無想無冠のミーザ

能原 惜

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第一章 「占拠された花園」

三章 まとめ

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 薙刀なぎなたというのはご存知だろうか? 棒の先に切れ味の鋭い日本刀みたいなものを取り付けた斬撃特化型武具である。
 あれを使うときは周りの敵を殺すためにぶん回し、戦闘で他の武具よりも優位に立つ為に造られた。
 だが、集団戦争をする兵達にはそのぶん回すというのはやりづらく、仲間に当たりそうになることから別の武具が採用され、退化していった。
 やがて薙刀は僧侶や婦女子が使うものとなり、その印象はとても一般兵士が使うものだとは考えつかないだろう。
 俺も薙刀は女が使うものなのだと感じ始めている。
「……! ……っ! …………!」
 俺を盾替わりにして鋭利な視線を周囲に振り回し、とあるご機嫌斜めな白猫様は部屋の寮長室の人達を近寄らせない。
 例外としてこの寮に着いて初めて出会った少女がその白猫様の後ろに居る。名前は白火しらび圭弥よしみと名乗っていたっけ。
 そう言えばだが、白猫は確か不吉の猫らしい。不吉といえば黒猫が思い付くだろうが、あれは福の猫だ。
「いやーすごいね君。その子になにをしたら懐くんだい?」
 背丈が高く、どこかのプロレスラーのような巨漢の男の寮長がソファーをギシギシ言わせながら訊いてきた。
「は、ははは……謎ですよ」
 俺も寮長の向かいのソファーに座っており、酔いも軽くなってきたところだが、俺のソファーを介して真後ろに張り付くフリアエに落ち着くことが出来ない。
 息遣いもダイレクトだからなぁ。
「もしかするとよ、撫でて懐かせたんじゃね?」
「それはあるねー!」
 細身のザ・イケメンな寮長のパートナーらしき男がそう言うと、寮長はそれに同意した。
「古代嗣虎君、試しにその子を撫でてみせてよ。どういう反応をするのか気になるんだ」
「え、えぇ俺は構いませんが……」
 寮長の無茶振りに困惑を隠せないが、一応フリアエの方へ向く。
「……。」
 今までの睨みが無くなり、不思議そうな顔で向き返される。
「ごめんよ」
 俺は出来るだけ人に対してするような手付きでフリアエの頭を撫でた。
 するとフリアエはしゃがみこみ、寮長とそのパートナーの視界から入らないようにしてしまう。
「……ふぅん。その子は本当に君だけに心を許してるようだね。もしかしてはにかんでるんじゃない?」
「ははは、そうみたいですね」
 実際は物凄い無表情である。今ので俺への信頼は全て消し飛んだんじゃないか?
 まぁ、こうしないとフリアエに関わってくれなくなりそうだからやったんだけれどさ……。
 もう一度フリアエの方を向いた。
「……」
 次は不思議そうな顔であり、俺は驚きと共にフリアエがどういう判断基準でそんな風に表情を変えるのかと考え始める。
「そうそう、さっきヘラさんから聞いたんだけどさぁ」
「ええ、はい」
「その子には目隠しが必要らしいよ」
「め、目隠しですか?」
 なにそれ。
「詳しくは教えてもらえなかったけど、その子の五感が特化していて普通の人よりもたくさんの情報を取り込んでしまうから、その一部を封じて心配りの通じる状態にしとかなきゃならないらしい。多分その子のポケットに布が入ってるはずだよ」
 寮長の説明を聞いてますますなにそれである。ミーザというのは確かに人造人間だから普通の人よりも高性能に造ることは出来るが、そのコントロールの為とはいえ視界を封じるなんて勿体ない。
 しかもそんなことをしたら怖いのではないだろうか。
 後ろのフリアエはスカートのポケットから黄色の布を取り出し、それを俺に渡した。
「いや渡されても……」
 何故に俺へ渡す?
 感触からして薄く、光を通せば透けて見えるくらいには救いがあった。これをフリアエは目隠ししなければならないとは、一言では言い表せない気持ちを抱く。
「着けてやればいいんじゃねーの? ……おっと睨まれてる~」
 寮長のパートナーが発言した瞬間にフリアエが睨む。
 何か恨みでもあるのだろうか……あるから睨んでるのだろうけれど。
 俺は抵抗がありながらもソファーから立ち上がり、フリアエの後ろに回る。フリアエは後ろを向いて不思議そうに俺を見つめた。
「前向いてろって」
 俺はそれだけを言って前を向くのを待つ。
「……」
 フリアエは五秒間俺を見つめた後、さっと前を向いた。
 柔らかな銀髪に触れながら布を巻き、眼球に圧を掛けないよう注意して固定すると一結びし、余った端の布を輪っかに通して無くした。
 台風を受けた時や掴まれた時にしか自然には取れないだろう。
 フリアエはそれが終わったことを感じ取ると、鼻をひくひくさせて俺の位置を把握し、すぐに俺の後ろに回った。
 白火はフリアエにぶつかりそうになるのをひょいっと避ける。
 俺は服の一部を摘ままれる感覚がした。その位置を見るとフリアエが左手の指で俺の服を摘まんでいる。
 俺はまた迂闊に動けない状況へ……。
「おお! 目隠ししているだけなのになんだか可愛らしくなってるね。ぃんや、あの目さえ無ければ完璧なだけか……ほうほう」
「そうですかね? 俺にはよく分からないです」
「元々可愛い奴ってのは感じてたが、これは間違いなく可愛いって奴だなー!」
「ええ、はい」
 俺はノリの良い寮長達に適当な相槌を打ちながらフリアエを心配する。本人からすればこれは嫌なことで、いちいちそれに指摘されたくないだろうと思うからだ。
