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帝都の大学
晩餐会 Ⅲ
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ニーナは物悲しい顔で、自嘲を浮かべる。
「ですから、昨夜は謂うなれば、今夜の練習だったのです」
「練習……?」
「ええ。もう3年も経ちますし……ナハトリンデン卿をはじめ、気遣ってくれる皆に申し訳なく思えてきて……そんなところに、ブリュール夫人にご招待いただいたこともあり、いい加減動かないと、と。外で、他所の方と卓を囲むということがまったくなかったので、父がナハトリンデン卿に同席をお願いして、あの場を設けてくれました」
「左様でしたか。だとしたら、なおさら、場を乱してしまいましたね……」
「いいえ、寧ろ私は緊張が解けました。大勢の視線がある場所ですから、母の形見の宝石をお守り代わりにしていても心細く、緊張はしてしまっていたので……」
__形見の宝石……。
キルシェは、無意識に耳飾りに触れようとする手に気づき、それを止めて膝の上で手を握る。
「それは、ようございました」
ごまかすように苦笑を浮かべると、ニーナが慌てて首を振った。
「あ、違いますよ? キルシェさんの災難のことではなく、キルシェさんとビルネンベルク侯をご覧になったナハトリンデン卿が、固まってしまった様子がもう面白くて」
「あぁ……それは私もちらり、と遠目に見ました」
「私、初めて拝見しました。あのような表情をされるナハトリンデン卿は」
__さぞ、ビルネンベルク先生は愉しんでいたことでしょうね。
少しばかりリュディガーに同情を覚えるキルシェだが、ふと疑問を覚える。
リュディガーはいつ、招待を受けていたのだろう。
ブリュール夫人は、キルシェにとって大学で数少ない友人である。その夫人に招待されたのであれば、話題に出いていても可笑しくはなかったはず。
__招待されていないと知って、気遣われた……?
「ナハトリンデン卿と、まさか今夜も遭遇するとは思いもしませんでした」
「そのようですね。ナハトリンデン卿も、驚かれておられましたもの。ブリュール夫人は、楽しそうでしたが」
くすくす、と笑い合う。
彼女の言う通り、リュディガーの今夜の驚き様は中々だった。
ブリュール夫人に代わって出迎えたのはビルネンベルクで、そこで完全に思考停止した彼は、あんぐり、と口を開けたまま固まった。
あんな顔を目撃することは、もうないだろう__それほど彼には珍しい顔。
彼が来るとはキルシェも伏せられていたが、ビルネンベルクが先んじて流れを作ってくれたから驚きこそすれ、固まるほどではなかった。なにより、彼の驚きようが面白くて笑わずにはいられなかったことも大きい。
昨夜に続き遭遇して、色々な思いが頭の中をぐるぐる巡っているのか、言葉も紡げずにいた彼。後輩がビルネンベルクへ挨拶する様を見て、やっと我に返った様もまた可笑しくて、少しだけ笑ってしまった。
その後、ブリュール夫人に掻い摘んで招待した経緯の説明を受け、晩餐会前の談笑をする最中も、ドレッセン男爵夫妻と話しこそすれ、ニーナと後輩とで固まり、ビルネンベルクとキルシェには近づかなかった。
__昨夜のことを、突かれると思ったのでしょうね。
キルシェが知るビルネンベルクならやりかねない。やらないはずがない。
最近思うのだが、リュディガーをいじることに、情熱のようなものが見えるのだ。
__そして、リュディガーが渋い顔をする。
それは、リュディガーの上官シュタウフェンベルクも辿ってきた道かもしれない。
そして、女性は男性にエスコートされてテーブルに着く。ブリュール夫人にはドレッセン男爵が、ドレッセン夫人にはビルネンベルクが、ニーナにはデッサウがついて__となると、キルシェにはリュディガーがつく流れだ。
だが、当の彼は談話室に置かれた飲み物に口をつけたまま、飲むことも置くこともせず、ただただ動かないでいた。動揺しきって、すっかり失念していたのだろう。
