覆われた、猫ほどの龍。愛くるしいその龍は、龍帝従騎士団でのみ使われる、生ける通信手段だ。
「現地にて」
レナーテルの疑問に答えたのは、エノミアだった。
「左様か。__ならば致し方ない。シュタウフェンベルクに言うことがあったのだがな」
静かに頷き、改めて居住まいを正す翠雨の谷のレナーテル。
「得物を封じこそすれ、そなたも、一応私にとって可愛い学生のひとりだ」
「ありがとう存じます」
「今日のこの騒ぎを起こした非礼を詫びに、生きて帰るよう。__武運を」
言葉を受け、最敬礼を取れば、背後で麾下も倣った気配がする。
「戻ったら、弓射の試験の免除は__」
「それはない」
くつり、と笑うレナーテルに対してリュディガーは笑って兜を被り、眉庇から視線を向けるとともに、身体もビルネンベルクへ向け、踵を合わせて胸に手を当てる礼を取る。
いつになく険しい顔のビルネンベルクに、リュディガーは口布の下で笑うが、おそらく笑みは目元にも現れてしまっているのだろう。彼の表情に難しい色がにじみ出たのが見えた。
「……脱いだ衣服等は預かろう。置いていくといい」
「感謝します」
そして、リュディガーらは踵を返して龍に駆け寄ると、見越したように沈められた背の鞍にそれぞれ跨った。
手綱を持てば翼を広げ、ひとつ羽撃けば、ふわり、と浮き上がり、開けていく景色。建物の影に、弓射の鍛錬場が見えた。
__今日は弓射は無理だな……。
離れていく人垣を見る__歓声とも感嘆ともわからない声を上げる皆。
その中にある人物を探したが、見当たらない。
そういえば、その人物は、今日はブリュール夫人との約束の日だった。
__まあ、先生が、弓射は休みだと伝えてくれるだろう。
もはや、いつもの日課。
それは当たり前の日常の一部。
この地だけでなく、地上の遍くに日常を送る人々がいる。
__そう。そうした日常がある。
そこから自分は、最もかけ離れた場所へ向かう。
この当たり前を甘受できるように。保つために。
自分だって平穏を心置きなく甘受したいのだ。やるべきことは多いし、やりたいことも、やり遂げられていないこともある。
__志半ばで斃れるつもりはない。
それをしたいのであれば、平穏な日常がなければならない。
誰が好んで平穏でない世を望むというのか。少なくとも自分の周りにはいない。
誰もが凍えることなく、誰もが飢えることなく、誰もが蔑まれることなく__過ぎ去る日常。
__やっと、そこに居ることが許されたのだから。
リュディガーが自嘲していると、エノミアの龍がわずかに寄った。
「先行します」
「任せた」
跨る騎龍は、人の言葉を喋られないが解することはできる。故にやり取りを聞き、いくらか後ろに下がり、エノミアの龍へ先を譲った。
それを見て、いい子だ、と鞍のそば__首の根本を強めに叩けば、ぐるぐる、と猫のように喉を鳴らして喜んだ。
愛嬌のある愛龍だ。
ぐん、と前へ引っ張られる身体。先行した龍に追従し、背後の騎龍が加速したのだ。
横にはデッサウの騎龍__三角形の陣形は、追従する龍の体力を温存するためのもの。
急激な加速に身体を支えている最中、視界を滑るように流れる景色。
足元にあった帝都は、すでに彼方の地平へとなりつつある。
__まったく……柔になったものだ……この程度で寒いとは……。
初夏の陽気でもこれほどの速度の龍の翼に身を任せると、嘘のように身体が冷える。
リュディガーは、一度呼吸を整え、手綱を握り直して、すっ、と前を見据えた。
__龍帝従騎士団・龍勅。
__一に曰く、己を省みよ。己より遅れる者たちあらばこれを待て。思慮深く周囲を見よ。衆生とともに正しく前へ進め。これを以て均衡をとりなし、魂と魄とを救済せよ。
__二に曰く、忠義の果は概して忘恩なり。
__三に曰く、諸々の禍事、罪穢れを祓い、標となれ。
「__帰命せよ」
口の中で唱える文言。心得。
龍騎士が最初に諳んじるそれは、龍騎士にのみ発せられた龍帝の勅令。
途端に鼓舞される心地に、リュディガーは胸底から震えるのがわかった。
この感覚。この心地__。
__やはり俺は、どこまでも龍帝従騎士団の龍騎士なのだ。
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