 フリアエの様子を伺うと、フリアエは真っ直ぐと俺の顔へ隠された目を向けていた。睨んでるっぽさは無く、ただ普通に俺を見ている。
 少しは透けて見えるので問題はあまり無いが、どこか固いものが抜けたような表情だったのでこれで良いのか良くないのか分からなくなってきた。
「あの、寮長さん」
「お、なんだい?」
「話を戻しますけれど、部屋は一階の左端なんですよね」
「そうだね、その子と隣だから連れて行ってやってくれ」
「あ、はいもちろん。それと俺のパートナーが居るんですが、挨拶した方が良いですよね……?」
「ああわざわざしなくていいよ。おれ達はそこまで礼儀にこだわるタイプじゃないし、これから夕食を食べに行くからね」
「……夕食準備してなかったや……」
「古代嗣虎君も一緒に来るかい? 今日はファーストフードで食べに行くんだ」
「俺はパートナーが居ますし、フリアエを放っておくのも絶対出来ませんし、今日は色々とする事があると思うので遠慮しておきます」
「そうかい、立派だよ。じゃ、鍵を渡そうか」
 寮長はにっこりと自分の机に移動して中からリングに通した鍵束を取り出し、その中の三つを俺に手渡した。
「古代嗣虎君とそのパートナーの部屋の鍵二つと、その子の部屋の鍵一つを君に渡すよ。無くさないでくれよ?」
「はい、ありがとうございます」
「寮長様! 白火圭弥の部屋の鍵を忘れてます!」
 と、ずっと黙って話を聞いていた白火が声を上げた。てか叫び上げた。
「おっとごめん。はいよ」
 寮長は鍵を渡し、またソファーに座る。
「これで大体は終わりだよ。部屋を整えて、今日はゆっくりすると良い。入学式は七日後なんだからさ」
「はい、そうします」
 そう返事をした後にフリアエをどうするか一瞬悩んだが、フリアエの左手を掴んで扉へ移動することにする。勿論白火も付いて来る。
「失礼しましたー」
 軽くそう言って扉を開ける。
 はぁー疲れた寮長達に変な気の使い方してしまったかもなぁなんて過去を振り返っていると緋苗が笑顔で待っていた。
 俺は扉を閉める。
 また開いた。
「さ、部屋へ行きましょうね」
 緋苗は別に機嫌悪くそう言わず、むしろ清々しく先導する。
 なんだこれは怖い怖い。
 俺はフリアエが転ばない速度でゆっくりと付いていった。
「ふふふ、ふふふ……」
「ど、どうした、緋苗」
「ふふふふ……」
「ひ、緋苗?」
「その女の子誰ですか」
「え」
「その女の子誰ですか」
「え」
「説明してください」
 このままでは怒るだろうと何度も思っていたが、実際怒っている雰囲気を纏いながら訊いてくる。
 『?』のニュアンスを感じない為、どうやら強制らしい。
 俺は逆効果かも知れないと思いながら、しかしフリアエを第一優先にしてこう答えた。
「俺のもう一人のパートナーになったフリアエ」
「はい?」
「ゴッドシリーズってのがあるだろ? 稀に学校へ入学して俗世の生活をすると同時に学校の代表になったりするミーザ。普通は人の方がパートナーとして釣り合わなくて必要がないけれど……俺に託されちゃってさ」
 すると緋苗は俺の横に居るフリアエを見て、ゆっくりと手と手を繋いでいる部分に視線を動かす。
「目隠しプレイですね」
「ちげぇーわ!」
「つまり、私はフリアエちゃんと一緒に嗣虎くんのパートナーをすれば良いという訳ですね。あら? フリアエちゃんが震えてますね?」
 言い方として全く緋苗に信頼されてないんだなと反省すると共にフリアエに気を向ける。
「……!? ……! ……!?」
 フリアエの顔は緋苗に向いており、俺から一目で怯えていることに気付く。
 ヘラに対しては警戒しているだけだったが、明らかに緋苗には怯えている様子を見て、やはり緋苗は異常な存在なのだと改めて認識した。
 寮長が言っていた『五感が特化している』というのを信じれば、フリアエは緋苗から何かを感じ取っているのだ。
「どうしました、フリアエちゃん?」
「……!?」
 緋苗からの言葉で完全に怖じ気づいたフリアエは俺を壁にした。
「……何かしたのかよ?」
「ふふ、何にもしてませんね」
 本当に何もしていないのでこれ以上言える言葉が見つからない。
「……ひ」
 しかし、それでもフリアエは声を出してしまうほどに恐怖している。というか初めて聞く声がこんな状況だなんて最悪だ。
 とりあえずフリアエと緋苗が出来るだけ関われないように俺が間に立っておくべきなのだと考え、身体をずらしてフリアエを見えなくする。
 フリアエは小さい身体なので俺くらいであれば全部隠せる。
「あ、分かりました! 虎なんとか様!」
「うわ、いきなり叫び上げるなよ白火……」
 何故か付いてきていた白火が俺に話しかけてきた。
「私的分析の結果、フリアエ様はこの女の腹黒さに感づいて怯えたのです」
「あら面白い冗談ですね」
「ええい私を年下だからってなめる女が何を言いますか!」
「な、なめてなんかいませんよ? おかしなことを……」
「あなたは実際に人のことを空想であれこれ考えるような腹黒女ではありませんか!」
「そんな、そんなことは……ぐ」
 す、すげぇぞ。緋苗が年下の白火に何も言い返せてない。
 まぁ腹黒いというのは無さそうだけれどな……。腹黒かったらこんなこと言われて適当なことも言い返さず聞くなんてこと出来ねぇし。
「フリアエ様には虎なんとか様を介して私が付いています! 怪しい動きを見せれば私がガブッとしますから気をつけてください!」
「も、もう分かりましたよ。これからは気をつけますから……」
 緋苗は若干口をつかえながらも困ったような表情で白火の要求を呑んだ。
 ……何か隠してね?