それがあまりに可哀想に思えたから、声を掛けることもなくキルシェは独りでテーブルに着いたのだった。
「ナハトリンデン卿は、ご後輩であるデッサウ卿の付添で今夜はいらっしゃったそうです。どうやら、ブリュール夫人と父に頼まれて、どなたかを紹介する算段になっていたそうで……」
「それは……お見合い、ということ……ですか?」
「__のようなものだと」
晩餐会、夜会__すべてにおいて、その裏には必ずお見合いを兼ねているのは言うまでもない。
「……なるほど」
この夜の主役が、ニーナとデッサウだということは、なんとなく分かってはいた。
これから表へ出ていこうとするぐらい気持ちが上向いてきたニーナには、箔がつく割に知り合いが多く砕けた晩餐会。デッサウにも、それは同様のことが言えた。
__ブリュール夫人はもちろん、ニーナ様とデッサウ卿のお役に立てたということね。
リュディガーのことを、ビルネンベルク共々、知らされていなかったのは、夫人のちょっとしたお茶目な悪戯心__そういうことなのだろう。
しとやかでにこやかな微笑みを浮かべるブリュール夫人が容易に想像でき、キルシェは、くすり、と笑ってしまった。
「あの……つかぬことをお伺いしても?」
「何でしょう?」
「キルシェさんは、本当に一度も夜会等出られたことはないのですか?」
今夜、彼女が来た際、ビルネンベルクがそう添えて紹介してくれた。__社交は一度も出ていないから、何かしら不手際があるかもしれないが、快く見守って上げてほしい、と。
事実、キルシェは社交には一度も出ていない。
社交入りを果たす者は、まずその地域の名士の元へ集い、社交入りの儀礼を済ます。これは日中行われ、名士に挨拶をし、その後砕けた雰囲気のなか、お茶を飲んで解散するという程度のものである。
これを境に、各夜会や晩餐会などに招待されるようになるのだ。
「ええ、ございません。今日のこの服も、ブリュール夫人からお借りしたものですし。家に帰れば誂えてありますが、一度も活躍しておりません」
キルシェは、絹の甕覗き色の裾を軽く撫でて示した。
「とても場数を踏まれているように見えました……」
「そうでしたか?」
「ええ。所作が本当にお美しくていらっしゃって……。物を見つめる所作だとか、物を持つとき__そう、特に指先の動かし方なんて、私、どきり、とするぐらいの雰囲気がおありで」
ニーナは自身の手を緩く動かした。
「本当に、はっ、とさせられて……指先まで常に気を払っておいでなのか、とても気品が溢れていて」
「大げさです、そんな」
「いえ、大げさなんてことはございませんわ」
それなりに強く否定するニーナに、キルシェは内心首をかしげた。
そこまで意識したことはないから、なんと申し開き__する必要もないのだろうが__をしていいかわからない。
無位の者が偉そうに、と思われるかもしれないが、キルシェが見る限り、彼女の所作は彼女の事情を考慮しても十二分だったと思う。
キルシェは困ったように笑みを浮かべた。
「__お世辞でも、嬉しいです。きっとビルネンベルク先生のお陰ですね。夜会などは流石にございませんが、よく食事などお連れいただいているので。色々と見て、吸収させてもらったのですよ。__私を連れている先生に恥をかかせるわけにはまいりませんので、必死でしたのは間違いないですから」
冗談めかして言えば、ニーナは目を見開くものの、すぐにくすり、と笑ってくれた。
そこへ、こんこん、とノックがされる。
「__キルシェ、渡せるものは渡せたかな?」
声の主はビルネンベルクで、ニーナは身体を弾ませるほど驚いた。それに、大丈夫です、と安心させるよう声を掛けてから、扉へと歩み寄り開ける。
「はい」
「いやぁ、だいぶ時間が掛かっていたようだったが、もう大丈夫かい?」
「申し訳ございません。話が盛り上がってしまいまして」
「ビルネンベルク侯、ありがとうございました」
ニーナの丁寧なお辞儀に、ビルネンベルクは柔和に笑みを向ける。
「放置された若い男二人をいじるのも飽きたので、そろそろ君たちが相手に戻ってくれると助かるのだが、可能かい?」
ビルネンベルクの言葉に、キルシェはニーナへと振り返る。
