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第六章:空気だった人
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誰も名前を呼ばない場所。
ここには、音の代わりに数値があり、会話の代わりに記録がある。
“黎翔キャンパス 第23隔離棟”——
研究者は8人。生活は分刻みで区切られていて、自由はあってないようなものだった。
でも、嫌ではなかった。
この無音の世界に来ることを、自分が選んだのだから。
---
週に一度だけ、自由記述という形で日誌を提出する制度があった。
本来は研究以外のメンタルバランスのための措置だが、僕はそこに、誰にも届かない手紙のような文章を書いていた。
今日は君の好きだったカレーを思い出した。
玉ねぎをきつね色になるまで炒めて、リンゴはすりおろす。
食べた後、君はよく黙って洗い物をしてくれた。
その沈黙が、僕には贈りものだった。
その文章が誰に読まれるのか、あるいは誰にも読まれず消されるのか、僕は知らなかった。
それでも、“いるはずの人”に語りかける時間が、僕には必要だった。
---
一花さんは、きっと元気だろう。
少し不器用で、強がりで、真面目で。
でもあの人は、自分で立ち上がれる人だ。
僕のような“空気”が隣にいなくても、もう大丈夫なはずだ。
そう思っていた。
けれど、ある夜、夢に出てきた。
彼女が玄関で立ちすくみ、小さな声で「ただいま」と言った。
その声が、目を覚ましてもしばらく耳に残った。
呼びかける声を、今度は僕が聞いていた。
---
東京。僕がいなくなった家で。
彼女は、静かすぎる部屋の空気に息を止めていた。
朝が来てもパンが焼ける匂いはなく、夜が来ても電気ポットは温まらなかった。
最初は「静かになっただけ」と思った。
けれど気づくと、家じゅうに“誰かの形”が残っていた。
冷蔵庫の棚の配置。引き出しの包丁。ソファの上のブランケットのたたみ方。
——全部が、あの人の存在だった。
初めて彼女は、空気の不在に泣いた。
---
悠真が残したノートが、食器棚の奥から出てきた。
そこに、「誰にも読まれないはずの想い」が綴られていた。
君の隣にいる日々が、僕の人生の中心だった。
君が何もくれなくても、僕はそれで十分だった。
でも、欲を言えば——
もし一度だけ「名前」を呼んでくれたら、それだけでよかった。
ページをめくるたび、彼女は膝に顔を埋め、声を殺して泣いた。
そして言葉にならないまま、ただひとつ、彼の名前を呼んだ。
「……悠真」
誰もいない部屋。けれど、その声はきっとどこかで届いていた。
---
研究所の夜。眠れずに立った廊下のガラスに、空が映っていた。
雲が切れて、流れ星が一つ、線を引いた。
その光に、ふと名前を呼ばれたような気がして、僕は目を閉じた。
——一花さん。元気でいますか。
今でも、僕の中に生きてくれていたら。
少しでも、“あの5年がやさしかった”と思ってくれていたら。
それで、僕のすべては報われる。
ここには、音の代わりに数値があり、会話の代わりに記録がある。
“黎翔キャンパス 第23隔離棟”——
研究者は8人。生活は分刻みで区切られていて、自由はあってないようなものだった。
でも、嫌ではなかった。
この無音の世界に来ることを、自分が選んだのだから。
---
週に一度だけ、自由記述という形で日誌を提出する制度があった。
本来は研究以外のメンタルバランスのための措置だが、僕はそこに、誰にも届かない手紙のような文章を書いていた。
今日は君の好きだったカレーを思い出した。
玉ねぎをきつね色になるまで炒めて、リンゴはすりおろす。
食べた後、君はよく黙って洗い物をしてくれた。
その沈黙が、僕には贈りものだった。
その文章が誰に読まれるのか、あるいは誰にも読まれず消されるのか、僕は知らなかった。
それでも、“いるはずの人”に語りかける時間が、僕には必要だった。
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一花さんは、きっと元気だろう。
少し不器用で、強がりで、真面目で。
でもあの人は、自分で立ち上がれる人だ。
僕のような“空気”が隣にいなくても、もう大丈夫なはずだ。
そう思っていた。
けれど、ある夜、夢に出てきた。
彼女が玄関で立ちすくみ、小さな声で「ただいま」と言った。
その声が、目を覚ましてもしばらく耳に残った。
呼びかける声を、今度は僕が聞いていた。
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東京。僕がいなくなった家で。
彼女は、静かすぎる部屋の空気に息を止めていた。
朝が来てもパンが焼ける匂いはなく、夜が来ても電気ポットは温まらなかった。
最初は「静かになっただけ」と思った。
けれど気づくと、家じゅうに“誰かの形”が残っていた。
冷蔵庫の棚の配置。引き出しの包丁。ソファの上のブランケットのたたみ方。
——全部が、あの人の存在だった。
初めて彼女は、空気の不在に泣いた。
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悠真が残したノートが、食器棚の奥から出てきた。
そこに、「誰にも読まれないはずの想い」が綴られていた。
君の隣にいる日々が、僕の人生の中心だった。
君が何もくれなくても、僕はそれで十分だった。
でも、欲を言えば——
もし一度だけ「名前」を呼んでくれたら、それだけでよかった。
ページをめくるたび、彼女は膝に顔を埋め、声を殺して泣いた。
そして言葉にならないまま、ただひとつ、彼の名前を呼んだ。
「……悠真」
誰もいない部屋。けれど、その声はきっとどこかで届いていた。
---
研究所の夜。眠れずに立った廊下のガラスに、空が映っていた。
雲が切れて、流れ星が一つ、線を引いた。
その光に、ふと名前を呼ばれたような気がして、僕は目を閉じた。
——一花さん。元気でいますか。
今でも、僕の中に生きてくれていたら。
少しでも、“あの5年がやさしかった”と思ってくれていたら。
それで、僕のすべては報われる。
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