 勘鋭く緋苗の不自然さに疑問を持ったが、問い詰めても答えてくれないだろう。
「ひぃ……。ひ……」
「けれどまだ怯えてるぞ。本当にどうしたんだ?」
「あれです虎なんとか様」
「なんだ白火」
「背中に氷を入れられた時の感触と同じなのです!」
「よく分からん」
 高齢者にしてしまったら大変なことになるからやめようね。
「それより、白火は帰れよ。そろそろ俺達の用事を済ませなきゃいけないからさ」
「いえいえ、虎なんとか様を放っておくことは出来かねます!」
「フリアエじゃなくて俺かよ……。後な、俺の名前は古代嗣虎だぞ」
「虎なんとか様ですね!」
「……」
 なんも言えん。この少女に対して言い返せる人って誰一人居ないんじゃないか?
 良くも悪くも(大体悪い)正論ばかり述べるので言い争いに勝てっこ無さそうだし、一応俺と同じくフリアエに警戒されないので居てくれた方が良いかもしれない。
 しかし、かわりとして緋苗が可哀想な目に合うのでそれはどうかと思う。緋苗と相性が良い人はここに居ないし……。
 かと言ってフリアエを白火に預けるのも得策ではないだろう。ヘラにフリアエを任されたのは俺なのだ。
 ここで三つの選択肢が思い浮かんだ。
一、白火とおさらばして緋苗とフリアエでこれからを話し合う。
二、白火とフリアエにおさらばして緋苗に今までのことを謝る。
三、白火とはおさらばし、緋苗かフリアエの二人の内一人を選んで今日を過ごし終わる。
 いや待てよ? 逆転の発想をするんだ。俺が白火と一緒にいて緋苗とフリアエで話し合ってもらうんだ。そうすればこのぎくしゃくも終焉を迎えるだろう。
 緋苗のパートナーとして、緋苗を信用しているのならこれくらいなんともないはず。
「しぃーらぁーびぃー?」
「どうかしましたか?」
「ちょっと二人で話し合おうか?」
「……ひ、ひぃぃぃぃぃ!」
 俺の満面スマイルに白火は顔を真っ青にした。
 恐らく何を言われるのか想像出来たのだろう。賢い女だな。
 俺はフリアエからそっと離れ、白火を引っ張って玄関に向かう。
「……!?!?」
 俺が離れることによってフリアエが首をあちこちに回して混乱するがあえて何もしない。
「緋苗ー! フリアエを頼むなー!」
「あの嗣虎くん私とフリアエちゃんってば滅茶苦茶相性悪いんですよね、だから置いていくのは──」
「任せたからなぁー!」
「そ、そんな……」
 緋苗の困り果てた顔を確認し、それでもやはりなんとかなるんじゃないかと期待した。



───
 わたしはこの女に見透かされている。見透かされているんだ。わたしが思考していることや抱いている気持ち全てを見透かしている。
 緋苗という女の顔は布越しでよく見えなくとも、匂いと声と空気に漂う熱の温度、なんとなく感じてしまう味がこの女の心を精密に覗けてしまう。
(どうしよう……何を考えてもフリアエちゃんを怖がらせてしまう。してしまったものは取り消せないし、どうしたら……)
「ひ……!!」
 わたしは既に嗣虎が離れていったことを知っていてもこの場で探さずにはいられない。彼はずっと助けてくれる、助けを求めれば無限に助けてくれる意志を持っていた。あの優しさにすがらなければ狂って狂って気持ち悪い、あの優しさを利用せずにいられない!
「あのね、フリアエちゃん」
 緋苗が下手くそな笑顔でわたしに近付いてくる。
(大丈夫、私はフリアエちゃんが心を読める子でも平気だから……ね?)
「来ないで……来ないで……!」
 わたしの中を這いずり回って全てを理解し尽くして、緋苗は明らかにわたしへ向けて心の中でそう言った。
 わたしが感じていること、汚い部分まで全てを彼女は分かっている。だからわたしが心を読めることも分かっている。
 そんなのイヤだ! わたしの誰にも言えない気持ちも今まで味わった苦痛も誰にだって理解されたくないのに! この女は全部理解出来る力を持っている、だからわたしの中身を見尽くす!
 わたしよりも、わたしだけが持っているはずの読心どくしんよりも優秀だなんて認めたくない! わたしの存在価値を下げる人がいるのはイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ……!
「わ、私はね、ただのミーザだよ? どこにでもいる人造人間の中の一人のミーザ。こう、どう伝えたら良いのか物凄く悩むけれど、私はミーザ、あなたはフリアエちゃんでしょ?」
「ぅぅぅ!」
「そんなに睨まなくても良いよ、フリアエちゃん。私とフリアエちゃんの性能は比較出来るものではないんだから。何も恐れることなんてないんだよ?」
「来ないでって言ってるのに! 来ないで来ないで来ないで来ないで!」
 この女のあらゆる五感がわたしの中に入ってくる。誰にも止められないほどに強くわたしを剥いていく……!
 すぐに視界から消えて匂いも嗅がせず音ももらさないようにしないとこの感覚は続くに違いない。
 でも動けないんだ。わたしの行動一つ一つが彼女にとっての分析材料なんだ。このままだと行動パターンまで読まれる、何もかもを読んでわたしの自由までもぎ取るんだ……!
