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帝都の大学
告白
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ビルネンベルクの部屋で、キルシェは任された古書の模写をしていく。
ビルネンベルクが授業で使うものの中で、古書、古語の模写は昨今では時間に余裕があるキルシェが頼まれることが多い。
部屋には二人きりで、最初こそ他愛ない会話がされていたものの、時間の経過とともにいつの間にかそれぞれのペンが紙をひっかく音が聞こえるばかりである。
やがて授業の区切りを報せる鐘がなるも、キルシェは一度顔をあげるばかりで、そのまま手元を動かした。
それから5分か10分か経ったところへ、来訪者が入室を求めてきた。
「__ナハトリンデンです」
びくり、とキルシェは小さく肩を弾ませて顔をあげる。
「どうぞ、リュディガー」
ビルネンベルクは机に幾つも広げた本のうち、幾つかを次々に項をめくりながら、入室を促した。
扉が開かれ、リュディガーが現れる。彼は部屋にキルシェが居ることに一瞬驚くも、穏やかな笑みを浮かべて軽く頭を下げるので、キルシェも頭を下げて応じた。
「ちょっと待っていてくれ。これだけ……。すまないね、授業が終わったら来るように言っておきながら」
「構いません」
後ろ手で扉を閉め、リュディガーは扉の前で姿勢を正し、ビルネンベルクの指示を待つ。
キルシェもまた、模写を再開する。
「次の授業は?」
「今日は、もう私が専攻しているものはありません__そう、昼に申し上げましたが」
「ああ、そうだった、そうだった」
視界の端で、ビルネンベルクが照れた笑みを浮かべたのが見えた。
暫しの後、ビルネンベルクがひとりごちて頷き、席を立つ。そして、リュディガーを招いて自身もまた応接用のソファーへと移動する。
「キルシェも、こちらへ」
「え」
顔を上げると、ビルネンベルクが柔和な笑みを浮かべていた。
「君たちに話があるのだよ」
いいから、と優美な手で手招きして座るように促す。
キルシェは急ぎ作業に切りをつけ、簡単に手元の物を片付けて、席を立ち彼らが囲うテーブルへと向かった。
示されたのは、リュディガーの隣の席。
「__おめでとう、2人とも」
開口一番のビルネンベルクの言葉に面食らったキルシェは、リュディガーとともに、お互いの顔を見合わせた。
彼もまた、何を言っているのか理解に苦しんでるようである。その顔を見て、嬉しそうにさらに表情が笑う。
「今朝、報せがあってね。君たち、先日の矢馳せ馬の選考を通過したよ」
キルシェは思わず息を詰めた。
__通過してしまった……落馬したのに。
「__嬉しくは、ないかい?」
内心を見透かしたかのような言葉に、キルシェは我に返る。
「その……とても光栄なことです。が……」
「が?」
「リュディガーは、通過できたのは当然でしょう。……ですが、私は、落馬をして……評価に値すらしないはずでは」
ふむ、とビルネンベルクは背もたれに身を預けつつ、手を膝の上で組んだ。
「君は他の候補者より、技術としては未熟だった。__馬術が、ね。大学では女鞍で修了していたのだから、それはしょうがない。確かに、選考の際、落馬はした。それは事実だ。だが、君はそれまで通常の鞍での馬術の技を磨き、他の者と並ぶまでになった。申し分ないほどに」
「それは、リュディガーの助けがあって」
「だとしても、そこまでの実力を身につけたのは、自分自身だろう? 私は手を貸したに過ぎない。かつて君がそうしてくれたように」
隣に座るリュディガーが口を開く。
彼に視線を向けると、穏やかな、それでいて悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「まぁ、これからもっと、腕を磨かねばならないことになったわけだが」
キルシェは、口を引き結んで膝においていた手に、視線を落とす。
「……なにか、杞憂があるようだ。まあ、当然と言えば当然か。初めてのことには、不安はつきものだ」
キルシェは、顔を伏せたままちらり、と横のリュディガーを見る。無論、視線は交わることはないものの、彼はどうやらこちらの様子を注視しているようだった。
__言う、しかない……。言わなければ、それはそれで、迷惑がかかる。
矢馳せ馬にしろ、大学にしろ。
__彼にしても……。
「……あの、先生。この際、お話しておきたいことがございます」
「何だい?」
「私は、矢馳せ馬を辞退せねばなりません」
「……詳しく聞こう」
ぎゅ、とキルシェは膝においていた手を組んで、握りしめて顔を上げる。
そして、まっすぐ真紅の双眸を見つめた。
「数週間前……父から手紙がありました。__戻れ、と」
見つめた視線が、細められる。
