【完結】訳あり追放令嬢と暇騎士の不本意な結婚

丸山 あい

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帝都の大学

彼の懐

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 あそこにいた動機が、今にして思えば稚拙だ。

 __好奇心……。

 浅はかだった、と言われてしまえば返す言葉もない。

 自分には、どんな犯罪も降りかからないとでも勘違いしていたのだろう。

「声の主が何かに巻き込まれているんじゃないか、と探してまわった。__場に不釣り合いな日傘が折れて落ちていたり、揉み合った形跡はみつけられたが……その割に、騒ぎが聞こえない。助けて、とでも声があるものだが、とにかく、見過ごせないから探していた」

 日傘はおそらく自分が投げつけた物だ。あの裏路地では浮いてしまう物に違いない。

 __手掛かりにはなったけれど……ということね。

「__そうしていたら、ものすごい音が響いて、これはいよいよ不味い、と。音の方へ走って……足の早いアッシスが一度通り過ぎ掛けた建物に身体を返して向けて、扉を蹴破って__おそらく、窓から中の状況が見えたんだろう」

 そこから先は、よく知っている。

 __私が声さえあげていれば、もっと早くたどり着けていたかもしれない……。

 声を荒げること。動転すること。これらは全て、卑しい、とそう躾けられ、今では身に染みてしまっている。

 故に、咄嗟に助けと叫べなかった。

 走りすぎて喉が乾いていたのもあるし、声を上げるほど余力が無かったのは事実だ。だが、危機に瀕しても__組み敷かれても、それが覆らなかった。それほどの刷り込み。

 それがこんな事態を招くとは思いもしなかった。

 俯いて手首の痣に触れる__と、無骨な手が頬にそっと伸ばされる。

「……こんな……あんな輩に……怖かったよな、キルシェ」

 顔を上げれば、蒼の奥底に紫をたたえた深みのある色の相貌が、傷の痛みをわかったように苦しげに歪められている。

 ぐっ、と喉の奥にせり上がってくる不快感。

 堪えた途端に視界が滲んだ。瞬くと、頬を涙が伝ってぱたぱた、と落ちていく。

 そこからは、どうしようもなく涙が溢れてきて、キルシェはリュディガーから逃れるように顔をうつむかせて手で覆う。
 
 __怖、かった……っ!

 涙が止まらない__キルシェは焦った。

 人前で、こんな感情を露わにしてはいけない。

 堪えようとすればするほど、震えまで出始めた。
 
 __落ち着いて。もう終わったことでしょう。

 自分に言い聞かせてみるが、湧き上がるような不快感__記憶。

 怒涛のごとく溢れ出てくるそれに、キルシェはなすすべなく翻弄された。

 口を抑えられて部屋に連れ込まれたときの、恐怖。

 大柄な男に組み敷かれたときの、絶望。

 暴れて男の不興を買い、叩きのめされたときの、痛みと衝撃。

 汗ばんだ男の手。

 伸し掛かる男の重み。

 迫る顔。

 ぎらついた目。

 下衆な笑み。

 えた__臭い。

 うっ、と嗚咽を漏らすと、温かいものが包み込んで来て、キルシェは、はっ、と我に返り息を詰めて手から顔を上げる。

 包むそれはとても温かく、ひどく優しい慣れた香り。

 真新しい白いシャツの胸元__リュディガーが、太く逞しい腕で抱え寄せていたのだった。

「感情を押し殺すな、こんなときにまで」

「リュ、ディガー……」

 背中に回された手が、より引き寄せるように力が入る。

「君は、使用人がいるような環境で過ごしていて、人の目があって……そういう躾けの賜物もあって、どろどろしたものを吐き出すことが苦手なのだろう……。咄嗟に堪えてしまうのは理解している。それが美徳であって、君の良いところでもあるとも承知だ。__だが、私は……対等のはずだ」

