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帝都の大学
蛍の淵
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林__否、もはや森という中を、リュディガーの後ろについていく。
「__怖いか?」
歩みが遅くなったのを感じ取ったのか、リュディガーが問うた。
「それは……ええ、まぁ……」
「正しい反応だ。私も最初はそうだった」
闇の中へと向かっているようなものだ。
奥へ進めば進むほど、心細くなっていく。
それでも足を止めずにいられるのは、リュディガーが堂々と前を進んでくれているからだろう。加えて、時折、大きな身体の向こうから飛び出すように蛍火が現れるから。その頻度が徐々に増してきている。
それに比例して、せせらぎが強く、はっきりとしたように思う。
生憎とカンテラは消されてしまっているし、辛うじて枝葉の向こうから届く程度の明かりでは周囲をすべて見渡すことはできない。
さらにそこそこ歩いたところで、お、と短く声を上げるリュディガーが足を止めた。行く手には、前を阻む枝垂れ柳が枝を垂らしている。その様はまさしく天然の御簾のよう。
リュディガーは一度キルシェへ振り返ってから身体を僅かに引き、その枝を腕で押すようにしてどかし、奥を晒す。
その先に現れた光景にキルシェは、感嘆の声を漏らした。
大人三名が手をつないでつくれる輪ぐらいの規模の泉が、およそ五歩先にある。その泉を中心に、朧げな蛍火が中空を揺蕩うように飛んでいたのだ。
それも、両手でおさまらないほどの数。
ほら、とリュディガーに促されて、柳の御簾を越えて踏み込む。途端に、周囲の気温が下がったように感じられた。
泉を囲うように草葉の間に石が見え隠れし、最も奥で腰高ほどに石が積み重なる。それは人工的でなく、規則性がない自然な積み重なり、隆起したようにも見える。その石の表面は、ところどころ苔むしていた。
さっきよりも明瞭に景色がわかるのは、泉の直上が穴があいたように枝葉がまばらに抜けているからだ。
泉へ流れ込む沢が見られない。
よくよく見てみれば、積み上がった大ぶりの石の表面が濡れていから、おそらくそこから滲み出る水と、さらに透き通った泉の中できれいな砂地が吹き上がるように踊っているから、湧水とでできている泉なのだろう。それに伴い、この辺りはこの水辺によって空気が冷やされいるのだ。
肌寒いくらいの風にあたりながら、夜陰を滑るように飛ぶ妖しく儚い光を追う。
時折、草陰にじんわりと滲むように光の点があって、葉の輪郭をなぞるように尾を引く明滅を繰り返し光が動いていく。
「……これが、蛍」
不思議なことに、先程までのおののきは露ほどもなくなっていた。
ただひたすらに、目の前の幽玄な光景に目を奪われる。
__この世のものとは思えない……。
ここは、入ってはいけない空間のように思えた。
まさしく神域といえる光景。
__あるいは、この世とあの世の間……彼岸の淵。
「__キルシェ、ここへ」
はっ、と彼の声に我に返って、声の方へ振り返れば、直ぐ側にいたリュディガーが草地に広げた敷物に腰を下ろしていた。
「それ……いつ……」
「家を出るときに持ち出していたが」
気づかなかったか、と笑う彼は、座るよう敷物を軽く叩く。
「__暫く見ているだろうから」
「……ありがとうございます」
勧められるまま腰を下ろし、スカートごと膝を抱えてなるべく風に足が当たらないようにした。
脹脛がすでにいくぶんか冷えていて、太もものぬくもりで温めようと密着させる。
そうしている間も蛍の飛ぶ数がひとつ、ふたつ、と増えていく。
「……こんなに飛ぶのね」
「もっとじめっとした蒸し暑い夜のほうが、活発に飛んでいたように思うが」
「……そうなのね」
「ここはブリュール夫人が仰っていた場所ではないが、龍騎士でも知らない者がほとんどというぐらい穴場。昔たまたま見つけた」
「……リュディガーは毎年見に来ているの?」
「暇をもらってからはないな」
「……そう」
キルシェは、蛍火に息を潜めて見入った。
規則性があるようでない明滅。飛び方。囁きかけるような光は、本当に飽きさせない。
「……不思議な生き物ですね。これが虫だなんて……蛍は、虫であってますよね?」
「ああ、あっている」
彼の肯定を聞き、キルシェ視線を戻す__と、どんどん迫る蛍がいた。驚いて、そうっと両手を翳して壁を作る。
残念ながらその意図が伝わらない蛍は、翳した手に当たって、ころり、とキルシェの膝の上に落ちてしまう。それは、さながら熟した果実が落ちるようだった。
「え、え……ぁ……」
慌てて立てていた膝を倒してみて探してみるものの、まるで見当たらない。
ひやり、とした心地に目を見張っていれば、明滅する光が布の間から微かに見え、急ぎつつもそっと優しく両手で掬うように拾い上げる。
