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帝都の大学
口説き
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「ぐうの音も出ないな、ナハトリンデン」
「……は……」
歯切れ悪く答えるリュディガーに、くつり、とイャーヴィスは笑った。
「ラエティティエルも、君には容赦がないと聞く。彼女も置いていくから、まぁ……せいぜい彼女にも絞られると良い」
イャーヴィスの言葉に、リュディガーは一つ咳払いをして居住まいを正す。
それを尻目に、ビルネンベルクがキルシェへと顔を向けた。
「キルシェ、明日の夕方以降と言ったが、何日でも気力が戻るまではここに逗留していいということだからね。大学のことも、ここのことも気兼ねなく過ごしなさい」
そこまで言って、ちらり、とイャーヴィスを見るビルネンベルク。
「君は、耳長族の侍女をつれた御大層なお家柄なのだからね」
「私の縁故なのだ。不自然ではあるまい」
耳長族が人間族に仕えるということはなくはないものの、少ない。
この世には10の種族があって、その中でも一番繁栄しているものの人間族は種族としては下とされている。他の種族に比べ、特異な能力に乏しいからだ。
そんな下とされる種族に耳長族が仕えているということは、それだけで家風や主の為人が別格だとみなされる。
「__では、我々は、戻らせてもらうよ。中座が長過ぎるとフォンゼルに嫌味しか言われなくなるのでね」
「お忙しいのに、わざわざありがとうございました。__ここまでお心遣いをしていただいて、感謝の言葉もありません」
なんの、とイャーヴィスは笑い、扉へと向かおうと踏み出すのだが、ふと、足を止めて振り返った。
「__ああ、そうだ。ラウペン女史。いい機会だから、直接口説かせてほしいのだが……」
「く、くど……?」
どきり、としてしまって言葉を逸したキルシェに、イャーヴィスは身体を向けて後ろ手で組んで笑う。
「ああ。__卒業後のことを未だ決めていないそうだが、私の祐筆にならないかね?」
「え……祐筆ですか」
「ヌルグルらは祐筆であるが、派生して護衛としての任もある。机上の仕事を専門に補佐してくれる祐筆が、もうひとりほしいところなのだ。__そういう話をしたら、君をビルネンベルク殿に薦められた」
ビルネンベルクを見れば、うむ、と頷いていた。
__今後も懲りずにしつこく口説かせてもらうよ。
頷く彼は、冗談めかしてそう言った時の笑みそのものでいる。
「引く手数多だから、悩んでいるとも聞いた。それほど優秀なら、是非直接口説かせてもらおうかと思った次第だ」
「左様、でしたか」
「是非、考えておいてほしい」
キルシェは困ったように笑い、感謝の意を込めて頭を下げる。
イャーヴィスはラエティティエルとイーリスへ会釈して踵を返し、ビルネンベルクはキルシェへと人の悪い笑みを浮かべて、イャーヴィスに続く。
頃合いを見て扉を開けるリュディガーに、労いの意味を込めてイャーヴィスは頷き、廊下へと出ていった。
「私は、見送りに」
「はい。こちらは、処置の続きを致しますので、戻りましたら廊下でお待ちを」
ラエティティエルの言葉にリュディガーは頷いて、来訪者を見送るために彼らに続いた。
イャーヴィスとビルネンベルクが去り、処置の続き__脚の傷を検めてもらって施してもらう。
全身の倦怠感はあるものの鈍い痛みはすっかりなくて、今夜は此処に留まる必要はないのでは、と思えるほど、ほぼほぼ普段と相違ない体調になった。
本当に何もなかったかのようなそれ。本人でさえ錯覚しそうになる。
終わったところで、戻ってきていたリュディガーを招き入れ、イーリスが静かに言葉を紡ぐ。
「__これだけの暴行をされたのに、これほど自分を律して、落ち着いていられるというのは……私はこれまでお目にかかったことがありません」
「……左様、ですか……?」
「はい。かえってそれが、気がかりでありますが」
微笑んでいるが、どこか不安げな表情でいる彼女にキルシェは笑む。
「きっと、未遂だったからだと」
それだけではなく、今回、運よくリュディガーもいて、ラエティティエルも仕事とは言え居てくれる。イーリスという傷を癒やしに来てくれた神官もいるのだ。
そして、今回の事件は体裁のよい着地点になった__これが一番、落ち着いていられる要因なのかもしれない、とキルシェは独りごちて思う。
「……ご無理をなさいませんよう」
はい、と応じると、イーリスは鞄を開けて、小瓶を取り出す。
「完治は致しておりませんので、痛みが思い出したように出てくるかもしれません。つらいようでしたら、これをグラス一杯の水に3滴薄めて飲んでください」
握らされる小瓶は、ラエティティエルが取り出した小瓶とは異なり、四角錐の質素な作りで、とろり、とした水色の液体が入ったものだった。
「私は、これで失礼いたします。何かあれば、ナハトリンデン卿を遣わせてくだされば対応いたしますので」
「承知いたしました」
応えたのは、扉近くで待機するリュディガー。
