夜下

はらわた

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終の知編 一章

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 ……。
 俺の考えていることが分かるか?
 分かる訳ないよな。



 孤独の夜。公園のベンチで空を眺めていると、日は完全に落ちてしまった。
 親は仕事で居らず、兄弟も居らず、友達は家族と暮らす。何をしても何も変化のない時間。
 意味のない人生。
 補導員に絡まれて面倒事が起きないように、立ち上がり、家に帰ることにする。
 小学校に入学して三日が経ち、オリエンテーションも終わりに近づいていよいよ五時限の授業が始まるだろう。友達の文田は一緒に居てもつまらないし、色図は話がこじれて面倒臭くなる。その他の他人とは話のレベルが離れ過ぎで関わる時間が虚無と化す。
 俺は小学一年生で六歳ということになっているが、去年の五月より前の記憶は無く、義理の親に引き取られた義理の息子だ。本当は八歳かもしれないし、まだ六歳になっていないのかもしれない。それでも俺の体格と知能の高さから小学校に通える年齢ではないかと予想されて今年から小学校に通うことになった。
 はっきり言って退屈だ。同級生は無駄なことを知らないから無駄なことばかりをする。無駄と知っていて付き合う辛さも知らないだろう。教師の言うことも、水を喉に通すだけなのにわざわざ噛んで飲むような話を何度もしてくる。
 環境に適応しなければならない訳ではない。能力だけで生きられるような気がする。俺が子供のまま子供のように振る舞っているのは、俺を育てようとしてくれていた義理の親のためだ。
 俺は……何者なんだ?
 光害で星は輝かなくなっている。目を凝らして星を眺めても、土塊の球体なぞ大して面白くない。だからもう、空を眺めるのはやめることにした。
 家まであと数分というところで視界に入る、目印として印象深い石造りの大きな橋が見えた。帰った後に何をするか、どんな暇を過ごすか、考える節目になる。
 川の流れる様子を眺めた。目を開いているついでに最も大きな変化を起こす現象を見た方が有意義だと思ったからだ。特に深い意味はない。
 例えどんな人間で、どんな環境で、どんな状況でも、俺はこの場面で川を見ただろう。
 そして流れるように橋の下で……見つけてしまうのだ。
 最初は薄っすらと光っており、長い髪も肌も白くて、汚れていた為に幽霊のように見えていた。いるかどうかも未だ分からない正体不明のそれをそう錯覚していた。
 しかし、川の側面に敷かれた砂利には小さな血の跡が橋の下まで繋がっていて、何よりもその幽霊が震えていた為に、俺は認識を書き換える。
 幽霊ではない。女の子だ。
 俺は駆けた。堤防を下り、砂利を派手に撒き散らしながら、女の子の目の前まで来て膝を着く。
 汚れた体を丸くして、膝に顔を埋めるその子は震えている。死んでいるのではないかというほどの細い体に、努めて優しく触れた。
 ──人を成していない甲高い悲鳴が掠れながら返ってくる。青を極限まで薄めた水色の瞳は恐怖に染まり、枯れ枝のような腕と脚をバタつかせて離れようとする。
 壊れたように頭を横に振りながら、必死に俺に掴まれないように体全体を動かす彼女を、俺は強く抱きしめた。
「俺を怖がるな! 俺から逃げないでくれ! 頼むから……!」
 俺の声は状況を変えることはない。何を言っても暴れるだけで、むしろ俺がいるからさらに体に傷が付いている。
 だから……俺は彼女の両肩に手を置いて、彼女の目を真っ直ぐに見た。言葉が通じないのなら、せめて、俺の気持ちだけでも伝わって欲しいから。
 すると、彼女は動くのをやめた。無意味で悪化しかしない行動だと理解したのか、それとも俺の気持ちを汲んだのか。
 だから俺は手を離した。そして目だけを見る。
 俺の汚い心の中にあるほんの僅かな良心を見つけられるように、ずっと……。
 ……柱の壁に体を預け、体は脱力した。目だけを俺に向け、全てを出し尽くしてしまったのか精気の欠片程も残ってはいなかった。
「落ち着けよ……お前、怪我してるんだろ。足か? 尖った石で切れたみたいだな……。持ち上げるからな、暴れんなよ」
 両足合わせて足裏に五箇所の切り傷を見つけた。電話の手段がない為、ひとまずは家に連れて帰ることにする。
 人間……というよりは、さらに軽いぬいぐるみで例えて、ワタを全て取り除かれたかのように骨と皮の感触しかなく、軽すぎる体を抱えた。
 背中には邪魔なランドセルがあるため、お姫様抱っこという形にはなるが……危険な状態なことから全く嬉しくなかった。
 痩せていても顔は可愛かったから、普通は触れられるだけで得をした気分になるはずなのだ。フィクション作品でよくある男主人公と不幸なメインヒロインの出会いで、最後には結ばれるオチがあるが、実際にそんなことが起きれば主人公はメインヒロインを憐れむのではなくかわいこちゃんとイチャラブ出来る口実が出来たことに喜ぶものだと思っていた。
 それはありえないのだと知る。俺は彼女の気持ちに共感しようとして、想像の中で彼女に起きえた全ての事柄を追体験してみるものの、ありはしないものかも知れないのに凄く苦しいからだ。
 例え恋に発展したとしても、それは彼女が俺の不幸のレベルまで幸せになってからの話で、俺が彼女に出来ることを一生懸命考える。
「大丈夫だぞ。俺がずっと付いてっからな!」
 彼女のことは何も分からない。だから俺は俺自身が言われて安心できる言葉を掛ける。そしてそれに責任を持って実行する。
 俺は紳士なのだ。
 くたびれた体からは心臓の鼓動と、か細い息遣いしか感じない。俺の声には少しも反応していないように感じるが、逆に俺の行為に反発しないことが信頼の証のように思えた。
 走って二分で二階建ての一軒家である俺の家に着いた。右肩で彼女を抱えて左ポケットに入れてある鍵を取り出し、玄関を開く。
 誰もいない家の中、最初に連れて行ったのは風呂場だった。
 汗臭さはないものの、火薬の匂いと腐肉の匂いがこびり付いていて、衛生面で病気になる要素が大きい。とてもかくても放置しておくことは出来ない。
 風呂椅子に彼女を座らせ、汚れた白いワンピースを脱がす。胸と下にそれぞれ下着があったものの、特に臭いも汚れもなく、男の身で不必要に剥がすことは抵抗があったのでそのままにした。
 シャワーホースを持って湯を出す。
「ひぃぃ……! うぅう……」
 ……ヘッドから出る線状の束の水が目に映った瞬間、思い切り目を瞑って下を向いてしまった。
 音ではなく、見えたものが原因だと予想し、レバーで方式を変えて蛇口から湯を出すことにした。
 桶に湯を溜めて、俺の使っているボディタオルにそれを含ませて体を拭いていく。彼女はそれくらい自分で出来ると、そう言いたげなようにタオルに手を伸ばすが、俺はやんわりと手を降ろさせた。
 意外にも垢などは全くなく、肌についた汚れだけが落ちた。髪には一切の汚れはなかった。足も優しく洗おうとするも流石に痛いのかビクッと動くのだが、抵抗はなく終わる。
 その後はタオルを絞っては拭くを繰り返して水分を拭き切った後、すぐに二階にある自分の大きめの上着を持ってきて彼女に着せた。子供の成長を考慮して三年は使えるようなパーカーだったのだが、それでも彼女の膝が隠れるくらいには体格に差がある。
 再び抱えようとするが、彼女はそれをひかえめに払って、つま先立ちで立ち上がる。彼女の手を引いてリビングに連れて行った。
「とりあえず、食べ物入れないと死にそうだから……」
 俺は彼女を椅子に座らせた後にキッチンに立ち、コンロの上に置いてある雪平鍋を手に取った。適当に水を入れた後、炊飯器の米をを加えて火にかける。栄養の塊である卵、トマト、チューブの生姜、高菜、りんご、鮭のほぐし身、塩、こしょう、卵を投入。
 目を離している隙に死んではいないか確認する為に振り返ると、彼女は俺の漢料理に目を丸くしていた。感動してくれているのだろう。
 お玉で具を潰しながら煮えた頃、汁椀に中身を移して、さらに水を入れてすぐに冷ました後、大きめの匙と一緒に彼女の元へ寄った。
 怪訝そうにお粥を見る彼女。中身を掬って口に近づけると、遠慮がちに口を開けた。
 噛めるほど形を成している物などない為、するっと飲み込んだ。
 二回目は抵抗なく、むしろ自ら口を差し出す。配慮と心配から心血注いだ料理にそう反応してくれると、自然と気分が良くなる。
 調子に乗って三口目を掬った。
「んん、う……」