「フリアエちゃん」
「な、なんなの!?」
「私の心を読んでみて」
 彼女の優しい声を聞いて悔しくも落ち着いてしまうわたしは、嫌々ながら情報収集の歯止めを緩めた。
 意図的な混乱状態を少し減らして彼女の心を読んでみれば、尋常でない不快感が流れ込んできた。
 気を抜けば吐き気を催すほどの訳の分からない気持ち悪さで彼女は自身を満たし、わたしに何を思っているのかを知らせない。
「ごめんね、でももう少し読んで」
 だが、それも段々と弱まっていく。それは一度巨大な塊となり、やがて砂のような細かくさらさらな状態となった。
 その時になってわたしは彼女の心を読めるようになる。
(あなかざむあなむなうなやがなぁさらなやなさねねめてゆゆゆゆよもととめめよゃががこゆでけけぬざやえつてねががゆさこたでゅねまどすのよへさゆけなかははみーざねばひげれ)
「な、何をした?」
 彼女は何も考えていなかった。考えていないというより、思考が成り立っていない。
 中身と外側が違うくせに、彼女は笑顔を向ける。
「過去の記憶を全て思い出して、脳を疲労させたの。今の私はまともももではないけど、フリアエちゃんにとって怖い存在じゃないよね?」
 ……彼女の言うとおり怖くはなかった。まるで人形のような印象へと変わり、わたしが不愉快になることはなくなった。
「ふぁ~……。じゃあ入っちゃおうか?」
「……?」
「何か食材があるかも……? 夕飯一緒に作りましょ!」
「!?」
 わたしは嗣虎の時より強引に手を引っ張られながら、彼女の部屋へ入った。


───
「──虎なんとか様、顔色悪いですよ?」
 白火が俺の顔を下から覗いて来るが一歩下がり、そっぽを向く。
「大丈夫だ。付き合わせて悪かったな」
「いえいえ平気です! 私の部屋はフリアエ様の隣、つまり虎なんとか様の隣の隣なのでいつでも遊びに来てください!」
「それならたまに行ってみるか」
「毎秒期待してお待ちしております! では!」
 そうビシィ! と敬礼したあと、寮内なのに走って一番奥の部屋へ向かい、入っていった。
 白火も不思議な存在だ。理解力や心配りは変な方向へ向かったりして悪いが、観察力が凄く高い。現に出来るだけ顔色を変えないようにしていたのにも関わらずすぐに気付いたのがその証拠だ。
 もしかすると俺の出会ってきた人達の中で一番キャラが濃いのではないだろうか。
 俺は脱ぎ捨ててあった自分の靴を、すぐ近くにあった靴棚を見つけ、緋苗が置いてある靴の枠の隣に入れた後、部屋へ戻ることにした。
 ここからでも二人が何やら話し合っていたのは聞こえていたが詳しくは聞き取れず、一体何があったのか気になっている。
 部屋に着き、ドアノブを回して少し引く。鍵は掛けていないのを確認し、失礼と分かっていながらも耳をすませた。
「……! 嗣虎が帰ってきた」
「……え? ごめんなさいね、もう一度言って?」
「嗣虎が帰ってきた」
「えっと? えっと……、嗣虎くんが帰ってきた?」
「それ」
「……? 帰ってきた……んだね。出迎えてあげて」
「分かった」
 緋苗は誰と話しているんだと疑問を持つと同時に、俺の帰宅に一瞬で気付かれたことにヒヤッとしていると、ばっと扉が開かれた。
「お帰りなさい」
 そこには目の布を外したフリアエが至極笑顔で出迎えていた。
 初めてちゃんとしたフリアエの声を聞く。とても大人びた印象であり、子供らしからぬ色気が混じった悪魔のような口調で、聴くだけで元気が出てくる女神みたいな優しい声質であった。
 俺は動揺しながらも「ただいま」と言って部屋に入る。
 中も廊下のような白壁に木床の部屋で、ダンボール箱だらけであり、当たり前だが引っ越したばかりの印象を受ける。手続き等は既に終わらせているから良いものの、これらを整理するのにはまた一苦労掛かりそうだ。
 ここには台所も小さいながら用意されている──と解説的な何かを考えるより先に、現在緋苗がそこを使っていた。
「ひ、緋苗……?」
「……」
「緋苗さーん……?」
「嗣虎くんお帰りなさい。待っててね、もうすぐで夕飯が出来上がるから」
 反応が遅れながらも緋苗は笑顔を向けて答えてくれ、手元の料理に集中し直した。
 俺は緋苗が何をしているのか気になりすぎて近付く。
「嗣虎くん」
 緋苗がコンマ一秒でこちらを振り向いた。
「うわ、な、なに?」
「男子厨房に入らず。料理を美味しく食べられなくなりますよ?」
「そ、そうか、ごめん。何作ってるか気になってさ……ははは」
「そうめんですよ。ダンボール箱にそうめんとつゆの二つが入っていたので湯がいて食べましょうね」
「ところでフリアエの件なんだけど──」
「ほら、座った座った! 手伝いは必要ありませんからね」
「あ……ああ……そうだな」
 俺の言おうとしたことを完璧に無視すると、緋苗はまた料理に集中した。
 緋苗の行動にどこか不可思議なものを感じる。受け答えがずれているというか、本来するはずの反応がないというか……。
 フリアエに視線を向けると、元々用意されていたちゃぶ台の前に体育座りをして料理が来るのを待っていた。
 白ニーソに包まれた足先を動かして暇を持て余し、数秒ごとに頬を緩める。彼女はとても落ち着いた様子で、先ほどまでの怯えっぷりは消え失せている。
 俺はちゃぶ台を囲んだ。
「どうだった? 圭弥よしみとの会話」
 向こう側に座るフリアエが微笑みながら首を傾げて訊いてきた。
 ……か、可愛すぎる。けれどどこか緋苗と同じ雰囲気をどうしてか感じ取れる。
「ああ白火のことね。すぐに終わったよ」
「あの女はなんだかんだ空気の読める女だから、勘違いはやめた方がいい」
 言い方が凄いが、その見透かしたようなことを言われて少し驚いた。俺ってそんなに分かりやすい行動を取っていただろうか?
