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帝都の大学
頭と身体の帳尻
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地麟という存在が去り、残されたキルシェとリュディガー。
「__本当に、良かった」
しん、と静かになった室内に、リュディガーが安堵のため息とともにぽつり、と言葉を漏らした。
「……君が落馬をしたとき、肝を潰した」
言ってリュディガーは、視線を手元のお茶へと落とす。
「エングラー様が治癒魔法を施してくださっても、目を覚まさなくて……__またか、と」
ぎりり、と奥歯を噛み締めるリュディガーに、キルシェは目を細める。
__また……。
彼は、落馬で妹を__血の繋がりはないらしいが__亡くしている。
それは彼を迎えに行こうとして起きた、不慮の事故だった。
状況は違うとは申せ、彼にしてみれば同じ落馬事故__重ねてしまったのだろう。
「……ごめんなさい。考え事をしてしまって……」
「考え事?」
顔を上げて視線を向けるリュディガーから逃れるように、キルシェは俯き頷く。
「この的に当てたら、と……そんなことを考えてしまったように思います。……始まる前からも、よく覚えていませんが、考えてしまっていて……」
よく覚えていない__わけではない。
ただ、彼に言うには憚られるから、濁してしまった。
__あれを当ててしまったら、候補として残る可能性が高くなる……なってしまう。
迷っていたのだ。
始まる前から。
__あんな手紙が来なければ……。
キルシェは手にしたカップにわずかに力を込めた。
「余程考えていたんだろう。鞍の留め具の確認を怠るぐらいだ。私もみておけばよかったのだが……」
「私が悪いの。__良い教訓になりました」
「いい教訓? 冗談じゃない。私は二度と御免だ」
お茶を口に運び、空になったカップを棚のトレイへと置くリュディガー。
「聞いたとおり、私は戻る。明日も迎えには来られない。明日はビルネンベルク先生が来てくださるはずだ」
申し訳無さそうにするリュディガーに、キルシェは笑みを見せる。
「わかりました。話し相手をしてくれて、ありがとう。それに長いこと気を揉ませて、拘束までしてしまって……」
つかつか、と廊下の遠くから足音が聞こえ、キルシェは思わず言葉を切った。聞き耳を立てると、ワゴンを押しているのか車輪の音と食器の音も聞こえてくる。
__夕食……。
察していれば、リュディガーは身体をやや前傾にしてカップを握るキルシェの手の一方を持った。
「__時間切れだな。流石に地麟様との約定を違える訳にはいかない」
そうですね、と言おうとしたが、彼が顔を寄せてくるので思わず言葉を飲み込んだ。何を考えているのか、彼の目を見てつぶさに察したのだ。
反射的に俯き身を引くと、すぐ近くで、彼がくすり、と笑った気配がした。
いかにも余裕がありそうな彼に対して、ばくばく、と拍動する心臓を悟られないように鎮めていれば、直後、持たれていた手に彼が口付ける。
__叩けない……。
手を振り解く事もできない。
名残惜しげに口付けた手を、親指の腹で幾度か撫でてくるリュディガー。
彼はそうしながら、じっと見つめている。
不思議なことに、体の深い芯の部分__下腹部あたりにじりじり、とした疼く感覚がし始めたではないか。
__何……これは。
その視線の熱っぽさと、そしてその異質な疼きに慄いて、キルシェは視線を交えることさえできなかった。幸い彼も無理に顔を覗き込もうとはしないのは、助かった。
あの遣らずの雨の日以降、彼は極端に距離を近づけることもなく、抱擁や接吻も求めることはしない。
それはおそらく、他人の目や外聞を気にしてのことであり、加えて少しばかり困り果てているキルシェを察してのことだろう。
だからこそ、急にそうした行動に出られると、やり過ごしかたがわからないから拒絶するように逃げることしかできない。
__明確に拒絶をすればすむのに……できない。できない自分が嫌だわ……。
「おまたせ致しました。お食事です」