 死にそうな顔だったのが嘘のように笑顔で首を横に振り、俺の手をそっと押した。
 ……そうか、急に食べたら逆に調子が崩れるよな。
 そんなこんなで、体は洗って食事もした。様子も落ち着いたように見える。俺の思い付きでしてあげられることはもうないだろう。
 出来ることといえば、体を横にして寝させることか。
 俺は容器を置いた後、彼女の手を取って自室に案内する。……小学一年生の俺と同い年ではないのかと思うほど、俺と同じように幼いはずなのに、男と女という絶対的な違いを感じた。手は手でも、彼女の手と付け加えるだけで胸がくすぐったくて仕方がないのだ。
 生まれて初めて、俺は人を人として見れているのかもしれない。彼女の中の隠しきれない大いなる知性を感じ取っていたのかもしれない。
 彼女は移動する中、視線が天井へ壁へと高速で動いていた。視線を定められないのではなく、恐らく一瞬で構造を把握して、注視する必要もなく覚えられるからなのではないだろうか。それが必要かどうかは分からないが、彼女がこの家に数日間は居ることを視野に入れているように思える。
 部屋に着いて、明かりの紐を引っ張る。中を照らして、部屋の奥に畳んで置いてある布団を広げ、彼女を座らせた。
「なぁ、名前は? 俺は和々切【おわぎり】、時【とき】。時って言うんだ。覚えやすいだろ、なあ」
 彼女は俺の口の動きを見て、静かに下を向いた。自分の指を咥えたあと、爪を見つめ、ぱくぱくと口を動かして、そして俺と視線を交える。
「おわきりとき」
「そうだ」
 すると立ち上がり、部屋から出ていった。
「お、おー、おお」
 奇声が聞こえる。なんのこっちゃと思っていると、
「おわきりとき」
 俺の名前を呼んだ。不可解な行動に疑問を持ちながら部屋を出ると、彼女が不思議そうに俺を見る。そんな俺を置いて再び部屋に入った。
「とき、とき」
 繰り返される俺の名前。俺は彼女の真意を察しながら、おとなしく戻る。
 俺を確認するまでもなく、彼女は棚から埃のかぶっている機械音声の鳴るあいうえおボードを取り出しており、音声を鳴らしていた。
 しかし……『あ』を鳴らしているはずなのに、彼女の口からは『ぼぉ』としか出てこず、正しい発音が出来ないようだ。
 それを俺の顔を見て気付いたようで、次にスピーカーの部分に指を当て、一回だけ『あ』を鳴らした。
「あ」
 彼女は順番に押す。
「いうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほ」
 ……五十音を理解し、五分ほどであいうえおボードを元の場所へ戻したあと、俺の棚に置いてある国語辞典を取り出して、パラパラとページを飛ばした。
 三十秒だった。三十秒で最後のページまでめくり、閉じ、戻す。
 飛ばしていたのではなく、読んでいたというのか?
 棚にある本を全部取り出して、漫画、小説、教本、一冊につき十秒で読む。それが終われば英会話教育用のCDが入ったCDプレーヤーを起動して、スピーカーに手を当て、ラジオ放送に切り替え、一分ほどで電源を落とす。
 数秒、彼女は停止した。周りを見渡して、広げられた本を元に戻し、散らかる前の状態になった。
 彼女はこの世の誰よりも綺麗に正座する。立って静観していた俺を見上げ、俺の目をしっかり見つめる。
「──この度は助けて頂いてありがとうございます。私は今日より前の記憶が無く、言葉も人も場所も何もかもを知りませんでした。私が時にしたこと、それを包み込むように何も伝わらない私に寄り添ったこと、非常に勇気のある行動であったと理解しました。このご恩は必ずお返しします。時、重ねてお礼申し上げます」
 ……絶句だ。人の形をしたモンスターが、いきなり人の形をした天使に変わった。赤子がいきなり走り出したかのような、ありえないことが起きているのだ。
 俺は膝をつき、彼女を抱きしめる。そして顔を見て話す。
「お礼なんか無くていい。きっとお前は俺の考える以上につらい目にあった。だから名前だけ教えてくれれば、後はいらないよ」
 記憶が無くなるなんて……言葉も話せないほどのことは俺には無かった。だからこそ、彼女は俺より不幸だと思う。
「あの……」
 彼女の目が伏し目になろうとするが、すぐに視線を俺の顔にあわせる。
「私は名前を持ちません。ですが、自分で自分の名前を考えることは『名は体を表す』と言われるような、自身の環境、それと周りの環境を大きく変えることであるため、その責任をおえるほどの力がない私には安易には出来ないのです」
「……だが……俺の直感でいいなら仮の名前くらいやれるよ」
 ──思考回路が違い過ぎる。恐らく……彼女にとっての今は、数十年先も含まれているのだろう。正直な気持ちで打ち明けた彼女の言葉には、何の疑いもなく損得についてを語っている。
 数字なのだ。何が良くて何が悪くて、明確に知っていながら得になるならどんなに悪いことでもやってしまえる。記憶があろうが無かろうが、彼女の誠意の前ではどちらでも助けてやりたくなってしまう。俺の機嫌を下げない絶妙な立ち回りで、最高の一手を打つ。
 計算づくの行動の中、そこには彼女の善意は含まれてはいるだろう。しかし……俺に一切の拒絶意識が芽生えないからこそ恐ろしい。
 そして、彼女の観察眼はそんな俺の内部の意識にすら気付く。
「仮でなくともいいのです。捨て猫を拾って名付けるように、人間らしくなくとも、呼びやすいもので……」
「───『よか』。俺がお前を初めて見た時、無意識に感じたものを名前にどうだろうか」
「……漢字で書くと暇ということでしょうか」
「夜の下で夜下」
「……良いですね。輝くような名前です……」
 彼女は言い終えて、糸が切れたかのように倒れた。蓄積された疲労が限界を越え、身の危険が取り除かれたことによる安心感がようやく眠ることを許したのだろうか。
 天使か。生き物であることが不思議な程の可愛い寝顔だ。シミも茶あざもほくろも、そばかすも、人類全てが抱える欠点が一つもない。髪に癖はなく、そして産毛はなく。俺は夜下を……人間ではないのかと思い始めていた。
 だが、今は休もう。親が帰ってこない今日は、この家に夜下いたかどうかを決めるのは俺だ。警察に連絡したとして、もし夜下の親に引き取られたとして、それで今の彼女がさらに傷つけられる事態になれば……俺は夜下を守れないかもしれない。
 明かりを消し、暗闇の中で使った食器や食材を片付け、体を洗った後、夜下の隣に座って眠った。



 目を開くと、青白い陽の光が窓から差し込まれ、それを明かりに俺の教科書とノートをペラペラめくる夜下の姿が見えた。
 まだ朝の五時頃だというのに、昨日の夜の、読んでいるとはとても思えない速さでページをめくっている。しかし、俺のノートを手に取った時はゆっくりと開き、噛み締めるように読んでいた。
 そこには授業内容など全く書かれていない、むしろ暇を潰すために先回りして教科書の内容を丸写しにしたものだ。
「書いてるものはそれと同じだろ。なにか面白いものでもあったか?」
「……」
 ……わずかな反応すらしない。夢中になって読んでいるようには見えないが、やはり、そうなのだろうか。
 驚かせないように、出来る限り優しく肩に触れる。
「あうあ!?」
 夜下はノートをぱらりと落として身引き、慌ててそれらを纏めてる。
「あおえ、えういおおいおああえいうあえいあ」
「待て待て、落ち着け」
 俺の口を見て自分がどんなことを言っているのか分かったのだろう。息を少しだけ大きく吐いた。
「これは、時くんの恥ずかしいこととか、弱みとか、そんなこと探ろうとした訳じゃないんだよ。ただあなたのことが知りたくて、理解したくて、それだけなんです」
「いいよ、気を使わなくて。責めたりしねぇよ」
「……うん、ありがとう」
 そう言って、夜下はノートを手に取り、両腕で抱き締める。その表情は今にも泣きそうな程に悲しそうで、しかし口元は嬉しそうに緩んでいる。
「時くんの字からどんな人なのか、大体は分かりました。教科書の写しだとしても、ノートの存在を加味しても、ここから伝わる字には時くんが相互理解を重んじていることが分かるんです。暖かくて綺麗な字……私の魂の根幹から時くんの命を感じます。私がどう在るべきで、それが時くんと私の幸せにどう繋がるのか、よく、分かりました」
 ……顔を覆いたいだろうに、視線は俺に向いている。濡らすまいと力む目元から涙が溢れる。
 なんと儚い少女なのか。保護するべき大人が居なくて、俺と同じ水準で生きられるのだろうか。
 せめて俺の手で守りたい。生きる理由を一緒に探したい。その為に、俺に何が出来るか?