「そうしないよう気をつけ──」
「嗣虎、わたしを見て」
 上辺だけでもと飾り言葉を使おうとした途中にフリアエから遮られる。
「嗣虎はわたしの声が好き?」
「え? あ、え?」
 何を言われているのか理解出来なかったが、今フリアエの声について考えると好きという感じはある。
 フリアエの声を聴いていると高揚感が沸いてくる。特別な声というか、今までこの声に似たものを聞いたことがなく、若干独り占めしたいという欲求のようなものがあった。
 まさか、声フェチなのか……俺……。
「……す、好きかもなー多分」
「そう、ならこの声も報われる。今度何かの本を朗読してあげる」
「え? 朗読って?」
「わたしはこの声がなくても別に構わない。でも気に入ってくれるのならいくらでも使う」
 価値観が違いすぎてよく理解できないが、どうやらいつでも声を聞かせてあげると言いたかったらしい。
 なんというのかな……相手に何をしてあげたら喜んで、何をしたら気まずくなるかというのを予想して変なことは言い出せないようになるが、フリアエにとっての変というものが常識と違うのだ。
 絞り込んで言うなら、フリアエにとって得意分野というのが全く無く、「あ、これなら具合が良さそう」みたいなのが出て来たら即行で利用するような努力の積み重ねをしていない性格。
 それって、寂しいと思うのは俺だけか?
 あと、フリアエは緋苗が怖くなくなったのだろうか?
「嗣虎はわたしの目をよく見てるね」
「そりゃあ話し合ってるから」
「わたしの目が好きだからではないの?」
「す、好きって言われても……、好みではありそうだな」
「ずっと見つめてあげようか?」
「こ、困る」
「不快ではないから好みなのでしょ? ずぅーと見つめてあげる」
 フリアエが俺を真っ直ぐと、笑みを浮かべながら瞳の奥を覗いてくる。心を読まれている感覚がじわじわと強くなり、目をそらした。
 どうしたというのだろうか。
「あのさ、フリアエ」
「なに?」
「こういうのはあまり良くないと思うんだ。だから普通にしていようぜ」
「なら切りの良いところまで耐えてて」
「あ、え、ああ……」
 今のフリアエはとても愉快そうな顔をしている。この一時を居心地よく過ごし、初対面の時の警戒心は欠片も見当たらない。嫌な趣味だぜ。
 緋苗のよそよそしい音の小さい足音が近付いてきた。
「そうめんとつゆですよ。ささ、食べましょうね」
 ちゃぶ台の中心にガラス皿に乗せているそうめんを置いて、俺達にそれぞれガラス器に入ったつゆを箸と共に渡す。
「いたたぎます」
 緋苗は座った瞬間にそう言って箸をそうめんに伸ばし、普通のよりも少なくすくってつゆにつけて食べ始めた。
 今までのやりとりは一切の無視。緋苗ってこんなに図太い神経の持ち主ではないはずなんだけれど……。
 するとフリアエは見つめるのをやめ、手を合わせてぺこりとすると箸を持った。
 ……その持ち方は幼児がするような握り箸だった。
 確かに幼児の頃だとその持ち方の方が上手く使えたが、成長すると逆に扱いにくくなる。しかしながらその持ち方とは。
 フリアエはそうめんを器用につゆにつけて食べる。
 可愛い。
 俺もそのそうめんに手を付けた。
 あれ? なんでよりにもよってダンボールで届けられた食べ物がそうめんなんだ?
 そこはかとなく謎であった。


───
 チリリリリリリリン! チリリリリリリリン!
 俺は目覚まし時計の音を聴いて飛び起きた!
「な、なんし何時!? なんしなんら何時なんだ!」
 夜更かしの影響でこの上ないダメろれつを吐き出して時間を覗くと、六時ぴったりであった。
「なんだ、まだ六時か……。おい、緋苗起きろ」
「んぅ……」
 隣の布団で気持ちよさそうに眠っている寝間着姿の緋苗に呼び掛けるが、体をもじってそのまま動かなくなる。
 このままではいかん。既に朝食を出してくれる人には必要ないと断っておいてある。しかも今日は俺達の入学式、甘やかすことは出来ない。
 しかしこの寝姿、男にはかぁいいすぎて起こすことは大変困難である!
 トントントン、と玄関扉のノックする音。
「嗣虎、起きてる?」
 聞こえてくるこの女神のような癒やしの声は……間違いなくフリアエだ。
 俺はふらふらと立ち上がり、玄関を開けに行った。
「おはようフリアエ」
「おは。嗣虎、そのままだと夜間陰茎勃起現象によるあさだちが起こるから鎮めて来ていい」
「はは、気合でなんとかする。さあ入ってくれ」
 とんでも発言してくれた小娘を中に入れると、俺は朝食の準備をするために備え付けた小さめの冷蔵庫から卵とパックに入ったキャベツの千切りを取り出す。
 何を作るか、想像は出来ている。出来ているのだが、果たして俺の腕で完成できるのだろうか……?
