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帝都の大学
穢された者
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一瞬、その先を言うべきか迷ったリュディガー。
彼が迷う最中、部屋の魔石の照明が、ぼんやり、と灯った。
この宿は__この部屋は浴室もご不浄も備えている格上の部屋だから、天井と扉脇の壁面照明は魔石を使っているらしい。
窓の外は確かに夜の帳が落ち、街頭がぽつり、ぽつり、と灯り始めている時分で、リュディガーは難しい顔で手近な蝋燭に火を灯した。
そして、その揺れる蝋燭の炎へ視線を移して、彼は目を細めゆっくりと口を開く。
「……元帥閣下は実の御令姉を、強姦事件で失っているらしい」
硬い口調で紡がれた言葉に、キルシェは言葉を失い、目を見開く。
「__聞いた話だ。30年近く昔の事件」
「姉君は……」
「……自死なさった、と聞いている。事件を苦に」
ぎゅっ、と心臓を鷲掴まれた心地に、キルシェは身体が強張った。
「閣下とは地位としては雲泥の差があるし、直接会話など交わしたことはない身分だから、仲間内でそういうことがあったらしい、という話を伝え聞いただけだが……。事実は事実らしい」
「そう……」
「だからこそ未遂とは申せ、気がかりなのだろう。特に今回は、賊を直接捉える状況だったのだから」
そうなの、とキルシェは手元の針を見つめる。
__私だったら……どうしたのだろう……。
穢された自分。
そんな自分は、ビルネンベルクの気に入りとしてはいられない。
清廉潔白で誇り高いリュディガーの友人でいるのも、苦しくなるに違いない。
__私は穢い……。
彼らが労ってくれたとしても、穢らわしい存在に堕ちたという認識は拭いきれないだろう。暗示のように、自分の意識の奥深く根底に刻まれてしまっているに違いない。
会う人会う人に、何を思われているか疑心暗鬼になってしまったことだろう。外にも出られず、生きているのも苦しい日々。
いっそ死んでしまおう、と思うかもしれない。
「では……祐筆の話……直接持ち出してくださったのも、それ故ですね」
「いや、それは違うと思う」
きっぱり、と言い切ったリュディガーにキルシェは首をかしげる。
蝋燭を手にキルシェが座る席のテーブルへ大股で歩み寄り、手元が明るくなるように、と配する。
「それとこれは別だ。閣下の祐筆は、とてもじゃないがそこらの輩では務まらないと思う。同情でそんな無責任な勧誘はなさらない方だ」
「そう、でしょうか……」
「ああ。君が優秀で、だからビルネンベルク先生が推薦したのだろう? いい話じゃないか、キルシェ」
リュディガーは嬉しそうに笑う。
「祐筆は閣下のお伴もする。謂うなれば、秘書と相談役、そして従者という立場だ。いくら、護衛としての任を与えないとは申せ、会議や会食、夜会など閣下のお伴も仕事の一部になる。歩く知恵袋とでも言えばいいのか……。立ち居振る舞いも十分な君なら適任だ。どこに出たって臆することはしないだろう?」
「どこに出たって、って……私そんなに豪胆ではないのですが……」
「ビルネンベルク先生のお陰で、色々と場数は踏んでいるはず」
「それは、ええ」
「閣下の祐筆なら、私の卒業後、同じ職場といえば職場だ。ラエティティエルだっているし……まるで知らない顔ばかりではないから、心安いのではないか?」
「それは……まあ、そうね……って、リュディガー、すごく勧めるわね」
苦笑して言えば、リュディガーは、はっ、と我にかえって居辛そうに後頭をかき、キルシェの席と同じテーブルを囲うもう一脚の椅子へ視線を流す。
「それは……ほら、優秀な人材が身内にいる、というのは心強いことだし……君の能力の高さは、私は間近でよく見聞きして知っているわけだし……君が評価されて、直接閣下に勧誘された現場に居合わせたし……悪い話ではないから……」
そして、その背もたれに触れて縁をなぞりながら、彼らしくない歯切れ悪く言葉を並べる様に、キルシェはくすり、と笑ってしまう。
__未遂でなかったら……選択していたかもしれないわね。
故郷の父に知られれば、生娘ではない穢れた娘として早々にどこか__よくて後妻だろうか。
あとから強姦事件にあったということが知られでもすれば、父の信用に関わるわけだから、隠して嫁がせることもしないだろう。
__でも、未遂でなかったら……私は彼や彼らの中にいるのは辛いかもしれない。
彼らは帝国の矜持そのもの。
彼らは、ときに眩しすぎる。
元帥閣下の従者ということであれば、国家の中枢にも関わることは必至。
__龍帝陛下……。
直接謁見賜ることがあるかは知らないが、ないとは言い切れない雲上人。
少なくとも、龍帝の御座所である高天原に登ることはあるだろう。
__この、キルシェ・ラウペンが……。
こんな私が__。