こんこん、とノックの音の後に続くロスエルの声に、リュディガーはキルシェの手を放す。
そして、リュディガーは迎えるように席を立って、衝立をずらして寝台の近くにワゴンが留められるように余裕を作った。
「ご不浄など、行かれますか?」
ワゴンを押しながら、リュディガーに軽く頭を下げて礼を伝えるロスエルが、キルシェへ問う。
「大丈夫です」
「それではお食事のあと、一通りご案内致しますね」
寝台の縁から足を投げるようにして座れば食べられるようにワゴンを側に留め、手際よく最後の食卓を整えていくロスエル。
細かく刻まれた野菜のスープ。バターとチーズの香りがするのは、米を炒めて炊いたリゾットのようだ。それからジャムとパン、デザートとして蜂蜜が添えられたヨーグルトとイチジクが用意されていた。
「今夜はこれだけでご容赦を。お典医様のご指示でして」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
「もし多いようでしたら、全部お召し上がりにならなくて大丈夫です。食べられそうな物を無理なく」
そこまで言って、ロスエルは寝台の下から盥をずらして示した。
「万が一、戻したくなりましたら、こちらへ」
「承知しました」
見守っていたリュディガーは、軽く両肘を折って肩の高さまであげると伸びをするように背中側へ引いた。
「では、私は行く。__ロスエル、後は頼みます」
はい、と頷くロスエルは、くすくす笑う。
「あのリュディガーに__ナハトリンデン卿に、ロスエルと呼ばれるのは、やはり変な感じが致しますね」
「昔は私が立場は下だったから……ロスエルさん。私も変な感じがしますよ」
「ですが、後輩への示しですから。そのうちお互い慣れますよ」
そうですね、とリュディガーは苦笑した。
「では、これで。__見送りは結構。勝手は知っているので」
はい、と苦笑を浮かべるロスエル。
リュディガーは改めてキルシェへ顔を向け、肩に手を置く。
その頃にはもう落ち着きを取り戻していたキルシェは、リュディガーと視線を合わせることができた。
「気をつけて、お戻りに。先生には、もう大丈夫です、と」
「ああ。良いように伝える。ヘルゲ殿が報せに行ってから、時間も経っているからな。__よく休んでくれ」
「はい。__おやすみなさい、リュディガー」
「ああ。おやすみ」
それを別れの挨拶として、リュディガーは部屋を後にする。
「……ナハトリンデン卿は、びっくりするぐらい身長が伸びましたね」
その背を見送りながら、ロスエルがぽつり、と零した。
「ここにいたときは、とりわけ背が高いわけでも低いわけでもなく、平均ぐらいでしたのに」
「そうなのですか」
カトラリーに伸ばしかけていたキルシェは手を止める。
「はい。大食らいだとも記憶にはありません。……確かに、ここに在籍していた頃、身長はのびておりましたが……ここを卒業する頃には皆身長の伸びは終わります。彼の場合、正式に騎士団に入団してからも、4年は伸びてはいたようです、聞くところに寄れば」
齢16で片翼院への試験が実施される。そこから2年の課程を終え、正式に採用されるのが龍帝従騎士団である。
採用されなかった者は、片翼院に在籍していたというだけでも優秀な人材とみなされるから、軍部や神職の武官に転向、編入する際、優遇されることが多い。
リュディガーは大学に2年前に入学して、齢24。龍騎士に叙された18から4年というと大学入学頃ということになる。
__それまで伸びていただなんて……。
あれだけの身長ならば、それぐらいはかかるのだろうか。
「__ラエティティエルさんが申しますに、頭が軽いから伸びたのでしょう、ということでしたが」
「頭が、軽い……ですか」
リュディガーは、大学での成績は良いほうだ。彼の周りの友人は、よく彼に教授を願っているほどである。彼も質問をすることはあるが、どちらかといえば受けることのほうが多い。
「大学に入って頭の成長と帳尻があったから、伸びも止まったのでしょう、とまで仰せで」
冗談めかして言うロスエルは、くすくす、と笑う。