 俺は既にコンロに置かれているフライパンに熱を通す。
 何だったけな何だったけな、確か熱くなってから油を注ぐんだったよな。しかし前に家で見た白雪の料理では油を注いでから熱してたぞ……? それでも緋苗はフライパンが熱くなってからだったから……あれあれあれ。
 こぉれは不味いですねー嗣虎さん。お、嗣虎さん、そろそろフライパンが熱くなりますよ? 良いんですかねぇ? 油は最初か後か早く判断してくださいよぉ。
 お、俺は……後から入れるぞぉぉぉぉおおお!
 俺は待つことにした。
「緋苗起きて」
 後ろを振り返ると、フリアエは緋苗を覆っている布団を引っ剥がし、肩を揺らした。
「さ、寒いよぉ嗣虎くぅん」
「起きて」
 次にフリアエは緋苗を無理やり座らせ、また肩を揺らした。
 なんか……兵士っぽいぞ。
「ふぇ、フリアエちゃんだぁ。おはよー……ふぁ」
「緋苗、嗣虎が料理している。早くしないと惨劇を起こしてしまう」
「なんだとフリアエ!」
「だから緋苗がどうにかするしかない」
「ふぁ~むにゃむにゃ……。今は六時なんだねぇ……。一時間寝過ごしたなぁ……」
 緋苗は意外と寝癖の少ない長髪に一回手櫛を通して立ち上がり、俺の隣まで歩いて来た。
「あ、ちゃんと日頃の成果が出ていますね。そのフライパンは鉄製なので熱してから油を入れないと意味を成しませんよ。嗣虎くん、フライパンが熱くなったか確かめてください」
「あ、ああ分かった」
 俺は緋苗に言われた通りフライパンに触れて確かめようとする。
 緋苗は左手を俺の手の下に滑り込ませてそれを防いだ。変わりに一瞬緋苗の手が焼かれた。
「緋苗!?」
「はい大丈夫ですよ。確かめる時は手をかざすだけで十分ですからね」
 その後、こちらを向きながら手探りで台所の蛇口を捻って水を出して火傷の部分を冷やす。
「嗣虎くんどうでしたか?」
「あったかいよ」
「では油を入れてくださいね」
 俺は真下に備えてある油のボトルを取り、入れようとした。
「それは醤油ですよ」
「……あ」
 俺はすぐに本当の油のボトルと取り替え、今度こそ入れた。
 すると油が弾ける。
「うあっちちッ!」
「湿っていたようですね。嗣虎くんが昨日拭かずに放置するからいけないんですよ」
 緋苗にその油が直に飛び散っているはずなのだが、全く気にする様子はない。
 やがて飛び散らなくなると、俺は取り出しておいた卵を手に取った。
 細心の注意を払いながらフライパンの角で卵を割り、それをまずは一つ投入する。
 そして飛び散る油。
「あづづッ!」
「この程度は優しい方なので耐えてくださいね」
「え、あ、はいすみません」
 よく考えてみればそれ程熱くなかった。
 そして合計で三つ投入出来ると、緋苗から指示が出る。
「温度が高いですよ、下げてください」
「サーイエッサー!」
 俺は火が誤って切れないようにゆっくりとつまみを戻し、火を弱めた。
「パンはトーストしてないんですね、目玉焼き丼ですか?」
「そう、それを作りたいんだ」
「じゃあご飯を丼に注いで来るので焦げないように見ててくださいね」
「サーイエッサー!」
 緋苗はすぐに炊飯器の場所へ移動すると、食器を置いてある戸に手を伸ばし──。
「嗣虎くん、火」
「すみません」
 俺は向きを目玉焼きに戻した。
 丁度良い具合になる頃に緋苗が戻って来ると、手に持っているフライ返しを俺に渡す。
「目玉焼きが三つとも繋がっているので切った後、力を加えるんじゃなくて力を入れる時の勢いだけで掬って乗せてくださいね」
「流石に無理っす」
「返事はなんですか?」
「サーイエッサー!」
 俺はフライ返しを受け取り、先端で三つに分けた後、小刻みに腕を動かしてそれを綺麗に掬うと乗せていった。
 あ、案外やれるじゃん。
 次にキャベツの千切りも加えて、先程取り間違えた醤油を──。
「油ですよ」
「あ……」
 持っていた油を本物の醤油と取り替え、今度こそ目玉焼き丼に味付けをする。
 そして出来た、出来上がってしまった……!
 俺が、作った、成功している料理がぁー!
「完成しましたね、おめでとうございます」
「イィーーーヨッシャー!」
 俺はこの喜びを封じ込めておくことができず、ガッツポーズをしながら叫んだ。
 完成したそれは緋苗の手によっていつの間にか用意していたちゃぶ台の上に運ばれ、スプーンも差し込まれて朝食の場は整う。
「『いただきます』」
 朝は大体こんな感じだった。
 それからはフリアエには部屋へ戻ってもらい、個々で入学式への準備を始めた。
 俺は男子制服であるブレザー式のものに着替え、緋苗もブレザー式の女子制服をたった今着替えようと──。
「見てるのは気付いてますよ」
 緋苗が下のズボンを脱いで、下着が見え始めた頃にそう言われてどきりとしながら背を向ける。
 やっぱりミーザも人間……なんだよな。けれど料理の時に熱がっていない様子から人間とは別の造りなのだろう。
 出会ってから七日経っても進歩した関係まで踏み込めてはいなかった。
「緋苗が履くストッキングって黒色だよな?」
「カーキ色ですよ」
「え? あ、ああそうか……カーキ色とか初めて聞いたぜ……」
「嗣虎くんは女物の服に興味を持っているんですか?」
「そんなことはない、緋苗のことを少しでも知りたいなーってくらいで……深い意味はないんだぞ?」
「へ、へぇ、そうなんですね」
 戸惑った返事をする緋苗に言い知れぬこっぱずかしさを感じる。
 年上だからお姉さんのように接してくるんだろうなと思っていたが、なんというか、意外と子供っぽい?