では、と踵を返そうとするイーリスだったが、ラエティティエルが呼び止めた。
「お待ちを。私も用事で出ますので」
「ん? 君は、残るのではないのか?」
「用事があるのです」
リュディガーに応えてから、ラエティティエルはキルシェの側近くに歩み寄った。
「私は、明日の着替えを手配してまいります。夕食には間に合わないかもしれませんが、従者がよく働いてくれると思いますので」
着替え__そうか、自分には彼女が貸してくれたこの服しかない。
キルシェは纏められた自分の私物へと歩み寄ると、その中から目的の物を取り出した。
「あの、ラエティティエルさん」
そして小声で呼ぶと、彼女が歩み寄る。
その彼女にキルシェは、硬貨を握らせた。
「キルシェ様__」
「それで、お願いします」
弱くなって来たとは申せ、足元悪い雨の中行ってもらうのだ。
彼女がどこから支出しようとしていたのか知らないが、予め持って言ってもらえればキルシェとしては心苦しさは少なく済む。
「……承知しました。おまかせを」
ふわり、と笑うラエティティエル。
「夕食は、部屋に運ばせます。どうかごゆっくりとお休みくださいませね。それから、明日お戻りになられるかは別にして、明日の朝、薬湯をご用意したします。大学では共同の浴場でしょうから薬湯に浸かっていただくのは難しいので、お戻りになられる日に、お茶と塗るお薬をお渡し致します。塗るお薬はお休みの前に。塗るべき場所は__ここと、こちら。それから、ここも」
脚、腕、それから頬を彼女は優しく触れて示す。
「イーリス様のお力添えもありましたし、痕は決して残りませんからね。背中は治癒魔法のお陰で、塗るほどのものではございませんでしたのでご安心を」
「本当に、ありがとうございます、これほどしていただいて……」
「いいのです。とにかく心の静養を」
ラエティティエルは一礼をとってから離れ、イーリスの手から鞄を取った。
「リュディガー、あの……見送りを」
「いえ、大丈夫で__」
「承知した」
ラエティティエルの言葉を遮ったのはリュディガーで、彼は開けた扉をくぐるように促した。
そんな彼に目元を細めるラエティティエルが、キルシェへと顔を向けるので、キルシェはさせてほしい、という念を込めて頷く。
すると心得てくれたらしい彼女は、改めてイーリスと並んで一礼をする。その彼女らに対して、キルシェは心の底からの感謝を込めて頭を下げた。
ぱたり、と閉まる扉の音にキルシェは頭を上げる。
独り残されたキルシェは、ふぅ、ため息を零して、手近に置かれている私物の山__その中の衣服を手にとった。
「……あら?」
「……は……」
歯切れ悪く答えるリュディガーに、くつり、とイャーヴィスは笑った。
「ラエティティエルも、君には容赦がないと聞く。彼女も置いていくから、まぁ……せいぜい彼女にも絞られると良い」
イャーヴィスの言葉に、リュディガーは一つ咳払いをして居住まいを正す。
それを尻目に、ビルネンベルクがキルシェへと顔を向けた。
「キルシェ、明日の夕方以降と言ったが、何日でも気力が戻るまではここに逗留していいということだからね。大学のことも、ここのことも気兼ねなく過ごしなさい」
そこまで言って、ちらり、とイャーヴィスを見るビルネンベルク。
「君は、耳長族の侍女をつれた御大層なお家柄なのだからね」
「私の縁故なのだ。不自然ではあるまい」
耳長族が人間族に仕えるということはなくはないものの、少ない。
この世には10の種族があって、その中でも一番繁栄しているものの人間族は種族としては下とされている。他の種族に比べ、特異な能力に乏しいからだ。
そんな下とされる種族に耳長族が仕えているということは、それだけで家風や主の為人が別格だとみなされる。
「__では、我々は、戻らせてもらうよ。中座が長過ぎるとフォンゼルに嫌味しか言われなくなるのでね」
「お忙しいのに、わざわざありがとうございました。__ここまでお心遣いをしていただいて、感謝の言葉もありません」
なんの、とイャーヴィスは笑い、扉へと向かおうと踏み出すのだが、ふと、足を止めて振り返った。
「__ああ、そうだ。ラウペン女史。いい機会だから、直接口説かせてほしいのだが……」
「く、くど……?」
どきり、としてしまって言葉を逸したキルシェに、イャーヴィスは身体を向けて後ろ手で組んで笑う。
「ああ。__卒業後のことを未だ決めていないそうだが、私の祐筆にならないかね?」
「え……祐筆ですか」
「ヌルグルらは祐筆であるが、派生して護衛としての任もある。机上の仕事を専門に補佐してくれる祐筆が、もうひとりほしいところなのだ。__そういう話をしたら、君をビルネンベルク殿に薦められた」
ビルネンベルクを見れば、うむ、と頷いていた。
__今後も懲りずにしつこく口説かせてもらうよ。
頷く彼は、冗談めかしてそう言った時の笑みそのものでいる。
「引く手数多だから、悩んでいるとも聞いた。それほど優秀なら、是非直接口説かせてもらおうかと思った次第だ」
「左様、でしたか」
「是非、考えておいてほしい」