 これから後二日は小学校に行かなくてはならない。そこから土曜日と日曜日の休みがある。その日を使って彼女に付きっきりでなんでもしてあげられるのだが、それ以外の日で彼女を一人にさせてしまう。
 夜下に必要なのは知識だ。どんな苦境も覆せる圧倒的な頭脳にはまだまだ世間を知らな過ぎる。
 俺が出来ることは……これしかない。
「夜下に渡しておく」
 ランドセルの奥に入れてある財布を取り出し、一万円だけ抜いて財布を握らせた。
「かね……というものですか?」
「ああ。俺の食費代が入っているが……それ以上の余分な金もある。夜下は俺が居ない間、適当な本屋で立ち読みでもして、帰りに一冊買って出てくれば良い」
「……どうすれば会えますか?」
「楚園宮【そぞのみや】小学校は三時に放課後だ。校門前に居てくれればすぐに合流する」  
 親は家には帰ってこない。父は仕事に熱中で、母は活動に熱心だ。二人の表面上は子供に恵まれないために養子が欲しいということで俺を受け入れた訳だが、実際は至極自分勝手な理由だ。それはどうでもいい。
 ただ、夜下を家に置いておいて、万が一でも親が帰って来れば面倒だろう。
 心配だが……一人で出歩いてもらう。
「分かりました。では早速……」
「待て。店は開いてないし、服もそれじゃ悪目立ちする。少し待て」
 俺は押入れからミシンを取り出し、はっきりした色の白と黒の布を使って糸で縫い合わせていく。
 せめて、補導員に捕まらないように良いとこのお嬢様のような格好にしてあげたい。フリルとかのひらひらなど、そんな愛らしさではなく、関わってしまうのが億劫になる程のビシィ! というような凛々しさを演出出来れば……。
 手芸をやっていた記憶はないが、妙なほどに服を作ることにおいて拒絶感は無かった。良し悪しは分からないが、服屋で売っている品と比べても違和感が無いとは思う。
 服代を抑える目的で始めたのだが……まさか自分以外のものを作ることになるとは。
 むしろ、女物の方が腕が鳴っている。きっとこれが得意、という気持ちなのだろう。
 水色の糸で縫った白のシャツ、ふくらはぎを隠す程度の長さの黒いスカート、そして黒のカーディガン。作成中に一言も声を掛けなかった夜下は、服ではなく、じっと俺の手を見ていた。
 手を振ってあげると、すぐに夜下は俺の目を見る。
「時くんは優秀な人間なんですね。どこの星の人なんですか?」
 ……俺は衝撃を受けた。彼女の無垢な質問に、常識という名の小さな箱をバッサリと斬られたかのような、とてつもない開放感に晒される。
 異星人を見た記憶のない夜下が異星人が居ることを当たり前のように言う。それが子供ながらのくだらない妄想で片付かないということは俺が理解している。夜下の言動は全て正しいのだと内心は思っているのだ。
 優秀? どこの星の人……? 俺以外の人を見たこともないくせに、どうしてそんな言葉が出てくる?
 そして、俺は彼女の認識に助けられた。俺はこの地球で産まれたにしては才能に溢れすぎていた。その答えに別の星だという選択肢が加えられることにより、己の存在意義に繋がる心の柱が一本立つ。
 ……ここは合わせた。夜下にこの国の常識を語らずに。
「さぁな。俺は目が覚めた時にはこの星に居た。別の星の人なんて見たこともないし、聞いたこともない。本当の親も知らないし、この国の文化さえ知らなかったんだ。──ほら、着てみろよ」
 服を夜下に渡して部屋を出た。二階から一階に降りて、リビングに入って壁時計を確認する。六時だ。
 何気なく冷蔵庫に手を掛ける。すると、頭の中で夜下の顔が思い浮かんだ。
 ……あれって、美味しくないってことだよな。
 残念ながら、俺に料理の才能はない。その代わりどんなゲテモノだろうと可もなく不可もなく食べられる。美味しさの基準が分からないのだろう。
 夜下は必ず気遣う気がする。俺が不味い料理を出しても、完璧な演技で俺の不安を解消するに違いない。
 ……コンビニで弁当でも買うか?
「時くん、似合うかな」
 夜下の声に振り返ると、そこには背が小さいだけの美女が居た。
 シャツの襟に細く黒いリボンを通して蝶々結びにし、また同じく黒いリボンで後ろ髪をひと束にしている。たしか髪を結うにも高い技術力が必要で、バランスよくするためには鏡を見たほうが良いというのは聞いたことがある。
 しかし夜下は完璧だ。凛々しさ、愛らしさ、親しみやすさ、好かれるための全ての要素が存分に発揮されている。
 彼女の成長した姿を想像するだけで恐ろしいぜ。
「……いいんじゃないか。夜下は何を着ても似合うよ」
 彼女はスカートをつまんでひらりと揺れ具合を確認したあと、小さく微笑んで納得する様子を見せた。それから俺の隣に移動し、包丁を手に取る。
「料理ならレシピを見たので、私が作りましょうか。きっと満足出来るものが作れるはずです」
 ……想像が出来ない。アメリカ、イタリア、イギリス、中国、ロシア、どの国の人種にも当てはまらない唯一無二の謎の女が作る料理とはどんなものなのか。
 そもそも冷蔵庫の中にはろくなものがない。割引された賞味期限の近いものばかり買っているから備えが無いのだ。何を作るというのだ。
「やってみろよ」
 さっと身を引いて、台所の中央に夜下を立たせる。二段足場をそっと置いて、部屋の隅に座った。
 夜下はまず、冷蔵庫を開いて……。
「『男子厨房に入らず』。時くんには時くんのやるべきことがあるでしょう?」
 夜下はこちらを向いて朗らかに微笑む。それは男女問わず、人ならば誰でもハートブレイクするであろう可愛さだった。
 余程俺に料理をやらせたくないのだろう。オーラからして、性格的に物事を強く否定したり、避けたりするような所は見られなかったが、今回は大きく変化している。
 彼女の中には越えてはならない何かがあるのかもしれない。そう、例えば受けた恩義は必ず返さねばならない、などの矜持を。
 それとも、考えすぎかもしれないが、親のいない俺に他人以上の人の温もりを伝え合いたい……というのは。
 今の考えは口にも行動にも出さなければ気持ち悪くはない。俺は確かにそう思った。その想像に従って自室に戻ることにした。
 視界に入れるのは服の素材。夜下の気が済むまでずっと一緒に居られるように、俺が夜下とずっと一緒に居られるように、やりたいことをやろう。
 まず可愛いのはいらないな。かわいさというのは内面にこそ表れるんだから。




 鮭の塩焼き、砂糖多めのネギ巻き卵、トマト入りの味噌汁。賞味期限待ったなしの具材がたっぷり入った炊き込みご飯。
 ハイレベルだ。見た目と匂いで旨さがすでに伝わってくる。
「初めてにしては、及第点と言えるでしょうか」
 それらにそぐわない不満気な夜下は、普段から俺の使っている箸を見事に引き抜いて俺に渡した。
 馬鹿な、ありえない。記憶を無くしていなかったとしても、六、七歳でこれほどの質のいいものが作れるというのか?
 もしも彼女が高校生にでも成長しようものなら……男が放ってはおかない。
「……いただきます」
 汁椀を持って味噌汁をすーと飲む。トマトと味噌の究極的なバランスで、味噌汁なのにさっぱりとしている。むしろ夏の暑い日にぴったりだ。
 鮭の焼き具合も焦げを付けないギリギリの火加減で、中までしっかり焼けている。箸で割っても殆ど小さな欠片が生まれない。強いて言えば、すこし塩を入れすぎていることか。
 しかし、ネギ巻き卵の甘さがその癖の強い魚の味とネギの青臭さを和らげている。これならご飯も味噌汁も食べる順番を気にせずにそのままの味で食べられる。
 炊き込みご飯の方は……なんということだ。調味料で素材の味を上書きしてやがる!