彼女は、顔色の良くなった顔に笑顔を浮かべ、はい、と明るく応えた。
「ですから、昨夜は謂うなれば、今夜の練習だったのです」
「練習……?」
「ええ。もう3年も経ちますし……ナハトリンデン卿をはじめ、気遣ってくれる皆に申し訳なく思えてきて……そんなところに、ブリュール夫人にご招待いただいたこともあり、いい加減動かないと、と。外で、他所の方と卓を囲むということがまったくなかったので、父がナハトリンデン卿に同席をお願いして、あの場を設けてくれました」
「左様でしたか。だとしたら、なおさら、場を乱してしまいましたね……」
「いいえ、寧ろ私は緊張が解けました。大勢の視線がある場所ですから、母の形見の宝石をお守り代わりにしていても心細く、緊張はしてしまっていたので……」
__形見の宝石……。
キルシェは、無意識に耳飾りに触れようとする手に気づき、それを止めて膝の上で手を握る。
「それは、ようございました」
ごまかすように苦笑を浮かべると、ニーナが慌てて首を振った。
「あ、違いますよ? キルシェさんの災難のことではなく、キルシェさんとビルネンベルク侯をご覧になったナハトリンデン卿が、固まってしまった様子がもう面白くて」
「あぁ……それは私もちらり、と遠目に見ました」
「私、初めて拝見しました。あのような表情をされるナハトリンデン卿は」
__さぞ、ビルネンベルク先生は愉しんでいたことでしょうね。
少しばかりリュディガーに同情を覚えるキルシェだが、ふと疑問を覚える。
リュディガーはいつ、招待を受けていたのだろう。
ブリュール夫人は、キルシェにとって大学で数少ない友人である。その夫人に招待されたのであれば、話題に出いていても可笑しくはなかったはず。
__招待されていないと知って、気遣われた……?
「ナハトリンデン卿と、まさか今夜も遭遇するとは思いもしませんでした」
「そのようですね。ナハトリンデン卿も、驚かれておられましたもの。ブリュール夫人は、楽しそうでしたが」
くすくす、と笑い合う。
彼女の言う通り、リュディガーの今夜の驚き様は中々だった。
ブリュール夫人に代わって出迎えたのはビルネンベルクで、そこで完全に思考停止した彼は、あんぐり、と口を開けたまま固まった。
あんな顔を目撃することは、もうないだろう__それほど彼には珍しい顔。
彼が来るとはキルシェも伏せられていたが、ビルネンベルクが先んじて流れを作ってくれたから驚きこそすれ、固まるほどではなかった。なにより、彼の驚きようが面白くて笑わずにはいられなかったことも大きい。
昨夜に続き遭遇して、色々な思いが頭の中をぐるぐる巡っているのか、言葉も紡げずにいた彼。後輩がビルネンベルクへ挨拶する様を見て、やっと我に返った様もまた可笑しくて、少しだけ笑ってしまった。
その後、ブリュール夫人に掻い摘んで招待した経緯の説明を受け、晩餐会前の談笑をする最中も、ドレッセン男爵夫妻と話しこそすれ、ニーナと後輩とで固まり、ビルネンベルクとキルシェには近づかなかった。
__昨夜のことを、突かれると思ったのでしょうね。
キルシェが知るビルネンベルクならやりかねない。やらないはずがない。
最近思うのだが、リュディガーをいじることに、情熱のようなものが見えるのだ。
__そして、リュディガーが渋い顔をする。
それは、リュディガーの上官シュタウフェンベルクも辿ってきた道かもしれない。
そして、女性は男性にエスコートされてテーブルに着く。ブリュール夫人にはドレッセン男爵が、ドレッセン夫人にはビルネンベルクが、ニーナにはデッサウがついて__となると、キルシェにはリュディガーがつく流れだ。
だが、当の彼は談話室に置かれた飲み物に口をつけたまま、飲むことも置くこともせず、ただただ動かないでいた。動揺しきって、すっかり失念していたのだろう。
それがあまりに可哀想に思えたから、声を掛けることもなくキルシェは独りでテーブルに着いたのだった。
「ナハトリンデン卿は、ご後輩であるデッサウ卿の付添で今夜はいらっしゃったそうです。どうやら、ブリュール夫人と父に頼まれて、どなたかを紹介する算段になっていたそうで……」
