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煌めきの都

虚妄ノ影 Ⅴ

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 この地上には、常に魔穴が口を開く特異な場所がある。魔穴の口を塞ぎ切ることは困難であり、完璧に塞ぎ切ることによる弊害が存在する。__黒狐はそう口を開いた。

 この世の遍くに存在する不可知、もの__魔素。

 それらが魔穴からのみ補充されることによって、この世は潤っているのだそう。

「__潤う?」

「……天綱と呼ばれるこの世の理。その下で、生命が輝く__そう表現すればよいか。魔素は、肥料のようなもの。とは申せ、過ぎたるは及ばざるが如し、という言葉通り、加減が肝要なのは、あの痴れ者の故郷ブロークリントを見ればわかろう」

「そういう側面があるのですか」

 魔穴は、有害なものでしかない。実害ばかりをもたらすからだ。

 ひたひた、と歩みながらマイャリスの脳裏には、かつて寄宿学校で見た光景や、魔穴から戻ったリュディガーの憔悴しきった様が浮かんでいた。

「おそらく、貴女が通っていた大学では、教えてはいないだろう」

 くつり、と目元が笑うが、それは嫌味が込められたものではなく、温かみのあるものだった。

「元来、世に言われる魔穴とは、神出鬼没。そしてあまりにも度が過ぎる。それに頼ってはいられない」

「ここに魔穴があったのは……」

「あえてのこと。特定された場所にあれば、万が一の対処も容易。それを適度に制御していたものが、その影身かげみだった」

 __影身を。

 身体の内から、響く声。浮かぶ言葉。

「その鏡__影身は、かつて天帝と獬豸族によって作られ、龍帝に下賜されたもの。その影身を見守る一族がいた。それが、貴女の父祖」

 マイャリスは、ふと、自分の額の一角に軽く触れる。

「そもそもの主命は、あまりにも強大になった帝国の__龍帝の監視だという」

「監視……ですか」

「帝国は、あまりにも強大な国家となった。戦神の加護を得、龍を使役するような国。そのような帝国といえど、影身を破壊されれば相当な痛手に違いない」

 自らの系譜がよもや龍帝陛下の弱みだったとは、マイャリスは思いもしなかった。

 __そんな大層なお役目を担っていたとは知らなかった。

 今日まで、自分は人間族だと思っていたのだ。

「ですがそれは、胸三寸で暴挙に出るのではないのですか? 龍帝が気に食わない。帝国が気に食わない、となれば」

 __そうよ。あのロンフォールのように。
 
 いまがまさしくそれ。

「そんなに簡単に壊せはしない。かなりの決意がなければ、成し遂げられない仕組みということもあるが故」

「仕組み?」

「あの痴れ者は、壊し方も心得ていたが。壊すには、見守る獬豸の血胤の成体一人分の血が必要なのです」

「必要……?」

「浴びせる、とでもいえばよいか。__剄り、滴り落ちる血を桶に溜め、そこに沈めるでもよし。すべての血をよく吸った布で包んでしまうとういう手法でも、あながち可能なのかもしれない」

 涼しい目元で黒狐がさらり、と言い放つ言葉に、思わず足を止めた。

「確実に血の一滴残さずすべて__とは難しいもの。それほど多量の血が必要ということです」

 __かなりの決意、とはそういうこと……。

 自死するにしても、死ぬだけでは成し遂げられない。

 身内の誰かを捧げるにしても、かなりの面倒な事が予想される。多量の血に漬ける方法__様々想像してしまって、ぶるり、と寒気がはしって身震いした。

 鏡を抱えたままの自分を、剄ろうとしたスコル。

 殺そうと思えばいつでも殺せただろう。なにせ、自分の意思とは裏腹に、身体が動かなかったのだから。

 成体の血なのは、多量の血がいるということ。

 生意気にも楯突く養女だ。殺したい、と思ったことはあっただろう。だがそうはせず、これまで後生大事に育ててきたのは、この時のため。

 __軟禁生活もそのためだった。

 大学へ送り出したのは、年々知恵を突けてうるささが増したということもあっただろうが、様々な準備も兼ねていたのだろう。

 てっきり、富や地位が好きなのだろうと思っていたが、違った。

 とんでもない執念だ。

 何年かけたというのだ。

 __とにかく……影身を……。

 止まっている場合ではない。

 自分を軽く諌めて、歩みを再開した。

「かつてあの痴れ者が魔穴へ影身を落とした。魔穴の瘴気に当ててしまえば、壊れるとでも思った__が、壊せなかった」

「壊せていないとわかったとは……どうしてわかるのですか?」

「壊せていれば、魔が溢れる」

 なるほど、とマイャリスは納得した。

「そこで、どういう経緯でか壊す手立てを知り、加えて血胤の者が生きていることを知った。こんなところかと」

「それが……私の両親」

「……御尊父が血胤者。普段、その特異な身分は伏せて、一般的な文官として過ごしていたと聞いた。リュディガーの父は、文官として御尊父とは面識があり、素性も知っていただろう」

 マイャリスは、自分の実父がどういった立場だったのかを詳しくは知らない。

 記憶の彼方。霞の向こうに見える、色褪せた思い出には、それなりの家で暮らしていたことしかないのだ。

 民族楽器カーチェを爪弾く母は、今思えば妓女__神官と文官の間の位置づけである官妓だったのだろう。父の仕事に伴われることが多々あったのを、薄っすら覚えている。

「当初は魔物に襲われたと判断されていた。事実、それを目撃していた情報が多数あった。帝国としては、血胤は絶えた、と」

「でも、私は生きていました。何故、絶えた、と」

 帝国にとって、自分の血胤は大切なものだろうに、どうして見落としていたのか。

 マイャリスが疑問をこぼすと、すい、と黄昏色の相貌が滑ってマイャリスを見る。

「__御両親の葬儀の際、魔物の襲来があったそう。そこで参列していた幼い貴女は身罷った、と思われていた」

 __お前の父上に、恩義がある者だ。今際の際に、お前を託された。

 かつてそう言って、現れたのがロンフォールだった。

 その当時の景色、状況。不思議と思い出せない。

「……やはり、覚えてはおらなんだか」

「えぇ……小さかったですから」

「お小さくあったのは、たしかに。詳しくは存じ上げないが、聞いた話では、葬儀はそれはそれはひどい有様だったと。参列者はことごとく殺され、目撃者はおらなかった。__貴女の護衛も」

 護衛__そう。確か、その日は常に誰かがいた。

 少しずつ、記憶の彼方の情景にある靄が部分的に晴れ、描写が加わっていくようだった。

 葬儀のことは、とりわけあまりにも曖昧だ。

 自分は葬儀の後、墓参りをさせてもらえただけ。

 __葬儀……。

 葬儀のことを思い出そうとすると、ふたつ思い出せる情景がある。

 ひとつは、柩がふたつ。

 そして、もっと思い出そうとすると、今度は遠くから行列が進む景色を眺めている。

 __なぜ、遠くから……?

 疑問を、このとき初めて覚えた。

 幼いが、喪主は喪主だ。葬儀の列の先頭にいて然るべきのはず。なのに、そこから眺めていたような景色__思い出がない。

 では、あの葬儀は__。

 __自分の、葬儀だった……?

 ざわざわ、とした、それでいて静かな焦り。それが恐怖だと気づいたとき、無意識に手が前へ伸びた。

 虚空を掴む手__その手に、ずしり、とそこそこの重さが加わって、我に返る。

 手には、先程手放した鏡があった。
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