空気の人

木石たか

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第五章:離れて知る温度

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冷え込んだ朝、研究棟の薄暗い応接室で、一枚の封筒を受け取った。

「神崎くん、君のような人材を探していたんだ。
静かに、誠実に、持続できる人。黎翔計画に参加してくれないか」

“黎翔計画”——地方山岳部に新設される隔離型技術研究プロジェクト。
内容の詳細は伏せられたままだったが、提示された条件には、3年間の隔離滞在、通信・面会制限の明記があった。

5年の“契約”まで、あと半年。
静江さんとの約束は果たされつつある。
あの家も、少しずつ彼女の“日常”になり始めている。

だから、僕がいなくなっても——
もう、大丈夫かもしれない。

ふと、そう思ってしまった。

---

夜、いつも通り夕飯を作った。
食卓に二人分の皿を並べる手が、少しだけ震えていた。

「……仕事の話なんだけど、少し長期のものがあってね」

彼女は箸を止め、ゆっくり顔を上げた。

「どれくらい?」

「3年。地方の、かなり山の奥。……しばらく連絡は取りづらくなる」

彼女の目が、わずかに揺れた。

「そっか」

その一言だけで、何も聞かれなかった。
どうしても行きたいのか。そこに何があるのか。——何も。

問い詰められないことで、逆に苦しくなった。
僕は、自分の存在の重さを計れなくなっていた。

---

それから数日後、僕は荷物をまとめ始めた。
大きなカバンの底に、生活道具より先に彼女との5年間の小さな記憶をしまい込んでいった。

食器棚の一番奥に、「今までありがとう」の小さなカードを立てた。
そして、リビングの机に封筒を置いた。

中には、正式な離婚届と、手紙を1通。

一花さんへこの5年間、あなたのそばにいられて幸せでした。僕の存在が何か役に立っていたとすれば、それだけで十分です。あなたがこれから自分の人生を、もう一度歩けるように願っています。——神崎 悠真

---

玄関のドアを閉める前に、一度だけリビングを振り返った。

彼女がいないのに、どこかにいるような気がした。
ソファの背もたれ、置きっぱなしのブランケット、カップの染み。

その全部が、彼女の一部だった。

だからこそ、僕はこの場所に“空気のまま”残ることはできなかった。

彼女の人生から、いなくなる。

それが、僕なりの最後の優しさだった。
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