ラエティティエルがいかにも言いそうなことで、キルシェは思わず笑ってしまった。
「__本当に、良かった」
しん、と静かになった室内に、リュディガーが安堵のため息とともにぽつり、と言葉を漏らした。
「……君が落馬をしたとき、肝を潰した」
言ってリュディガーは、視線を手元のお茶へと落とす。
「エングラー様が治癒魔法を施してくださっても、目を覚まさなくて……__またか、と」
ぎりり、と奥歯を噛み締めるリュディガーに、キルシェは目を細める。
__また……。
彼は、落馬で妹を__血の繋がりはないらしいが__亡くしている。
それは彼を迎えに行こうとして起きた、不慮の事故だった。
状況は違うとは申せ、彼にしてみれば同じ落馬事故__重ねてしまったのだろう。
「……ごめんなさい。考え事をしてしまって……」
「考え事?」
顔を上げて視線を向けるリュディガーから逃れるように、キルシェは俯き頷く。
「この的に当てたら、と……そんなことを考えてしまったように思います。……始まる前からも、よく覚えていませんが、考えてしまっていて……」
よく覚えていない__わけではない。
ただ、彼に言うには憚られるから、濁してしまった。
__あれを当ててしまったら、候補として残る可能性が高くなる……なってしまう。
迷っていたのだ。
始まる前から。
__あんな手紙が来なければ……。
キルシェは手にしたカップにわずかに力を込めた。
「余程考えていたんだろう。鞍の留め具の確認を怠るぐらいだ。私もみておけばよかったのだが……」
「私が悪いの。__良い教訓になりました」
「いい教訓? 冗談じゃない。私は二度と御免だ」
お茶を口に運び、空になったカップを棚のトレイへと置くリュディガー。
「聞いたとおり、私は戻る。明日も迎えには来られない。明日はビルネンベルク先生が来てくださるはずだ」
申し訳無さそうにするリュディガーに、キルシェは笑みを見せる。
「わかりました。話し相手をしてくれて、ありがとう。それに長いこと気を揉ませて、拘束までしてしまって……」
つかつか、と廊下の遠くから足音が聞こえ、キルシェは思わず言葉を切った。聞き耳を立てると、ワゴンを押しているのか車輪の音と食器の音も聞こえてくる。
__夕食……。
察していれば、リュディガーは身体をやや前傾にしてカップを握るキルシェの手の一方を持った。
「__時間切れだな。流石に地麟様との約定を違える訳にはいかない」
そうですね、と言おうとしたが、彼が顔を寄せてくるので思わず言葉を飲み込んだ。何を考えているのか、彼の目を見てつぶさに察したのだ。
反射的に俯き身を引くと、すぐ近くで、彼がくすり、と笑った気配がした。
いかにも余裕がありそうな彼に対して、ばくばく、と拍動する心臓を悟られないように鎮めていれば、直後、持たれていた手に彼が口付ける。
__叩けない……。
手を振り解く事もできない。
名残惜しげに口付けた手を、親指の腹で幾度か撫でてくるリュディガー。
彼はそうしながら、じっと見つめている。
不思議なことに、体の深い芯の部分__下腹部あたりにじりじり、とした疼く感覚がし始めたではないか。
__何……これは。
その視線の熱っぽさと、そしてその異質な疼きに慄いて、キルシェは視線を交えることさえできなかった。幸い彼も無理に顔を覗き込もうとはしないのは、助かった。
あの遣らずの雨の日以降、彼は極端に距離を近づけることもなく、抱擁や接吻も求めることはしない。
それはおそらく、他人の目や外聞を気にしてのことであり、加えて少しばかり困り果てているキルシェを察してのことだろう。
だからこそ、急にそうした行動に出られると、やり過ごしかたがわからないから拒絶するように逃げることしかできない。
__明確に拒絶をすればすむのに……できない。できない自分が嫌だわ……。
「おまたせ致しました。お食事です」
こんこん、とノックの音の後に続くロスエルの声に、リュディガーはキルシェの手を放す。
そして、リュディガーは迎えるように席を立って、衝立をずらして寝台の近くにワゴンが留められるように余裕を作った。