「それは……お見合い、ということ……ですか?」
「__のようなものだと」
晩餐会、夜会__すべてにおいて、その裏には必ずお見合いを兼ねているのは言うまでもない。
「……なるほど」
この夜の主役が、ニーナとデッサウだということは、なんとなく分かってはいた。
これから表へ出ていこうとするぐらい気持ちが上向いてきたニーナには、箔がつく割に知り合いが多く砕けた晩餐会。デッサウにも、それは同様のことが言えた。
__ブリュール夫人はもちろん、ニーナ様とデッサウ卿のお役に立てたということね。
リュディガーのことを、ビルネンベルク共々、知らされていなかったのは、夫人のちょっとしたお茶目な悪戯心__そういうことなのだろう。
しとやかでにこやかな微笑みを浮かべるブリュール夫人が容易に想像でき、キルシェは、くすり、と笑ってしまった。
「あの……つかぬことをお伺いしても?」
「何でしょう?」
「キルシェさんは、本当に一度も夜会等出られたことはないのですか?」
今夜、彼女が来た際、ビルネンベルクがそう添えて紹介してくれた。__社交は一度も出ていないから、何かしら不手際があるかもしれないが、快く見守って上げてほしい、と。
事実、キルシェは社交には一度も出ていない。
社交入りを果たす者は、まずその地域の名士の元へ集い、社交入りの儀礼を済ます。これは日中行われ、名士に挨拶をし、その後砕けた雰囲気のなか、お茶を飲んで解散するという程度のものである。
これを境に、各夜会や晩餐会などに招待されるようになるのだ。
「ええ、ございません。今日のこの服も、ブリュール夫人からお借りしたものですし。家に帰れば誂えてありますが、一度も活躍しておりません」
キルシェは、絹の甕覗き色の裾を軽く撫でて示した。
「とても場数を踏まれているように見えました……」
「そうでしたか?」
「ええ。所作が本当にお美しくていらっしゃって……。物を見つめる所作だとか、物を持つとき__そう、特に指先の動かし方なんて、私、どきり、とするぐらいの雰囲気がおありで」
ニーナは自身の手を緩く動かした。
「本当に、はっ、とさせられて……指先まで常に気を払っておいでなのか、とても気品が溢れていて」
「大げさです、そんな」
「いえ、大げさなんてことはございませんわ」
それなりに強く否定するニーナに、キルシェは内心首をかしげた。
そこまで意識したことはないから、なんと申し開き__する必要もないのだろうが__をしていいかわからない。
無位の者が偉そうに、と思われるかもしれないが、キルシェが見る限り、彼女の所作は彼女の事情を考慮しても十二分だったと思う。
キルシェは困ったように笑みを浮かべた。
「__お世辞でも、嬉しいです。きっとビルネンベルク先生のお陰ですね。夜会などは流石にございませんが、よく食事などお連れいただいているので。色々と見て、吸収させてもらったのですよ。__私を連れている先生に恥をかかせるわけにはまいりませんので、必死でしたのは間違いないですから」
冗談めかして言えば、ニーナは目を見開くものの、すぐにくすり、と笑ってくれた。
そこへ、こんこん、とノックがされる。
「__キルシェ、渡せるものは渡せたかな?」
声の主はビルネンベルクで、ニーナは身体を弾ませるほど驚いた。それに、大丈夫です、と安心させるよう声を掛けてから、扉へと歩み寄り開ける。
「はい」
「いやぁ、だいぶ時間が掛かっていたようだったが、もう大丈夫かい?」
「申し訳ございません。話が盛り上がってしまいまして」
「ビルネンベルク侯、ありがとうございました」
ニーナの丁寧なお辞儀に、ビルネンベルクは柔和に笑みを向ける。
「放置された若い男二人をいじるのも飽きたので、そろそろ君たちが相手に戻ってくれると助かるのだが、可能かい?」
ビルネンベルクの言葉に、キルシェはニーナへと振り返る。
彼女は、顔色の良くなった顔に笑顔を浮かべ、はい、と明るく応えた。
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