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第四章:交わらない視線
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午後の光が薄く部屋に入り込んでいた。
休日の遅い朝、彼女は珍しく早く起きて、リビングで髪をまとめていた。
「……少し、出かけてくる」
コートを羽織り、バッグを肩にかけた彼女の姿は、どこかよそいきだった。
化粧も薄く整えられていて、滅多に使わない香水の匂いがわずかに揺れた。
「気をつけて。風、強いみたいだから」
「……うん」
それだけ言って、彼女は玄関のドアを閉めた。
その“うん”に、ほんのわずかな緊張が混じっていたのを、僕は気づいていた。
---
彼女が帰ってきたのは、夕方を越えてからだった。
コートの裾が風で少し乱れ、目元は微かに赤いように見えた。
「おかえり」
僕が言うと、彼女は少しの間を置いてから言った。
「……ただいま」
普段よりも遅く、静かに。
玄関で靴を脱ぎながら彼女は言った。
「今日、偶然……昔の知り合いに会ってさ」
「そうなんだ」
「……うん。懐かしかった。けど、なんか、思ってたより……もう、違ってた」
その言葉に、僕は頷いた。深くは聞かなかった。
それが、彼女の中で“終わった誰か”なのだと、わかっていたから。
けれど心のどこかで、僕の名前もまた——
彼女の中ではいつか“誰か”になるのだろうと、思った。
---
それから数日、彼女はいつもより少しだけ静かになった。
リビングで同じ本を何度も開いて閉じ、温かい紅茶を手にしながらため息を漏らす。
僕は相変わらずキッチンに立ち、生活を整える役割に徹していた。
でも、ふと背中に彼女の視線を感じることが増えた。
ある日、味噌汁の味を確認しながらふと振り返ると、彼女と目が合った。
「……何か、顔についてた?」
「ううん……別に」
彼女はそう言って、すぐに視線を逸らした。けれどそのとき、
彼女の目の奥に、僕のことを“人”として見ている光があった。
まだ届かない。
でも、向かい合う“視線”が、やっと交わり始めていた。
その日、夕飯は久しぶりに生姜焼きにした。
タレに少しだけ蜂蜜を加えて、甘さを控えめにして。彼女が以前「ほんのり甘いと落ち着く」と言ったことを、なんとなく覚えていたから。
皿を置いた瞬間、彼女がふっと声を漏らした。
「……あ、懐かしい匂い」
「そう?」
「うん。母がよく作ってた、生姜焼きの匂いと似てる。味は違うけど」
彼女が、食事の“匂い”について話すのは初めてだった。
それは、記憶に触れる小さな窓を僕に開いてくれたようだった。
「じゃあ、もっと似せるように勉強するよ。できたら、教えてほしい。……味の記憶とか」
彼女は照れたように笑った。
あのときの笑顔は、ほんの数秒だったけれど、僕の心にいちばん長く残った。
---
数日後、彼女がふいに言った。
「昔さ、本気で好きだった人がいたんだ。……知ってると思うけど」
「うん。聞いてた」
「優しくて、でも少し意地悪で。嘘をつく人じゃなかったけど、……最後だけ、黙っていなくなった。
……裏切られたっていうより、“私が選ばれなかった”感じがした」
彼女の声には、まだ傷が滲んでいた。
「でも最近、その人に再会して。思ったの。……過去って、意外ともう手元にないんだなって。
思い出はあるけど、あのときには戻れない」
僕は頷くだけにとどめた。
何も言わないことが、正解に思えたから。
でも、彼女は続けた。
「それなのに、あなたはさ——
なんで、そんなに“いま”をちゃんと見てるの?」
僕は少し考えてから、ゆっくり言葉を選んだ。
「多分……置いていかれるのが怖いからだと思う。
今ここにいる人が、明日いないかもしれないって、昔から思ってて。
だから今を丁寧に見ないと、全部見失う気がするんだ」
彼女は静かに息を吐いた。
「……やさしいのって、重いね」
でも、その言葉には責める響きはなかった。
むしろ、どこか寂しそうで、微笑んでいるような。
僕は笑わなかった。ただ、彼女の言葉を受け取ることしかできなかった。
---
その夜、彼女の部屋のドアが少しだけ開いていた。
扉越しに、淡いジャズの音楽が漏れていた。
それは、数ヶ月前、僕がリビングで流していたものと同じ曲だった。
一度しかかけていない、古いレコード音源。
彼女は、聴いていたのだ。
あの静かな日々の中で、たしかに何かを受け取っていてくれた。
それがわかった瞬間、僕は何も言わず、台所の電気を消した。
小さな音楽に包まれた静けさ。
それが、彼女と僕の“いま”だった。
休日の遅い朝、彼女は珍しく早く起きて、リビングで髪をまとめていた。
「……少し、出かけてくる」