真横では微かに息を詰める音とともに、身を乗り出すのが見えたが、キルシェは視線をまっすぐ外さない。
「この数週間、父と手紙でやり取りを重ねました。説得を……試みてはいたのですが、戻らねばならなくなりました」
「……その言い方だと、まさかとは思うが、新年の卒業を待たずして、ということになるのかね?」
キルシェは奥歯を噛み締めて頷く。
「理由は、ご尊父はなんと?」
「詳しくは……。ただ、東のイェソド州での政変。それに少なからず関わるのだと思います」
「いつ?」
「冬至前には、と」
「明確ではないのだね」
「はい。ですが、確実に」
両手を強く握り込んで、キルシェはひとつ深呼吸をすると口を開く。
「……私は、大学を自主的に退学することを希望します」
言った途端、ぐぎり、と胸の奥底が痛んだ。
ふむ、とビルネンベルクは顎に手を添えるように撫でる。
「君は卒業するに足る人材。__私がご尊父に直接お話しをしてみよう」
「駄目です。これは家の問題です。いくら先生でもそれだけは」
「しかし……」
「お気持ちだけで十分です。いいんです、もう。__相談を今させていただいている訳ではありませんし、私の中ではもう結論が出ていますから」
父に逆らうのは不毛。それをわかっていたが、今回粘ってみた。しかしながら、やはり覆す事はできなかった。__諦めるしかないのだ。
「キルシェ……」
「矢馳せ馬については、私から次回、エングラー様にお話しいたします。早い方がよいので……」
困ったように笑い顔を上げるも、ビルネンベルクは一層難しい表情を強めた。
キルシェの笑みはある意味取り繕うようなもの__きっと隣の彼はそれを見抜くだろう。
__できれば、彼が居ないところで先生に言えればよかったのだけれど.……。
だからと言って、彼にはビルネンベルクからでも、矢馳せ馬のエングラー経由でも話が行ってしまうかもしれない。
__これで良かったのよ。
嘘をついてきて、誤魔化して生活していた自分には、ちょうどいい罰。
「自主退学についてはまた改めて話をしてするとして、今は矢馳せ馬の通過の話をしたかったので、とりあえずはこれでこの場は閉めようと思う」
「はい」
「……はい」
「キルシェは続きを頼むよ。リュディガーは下がってくれ」
「承知しました」
「……失礼します」
いくらか歯切れが悪いリィディガーが気になるが、キルシェは見ることが出来なかった。
彼が席を立ち、扉へ向かう。その背中を視界の端で見送ることしか出来ない。
__ごめんなさい、リュディガー……。
ほとほと自分が厭になる。
ビルネンベルクが授業で使うものの中で、古書、古語の模写は昨今では時間に余裕があるキルシェが頼まれることが多い。
部屋には二人きりで、最初こそ他愛ない会話がされていたものの、時間の経過とともにいつの間にかそれぞれのペンが紙をひっかく音が聞こえるばかりである。
やがて授業の区切りを報せる鐘がなるも、キルシェは一度顔をあげるばかりで、そのまま手元を動かした。
それから5分か10分か経ったところへ、来訪者が入室を求めてきた。
「__ナハトリンデンです」
びくり、とキルシェは小さく肩を弾ませて顔をあげる。
「どうぞ、リュディガー」
ビルネンベルクは机に幾つも広げた本のうち、幾つかを次々に項をめくりながら、入室を促した。
扉が開かれ、リュディガーが現れる。彼は部屋にキルシェが居ることに一瞬驚くも、穏やかな笑みを浮かべて軽く頭を下げるので、キルシェも頭を下げて応じた。
「ちょっと待っていてくれ。これだけ……。すまないね、授業が終わったら来るように言っておきながら」
「構いません」
後ろ手で扉を閉め、リュディガーは扉の前で姿勢を正し、ビルネンベルクの指示を待つ。
キルシェもまた、模写を再開する。
「次の授業は?」
「今日は、もう私が専攻しているものはありません__そう、昼に申し上げましたが」
「ああ、そうだった、そうだった」
視界の端で、ビルネンベルクが照れた笑みを浮かべたのが見えた。
暫しの後、ビルネンベルクがひとりごちて頷き、席を立つ。そして、リュディガーを招いて自身もまた応接用のソファーへと移動する。
「キルシェも、こちらへ」
「え」
顔を上げると、ビルネンベルクが柔和な笑みを浮かべていた。
「君たちに話があるのだよ」
いいから、と優美な手で手招きして座るように促す。
キルシェは急ぎ作業に切りをつけ、簡単に手元の物を片付けて、席を立ち彼らが囲うテーブルへと向かった。
示されたのは、リュディガーの隣の席。
「__おめでとう、2人とも」
開口一番のビルネンベルクの言葉に面食らったキルシェは、リュディガーとともに、お互いの顔を見合わせた。
彼もまた、何を言っているのか理解に苦しんでるようである。その顔を見て、嬉しそうにさらに表情が笑う。
「今朝、報せがあってね。君たち、先日の矢馳せ馬の選考を通過したよ」
