空気の人

木石たか

文字の大きさ
4 / 12

第四章:交わらない視線

しおりを挟む
午後の光が薄く部屋に入り込んでいた。
休日の遅い朝、彼女は珍しく早く起きて、リビングで髪をまとめていた。

「……少し、出かけてくる」

コートを羽織り、バッグを肩にかけた彼女の姿は、どこかよそいきだった。
化粧も薄く整えられていて、滅多に使わない香水の匂いがわずかに揺れた。

「気をつけて。風、強いみたいだから」

「……うん」

それだけ言って、彼女は玄関のドアを閉めた。
その“うん”に、ほんのわずかな緊張が混じっていたのを、僕は気づいていた。

---

彼女が帰ってきたのは、夕方を越えてからだった。
コートの裾が風で少し乱れ、目元は微かに赤いように見えた。

「おかえり」

僕が言うと、彼女は少しの間を置いてから言った。

「……ただいま」

普段よりも遅く、静かに。

玄関で靴を脱ぎながら彼女は言った。

「今日、偶然……昔の知り合いに会ってさ」

「そうなんだ」

「……うん。懐かしかった。けど、なんか、思ってたより……もう、違ってた」

その言葉に、僕は頷いた。深くは聞かなかった。

それが、彼女の中で“終わった誰か”なのだと、わかっていたから。

けれど心のどこかで、僕の名前もまた——
彼女の中ではいつか“誰か”になるのだろうと、思った。

---

それから数日、彼女はいつもより少しだけ静かになった。
リビングで同じ本を何度も開いて閉じ、温かい紅茶を手にしながらため息を漏らす。

僕は相変わらずキッチンに立ち、生活を整える役割に徹していた。
でも、ふと背中に彼女の視線を感じることが増えた。

ある日、味噌汁の味を確認しながらふと振り返ると、彼女と目が合った。

「……何か、顔についてた?」

「ううん……別に」

彼女はそう言って、すぐに視線を逸らした。けれどそのとき、
彼女の目の奥に、僕のことを“人”として見ている光があった。

まだ届かない。
でも、向かい合う“視線”が、やっと交わり始めていた。

その日、夕飯は久しぶりに生姜焼きにした。
タレに少しだけ蜂蜜を加えて、甘さを控えめにして。彼女が以前「ほんのり甘いと落ち着く」と言ったことを、なんとなく覚えていたから。

皿を置いた瞬間、彼女がふっと声を漏らした。

「……あ、懐かしい匂い」

「そう?」

「うん。母がよく作ってた、生姜焼きの匂いと似てる。味は違うけど」

彼女が、食事の“匂い”について話すのは初めてだった。
それは、記憶に触れる小さな窓を僕に開いてくれたようだった。

「じゃあ、もっと似せるように勉強するよ。できたら、教えてほしい。……味の記憶とか」

彼女は照れたように笑った。
あのときの笑顔は、ほんの数秒だったけれど、僕の心にいちばん長く残った。

---

数日後、彼女がふいに言った。

「昔さ、本気で好きだった人がいたんだ。……知ってると思うけど」

「うん。聞いてた」

「優しくて、でも少し意地悪で。嘘をつく人じゃなかったけど、……最後だけ、黙っていなくなった。
……裏切られたっていうより、“私が選ばれなかった”感じがした」

彼女の声には、まだ傷が滲んでいた。

「でも最近、その人に再会して。思ったの。……過去って、意外ともう手元にないんだなって。
思い出はあるけど、あのときには戻れない」

僕は頷くだけにとどめた。
何も言わないことが、正解に思えたから。

でも、彼女は続けた。

「それなのに、あなたはさ——
なんで、そんなに“いま”をちゃんと見てるの?」

僕は少し考えてから、ゆっくり言葉を選んだ。

「多分……置いていかれるのが怖いからだと思う。
今ここにいる人が、明日いないかもしれないって、昔から思ってて。
だから今を丁寧に見ないと、全部見失う気がするんだ」

彼女は静かに息を吐いた。

「……やさしいのって、重いね」

でも、その言葉には責める響きはなかった。
むしろ、どこか寂しそうで、微笑んでいるような。

僕は笑わなかった。ただ、彼女の言葉を受け取ることしかできなかった。

---

その夜、彼女の部屋のドアが少しだけ開いていた。
扉越しに、淡いジャズの音楽が漏れていた。

それは、数ヶ月前、僕がリビングで流していたものと同じ曲だった。
一度しかかけていない、古いレコード音源。

彼女は、聴いていたのだ。
あの静かな日々の中で、たしかに何かを受け取っていてくれた。

それがわかった瞬間、僕は何も言わず、台所の電気を消した。

小さな音楽に包まれた静けさ。
それが、彼女と僕の“いま”だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係

紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。 顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。 ※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)

行き場を失った恋の終わらせ方

当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」  自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。  避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。    しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……  恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

なくなって気付く愛

戒月冷音
恋愛
生まれて死ぬまで…意味があるのかしら?

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜

紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。 しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。 私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。 近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。 泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。 私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。

処理中です...