 美味しさよりも栄養重視で作られているようだが、それでも今まで食べた物の中で一番美味しかった。母の味だとか、学校の味だとか、そんな思い出補正など消し飛ばすほど完璧。
「水道水です」
 そして冷蔵庫にあるお茶でもなく、ジュースでもなく、ただの水をコップに注いで出される。
 これを喉に流し込んでやると、舌が今までの味を消して、一口目の美味しさがまた味わえた。
 料理というのはなんとも合理的なものだ。食べ飽きただ苦いだ甘いだ、そんなわがままが人間に許されるのは、全て料理のせいなのだ。
 何も言わずに目の前のことにだけ集中して、結局、味の感想も言わずに食べ切ってしまった。夜下は空の皿を下げて、俺に背を向けて洗い始める。
 俺は黙って洗面台へ行った。
 時刻は七時半だ。そろそろ夜下を一人にしなければならない。
 たまらなく不安になる。俺の予想を越える最悪な事態がもしも夜下の身に起きれば、俺は彼女を救ってやれない。
 俺の住む平和なのが取り柄の町で、ありえないと思って除外していた惨劇が起きた場合どうする? 宇宙人がやってきたり、神が降ってきたり、魔物が徘徊しだしたり。そんなことが起きない保証はどこにある?
 夜下というイレギュラーが思考回路を無理矢理広げてくる。夜下の心の清さに庇護欲が掻き立てられる。
 だが……夜下の賢さなら……心配はいらないはずだ。
 身支度を整えて夜下の元へ戻ると、彼女はさっき俺が作った黒の手持ち鞄を持って俺を待っていた。
「行こうか」
「はい」
 ……そして俺の後ろをついてくる訳だが、ある不思議なことが目についた。
 夜下が普通に歩いている。怪我など庇わないように、傷があったはずの足の裏を床に付けている。
 白の靴下には血は滲んでいない。むしろ、あまりの形の良さに気味が悪くなる。
 玄関では俺の履けなくなった靴を夜下に渡し、朝の空を眺めに行った。
 今すぐにでも嵐の来そうな曇り空。荒々しい風が夜下の尾を揺らす。
「どのみち夜下と帰るんだ。鍵は渡しておくよ」
「……これが鍵ですね。受け取りました」
 物を渡す時、僅かに夜下の手に触れる。冷たい。緊張しているのだ。自分の行動に自信がなくなる。
 しかし、それを察知したのか、夜下は俺の手を両手で包んで笑みを作った。
「私よりも温かい。羨ましいなぁ」
 俺も夜下もどちらもどちら。不安な未来を避ける為に頭と体をクールダウンさせている。
 それでも俺達は余裕であるべきだ。俺は紳士……淑女をエスコートするんだろ?
 彼女の左手を手に取り、俺も笑って見せて引いていく。あんな弱々しい彼女に、あんな励まされ方されて、なよなよしていられるか!
「時くん」
 背中に夜下の声が当たる。俺は振り向かなかった。
「どうしてあの橋の下の私を通り過ぎず、すぐに駆け付けてくれたのですか? 通り過ぎて、やはり放っておけない、そう思って近づく性格だと私は分析していました。ですが、時くんはおかしなことに一目散で助けてくれたのです。何故ですか?」
 ……口調で夜下の気持ちを読み取れる。今は凄く真剣に話している。
 一番分かりやすい言葉で、一番使いやすい組み立て方で、一番聞きやすい話題で、何が何でも俺の気持ちを知りたいのだろう。
 ならば言ってやる。聞け、俺の気持ちを。
「君が……女の子だったからだよ」
 夜下は……返事をくれない。風が桜の花びらを消し飛ばし、俺の頬を掠めた時、再び夜下は話しかけた。
「私は……わたしは、時くんのこと離したくありません。けれど……きっと人は、頑張ることでしか生きていけないのでしょう。何かに耐えて、何かをやり過ごし、何かを押し付ける。その不幸と幸福の奪い合い押し付け合いを、頑張るという言葉で循環させているはずです」
「……」
「それでも時くんは頑張らない。何かを否定する。時くんは何かではなく、明確な目標の為に尽力する人なのです。だからわたしは時くんが燃え尽きて消えてしまう前に、消えないようにそばに居たい。時くんと一緒に生きたいです」
 ──振り返った。夜下の肩に手を置き、目を見てはっきり言う。
「俺、絶対に夜下を一人にはさせない。進むも退くも常に一緒だ」
「……はい」
 夜下はにっこりと笑った。分かりやすいくらいに嬉しそうな表情を返されて、俺はより一層増して気を引き締めた。
 好きな子は……何が何でも守らなきゃな。




「あら、早いのね。いつもギリギリに入って来るのに」
 一年三組の教室に入り、すぐに色図は俺に声を掛けた。
 真紅の長い髪が周囲の存在を圧迫させる程に綺麗で、宝石のような真紅の目は彼女が人であることを否定する。
 人というにはあまりにも美しい。
「たまたまさ」
 俺のテーブルの上に腰掛ける色図を避けて、少し席から離した位置で椅子に座る。
「一体どんな心境の変化が起きたのかしら。人との関係を極端に避ける貴方が、学校生活の本質を見抜けていないはずがないでしょうに」
「もったいぶるんだな。俺が人を避けてギリギリに来ていたからおかしいと思ったんだろ」
「物事の本質にこだわる人は嫌いだわ」
「それなら小学一年生でそんな言葉使いしてるのは異常としか言えないな」
「ふふ、本当に小学一年生なら、ね」
「なんだよ……もしかしてその見た目で本当は歳食ってるってか?」
「普通はそうでしょ? 私と、占七と、文田は同じ養護施設で拾われた親のいない記憶喪失のみなしご。その三人とも知能が異様に高く、髪も目も普通の人にはありえない色をしていて、さらに運良く三人とも義理の親を同時に得た。仕組まれているとしか言えないわ」
「そんな話、するとは思わなかったな」
「貴方居ないじゃない、この時間」
「で、仕組まれているって話か。確かに記憶が無いにしてはやたらと事がうまく行き過ぎた。やったこともないものをやれることが多々あった。これが……もしもの話、大人の脳を子供に移植して、何らかのダメージを受けて記憶がなくなっている状態でも、潜在記憶で体が覚えていれば……」
「可能よ。でもね、例え大人の知恵を身に宿したところで、全員が天才児になるはずがない。私も貴方も特別なのよ」
「つまり俺達は異星人という可能性はないか? 明らかに他の人間と能力がかけ離れている。この地球で誕生したというにはそちらの方が不自然だ」
「……そこは視野には入れてなかったわ。例え私達が宇宙人でも、日本で暮らすことに不便はないもの。むしろ、占七が視野をそこまで広げることに驚きよ」
「ああ……。そろそろ自分を見つめるべきだと思ったんでな」
「日本男児が泣かせるね」
 色図は足を組み、仰向け気味にこちらに顔を向けた。
「……私はね、まだ会って一年しか経っていないけど、占七のこと魂の友だと思っているのよ。いえ、前世から知り合っていたのかもしれないわね」
「またその話か。飽きないな」
「ねぇ、あんな家ではなくて、私のところに来なさいよ。どうせまともに親らしいことなんてしてくれないんでしょ。きっとうまくいくわ、これは確信と言うものよ」
「文田にも言ってやれよ」
「嫌よあんな気持ち悪い男なんか。可愛い妹に可愛い使用人、大金持ちの家で常に豪華絢爛な生活を送っているんでしょ」
「それが逆に不気味だっての。色図は普通の家庭にしちゃ善人過ぎるのかもしれないが、俺の家庭が最も普通なんだ。気持ち悪いのは俺達なんだよ」
「さてどうかしらね。比率の問題でしかない気もするけど……あらあら、噂をすれば」
 お兄様~お兄様~と黄色い声がやかましく聞こえてきたと思えば、文田とその義妹の手映咲【てえさ】が教室に入ってきていた。