「ご不浄など、行かれますか?」
ワゴンを押しながら、リュディガーに軽く頭を下げて礼を伝えるロスエルが、キルシェへ問う。
「大丈夫です」
「それではお食事のあと、一通りご案内致しますね」
寝台の縁から足を投げるようにして座れば食べられるようにワゴンを側に留め、手際よく最後の食卓を整えていくロスエル。
細かく刻まれた野菜のスープ。バターとチーズの香りがするのは、米を炒めて炊いたリゾットのようだ。それからジャムとパン、デザートとして蜂蜜が添えられたヨーグルトとイチジクが用意されていた。
「今夜はこれだけでご容赦を。お典医様のご指示でして」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
「もし多いようでしたら、全部お召し上がりにならなくて大丈夫です。食べられそうな物を無理なく」
そこまで言って、ロスエルは寝台の下から盥をずらして示した。
「万が一、戻したくなりましたら、こちらへ」
「承知しました」
見守っていたリュディガーは、軽く両肘を折って肩の高さまであげると伸びをするように背中側へ引いた。
「では、私は行く。__ロスエル、後は頼みます」
はい、と頷くロスエルは、くすくす笑う。
「あのリュディガーに__ナハトリンデン卿に、ロスエルと呼ばれるのは、やはり変な感じが致しますね」
「昔は私が立場は下だったから……ロスエルさん。私も変な感じがしますよ」
「ですが、後輩への示しですから。そのうちお互い慣れますよ」
そうですね、とリュディガーは苦笑した。
「では、これで。__見送りは結構。勝手は知っているので」
はい、と苦笑を浮かべるロスエル。
リュディガーは改めてキルシェへ顔を向け、肩に手を置く。
その頃にはもう落ち着きを取り戻していたキルシェは、リュディガーと視線を合わせることができた。
「気をつけて、お戻りに。先生には、もう大丈夫です、と」
「ああ。良いように伝える。ヘルゲ殿が報せに行ってから、時間も経っているからな。__よく休んでくれ」
「はい。__おやすみなさい、リュディガー」
「ああ。おやすみ」
それを別れの挨拶として、リュディガーは部屋を後にする。
「……ナハトリンデン卿は、びっくりするぐらい身長が伸びましたね」
その背を見送りながら、ロスエルがぽつり、と零した。
「ここにいたときは、とりわけ背が高いわけでも低いわけでもなく、平均ぐらいでしたのに」
「そうなのですか」
カトラリーに伸ばしかけていたキルシェは手を止める。
「はい。大食らいだとも記憶にはありません。……確かに、ここに在籍していた頃、身長はのびておりましたが……ここを卒業する頃には皆身長の伸びは終わります。彼の場合、正式に騎士団に入団してからも、4年は伸びてはいたようです、聞くところに寄れば」
齢16で片翼院への試験が実施される。そこから2年の課程を終え、正式に採用されるのが龍帝従騎士団である。
採用されなかった者は、片翼院に在籍していたというだけでも優秀な人材とみなされるから、軍部や神職の武官に転向、編入する際、優遇されることが多い。
リュディガーは大学に2年前に入学して、齢24。龍騎士に叙された18から4年というと大学入学頃ということになる。
__それまで伸びていただなんて……。
あれだけの身長ならば、それぐらいはかかるのだろうか。
「__ラエティティエルさんが申しますに、頭が軽いから伸びたのでしょう、ということでしたが」
「頭が、軽い……ですか」
リュディガーは、大学での成績は良いほうだ。彼の周りの友人は、よく彼に教授を願っているほどである。彼も質問をすることはあるが、どちらかといえば受けることのほうが多い。
「大学に入って頭の成長と帳尻があったから、伸びも止まったのでしょう、とまで仰せで」
冗談めかして言うロスエルは、くすくす、と笑う。
ラエティティエルがいかにも言いそうなことで、キルシェは思わず笑ってしまった。
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