「……あんなに簡単に落ちてしまうなんて……泉に落ちなくて良かった……」
ほっ、とキルシェは胸を撫で下ろした。
「__なぁ、キルシェ」
「何です?」
彼に顔を向ければ、どこか笑っているようだった。
「何故、ずっと小声なんだ?」
彼の指摘のような問いかけに、キルシェははにかんだ。
そう。さきほどから__ここへ踏み入ってから、普段どおりの声音の彼に対して、自分はどうにも小声になってしまっていた。
「……小声になってしまいませんか? 驚かしてしまいそうで」
「まあ、わからんでもないが」
でしょう、とキルシェは手元の蛍へ視線を戻す。
明滅を繰り返していた蛍は、手の平を移動しはじめる。
上へ向かっているようで、指先へと伝う小さな足が、いくらかこそばゆい。やがて指先まで至って暫し。
蛍の背が割れたのが見えた直後、蛍は指から離れて、音もなく暗闇へと舞い上がった。
揺らめくようにしながら、闇夜を昇っていく小さい黒い甲虫。
夜空の薄絹の向こうの月の明かりよりも弱く、息を吹きかけたら消えそうな光にくすり、と笑う。
その頼りなく離れていく様が名残惜しく感じられ、キルシェは下げかけていた手を今一度空へと伸ばした__刹那、その手がはっし、と掴まれた。
あまりにも突然な出来事で、キルシェは息を詰め、驚きに目を見開く。
自分の手を掴んだのは、大きなリュディガーの手だった。
彼に振り返れば、並んで座っているから、思いの外すぐ側に彼の顔があった。
それはキルシェが初めて見る至極緊張したような強張った顔。月明かりで顔に落ちた影の中に見える彼の蒼の瞳は、静かにも苛烈さが見え隠れしている。
視線とはこれほどの覇気を発するのか__怯んだキルシェは、息を詰めた。その様にリュディガーは、はっ、と我にかえって手を放す。
「す、すまない。……咄嗟に」
「と、咄嗟?」
何かまずいことをしでかしたのだろうか__驚いて速く拍動する心臓をなだめようと解放された手で胸元をおさえながら、キルシェは首を傾げる。
「焦って……」
「焦る……?」
「その……あまり追い立てるような形で触れるのはどうか、と思って、つい」
掴んでいた手のやり場に困った彼は、罰が悪い表情になって首の後ろあたりに触れる。
「それは……そうですよね。向こうにしてみれば巨人ですし……」
リュディガーの言うことはもっともだ。
未だに突然の出来事に驚いて鼓動がはやいが、思い至らなかった自分に自嘲するぐらいの余裕はできていた。
自嘲を見せれば、リュディガーは自嘲とも苦笑とも言えない表情を浮かべた。
「__怖いか?」
歩みが遅くなったのを感じ取ったのか、リュディガーが問うた。
「それは……ええ、まぁ……」
「正しい反応だ。私も最初はそうだった」
闇の中へと向かっているようなものだ。
奥へ進めば進むほど、心細くなっていく。
それでも足を止めずにいられるのは、リュディガーが堂々と前を進んでくれているからだろう。加えて、時折、大きな身体の向こうから飛び出すように蛍火が現れるから。その頻度が徐々に増してきている。
それに比例して、せせらぎが強く、はっきりとしたように思う。
生憎とカンテラは消されてしまっているし、辛うじて枝葉の向こうから届く程度の明かりでは周囲をすべて見渡すことはできない。
さらにそこそこ歩いたところで、お、と短く声を上げるリュディガーが足を止めた。行く手には、前を阻む枝垂れ柳が枝を垂らしている。その様はまさしく天然の御簾のよう。
リュディガーは一度キルシェへ振り返ってから身体を僅かに引き、その枝を腕で押すようにしてどかし、奥を晒す。
その先に現れた光景にキルシェは、感嘆の声を漏らした。
大人三名が手をつないでつくれる輪ぐらいの規模の泉が、およそ五歩先にある。その泉を中心に、朧げな蛍火が中空を揺蕩うように飛んでいたのだ。
それも、両手でおさまらないほどの数。
ほら、とリュディガーに促されて、柳の御簾を越えて踏み込む。途端に、周囲の気温が下がったように感じられた。
泉を囲うように草葉の間に石が見え隠れし、最も奥で腰高ほどに石が積み重なる。それは人工的でなく、規則性がない自然な積み重なり、隆起したようにも見える。その石の表面は、ところどころ苔むしていた。
さっきよりも明瞭に景色がわかるのは、泉の直上が穴があいたように枝葉がまばらに抜けているからだ。
泉へ流れ込む沢が見られない。
よくよく見てみれば、積み上がった大ぶりの石の表面が濡れていから、おそらくそこから滲み出る水と、さらに透き通った泉の中できれいな砂地が吹き上がるように踊っているから、湧水とでできている泉なのだろう。それに伴い、この辺りはこの水辺によって空気が冷やされいるのだ。
肌寒いくらいの風にあたりながら、夜陰を滑るように飛ぶ妖しく儚い光を追う。
時折、草陰にじんわりと滲むように光の点があって、葉の輪郭をなぞるように尾を引く明滅を繰り返し光が動いていく。