 紺色の髪と目をした、いかにも性格の良さそうな面をしている男が文田狩縷【ふみだかる】で、金色とはとても言えない、原色の黄色のような色をした長い髪と目をしている、物腰柔らかそうなお嬢さんが楚園宮手映咲【そぞのみやてえさ】だ。
「──流石ですお兄様。宙を舞い散る桜の花を手刀で切れるようになるなんて、達人の領域に踏み込んでいます」
「へへ、まぁね。集中力が肝心なんだよ。頭の中のイメージをどれだけ体に伝えられるかって感じで」
「わぁ! ダジャレも一線級です!」
「分かる? やっぱ手映咲は僕の自慢の妹だよ!」
 ……なんと低レベルな会話なのだろう。頭の中にクソでも詰まってるのではないだろうか。
 しかし、文田のにやけた顔を見ていると、むしろ馬鹿なくらいが楽しいのだと勘違いしそうになる。忌々しい。
「まあ! 和々切君がこんな早くにいらっしゃるとは、アラレでも降るのではないでしょうか」
「そこは雪だよ~」
「流石お兄様、言葉選びも卓越なさってます!」
「あ、もしかしたらコンペイトウかも」
「甘ーい! 漫才の才能もお有りなのですね」
「へへ、分かる? 僕大きくなったらお笑いタレントになりたいんだ」
「漫才師とちゃうんかーい! なんて」
「あっはははは! 手映咲面白いよー!」
 彼らの仲睦まじい姿を見た色図は「気持ち悪」と小言を漏らした。
「それはともかく。どうしたのですか和々切君。何か悩みでも?」
「いや……ていうか、朝の会の十分前に来ただけで大袈裟なんだよ」
「私の知る和々切占七は自分の意思を絶対に曲げない方です。何かあったのではないですか」
「……はん。楚園宮は体裁を保つのに必死だな。心配するフリも周囲に人がいる時にやるんだもんな。それと俺は和々切時だ」
「いえ、私は私として……」
 たじろぐ……という表現を使うには、ただの弱々しくなった普通の少女の反応を返した。しかし一瞬だけ文田の顔を見た後、すぐに表情を改める。
「……いえ、そうです。楚園宮手映咲は楚園宮小学校を創設なさった叔父の姪なのです。それに相応しい教養がありましょう?」
「いや……俺が悪かったよ」
「──もう! おちょくってるんですか!?」
 手映咲は顔を赤くして怒鳴りつけた後、ふんすかとしながらも俺の隣に移動した。
 すると位置からして色図と手映咲の間の隙間を埋めるように文田が入る。
 いつもの四人だ。
「おっと……そうね本題ね。占七は自分のことを異星人と思っているそうよ」
 どうやら本日のテーマは『異星人占七』になりそうだ。
 進行役が色図で、議論は文田と手映咲。俺はさしずめ問題提起をする立場か。
 そうだな……ここでトイレに行って逃げることも出来なくはないが……友達の知恵を借りる機会でもある。
 分かりにくいが、彼女達は本気で俺の悩みを感じ取って心配してくれている。ありがたいことで。
「異星人? それってつまり、僕と維崎【いざき】のことも異星人って思ってるの?」
「そうでしょうお兄様。なにせ、和々切君は維崎さんとお兄様の同期と呼べる存在なのですから」
「すごい発想だね。維崎はどうなの?」
 文田に話を振られ、色図はムッとする。
「『馬鹿じゃないの、頭の中にクソでも詰まってるんじゃないか』……と、普通の人なら口に出すでしょうね」
「そうだね」
「けど私達は人間と呼べるほど、人間ではないはずよ。異星人だと神様から言われれば納得出来るほどの力がある。そしてその力が占七の意見を否定することを拒否している」
「現状に甘んじることに飽きたのかい? 例え異星人だったとしても、僕達はこの地球で生きて骨を埋める。異星人の何が重要なの?」
 色図は文田の回答に返答出来る材料を持っていない。色図も文田と同意見だからだ。
 ただ彼女が彼を嫌いなばかりに同調したくないだけで……。
「占七、出番よ」
「えっと……俺はな、文化レベルと進化レベルを懸念している」
「進化レベル……? まるでモンスターみたいだね」
「お兄様黙って」
 手映咲の制止に声は出さないが文田はぎょっと驚いた。
「俺が異星人だとして、別の星からこの地球にやって来るとする。するとどうやって来たのか、そこが問題なんだ」
「和々切君の知りたいことは、異星人にはこの地球に来訪する手段があり、侵略されるかもしれないとお考えなのですね」
「いや……」
 ……手映咲はなぜ、俺の会話について来れるのだろうか。しかも、侵略? どうしてそんな言葉が出て来る?
「文化レベルが科学だとすれば、進化レベルは自然の力だ。人は牙を無くしたかわりに銃器という強力な武器を得た。これは文化レベルが高いために進化レベルが上がらず、個体としての力が落ちた。逆に進化レベルが上がって強力な牙や爪、体力、耐久力、それらを得れば文化レベルなど必要なくなるはずなんだ」
「自分の身が強くなれば、他者との会話も必要ありませんからね。それの何が問題なのでしょうか?」
「俺はこの地球で暮らし、あることに気付いた。俺は力を振るわず他者との会話だけで生きられるし、会話をせずに力だけを振るって生きることも出来る。俺はレベルが高すぎるんだ。だからこの地球はもしかすると他の星に比べて圧倒的にレベルが低いのではないかと思ったんだ」
「それは……」
 手映咲は何かを言いかけて、顎に指を当てる。目線を下に向けて瞬きを二回すると俺に視線を合わせた。
「もしかして、記憶が蘇りましたか?」
「……は?」
「いえ、いえいえ、違うのならいいのです。それは置いておいて、元来、人は他者の存在なくして生きてはいけません。強さも弱さも関係なく、人は人だから文化が必要なのです」
「それが宇宙船を作るまで必要だとでも言うのか?」
「住む星の資源が無くなれば宇宙に出ざるを得ないはずです」
「そこまで言ったな? なら俺達は異星人じゃないか」
「異星人ならなんだと言うのです?」
「異星人なら……星に帰るべきじゃないか?」
 色図の眉間に皺が寄る。
「……日本は暮らしやすいわよ。死ぬほどね」
「日本は狭い。世界も狭い。俺達は宇宙に出るべきだ。そして俺達が異星人であることに文田も色図も疑問を抱かなかった。つまりだ」
 手映咲の顎に汗が伝う。
「宇宙船があると?」
「ああ、間違いなくあるはずだ。俺が異星人で『人間』ならばな」
 手映咲は文田を見た。馬鹿にしたっていい馬鹿な話でしかないというのに、切羽詰まって焦っているように見える。
 彼女の言いつけ通りに黙っていた文田は手映咲を見た後、腕を組んで俺を凝視する。
「面白そうだね……。養子といっても居候の身でしかない僕には、宇宙人として宇宙に帰った方がいいのかもしれない」
「お、お兄様……!」
「手映咲。確か君のお父さんって戦争兵器を作るのが仕事だよね」
「そうですが……い、いえ! お兄様のお父様でもありましょう?」
「違うよ。家族のいない人間は家族には入れないよ。それで……確か宇宙空間での戦闘用の兵器も作ってるよね。なんでかは分からないんだよ、でも知ってるんだ。星々を簡単に渡るくらいの宇宙船くらい作れるよね?」
「な、なな何を!?」
「宇宙船だよ」
「お、お兄様は……勘違いをしています。西暦二○○七年四月十一日の現在、未だ一般人が宇宙に上がれ無いほどに技術が未発達なこの時代で、子供の身である貴方達が宇宙に出られるはずが無いでしょう!? でしたら和々切君の仰るように、どこかに落ちている宇宙船を探してはいかがですか!」
「あれ、そんなに古かったっけ。てっきり西暦七○○○年だと思ってたよー」
「い……やだなーお兄様ったら……」
「じゃあ今から探して来るね」
「……お兄様?」
「僕は宇宙人なんだ。こんな技術が未発達な学校になんて価値ないよ。退学手続きしておいてね」
「お兄様ぁー!?」