コートを羽織り、バッグを肩にかけた彼女の姿は、どこかよそいきだった。
化粧も薄く整えられていて、滅多に使わない香水の匂いがわずかに揺れた。
「気をつけて。風、強いみたいだから」
「……うん」
それだけ言って、彼女は玄関のドアを閉めた。
その“うん”に、ほんのわずかな緊張が混じっていたのを、僕は気づいていた。
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彼女が帰ってきたのは、夕方を越えてからだった。
コートの裾が風で少し乱れ、目元は微かに赤いように見えた。
「おかえり」
僕が言うと、彼女は少しの間を置いてから言った。
「……ただいま」
普段よりも遅く、静かに。
玄関で靴を脱ぎながら彼女は言った。
「今日、偶然……昔の知り合いに会ってさ」
「そうなんだ」
「……うん。懐かしかった。けど、なんか、思ってたより……もう、違ってた」
その言葉に、僕は頷いた。深くは聞かなかった。
それが、彼女の中で“終わった誰か”なのだと、わかっていたから。
けれど心のどこかで、僕の名前もまた——
彼女の中ではいつか“誰か”になるのだろうと、思った。
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それから数日、彼女はいつもより少しだけ静かになった。
リビングで同じ本を何度も開いて閉じ、温かい紅茶を手にしながらため息を漏らす。
僕は相変わらずキッチンに立ち、生活を整える役割に徹していた。
でも、ふと背中に彼女の視線を感じることが増えた。
ある日、味噌汁の味を確認しながらふと振り返ると、彼女と目が合った。
「……何か、顔についてた?」
「ううん……別に」
彼女はそう言って、すぐに視線を逸らした。けれどそのとき、
彼女の目の奥に、僕のことを“人”として見ている光があった。
まだ届かない。
でも、向かい合う“視線”が、やっと交わり始めていた。
その日、夕飯は久しぶりに生姜焼きにした。
タレに少しだけ蜂蜜を加えて、甘さを控えめにして。彼女が以前「ほんのり甘いと落ち着く」と言ったことを、なんとなく覚えていたから。
皿を置いた瞬間、彼女がふっと声を漏らした。
「……あ、懐かしい匂い」
「そう?」
「うん。母がよく作ってた、生姜焼きの匂いと似てる。味は違うけど」
彼女が、食事の“匂い”について話すのは初めてだった。
それは、記憶に触れる小さな窓を僕に開いてくれたようだった。
「じゃあ、もっと似せるように勉強するよ。できたら、教えてほしい。……味の記憶とか」
彼女は照れたように笑った。
あのときの笑顔は、ほんの数秒だったけれど、僕の心にいちばん長く残った。
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数日後、彼女がふいに言った。
「昔さ、本気で好きだった人がいたんだ。……知ってると思うけど」
「うん。聞いてた」
「優しくて、でも少し意地悪で。嘘をつく人じゃなかったけど、……最後だけ、黙っていなくなった。
……裏切られたっていうより、“私が選ばれなかった”感じがした」
彼女の声には、まだ傷が滲んでいた。
「でも最近、その人に再会して。思ったの。……過去って、意外ともう手元にないんだなって。
思い出はあるけど、あのときには戻れない」
僕は頷くだけにとどめた。
何も言わないことが、正解に思えたから。
でも、彼女は続けた。
「それなのに、あなたはさ——
なんで、そんなに“いま”をちゃんと見てるの?」
僕は少し考えてから、ゆっくり言葉を選んだ。
「多分……置いていかれるのが怖いからだと思う。
今ここにいる人が、明日いないかもしれないって、昔から思ってて。
だから今を丁寧に見ないと、全部見失う気がするんだ」
彼女は静かに息を吐いた。
「……やさしいのって、重いね」
でも、その言葉には責める響きはなかった。
むしろ、どこか寂しそうで、微笑んでいるような。
僕は笑わなかった。ただ、彼女の言葉を受け取ることしかできなかった。
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その夜、彼女の部屋のドアが少しだけ開いていた。
扉越しに、淡いジャズの音楽が漏れていた。
それは、数ヶ月前、僕がリビングで流していたものと同じ曲だった。
一度しかかけていない、古いレコード音源。
彼女は、聴いていたのだ。
あの静かな日々の中で、たしかに何かを受け取っていてくれた。
それがわかった瞬間、僕は何も言わず、台所の電気を消した。
小さな音楽に包まれた静けさ。
それが、彼女と僕の“いま”だった。
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