空気の人

木石たか

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第二章:与えることでしか生きられない

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冷蔵庫の中に、静かなリズムがあった。
水菜は3日で使い切る。牛乳は週に2本。納豆はいつも同じ銘柄。

僕の生活は、彼女の生活に合わせて設計されていた。
いや、正確には——彼女の生活が“破綻しないように”作られていた。

パンを買いすぎない。味噌を切らさない。風邪を引かせない。会話を強要しない。

そのすべてを、僕は5年間という期間の中で繰り返すだけだった。
まるで静かな習慣のように。
いや、もっと言えば……僕という人間そのものが、彼女の世界の“習慣”になっていった。

---

夕方になると、いつものように彼女の分も夕飯を用意する。
一言も必要ない。食べられていなくてもいい。
食卓の上に“出す”という行為そのものが、僕にとっての存在証明だった。

でも、たまに、スプーンの角度が少しだけ違って戻されていることがある。
その微妙なずれを見て、「食べてくれた」とわかると、胸の奥がふっとゆるむ。
感謝がほしいわけじゃない。ただ、「自分がいた証」がほしい。

彼女の言葉がなくても、僕の毎日は、彼女の存在によって輪郭を持っていた。
そう思い込もうとしていた。

けれど、それはやがて、“摩耗”になっていく。

---

ある夜、彼女が遅く帰ってきた。
玄関の閉まる音。冷たい風を運んできたコート。
僕は湯を沸かしながら、何も言わずにリビングに彼女のスリッパを並べた。

「……いま、帰った」

「おかえり。遅かったね」

「仕事、押しただけ。別に心配とかいらないよ?」

そう言った彼女の声には、とげのような疲れが混じっていた。
僕は笑ってごまかした。けれどその夜、味見したスープの味が、やけに薄く感じられた。

---

そしてある日、ついに自分の中で何かが小さく崩れた。

「あなたって、ほんと……空気みたい」

一花さんが言った。

リビングでテレビを観ていた僕に向かって、さらりと、まるで事実を述べるように。

「いてもいなくても、気づかないけど……いないと困る。
……ちょっとズルいよね、そういうの」

僕は、笑った。

「うん、確かに。僕、昔から気配がないって言われるから。
“いない前提でいる人”って、よく言われた」

言い終えてから、自分でその言葉に胸が痛くなった。

その晩、味噌汁がなぜかしょっぱくなった。

ある朝、冷蔵庫の奥で見慣れないプリンのパックを見つけた。
僕が買ったものではないし、彼女が甘いものを好んだ記憶もない。賞味期限は昨日。

賞味期限を過ぎた食べ物は、僕にとって“破綻”の象徴だった。
整えてきた静かな暮らしのどこかに、穴が空いていた証。

それでも捨てられずに、そのまま棚に戻した。
プリンひとつに反応してしまう自分が、少し滑稽に思えた。

けれど、その夜。
食卓にプリンはなかった。代わりに、彼女がぽつりと言った。

「……今日、疲れたから……何も話せないかもしれないけど、怒らないで」

僕は少しだけ微笑んだ。

「大丈夫。無理に話す必要なんて、ないよ」

彼女は黙ったまま、僕の用意したスープをひと口飲んだ。
そして、小さく「……やさしいね」と呟いた。

その声が、なぜか少しだけ遠かった。

---

次の日曜、彼女は朝から外出していた。
出かける理由を聞かなかったし、帰宅時間も尋ねなかった。
ただ僕は、帰宅に備えて鍋にビーフシチューを用意していた。

あたためればすぐ食べられるように、添えた小さなサラダとパン。
テーブルには手紙を書かずに、小さな箸置きだけを置いた。

それだけで、“おかえり”が伝わる気がした。

でも——帰ってこなかった。

いや、たぶん帰宅はしたのだろう。朝起きたら、サラダだけが皿ごと消えていた。
鍋の中のシチューには、スプーンでひとすくいの痕。

それだけで、僕はすべてを察した。

彼女は誰かと会っていた。
そして、いまの僕ではない“誰かの世界”を思い出していた。

それが誰かを、僕は知らなかったふりを続けていた。
それでいい。知ってしまったら、もう何も差し出せなくなる気がしたから。

---

夜。風呂から上がった僕の部屋の前に、折りたたまれたシャツが置かれていた。
前に洗濯したまま忘れていたものだった。

「……ありがとう」

その夜、彼女には聞こえないようにそう言った。
その優しさが、一時の“罪滅ぼし”でも、それでもよかった。

---

数日後、彼女が突然言った。

「あなたって、ほんと……空気みたい」

それは、あの日の言葉の続きだった。

「でもさ……空気って、あって当然と思ってると、ふとしたときにいないことが怖くなるよね」

僕はそのとき、返す言葉を持っていなかった。

それは――もしかすると、彼女が初めて「いなくなる未来」を意識した瞬間だったのかもしれなかったから。

---

たった5年の契約。
あと1年と少しで、その終わりがくる。

その終わりを、彼女はもう分かっていた。
そして僕もまた、自分の“役割”がそこまでだと知っていた。

だけど、それでも——

あと1年だけ、僕は彼女の空気でいたいと思っていた。
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