 賢さの欠片もなく、いつも俺の言うことばかり信じてしまう愚かな男を、手映咲は追いかけざるを得なかった。
 文田の晴れやかな笑顔が俺に罪悪感を生ませることをさせない。良かったな、おめでとう。
 俺はおかしくって腹を抱えながら笑った。
「占七……まさかあなた」
「うっひっひっひ! 宇宙船なんかあるわけねーだろ! 例え異星人だったとしても、記憶を無くしている意味や俺達の幼さを踏まえて宇宙船を操作してここにやってきただぁ? ねーよ!」
「宇宙船って……けど貴方が」
「宇宙船の話を出したのは手映咲だ。はぁ、あーあ! カマ掛けて良かった!」
 どこか胡散臭い彼女の腹の内を探れて気分が良い。正直、まさか、手映咲に宇宙飛行を可能にする技術があるとまでは思わなかったが、これで星渡りの可能性が見出せた。
 ガールフレンドに最高のプレゼントをする方法ってのは、彼女にとって貰って嬉しいと思われるものを全て揃えておいて、必要に応じて贈ることだ。
 世迷言でさえ忘れない。それが紳士だ。
「……まったく、貴方の考えていることは難しすぎるわ。なのに放っておくととんでもないことしでかすんだから疲れるわよ」
「そう落胆するな。空へ行けるようになったらお前も連れてってやるよ」
「……家族のいない人間か……」
 区切りよくチャイムが鳴った。色図は俺の隣の席に座り、教師の到着を待つ。




 生きている意味を見失いそうになる程の退屈な授業を終えて、給食の時間がやってきた。
 給食係から料理を受け取って、全員が席に着いた後に号令が掛かる。
 いただきまーすとキーキーやかましく全員が言った後、食事の始まりだ。
「なんでさ、なんでこんなところにまだ通わなくちゃならないの?」
「お兄様に足りないものが学べるからです!」
「えー、面倒だよ」
「特に忍耐力は身に付きそうですけれどね!」
 離れた席に座る文田と手映咲は、四人席を合わせて隣のクラスメートを困らせながらぎゃーぎゃー騒いでいる。
 ……眺めていると、手映咲は普段から文田のことを慕っているように見えたが、実際は表面だけで本心は嫌っているのではないかと思えてきた。
 俺には心を読むことはできないから断定とまではいかないが。
「よー侍。ちょっかいの出しすぎで夫婦喧嘩しちまってらー」
 俺の前の席の井田【いだ】が、今は席を合わせているために隣で小突いてきた。
 彼のツンツン頭が頬に刺さりそうになるので押し退ける。
「……」
「なんだよ、反応ないのかよ」
「思うんだが……手映咲って俺に気があるんじゃね?」
 カランカラン……。俺の前に座る色図が箸を落とす。
 幽霊を見たかのように顔を引きつらせて、ぷるぷると震えながら俺に指をさす。
「貴方ねぇ! あんな黒幕のような胡散臭い女が貴方を好きなはずないでしょ!」
「だってさ……すきあらば俺の隣に立つんだぞ? 何かと話しかけてくれるし、笑うと可愛いし!」
「それは……けどねぇ! 女として忠告するわ! あの子は生半可な気持ちでは結ばれないわよ! 自分を殺す覚悟が必要だから!」
「なんだよ、なんでそんなこと分かるんだよ」
「女は分かるものなのよ!」
 ぷんぷん怒って、色図は左手で牛乳パックをバスケットボールのように回転させながら給食を食べ始めた。
 井田がそれをニヤつきながら、猿のように俺の肩をバシバシ叩く。
「女はまだお前には早かったようだな!」
「逆に女のなにを知ってるんだお前は」
「男のことを知らないってことくらいさ」
「女が男を知らないのは当たり前だろ……て、おい! ちっ」
 井田は言いたいこと言い尽くした後、俺を無視してカバのように食べている。
 ……生徒の席は五十音順で教室の左の席から一番二番と並んでいるのだが、男子から井田、和々切と続き、女子も同様となっている。
 その女子の中で一番最初の席に座っているのは郁天素麗【いくてんすれい】という何とも風変わりな名前の女の子だ。
「──なんだ、我を見つめおって」
 容姿はただの可愛い女の子でしかないのに、中身がイカれている。おかげで教師も触れたがらなければクラスメートも話し掛けないモンスターと化していた。
「いや、食べないのかなーて……」
「我のやり方に口を挟むか。愚かな」
「や、やり方? 素麗ちゃんどういうことだ?」
「『ちゃん』……? 貴様に蔑まれるほど落ちぶれてはおらん。この矮小な存在、我に触れることすらおこがましいのだ」
 今すぐにでもお手になられたフォークで殺してきそうなほど、殺意のこもった目で睨まれて、俺の体は自然と彼女との距離を取ろうとしてしまう。
 もしかして、朝の会話が耳障りなせいでお加減がよろしくないのでしょうか? 大変ですわ。
「落ち着けよ素麗。女の子がはしたないぞ」
 そこでツンツン頭がトレードマーク、熱い男の井田が郁天さんの給食を全てぶんどって、あっという間に食べてしまった。
 それには怒らず、鼻を軽く鳴らした後、郁天さんは席を立ち上がって教室を出ていかれた。
 他者を圧倒するオーラを隣で感じていた色図は郁天さんが居なくなった後、深く息を吐く。
「ああいうのとは関わりたくないわ」
「手遅れかもよ」
「井田さん……」
 井田は彼女が一番言われたくないであろう言葉を贈り、食器を片付けた後に郁天さんと同じく教室を出て行った。
 一気に寂しくなった俺達四人グループは、色図の食事の音だけが聞こえるだけになる。
 俺もさっさと食べて、さっさと休むか。
 給食袋から箸箱を取り出し、大人用の箸を抜いて物を口に運んだ。
「……なぁ、人は石油を手放せると思うか?」
「え……何だって?」
 色図は箸を止めた。
「肉に胡椒をかけて食べていた人が、自ら進んで胡椒をかけず味のしない肉を食べられるだろうか」
「何を言ってるの?」
「俺は今、非常に不満だ。愛のスパイスが欲しい」
「頭にクソでも詰まってるんじゃないの?」
 米、味噌汁、肉じゃが、ひじき、牛乳というラインナップに少しの感動も起こせず、黙々と完食した。




「ほらさ、僕って頭いいでしょ? 高校レベルの問題集は全て答えられるし、進学することになっても社会的弱者にはならないよね。だったら僕自身の希望で小学校に通わないって意思を表明すればここに来なくて済むはずだよ」
「学を積むだけが学校ではありません。お兄様、よく考えてください」
「友人関係なら和々切と維崎が居るから問題ないよ。児童相談所が来るって言うなら、養護施設と学校の生活の違いで周りと上手く馴染めないために心の整理をしているって説明すれば変じゃないよね?」
「そ、そうしたって、宇宙船を探して見つからなかったら今までのことどうするつもりですか?」
「宇宙船はあるよ。和々切は間違いなくあると言ったんだ。ねぇ、和々切」
 雑多の生徒が行き交う放課後の下駄箱で、背後に居る文田と手映咲が朝のことを延々と引きずっている。
 色図は離れたところでその様子を眺めており、助っ人としては参加してくれないようだ。
「……ああ、ある。俺達は異星人だ。異星人なら無くてはならない」
「僕達が記憶を失って、記憶を得た初めての場所は交番の前だったよね。あるとしたらその交番付近かな?」
「いや……俺の家の近くの石橋付近だと思う」
「なんで? あまり関係ないように思うけど」
「本来の俺達の文化レベルがどれほどだったかは知らないが、俺なら誰もが一度は目に入る目立つ場所に置くと思う。それをステルス迷彩だかで見えなくして、逆に他人に見つけられないようにする。『こんなところに宇宙船があるはずかない』って思わせるんだ」
「なるほど!」
 こんな馬鹿になにが成程なのか全く見当も付かないが、トリュフ探しの豚程度には使えそうだ。いや、豚は手映咲か?