「……これが、蛍」
不思議なことに、先程までのおののきは露ほどもなくなっていた。
ただひたすらに、目の前の幽玄な光景に目を奪われる。
__この世のものとは思えない……。
ここは、入ってはいけない空間のように思えた。
まさしく神域といえる光景。
__あるいは、この世とあの世の間……彼岸の淵。
「__キルシェ、ここへ」
はっ、と彼の声に我に返って、声の方へ振り返れば、直ぐ側にいたリュディガーが草地に広げた敷物に腰を下ろしていた。
「それ……いつ……」
「家を出るときに持ち出していたが」
気づかなかったか、と笑う彼は、座るよう敷物を軽く叩く。
「__暫く見ているだろうから」
「……ありがとうございます」
勧められるまま腰を下ろし、スカートごと膝を抱えてなるべく風に足が当たらないようにした。
脹脛がすでにいくぶんか冷えていて、太もものぬくもりで温めようと密着させる。
そうしている間も蛍の飛ぶ数がひとつ、ふたつ、と増えていく。
「……こんなに飛ぶのね」
「もっとじめっとした蒸し暑い夜のほうが、活発に飛んでいたように思うが」
「……そうなのね」
「ここはブリュール夫人が仰っていた場所ではないが、龍騎士でも知らない者がほとんどというぐらい穴場。昔たまたま見つけた」
「……リュディガーは毎年見に来ているの?」
「暇をもらってからはないな」
「……そう」
キルシェは、蛍火に息を潜めて見入った。
規則性があるようでない明滅。飛び方。囁きかけるような光は、本当に飽きさせない。
「……不思議な生き物ですね。これが虫だなんて……蛍は、虫であってますよね?」
「ああ、あっている」
彼の肯定を聞き、キルシェ視線を戻す__と、どんどん迫る蛍がいた。驚いて、そうっと両手を翳して壁を作る。
残念ながらその意図が伝わらない蛍は、翳した手に当たって、ころり、とキルシェの膝の上に落ちてしまう。それは、さながら熟した果実が落ちるようだった。
「え、え……ぁ……」
慌てて立てていた膝を倒してみて探してみるものの、まるで見当たらない。
ひやり、とした心地に目を見張っていれば、明滅する光が布の間から微かに見え、急ぎつつもそっと優しく両手で掬うように拾い上げる。
「……あんなに簡単に落ちてしまうなんて……泉に落ちなくて良かった……」
ほっ、とキルシェは胸を撫で下ろした。
「__なぁ、キルシェ」
「何です?」
彼に顔を向ければ、どこか笑っているようだった。
「何故、ずっと小声なんだ?」
彼の指摘のような問いかけに、キルシェははにかんだ。
そう。さきほどから__ここへ踏み入ってから、普段どおりの声音の彼に対して、自分はどうにも小声になってしまっていた。
「……小声になってしまいませんか? 驚かしてしまいそうで」
「まあ、わからんでもないが」
でしょう、とキルシェは手元の蛍へ視線を戻す。
明滅を繰り返していた蛍は、手の平を移動しはじめる。
上へ向かっているようで、指先へと伝う小さな足が、いくらかこそばゆい。やがて指先まで至って暫し。
蛍の背が割れたのが見えた直後、蛍は指から離れて、音もなく暗闇へと舞い上がった。
揺らめくようにしながら、闇夜を昇っていく小さい黒い甲虫。
夜空の薄絹の向こうの月の明かりよりも弱く、息を吹きかけたら消えそうな光にくすり、と笑う。
その頼りなく離れていく様が名残惜しく感じられ、キルシェは下げかけていた手を今一度空へと伸ばした__刹那、その手がはっし、と掴まれた。
あまりにも突然な出来事で、キルシェは息を詰め、驚きに目を見開く。
自分の手を掴んだのは、大きなリュディガーの手だった。
彼に振り返れば、並んで座っているから、思いの外すぐ側に彼の顔があった。
それはキルシェが初めて見る至極緊張したような強張った顔。月明かりで顔に落ちた影の中に見える彼の蒼の瞳は、静かにも苛烈さが見え隠れしている。
視線とはこれほどの覇気を発するのか__怯んだキルシェは、息を詰めた。その様にリュディガーは、はっ、と我にかえって手を放す。
「す、すまない。……咄嗟に」
「と、咄嗟?」
何かまずいことをしでかしたのだろうか__驚いて速く拍動する心臓をなだめようと解放された手で胸元をおさえながら、キルシェは首を傾げる。
「焦って……」
「焦る……?」
「その……あまり追い立てるような形で触れるのはどうか、と思って、つい」
掴んでいた手のやり場に困った彼は、罰が悪い表情になって首の後ろあたりに触れる。
「それは……そうですよね。向こうにしてみれば巨人ですし……」
リュディガーの言うことはもっともだ。
未だに突然の出来事に驚いて鼓動がはやいが、思い至らなかった自分に自嘲するぐらいの余裕はできていた。
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