 いちいち可愛いところを見せることがあれば、ちょっと物事に手間取った時には気弱になるし、雰囲気に幼さを感じ取れるのだ。
 ……要素を詰め込め過ぎているのは気のせいだろうか。
「もうすぐで……入学式が始まりますね」
 緋苗が話し掛けてきた。背を向けながらなので少し声を大きくして返事をする。
「緋苗は初めてか?」
「はい、初めてになります」
「恥ずかしいこと言うけれどさ……緋苗の隣には俺がいるから、困ることなんかないと思うぞ」
「はい、それなら平気ですね」
 自分の顔が少し赤くなっているのを感じ、血を顔から遠ざけるように上を向いた。
「フリアエちゃんも私達の近くなら良いんですけどね」
「ああフリアエか、フリアエは……」
 フリアエはゴッドシリーズのミーザだ。製造過程はどうであれ、最高性能を持つ人造人間を造る過程で消費した費用分の働きをしなければ、この世に誕生した意味を成さなくなってしまう。
 だからフリアエは入学式で全新入生に向け、ミーザの代表として立たなければならない。初対面の時のあの態度と受け答えからして不安しかないのが俺の心情だ。出来れば手助けしたいところだが、それはフリアエが求めなければ手出ししないだろう。
 些細なことで敏感に反応する、繊細な心を持っているからだ。
 あれから七日間接してきて確信を持てた。フリアエはとにかく繊細だ。繊細でなければなにである。
 表立つ性格ではないし、接し方に気をつけなければ一方的に傷つけてしまう。ならば俺がこれからすべきことは単純明快だ、フリアエを応援するだけである。
「フリアエちゃんとは別々なんですね?」
「ああ、残念ながら。俺が何かしてあげられると良いんだけれど」
 その時、玄関がいきなり開く。
「嗣虎、目隠しして」
 そこには新しい制服に着替えたフリアエが立っていた。
 俺は視界に緋苗を入れないようにしながら、フリアエへの対応に向かう。
「そのぐらい自分でできると思うぞ」
「躊躇してしまうように造られている。はい」
 そして渡されたのは漆黒の布。薄さはなく、恐らくこれで目隠しすれば何も見えなくなるだろう。
「いつもと違うじゃないか」
「今回は数百人の前に立たなくてはならないから、遮断を強くしないと気持ち悪くなる」 
「けれど、これじゃあ何も見えないだろ」
「大丈夫。いざとなったら嗅覚だけでも空間を認識できるから」
 そう言うと俺に無防備に背中を向け、首を下に向けて目隠しがしやすい態勢を取る。
 ……フリアエもミーザなんだよな。なのに呼吸をしたり、受け答えをスムーズにされると、人とは違うものだと絶対に思えない。
 むしろ触れたくなる。フリアエがあまりにも俺を頼るから、無条件にフリアエに触れたいと思ってしまう。
 これはとても仕方のないことなのかもしれない。
 手は自然とフリアエの肩に乗っていた。
 ブレザー越しから分かる肩の硬さと細さが男としての興奮を高め、思考が停止する。
「……嗣虎?」
 フリアエが置かれた左肩から首を回し、横目で俺を見る。
 その時に俺は異性に触れているのだと改めて意識し、彼氏でもないのにこんなことをするのは不味いと気付いて手を離した。
「埃が被っていただけだ」
「そう。ありがとう」
 フリアエは再び布を付けやすい態勢に戻る。
 俺は布をフリアエの目に被せ、端を結び始める。
 考えてみれば、この目隠しをするというのは相手の感覚機能を思うままに出来るということであり、独占的な行動と言えよう。しかもその相手は知り合いで、ある程度の繋がりを持った異性の少女だ。信頼で成り立つこの目隠しは、あまりに色事のものだと考えてしまう。
 友人としてだとしても、俺にとってはそう割り切れるものではない。思春期というものは、非常に厄介なのだ。
「出来たぞ。これで大丈夫か?」
「平気。これでも状況を知れる」
 そう言ってフリアエは正面を俺へ向け、右手を俺の頭上に乗せた。
「な、なんだよ」
「ほら、見えなくてもきちりと分かる。嗣虎はここから見守ってくれている」
「まぁな」
「照れていることも分かる。だから少し嬉しい」
「……そうか」
 それはまるで復讐者のようであった。意味は大分違うが、されたことをきちんと返すこの律儀さとその納得のいく報復の仕方はまさにそう例えるのに相応しい。
 俺はある程度この返され方に納得をしたが、このままイーブンにしておくのは少し悔しい。俺もフリアエの頭に手を乗せて、痛くならないくらいの力で撫でる。
「新入生の代表、頑張れよ」
「……なら頑張る」
 笑顔や嫌顔はしていなかった。極めて普段の表情のままその言葉だけを言われ、本当に頑張るのか疑わしくなる。
 それでも言葉は返したのだ、支えてやるのが俺の役目である。
「嗣虎、入学式でわたしは壇上に立たなければならない。わたしはそれが嫌い、やりたくもない。けど嗣虎が隣に居てくれるならば、勇気を持てると思う」
 フリアエが俺の右手を手に取り、両手で包む。
「わたしの隣に居て、嗣虎。礼もする、より信頼もする、好意すらも持つ。わたしのパートナーは嗣虎だけ。わたしの友人も嗣虎だけ。礼も信頼も好意もするのは嗣虎だけ。だから嗣虎に本当の意味でわたしを選んで欲しい。返答はこの場で待つ」