「──待ってください! 分かりました! 分かりましたから! 宇宙船ならば私が作って差し上げます!」
 ……ようやく現実をかなぐり捨てて、手映咲は実現出来そうにない絵空事を言い放った。
 地球から木星まで行くとしても、どんなに宇宙ロケットが早くても二年は掛かる距離だというのに、未だ見つけていない人の住む星に行けるような宇宙船なんか出来るわけがない。特に、今の地球の技術では無理だと断言せざるを得ないだろう。
 手映咲の家の楚園宮家とは世界を支配できる程の権力があると聞いたことはあるが、果たして、何を隠しているのやら。
「本当!? 流石僕の自慢の妹だよ!」
「ええそうでしょう。お兄様がそこまで強情であれば応えてあげるのが淑女というもの。ただし条件が一つあります」
「なになに、どんなものでも受け入れるよ!」
「中学生になるまでのこの六年間を小学校で過ごしてください。小学校を卒業できたあかつきには、私から宇宙船をプレゼントします」
 ……なんと、まぁ、スケールの大きなことで。
 おぼっちゃまは「そんなんでいいの!?」と大はしゃぎ。万事解決したからか、手映咲の険しい目つきはなりを潜めた。
 もしも本当に宇宙船が出来たとすれば、文田には悪いが奪ってでも手に入れるつもりだ。時には強情になるのが紳士というものだ。
 そんなもの本当に出来るとは想像出来ないが。
 必要な情報を手に入れられたので、最早ここにとどまる理由はない。足早に彼らから離れる。
「何を考えているの、占七」
 色図の横を通り過ぎる間際に問い掛けられる。
「貴方らしくない。貴方はもっと現実を見る人間よ」
「俺にとってはこれが現実だ」
「子供でいる内はかな?」
 ──馬鹿にしやがって。
 力を示すほどに周りから面倒を押し付けられてきた。だから誰とも関わらないようにしようとしていたし、何もせずにただ生きていた。それをまるで本当の和々切占七のように扱われるのが無性に腹が立つ。
 俺は……生きる理由を見つけたんだ。これが本当の和々切時だ。
「変わったな、色図」
「私が……?」
「俺が好きだった色図はもっと笑っていた」
「……誰よ、それ」
 俺を見つめる真紅の目が俯いた時、俺はこの場を去ったのだった。




 目に衰えはなかった。一瞬一瞬の景色がパラリパラリと移り変わりながらも全てを記憶に収めている。
 肉を抜かれ、皮と骨しかないような顔も、陶器のような肌と人形のように完璧に作られた骨格はどの角度から見ても美しい。
 サラサラな長い銀の髪は老若男女問わず視線を釘付けにする。前に垂れた髪を耳にかき上げる動作でさえ、流れ星を見ているかのように輝いて見えた。
 生地から見て、服はおそらく市販のものだろうとは思うだろう。しかし、それらとは関係なく、一流の彫り師が造った彫像のような姿勢や仕草が一流の貴族であると分からされるのだ。
 彼女の周囲だけ空気が透明のように澄んで見える。色とりどりの本に囲まれながら、脳が辺りを白一色だと認識している。
 ──雪結晶の青い目が俺を捉えた。手元の本を棚に戻し、駆け足気味に寄って来る。
「お疲れ様です、時くん」
「ああ。疲れることはしてねぇけど」
「社会活動の予習のようなものでしょう? お疲れ様、だよ」
「そういう夜下はどのくらい読めたんだ? ずっと居続けられているのは不思議だが……」
「八百冊です」
 見れば……夜下は法律や資格、大学生用の教科書などの分厚い本が並んでいる場所に居る。それらを八百冊冊読んだということは、計算して一冊三十秒で休まずに読み続けたということになる。
 分かった。従業員が夜下を止めたり、警察を呼んで預かってもらおうとしなかったのは、子供らしからぬ本を読んでいるために、なにか成長できない病気でも患っている大人だと勘違いしたからであろう。
 もしそうならば、俺も初めて夜下を見た時に子供だとは思わないはずだ。
 彼女の才能に呆れてしまいながら、俺は店の中を歩いた。
「何か買いたい本はあるか?」
「『金銀夜』という小説と『ヴェセル・オンライン』というゲームの攻略本が欲しいです」
「きんぎんや……? な、なんだそれは。というかゲームないぞ」
「文字の並びと、その字を使うこだわりの深さに興味があります。きっと、私の精神を豊かにしてくれるはずです」
「ヴェセルオンラインとやらは?」
「超玄人向けのオンラインアクションゲーム『ヴェセルオンライン』。キルヘヴンスター社がヴェセルオンライン用のゲーミングマシン、ゲームをプレイするためのソフト、オンライン戦を実現させる為の有線よりもフレームレートを安定、ズレを一切無くす特殊な無線を使える無線機器の三点セットを販売していまして、月額料金無しで買ってしまえば何時間でも遊べることにより無職、穀潰し、そして大人から赤ちゃんまで大人気のコンテンツですよ」
「お、おお」
「この胡散臭さといい、時代をいくつも飛ばした最先端技術といい、過去を学べられる一番の古文書が古事記であれば、未来を知る一番の書物は『丸裸! 頭のつむじから足の小指まで舐め回せる完全攻略本ヴェセル・オンライン!!』の他ありません」
「そ……そうか」
「今ならなんとこれを期間限定9800円で皆様のご家庭にお届け致します! 2000年から2100年まで、あなたの一生に一度でも触れて欲しいから……! 赤字覚悟の大バーゲンセール! その名もヴェセル、『ヴェセル・オンライン』なのです!! と……店内放送でずっと流れているものですから」
「地球侵略もあながち間違いじゃねぇな」
 二桁もいかない子供だというのに、俺は既に今の暮らしや自分の住む家が消滅した時にどうやって生きるのかを考え始めていた。
 俺の中の現実が収まることなく広がり過ぎて、今まで生きているのか死んでいるのか分からないくらいに怠けて過ごしていたことを深く後悔する。
 さて、どうやって夜下を守ろうかな。今の俺には夜下を学校に通わせる力はない。そんなことも出来ず、どうして大切だと言えようか。
 ……手映咲なら、こんな問題なんて簡単に解いてしまうのだろう。金の力と権力の力で戸籍なんていくらでも作れるはずだ。
 しかし……出来るからと言って、やることとやらないことは違う。俺は手映咲に問題を預けてやらないのではなく、手映咲に頼らずに問題をやる。約束通り進むも退くも常に一緒だ。
 そのためには……夜下にはもっと賢くなってもらわなければ。
「こんなに分厚い本がたったの105円! 戦場において知識に勝るもの無し、今日から君もプロフェッショナルだ! って、店の方が看板を立てていますよ。人気なのですね」
「……ゲーム、買った方がいいのか?」
「退屈凌ぎにはなりますよ」
 ……夜下のことだ、二重三重にも俺の為に言っているのだろう。学校で孤立しているのも、恐らく、見破っている。
 このまま大人になれば、俺はきっと誰にも心を開けずに、生きていながら死んでいる人生を送るだろう。それを変えるべきなのは、まずは自分自身だ。
 世間から大人気らしいこのゲームを遊ぶことによって、俺は一つの話題を手に入れられる。それを使って人と会話し、友達を増やすことが出来る。
 ゲームは楽しめて、友達も出来る。金さえ払えば一石二鳥だ。
 幸いにも、本屋なのにヴェセルオンラインは販売されている。ダブルセットとかいう三点セットをもう一つ付けて15000円とかいう馬鹿げた商売もしているではないか。
 運命よ、そこまで勧めるか。
「時くん。おねがい」
 昨日までの泥と恐怖にまみれた面影はなく、輝かしいほどの白い顔で笑う。
 踏み止まろうにも運命の悪戯か、不意にポニーテールがさらりと揺れた所で、俺の理性は崩壊した。
 ヒョロヒョロの夜下と同じ重さであろう三点セット二つを持ち、カウンターの前に置いた。
「ください」




 大きな袋二つを片手で背中に掛けながら商店街を夜下と二人で歩く。
 今日の分の食材は家の冷蔵庫には存在しない。安値で買ってできる限りの節約をしてはいるが、どうにも料理が今一つで、惣菜ばかり買ってしまうのだ。
 はて、俺は服を作る才能はあっても料理の才能が無いのは何故?
 夜下の歩みが止まった。彼女は魚屋を見ている。
「──わぁ! みてみて! ちいさな魚がいっぱいだよ!」
 ……怖いくらいに幼い少女の声でしらすに指をさし、一瞬だけ俺の顔を見た後にカウンターの受付員の顔を見た。
 ぴょんぴょん跳ねて、気味が悪いくらいにテンションを上げ、あちらこちらに指先を変えていく。
「大きな貝さんに身の色が変なお魚さん。水槽の中には色んなお魚さんが泳いでる。ここはすいぞっかんみたいだよ!」
 らしくなく、大声で叫ぶものだから周囲から視線を一身に受ける。一体全体何を考えているのか。
 ……俺の予想を語ろう。夜下はまずあざとくも可愛らしい演技をして好意を持たれられるようにし、声を大きく出すことによって周囲の視線を集め、魚屋の認知度をあげようとしている。そして受付員は恐らく店主、志熊鮮魚店の志熊爺さん。
 ここまで店の利益になることをしたのだ。夜下の分厚い仮面を外せば、さぞかしがめつい顔をしているのだろう。
「お嬢ちゃん、見かけない顔だね。魚がそんなに珍しいかい?」
 目だけチラチラと店主の顔を見ており、話しかけられた瞬間に目を真っ直ぐ店主に向ける。
「お母さんがタイガくんのお家に住むことになったの。お仕事してるから買い出しはタイガくんが行くっていうから、私もついて行ってね、それでこんなに加工されてないもの初めて見たの!」
「そうかそうか」
 俺、もしかしてタイガ君なのか?