キルシェは思わず息を詰めた。
__通過してしまった……落馬したのに。
「__嬉しくは、ないかい?」
内心を見透かしたかのような言葉に、キルシェは我に返る。
「その……とても光栄なことです。が……」
「が?」
「リュディガーは、通過できたのは当然でしょう。……ですが、私は、落馬をして……評価に値すらしないはずでは」
ふむ、とビルネンベルクは背もたれに身を預けつつ、手を膝の上で組んだ。
「君は他の候補者より、技術としては未熟だった。__馬術が、ね。大学では女鞍で修了していたのだから、それはしょうがない。確かに、選考の際、落馬はした。それは事実だ。だが、君はそれまで通常の鞍での馬術の技を磨き、他の者と並ぶまでになった。申し分ないほどに」
「それは、リュディガーの助けがあって」
「だとしても、そこまでの実力を身につけたのは、自分自身だろう? 私は手を貸したに過ぎない。かつて君がそうしてくれたように」
隣に座るリュディガーが口を開く。
彼に視線を向けると、穏やかな、それでいて悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「まぁ、これからもっと、腕を磨かねばならないことになったわけだが」
キルシェは、口を引き結んで膝においていた手に、視線を落とす。
「……なにか、杞憂があるようだ。まあ、当然と言えば当然か。初めてのことには、不安はつきものだ」
キルシェは、顔を伏せたままちらり、と横のリュディガーを見る。無論、視線は交わることはないものの、彼はどうやらこちらの様子を注視しているようだった。
__言う、しかない……。言わなければ、それはそれで、迷惑がかかる。
矢馳せ馬にしろ、大学にしろ。
__彼にしても……。
「……あの、先生。この際、お話しておきたいことがございます」
「何だい?」
「私は、矢馳せ馬を辞退せねばなりません」
「……詳しく聞こう」
ぎゅ、とキルシェは膝においていた手を組んで、握りしめて顔を上げる。
そして、まっすぐ真紅の双眸を見つめた。
「数週間前……父から手紙がありました。__戻れ、と」
見つめた視線が、細められる。
真横では微かに息を詰める音とともに、身を乗り出すのが見えたが、キルシェは視線をまっすぐ外さない。
「この数週間、父と手紙でやり取りを重ねました。説得を……試みてはいたのですが、戻らねばならなくなりました」
「……その言い方だと、まさかとは思うが、新年の卒業を待たずして、ということになるのかね?」
キルシェは奥歯を噛み締めて頷く。
「理由は、ご尊父はなんと?」
「詳しくは……。ただ、東のイェソド州での政変。それに少なからず関わるのだと思います」
「いつ?」
「冬至前には、と」
「明確ではないのだね」
「はい。ですが、確実に」
両手を強く握り込んで、キルシェはひとつ深呼吸をすると口を開く。
「……私は、大学を自主的に退学することを希望します」
言った途端、ぐぎり、と胸の奥底が痛んだ。
ふむ、とビルネンベルクは顎に手を添えるように撫でる。
「君は卒業するに足る人材。__私がご尊父に直接お話しをしてみよう」
「駄目です。これは家の問題です。いくら先生でもそれだけは」
「しかし……」
「お気持ちだけで十分です。いいんです、もう。__相談を今させていただいている訳ではありませんし、私の中ではもう結論が出ていますから」
父に逆らうのは不毛。それをわかっていたが、今回粘ってみた。しかしながら、やはり覆す事はできなかった。__諦めるしかないのだ。
「キルシェ……」
「矢馳せ馬については、私から次回、エングラー様にお話しいたします。早い方がよいので……」
困ったように笑い顔を上げるも、ビルネンベルクは一層難しい表情を強めた。
キルシェの笑みはある意味取り繕うようなもの__きっと隣の彼はそれを見抜くだろう。
__できれば、彼が居ないところで先生に言えればよかったのだけれど.……。
だからと言って、彼にはビルネンベルクからでも、矢馳せ馬のエングラー経由でも話が行ってしまうかもしれない。
__これで良かったのよ。
嘘をついてきて、誤魔化して生活していた自分には、ちょうどいい罰。
「自主退学についてはまた改めて話をしてするとして、今は矢馳せ馬の通過の話をしたかったので、とりあえずはこれでこの場は閉めようと思う」
「はい」
「……はい」
「キルシェは続きを頼むよ。リュディガーは下がってくれ」
「承知しました」
「……失礼します」
いくらか歯切れが悪いリィディガーが気になるが、キルシェは見ることが出来なかった。
彼が席を立ち、扉へ向かう。その背中を視界の端で見送ることしか出来ない。
__ごめんなさい、リュディガー……。
ほとほと自分が厭になる。
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