陛下は人ならざる者だと言われている。ならば、どこまでお見通しなのだろう。
__お見通しだとしたら、きっと、私なんか御前にはお召にはならないわね……。私はそんな名誉が与えられるような存在ではない。
キルシェが手元の繕い途中の羽織に視線を落としていると、リュディガーが咳払いした。
「__まだ考える猶予はあるわけだから、吟味して決めればいい。それはそれとして、キルシェ。君がもし私が必要なほどの用事がないようであれば、夕食まで休めるよう、私は隣の部屋で控えているつもりだが」
言って立てた親指で壁の向こう__隣の部屋を示す。
__ひとり……。
キルシェはそれとなく部屋を見渡した。
慣れない部屋に独りというのは、改めて考えると少しばかり心細い。
普段であればそこまで気にもしないのだろうが、今日は人生で遭遇するかしないかという事件に遭遇した直後なのだ。
表情が強張ったのを見て、リュディガーは穏やかに笑む。
「ずっと気を張っていただろう。せめて夕食までは休むべきだと私は思う」
言ってリュディガーはトレイを小脇に抱えて、寝台横へ歩み寄った。そこには赤い房と青い房がついた黒い紐2つ。
「何かあれば、赤の房の紐を引いてくれ。そうすれば、隣の部屋の私が駆けつける。__もう一方は、この宿の受付の呼び出しの鈴が鳴るから、間違えないように」
書いてはあるが、とそれぞれの紐の壁に貼り付けられた真鍮の板の文字を示してみせる。
__そうよね。リュディガーだって、ずっと心を砕いて動いてくれていたのだもの……。彼こそ休むべきだわ。
「わかりました。これを終えたら、少し横になります」
キルシェは手元の繕い途中のそれを示す。すると、彼は眉を顰めた。
「そんなに気にしないでくれていいが」
「繕われるのは、迷惑ですか?」
「そういうわけではない。してくれるのはありがたいが……君は自分のことを第一に考えてほしいんだがな」
「私が、したいの。感謝しているから」
やれやれ、とリュディガーは肩を竦めた。
「__まかせるが、まだ本調子じゃないことを忘れないでくれよ」
「ええ」
「では、あとで」
はい、とキルシェの頷きに、リュディガーは困ったような顔で頷いて、扉の方へと足を向ける。
「リュディガー」
扉のノブに手をかけたところで彼を呼び止めると、ノブに手をかけたままリュディガーは振り返る。
「__ありがとう」
僅かに目を見開くリュディガー。
「いや」
穏やかな笑顔で軽く首を振って、彼は扉の向こうへと立ち去った。
彼が迷う最中、部屋の魔石の照明が、ぼんやり、と灯った。
この宿は__この部屋は浴室もご不浄も備えている格上の部屋だから、天井と扉脇の壁面照明は魔石を使っているらしい。
窓の外は確かに夜の帳が落ち、街頭がぽつり、ぽつり、と灯り始めている時分で、リュディガーは難しい顔で手近な蝋燭に火を灯した。
そして、その揺れる蝋燭の炎へ視線を移して、彼は目を細めゆっくりと口を開く。
「……元帥閣下は実の御令姉を、強姦事件で失っているらしい」
硬い口調で紡がれた言葉に、キルシェは言葉を失い、目を見開く。
「__聞いた話だ。30年近く昔の事件」
「姉君は……」
「……自死なさった、と聞いている。事件を苦に」
ぎゅっ、と心臓を鷲掴まれた心地に、キルシェは身体が強張った。
「閣下とは地位としては雲泥の差があるし、直接会話など交わしたことはない身分だから、仲間内でそういうことがあったらしい、という話を伝え聞いただけだが……。事実は事実らしい」
「そう……」
「だからこそ未遂とは申せ、気がかりなのだろう。特に今回は、賊を直接捉える状況だったのだから」
そうなの、とキルシェは手元の針を見つめる。
__私だったら……どうしたのだろう……。
穢された自分。
そんな自分は、ビルネンベルクの気に入りとしてはいられない。
清廉潔白で誇り高いリュディガーの友人でいるのも、苦しくなるに違いない。
__私は穢い……。
彼らが労ってくれたとしても、穢らわしい存在に堕ちたという認識は拭いきれないだろう。暗示のように、自分の意識の奥深く根底に刻まれてしまっているに違いない。
会う人会う人に、何を思われているか疑心暗鬼になってしまったことだろう。外にも出られず、生きているのも苦しい日々。
いっそ死んでしまおう、と思うかもしれない。
「では……祐筆の話……直接持ち出してくださったのも、それ故ですね」
「いや、それは違うと思う」
きっぱり、と言い切ったリュディガーにキルシェは首をかしげる。
蝋燭を手にキルシェが座る席のテーブルへ大股で歩み寄り、手元が明るくなるように、と配する。
「それとこれは別だ。閣下の祐筆は、とてもじゃないがそこらの輩では務まらないと思う。同情でそんな無責任な勧誘はなさらない方だ」
「そう、でしょうか……」
「ああ。君が優秀で、だからビルネンベルク先生が推薦したのだろう? いい話じゃないか、キルシェ」
