空気の人

木石たか

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第七章 : 探す理由

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彼がいなくなってからの部屋は、無音だった。
テレビをつけても、ポットの湯が沸く音を聞いても、その奥にある“彼の存在”が、静かに消えていた。

ほんとうに——いなくなったんだ、と思った。
でも、部屋の片隅に残されたノートを見つけた日から、私は少しだけ目を背けられなくなった。

「2025/5/9 今日、“おはよう”って言ってくれた。
たったそれだけで、生きててよかったと思った」

ページの隅に書かれた文字。
これは、あの人の“ありがとう”だったのだと、やっと気づいた。

---

彼が去って1年が経とうとしていた。
結婚という形はもう終わっていたけれど、私の中では、まだなにも終わっていなかった。

会いたい、と思った。
——ちゃんと、名前で呼ぶために。

---

その日から私は、彼を探し始めた。
書き残されたプロジェクト名「黎翔計画」、住所不明の山岳研究機関。
調べても調べても出てこない。国の隔離プログラムに属する施設だという噂だけ。

手紙を出してみた。
住所は適当な推測。でも、彼に届く可能性がゼロじゃないなら、書かずにはいられなかった。

---

悠真さんへあなたがいなくなってから、私はやっと気づきました。
あなたの沈黙や、あたたかさや、やさしさが、
どれほど大きなものだったか。もう一度、あなたの名前を、今度はちゃんと呼びたい。会ってください。

---

その返事が来ることは期待していなかった。
でも数日後、玄関のインターホンを鳴らしたのは、思いもよらない人だった。

「久しぶり。一花、元気そうでよかった」

——葛城奏汰。高校の頃からずっと、私の傍にい続けようとしてくれた人。

奏汰の笑顔は、高校のころと変わっていなかった。
あの頃みたいに明るくて、だけど今はどこか静けさを湛えていて、大人の顔になっていた。

「しばらく東京で働いてたんだけど、最近戻ってきてね。
商工会の関係で君のお母さんと話してたら、名前が出てさ。びっくりしたよ」

私はうなずいた。
何か返さなきゃと思いながら、口が重かった。
彼は優しすぎる。今の私が持て余してしまうくらいに。

「いま、どうしてるの?」

訊かれて、少し言葉に詰まった。
“どうしてるか”——説明できるような暮らしじゃなかった。

「家にいて、少しデザインの仕事だけ……受けてる。
人にはあんまり会ってない。……でも、探してる人がいるの」

「そっか」

彼はそれ以上聞かなかった。ただ、缶コーヒーを2本買って、ベンチに腰かけながら静かに言った。

「昔から、そうだったよね。誰にも気づかれないようなところを見てる。
……それ、変わってない」

私は思わず笑ってしまった。

---

それから、奏汰は時々家に顔を出してくれるようになった。
母ともすぐに打ち解けて、お茶を淹れたり花を見て褒めたり、
ときどき私の部屋のカーテンを直してくれたり。

たったそれだけのことが、いまの私には不思議な“息継ぎ”だった。

でも、そのやさしさを受けとるたびに、
思い出すのは、あの人のことだった。

無言で食卓に出されたスープ。
帰宅した私を見ないまま「おかえり」と言ってくれた声。
名前を呼ばれた記憶すらないのに、なぜか、胸の奥にいつもいた人。

---

ある日、部屋のポストに一通の手紙が届いた。

宛名も差出人も書かれていなかった。
でも、それが“あの人から”だと、すぐにわかった。

中には、白い便箋が一枚だけ。

手紙、届いた。会えるかわからないけど、ありがとう。——神崎

その文字を見た瞬間、息が止まりそうになった。
“ありがとう”と書かれていた。それだけだった。

でもその言葉は、1年分の沈黙を抱えていた。

---

その夜、奏汰が立ち寄った。
なにも言わなかったけれど、私の顔を見て、気づいてしまったらしかった。

「……なにか、届いた?」

私は黙ってうなずいた。

彼は、少し笑った。寂しげに、やさしく。

「……やっぱり、まだ好きなんだね」

私は、反論しなかった。できなかった。

「それでも、君が笑っていられるように、そばにいるって言ったら……
やっぱり、それも迷惑?」

その声が、やさしさより痛みに近くて、
私は思わず目を伏せた。
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