 __いずれ、心が死ぬぞ。

 講書での不快な出来事で、自分を押し殺して耐えようとしたとき、彼がそう言った。

「今は……今だけでも、私には、しないでくれ」

 その懇願に、ひゅっ、とキルシェは息を詰めた。

 彼ぐらいだ。こうして諭してくれて、それをすべて受け止めようとしてくれるのは。しかもどんな事でも際限なく、であろう。

 ビルネンベルクにも勝るとも劣らないその気概、器。

 曝すことに抵抗があるキルシェだが、彼の言葉に背中を押されたような心地で、気がつけば、口から言葉が漏れる。

「__私……殴られて……疲れて……諦めてしまって……」

 吐露すると、嗚咽が止まらなくなった。

「__諦めて、ごめんなさい……」

 屈するつもりはなかったが、頭が働かない上、体に力が入らなかったのだ。

「あんな状況では仕方ないことだ。力の差は歴然で……」

 やんわりとだが、しっかりと彼の腕に力が込められて引き寄せられた。

「……すまなかった、本当に」

 何故、彼がまた謝るの。

「見つけ出すのが遅くて……」

 __それでも、助け出してくれた……。

 キルシェは首を振る。

 __謝らせて、ごめんなさい。

「独りで、よく耐えた……」

 頭に添えられていた手が優しく撫で付けてくれる。

 それはひどい慈愛に溢れたもので、キルシェは更に溢れてくる感情の波に押されて、彼の胸元を思わず握って額を押し付けた。

 ああ、そうだ、とキルシェは思い出す。

 __あの時、一瞬でもリュディガーに助けを求めたのだったわ……。

 いるはずのない彼のことを想った。

 髪の毛を撫でる無骨な大きな手。

 背を撫でる筋張った、武人の手。

 どちらも組み敷いた男の手と同じ触れている行為なのに、まったくもって不快ではない。寧ろ、安堵しかもたらさない。

 厚い胸板。筋骨隆々とした大柄な体躯。

 自分とは真逆と言える、絵に描いたような男。

 組み敷いた男と同じ男なのに、何故__。

 __何故、もっと強く抱きしめてほしい、と思ってしまうの……。

 部屋には、自分の嗚咽しか聞こえなくなった。



 どれほどそうして、吐き出したか__。

「__落ち着いたか」

 落ち着いてきたところで、見透かしたようにそう声を掛けられ、キルシェは途端に恥ずかしくなって顔が赤くなるのがわかった。

 きっとひどい顔__怪我に加えて__になっているに違いない。耳まで熱くなった。

 顔を上げる勇気がなかったが、意を決して身体を離す。

 さらに頬が火照るのがわかった。

「すまない。手持ちのハンカチも手拭いもなくて……」

 彼のハンカチは、自分が血塗れにしてしまっている。自分も衣服を改めたから、持ち合わせていなかった。

 首を振り、手と指で顔を__目元を整えるキルシェ。

「立てるか?」

 こくり、と頷くと、リュディガーが再び手をとって、背中に手を回して立ち上がる補助をする素振りを見せた。

 キルシェは、リュディガーに目配せして、彼に頼るようにして立ち上がる。相変わらず、力が入りにくい。

 それを察した彼はソファーへと戻そうと身体の向きを変えようとするので、キルシェは首を振って窓を示す。

「虹を……」

「あぁ……そうか」

 要望に快く応じてくれた彼に支えられながら、ゆっくり、と歩み寄った窓辺。

 そこは露台に通じている硝子戸とは違い、腰よりも低い位置から天井まである窓だ。

 その窓辺に手を置いて身体を引き上げるようにして外を覗こうとするのだが、体勢の維持がなかなかに難しい。

 察したリュディガーが断りを入れ、背中に回していた手を腰に回すようにして引き寄せ、彼に寄りかかるような体勢になると、殆どを彼が支えてくれるから、かなり楽に立っていられた。

 窓の外。

 すっかり雨が止んだ空は、西の方から強い陽光が差し込んでいて、東の山の端を切り取った窓には、見事な虹が掛かっている。どうやら東の山の端の向こうは、まだ雨が降っているらしい。

 塵も埃も洗い流した雨上がりの空は、眩しいぐらいに冴えて輝いている。

 そこを貫く虹。

 思わず感嘆の声を漏らすと、大げさだ、とリュディガーがすぐそばで笑った。

「__リュディガー、ありがとうございました……助けてくださって」

 まだお礼を言えていないことをふと思い出し、キルシェは言う。

 彼を見れば、目を見開いている。

「お礼が遅くなって、ごめんなさい」

「いや……」

 キルシェは再び窓の外を見た。

 虹を横切る4羽の大きな鳥__否、あれは騎龍だろう。

 窓辺に置かれている無骨な大きな手に、キルシェは自分のそれを重ねた。

 弾かれるようにして、リュディガーがこちらを振り返ったのを視界の端に見て、キルシェは振り仰ぐ。

「こうして、虹を見て、綺麗だな、と思える余裕が今あるのは……リュディガーが助けてくれたからです」

 紫を孕んだ蒼い目を見開き、口を一文字に引き結ぶ彼に思わず笑ってしまう。

 すると彼も、表情を柔らかなものに変えた。

 じっ、と見詰めてくる彼の目。その深い色味の目に、何故かどきり、としてしまう。

 彼の目はとても力強い。だが今は、別段苛烈すぎるという訳ではない。むしろ、穏やかな方だ。

 なのに不思議なもので、じっ、と見詰められると息が詰まるほど胸が苦しくなってくるのだ。

 キルシェが堪らず視線を切って、窓の外へと視線を向ける。

 そこで思い出したが、自分は今、彼に身を寄せるようにして、頼って立っている状態だ。

 __彼の懐にある……。

 そこに意識がいってしまって、咄嗟に重ねていた手を引き、窓辺に置いて自立してみようと試みるが、中々にままならない。

 しかもその手を追うように、自由になった彼の手が重ねてくるではないか。

 キルシェは虹を眺めている余裕が、なくなった。
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