 真剣な眼差しをしているのか目隠しで分からない、文字通りに言葉だけのフリアエに、俺は悩まされた。
 フリアエは知らないことだが、俺にはもう覚悟を決めて選んだパートナーがいる。仕方なくとか、相性とか、そんな軽い意味ではない。
 緋苗は呑気に鼻歌を歌っていた。まさかこの状況に気付いていないとでもいうのか。いや、聞こえているはずだ、聞こえていて無視をしているのだ。
 もしかすると本当に選びたいものを選んでくれれば、過去のことを水に流せると思っているのではないだろうか。でなければ横入りして来ない理由が思い当たらないし、なんというか緋苗らしい。
 そもそも俺はフリアエのことを少しも知らない。好きな食べ物すら知らなければ、どういう力を持ち、ゴッドシリーズたらしめているのか少しも分からない。フリアエは自分のことを語ったことがないのだ。
 それをどうしてパートナーに出来るというのか。いくらなんでもパートナーにするのは無理な話だった。
 だが、理屈と心は同じではない。
「なろう」
「──え?」
「俺達、パートナーになろう」
 呆気な顔をした。
「……どうして?」
「俺がフリアエのことが分からないように、フリアエも俺のことを深くは分からない。にもかかわらず、この短期間で勇気を持ってパートナーになりたいと言われて、嬉しくない訳がないじゃないか」
「嗣虎……」
「だからなろう。出来れば別れることのないパートナーこいびとに」
 右手が強く握られる。口を開いては閉じるを繰り返し、フリアエは体を震わせる。
 それが続くのかと思いきや、その数秒後に手が離れた。
 誰が見ても分かる。混乱していた。
 正直、俺はこの告白は断られるものだと思っている。それは俺の周りが物語っているだろう。
 最初から女のパートナーを選ぶ変態。
 たかが卵一つ焼き上げるだけで喜ぶ下手くそ。
 そもそも恋人になっても俺は別の女性と同居。
 この時点で信用できない。だが俺としては俺の一番をフリアエに一〇〇パーセント変える気でいるし、裏切ることなど誓ってしない。
 これでフリアエを守ってあげられるならば、むしろ本望なのだ。
「し、嗣虎」
「なんだ?」
「わたしのこと好きなの……?」
「……好きだよ」
「嘘つき!!」
 次の瞬間平手が飛んできて凄まじい音が部屋の中で響く。あまりに勢いが良いのでむしろ痛みは一切感じず、熱がじんじんと広がった。
 そして──唇が触れ合った。
「ふ、フリアエ!?」
「わたし変わるから! 嗣虎のパートナーとして、嗣虎を一番に考える! 絶対に信用しきる! 嗣虎が挫けそうな時、わたしが嗣虎を守る! この誓いは決して裏切られることはない、魂の死を掛けて!」
 フリアエは目隠しを外し涙流す瞳を真っ直ぐに向け、初めて聞く大きな声で俺にそう叫ぶ。
「見てて、嗣虎の恋人は狂気にして最高の復讐神! 幾許いくばくの時を経たとして罪の報いを果たす! たとえどこへこうとも、この身を悪魔に変えてでも必ず追いつく! わたしは狂乱なり!」
 すると一切の躊躇無しに目隠しを自分の目へと一気に付けた。
「──ぁぁぁぁぁぁああああああああああああああアアアアアアアアアアアアア! っく!」
 苦しみに満ちた悲鳴をあげるが、すぐにそれを耐える。
「大丈夫かフリアエ!」
「……わ、わたしは……! 変われる……! 嗣虎の女になれる! 過去より未来の方が魅力的だということを証明する! わたしは既に語った! だからこそ宣言する! 嗣虎に愛と恋と復讐を!」
「ふ、フリアッ……!?」
 再びのキス。情熱的な愛を注ぎ込まれ、俺は頭がくらくらとしていた。
「わ、わたし、フルネームはアレクトー・フリアエ・ウラノス・エリニュスだから、覚えてて。わたしは先に行っているから……」
「……あ、ああ」
 最後に三度目のキスをすると、フリアエは頬を真っ赤に染めて玄関を飛び出していった。
 呆気であった。素直にフリアエという少女がいかにしっかり者だったのか、思い知らされたのだ。
 彼女に対して抱いていた、なめきった想いは全て復讐にやられてしまった。
 だから遠慮なく、俺達は愛し合えるということである。
「終わりましたか?」
 後ろに準備を終えた緋苗が立つ。
「ああ、終わった」
「アレクトー・フリアエ・ウラノス・エリニュスですよ、覚えましたか?」
「完璧に覚えた」
「にしても、洗礼名だったんですね、フリアエちゃんのフリアエって名。でも洗礼名としてはちょっと成り立っていないので、きっとフリアエちゃんは『フリアエ』という女神が好きで好きで無理矢理名前に組み込んだんだと思いますよ。あ、フリアエとエリニュスは全くの同じ女神なんですけれどね、創作者側からすればアレクトー・ウラノス・エリニュスだったのでしょう。フリアエはローマ神話の呼び名ですから。そうそう、エリニュスは三柱でフリアエちゃんがアレクトーですから、他のエリニュスも存在して──」
「行こうか」
「──はい、行きましょう」
 俺達も入学式へ向かった。
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