リュディガーは嬉しそうに笑う。
「祐筆は閣下のお伴もする。謂うなれば、秘書と相談役、そして従者という立場だ。いくら、護衛としての任を与えないとは申せ、会議や会食、夜会など閣下のお伴も仕事の一部になる。歩く知恵袋とでも言えばいいのか……。立ち居振る舞いも十分な君なら適任だ。どこに出たって臆することはしないだろう?」
「どこに出たって、って……私そんなに豪胆ではないのですが……」
「ビルネンベルク先生のお陰で、色々と場数は踏んでいるはず」
「それは、ええ」
「閣下の祐筆なら、私の卒業後、同じ職場といえば職場だ。ラエティティエルだっているし……まるで知らない顔ばかりではないから、心安いのではないか?」
「それは……まあ、そうね……って、リュディガー、すごく勧めるわね」
苦笑して言えば、リュディガーは、はっ、と我にかえって居辛そうに後頭をかき、キルシェの席と同じテーブルを囲うもう一脚の椅子へ視線を流す。
「それは……ほら、優秀な人材が身内にいる、というのは心強いことだし……君の能力の高さは、私は間近でよく見聞きして知っているわけだし……君が評価されて、直接閣下に勧誘された現場に居合わせたし……悪い話ではないから……」
そして、その背もたれに触れて縁をなぞりながら、彼らしくない歯切れ悪く言葉を並べる様に、キルシェはくすり、と笑ってしまう。
__未遂でなかったら……選択していたかもしれないわね。
故郷の父に知られれば、生娘ではない穢れた娘として早々にどこか__よくて後妻だろうか。
あとから強姦事件にあったということが知られでもすれば、父の信用に関わるわけだから、隠して嫁がせることもしないだろう。
__でも、未遂でなかったら……私は彼や彼らの中にいるのは辛いかもしれない。
彼らは帝国の矜持そのもの。
彼らは、ときに眩しすぎる。
元帥閣下の従者ということであれば、国家の中枢にも関わることは必至。
__龍帝陛下……。
直接謁見賜ることがあるかは知らないが、ないとは言い切れない雲上人。
少なくとも、龍帝の御座所である高天原に登ることはあるだろう。
__この、キルシェ・ラウペンが……。
こんな私が__。
陛下は人ならざる者だと言われている。ならば、どこまでお見通しなのだろう。
__お見通しだとしたら、きっと、私なんか御前にはお召にはならないわね……。私はそんな名誉が与えられるような存在ではない。
キルシェが手元の繕い途中の羽織に視線を落としていると、リュディガーが咳払いした。
「__まだ考える猶予はあるわけだから、吟味して決めればいい。それはそれとして、キルシェ。君がもし私が必要なほどの用事がないようであれば、夕食まで休めるよう、私は隣の部屋で控えているつもりだが」
言って立てた親指で壁の向こう__隣の部屋を示す。
__ひとり……。
キルシェはそれとなく部屋を見渡した。
慣れない部屋に独りというのは、改めて考えると少しばかり心細い。
普段であればそこまで気にもしないのだろうが、今日は人生で遭遇するかしないかという事件に遭遇した直後なのだ。
表情が強張ったのを見て、リュディガーは穏やかに笑む。
「ずっと気を張っていただろう。せめて夕食までは休むべきだと私は思う」
言ってリュディガーはトレイを小脇に抱えて、寝台横へ歩み寄った。そこには赤い房と青い房がついた黒い紐2つ。
「何かあれば、赤の房の紐を引いてくれ。そうすれば、隣の部屋の私が駆けつける。__もう一方は、この宿の受付の呼び出しの鈴が鳴るから、間違えないように」
書いてはあるが、とそれぞれの紐の壁に貼り付けられた真鍮の板の文字を示してみせる。
__そうよね。リュディガーだって、ずっと心を砕いて動いてくれていたのだもの……。彼こそ休むべきだわ。
「わかりました。これを終えたら、少し横になります」
キルシェは手元の繕い途中のそれを示す。すると、彼は眉を顰めた。
「そんなに気にしないでくれていいが」
「繕われるのは、迷惑ですか?」
「そういうわけではない。してくれるのはありがたいが……君は自分のことを第一に考えてほしいんだがな」
「私が、したいの。感謝しているから」
やれやれ、とリュディガーは肩を竦めた。
「__まかせるが、まだ本調子じゃないことを忘れないでくれよ」
「ええ」
「では、あとで」
はい、とキルシェの頷きに、リュディガーは困ったような顔で頷いて、扉の方へと足を向ける。
「リュディガー」
扉のノブに手をかけたところで彼を呼び止めると、ノブに手をかけたままリュディガーは振り返る。
「__ありがとう」
僅かに目を見開くリュディガー。
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穏やかな笑顔で軽く首を振って、彼は扉の向こうへと立ち去った。
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