 人間関係において、学校では面白い話題には目がない。普通とは違うことに興味がありすぎて、良心や理性よりも欲に溺れるのだ。
 もしも和々切時が小学一年生でありながら、親も居らずに超絶美少女と一緒に買い物をしているという情報が少しでも学校の生徒の耳に入れば、たちまち俺の居場所は無くなってしまうだろう。
 なんと……思慮深い女の子なんだろう。
「この……あの、しらうお? 小さくていっぱいで、凄く透明で、わらび餅みたい! これどうやって食べるの?」
「塩で揉んで、水で洗って、酢に付けて食べるんだよ」
「生で食べられるんだね! タイガくんこれ欲しい!」
「待てよこれシラスだろ?」
「白魚としらすは違いますよ。白魚はシラウオ科でしらすはイワシの稚魚です。白魚は成体になっても小さいままで、郷土料理では卵とじにして食べるのが主流のようです」
「キャラ崩壊してんぞ」
 店主は突然理性を取り戻した夜下に首を傾げたが、瞼を擦って、今のは聞き間違いだろうな、と思ったのか態度を変えなかった。
「色が変って言った魚はカツオの刺身だ。初めて見るか?」
「かつおって、あの鰹節の? 刺身なんてあるんだ、欲しいなぁタイガくん」
「おいおい、今日はアサリだけ買う予定だろ。それ以外の金があるもんか」
「左手に持ってるもの見てください」
 期間限定、ヴェセル・オンライン三点セットダブルパック!!
「予約してたもの取りに来ただけだぞ。お前は馬鹿だなぁ」
「ヨカ、馬鹿じゃないよ! 割り算だってできるんだから!」
「X+1×5=58のXの数字は?」
「53」
「素敵だね」
 小学一、二年生の頃から割り算が出来ることが賢いという話が、中学生レベルの問題を即答するもんだから話が変わってしまう。
 俺は夜下をからかいたかったの!
 店主の体は彫像のように固まっていたが、夜下の視線が店主に戻ると、小さく何度も頷きながら舌を鳴らす。
「親が居ないわけだ。でも知恵がいくらあったって、子供は子供でしかないっていうのに」
「おじさん?」
 憐れみの視線を受けた夜下は小首を傾げる。親がどんな存在か理解出来ていない彼女には、ネグレクトという答えまで辿り着けないでいた。
「鮮度が命って言うだろ? 今日で白くなっちまうシラウオならやるよ。売れ残ったら腹ん中に捨てるしかないんだ、おらぁ、持ってけ」
 シラウオ、カツオ、ホタテ、アサリを氷を入れた袋に入れ、夜下に手渡した。
「わぁ、ずっしり!」
「坊主、財布を出しな。アサリの代金を貰おうか」
「あ」
 夜下はそのずっしりした袋を俺に持たせると、自身の黒のカーディガンのポケットから財布を取り出して三百円を支払った。
 何故買い物について来たという女の子が財布をもっているのか。何故既に大荷物を持ってる男の子にすんなりと重いものをまた持たせられるのか。突っ込み所がありすぎて、店主は呆れて笑っていた。
「はん、寄り道せず帰るんだぞクソガキどもめ」
 ありがたい言葉を頂きながら、その声と目力に背中を押されるように俺はその場を離れて行った。
 ……さて、俺はゲーム、ランドセル、魚……と、両手に背中まで荷物でいっぱいだ。手が自由な夜下はさらなる食材を求め、辺りを見回している。
 俺の視界の端には八百屋が映り、もしや……と身構えるも、そこはスルー。
 サビが目立つ薄汚れたスーパーマーケットの中へ入った。
「良かったですね、お魚こんなに頂けて」
「白々しかったがな」
「白魚だけに?」
「なんか嫌だなこの流れ」
 もしかして……魚の袋を持って八百屋で同じことをしても何も得られないから避けたのか?
 この考えはきっと間違っているだろうが、夜下はそう思われても仕方ない動きをしている。真相はどうかな?
 ……で、お嬢ちゃんは入口付近の買い物かごとショッピングカートを取ると、近くの野菜売り場から吟味するまでもなく恐ろしい速さでものを取っていく。はたから見ている俺はその野菜と取った野菜の鮮度を見ると、どれも比べて一番鮮度が良いものだ。
 肉売り場に進むんでも速度は落ちない。安くて鮮度の良いものを取っていく。タイムアタックでもしてるのか?
 動きが止まったのは鶏のたたきが売られている所だった。表面を炙っただけで中身は生の、刺身のようなものだ。
「食べてみませんか? 美味しそうですよ」
「……鶏の生だぞ」
「卵だって生で食べられるのです。生肉も食べられます」
 とか言って、かごに鶏のたたきを二つも入れた。生ものが好きなのかな。
 そこからは駆け抜けるように、冷凍食品や浴場タオル、各種洗剤に女物の下着。
 ……俺は夜下の後ろをついていきながら、夜下のことを考えていた。
 彼女の言葉には品性がある。言葉、声の使い方、体の使い方、それらは教科書……大衆に向けた本からできている。
 子が成長出来るように親が教育するとして、その教育の内容が人格の五割を作るというなら、今見えている夜下の五割は大衆に媚びへつらって作られた本によるものなのだ。
 では、環境から作られた人格の反対の、遺伝子による人格はどんなものだろうか。
 本では学べない心の真理。今までの行動から生真面目さと作り物を引けば良い。そうすれば多少は見えてくるはずだ。
 そうだ、彼女がどんな欲を持っているかだ。例えば彼女と似た境遇の色図は我が強い。知能、体力、美貌、それら全てが普通よりも上、なんなら最高値の能力を持っている。だからこそ周りの人間は彼女と関わる内に劣等感に苛まれ、挙句には、その自分のランクにまで彼女を引き落とす為にいじめが起きたり、二度と関わらないようになりもした。だが色図は周りと歩幅を合わせずに自分は自分らしく、自ら一人になった。だから彼女の友人は彼女と釣り合える俺と文田しかいないのだ。
 対して夜下どうか。環境の似た夜下は色図が絶対にしないことをしている。他人と歩幅を合わせ、さらには媚びたりもする。圧倒的なハンデを背負いながらも、他人の為にそれを補おうと必死になった。夜下の欲しいものが何か。その為にどこまで出来るか。どこまで……自分を捨てられるか。
 俺には夜下の心を理解出来ない。もしも出会ってまだ日の浅い、他人とも呼べる俺を欲しているのだとしても、俺なんかの為にここまで努力が出来る理屈が分からない。
 俺は……ゴミクズだぞ。
「またのお越しをお待ちしてまーす」
 気がつけば、買い物は既に終わり、夜下が受け取った大きなレジ袋二つに買ったもの詰めていた。
 総じてしまえば、夜下は今まで出会った人の中で一番良い子だということだ。それ以外の回答が浮かばない俺はよこしまな考えをやめて、詰め終わった袋を持った。
「重く、ないですか?」
「こんなもの大したことはない」
 実際に何の苦痛もない。たかだか二十五キログラムの荷物など、苦戦する方がおかしいのだ。
 夜下は財布だけ持って、好きに動けば良い。
 俺達は子供の声に車の走行音、人々の足音を聞きながら、夕陽の町を眺めて帰って行った。





 涙を流したのはいつの頃でしょう。
 わたしの世界を覆う青い空に出入り口はない。あったとしても、それはわたしが通れるものではなく、あくまであの方のもの。
 元よりわたしはわたしであることすら許されない。己の力は全てあの方の所有物であり、己の意志で使うことも壊すことも禁じられている。
 大地を干からびらせることも、崩させることもせず、暑さも寒さも感じさせない生真面目な太陽は恵みをもたらしている。それだけであの方の存在を証明していた。
「ああ……支配者様。わたしに知恵をお貸しください」
 木々の闇に紛れ、心に意識を集中する。わたしの……心の隣人は快くわたしの想いを受け取ってくれた。
 これは魔法でも──ヨライエスでもない。始【はじめ】の力でも、虚【うつろ】の力でもない。
 終【つい】の力──。
 ……わたしは世界の果てを見た。
 宇宙の全てを知った。
 人の可能性の分岐点を全て覚えた。
 生物の原初に触れた。
「愛する者の鼓動を感じました」
 生きる為のこれからの試練を思考内に並べると五つある。
 心を壊すこと。死ぬこと。殺すこと。滅ぼすこと。そして……負けないこと。
 このままチリになって消えていくか、苦しみ悶えて生きるか。死ぬよりも恐ろしい針のむしろを進むことが分かっていながら、無知の幸福を投げ捨てて既知の恐怖を味わおうとしている。
 わたしは……同胞を裏切った。
 空の景色が歪む。黒い渦はやがてもう一つの世界を開き、侵略が始まるだろう。
 しかし、このまま動かないでいれば侵略者は全滅してしまう。わたしが自由になれる数少ない機会。
 ……さぁ、地獄に行こう。死にたくなる程の拷問の後には幸せが待っているから。
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