キルシェは困ったように笑い、感謝の意を込めて頭を下げる。
イャーヴィスはラエティティエルとイーリスへ会釈して踵を返し、ビルネンベルクはキルシェへと人の悪い笑みを浮かべて、イャーヴィスに続く。
頃合いを見て扉を開けるリュディガーに、労いの意味を込めてイャーヴィスは頷き、廊下へと出ていった。
「私は、見送りに」
「はい。こちらは、処置の続きを致しますので、戻りましたら廊下でお待ちを」
ラエティティエルの言葉にリュディガーは頷いて、来訪者を見送るために彼らに続いた。
イャーヴィスとビルネンベルクが去り、処置の続き__脚の傷を検めてもらって施してもらう。
全身の倦怠感はあるものの鈍い痛みはすっかりなくて、今夜は此処に留まる必要はないのでは、と思えるほど、ほぼほぼ普段と相違ない体調になった。
本当に何もなかったかのようなそれ。本人でさえ錯覚しそうになる。
終わったところで、戻ってきていたリュディガーを招き入れ、イーリスが静かに言葉を紡ぐ。
「__これだけの暴行をされたのに、これほど自分を律して、落ち着いていられるというのは……私はこれまでお目にかかったことがありません」
「……左様、ですか……?」
「はい。かえってそれが、気がかりでありますが」
微笑んでいるが、どこか不安げな表情でいる彼女にキルシェは笑む。
「きっと、未遂だったからだと」
それだけではなく、今回、運よくリュディガーもいて、ラエティティエルも仕事とは言え居てくれる。イーリスという傷を癒やしに来てくれた神官もいるのだ。
そして、今回の事件は体裁のよい着地点になった__これが一番、落ち着いていられる要因なのかもしれない、とキルシェは独りごちて思う。
「……ご無理をなさいませんよう」
はい、と応じると、イーリスは鞄を開けて、小瓶を取り出す。
「完治は致しておりませんので、痛みが思い出したように出てくるかもしれません。つらいようでしたら、これをグラス一杯の水に3滴薄めて飲んでください」
握らされる小瓶は、ラエティティエルが取り出した小瓶とは異なり、四角錐の質素な作りで、とろり、とした水色の液体が入ったものだった。
「私は、これで失礼いたします。何かあれば、ナハトリンデン卿を遣わせてくだされば対応いたしますので」
「承知いたしました」
応えたのは、扉近くで待機するリュディガー。
では、と踵を返そうとするイーリスだったが、ラエティティエルが呼び止めた。
「お待ちを。私も用事で出ますので」
「ん? 君は、残るのではないのか?」
「用事があるのです」
リュディガーに応えてから、ラエティティエルはキルシェの側近くに歩み寄った。
「私は、明日の着替えを手配してまいります。夕食には間に合わないかもしれませんが、従者がよく働いてくれると思いますので」
着替え__そうか、自分には彼女が貸してくれたこの服しかない。
キルシェは纏められた自分の私物へと歩み寄ると、その中から目的の物を取り出した。
「あの、ラエティティエルさん」
そして小声で呼ぶと、彼女が歩み寄る。
その彼女にキルシェは、硬貨を握らせた。
「キルシェ様__」
「それで、お願いします」
弱くなって来たとは申せ、足元悪い雨の中行ってもらうのだ。
彼女がどこから支出しようとしていたのか知らないが、予め持って言ってもらえればキルシェとしては心苦しさは少なく済む。
「……承知しました。おまかせを」
ふわり、と笑うラエティティエル。
「夕食は、部屋に運ばせます。どうかごゆっくりとお休みくださいませね。それから、明日お戻りになられるかは別にして、明日の朝、薬湯をご用意したします。大学では共同の浴場でしょうから薬湯に浸かっていただくのは難しいので、お戻りになられる日に、お茶と塗るお薬をお渡し致します。塗るお薬はお休みの前に。塗るべき場所は__ここと、こちら。それから、ここも」
脚、腕、それから頬を彼女は優しく触れて示す。
「イーリス様のお力添えもありましたし、痕は決して残りませんからね。背中は治癒魔法のお陰で、塗るほどのものではございませんでしたのでご安心を」
「本当に、ありがとうございます、これほどしていただいて……」
「いいのです。とにかく心の静養を」
ラエティティエルは一礼をとってから離れ、イーリスの手から鞄を取った。
「リュディガー、あの……見送りを」
「いえ、大丈夫で__」
「承知した」
ラエティティエルの言葉を遮ったのはリュディガーで、彼は開けた扉をくぐるように促した。
そんな彼に目元を細めるラエティティエルが、キルシェへと顔を向けるので、キルシェはさせてほしい、という念を込めて頷く。
すると心得てくれたらしい彼女は、改めてイーリスと並んで一礼をする。その彼女らに対して、キルシェは心の底からの感謝を込めて頭を下げた。
ぱたり、と閉まる扉の音にキルシェは頭を上げる。
独り残されたキルシェは、ふぅ、ため息を零して、手近に置かれている私物の山__その中の衣服を手にとった。
「……あら?」
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