7 / 12
第七章 : 探す理由
しおりを挟む
彼がいなくなってからの部屋は、無音だった。
テレビをつけても、ポットの湯が沸く音を聞いても、その奥にある“彼の存在”が、静かに消えていた。
ほんとうに——いなくなったんだ、と思った。
でも、部屋の片隅に残されたノートを見つけた日から、私は少しだけ目を背けられなくなった。
「2025/5/9 今日、“おはよう”って言ってくれた。
たったそれだけで、生きててよかったと思った」
ページの隅に書かれた文字。
これは、あの人の“ありがとう”だったのだと、やっと気づいた。
---
彼が去って1年が経とうとしていた。
結婚という形はもう終わっていたけれど、私の中では、まだなにも終わっていなかった。
会いたい、と思った。
——ちゃんと、名前で呼ぶために。
---
その日から私は、彼を探し始めた。
書き残されたプロジェクト名「黎翔計画」、住所不明の山岳研究機関。
調べても調べても出てこない。国の隔離プログラムに属する施設だという噂だけ。
手紙を出してみた。
住所は適当な推測。でも、彼に届く可能性がゼロじゃないなら、書かずにはいられなかった。
---
悠真さんへあなたがいなくなってから、私はやっと気づきました。
あなたの沈黙や、あたたかさや、やさしさが、
どれほど大きなものだったか。もう一度、あなたの名前を、今度はちゃんと呼びたい。会ってください。
---
その返事が来ることは期待していなかった。
でも数日後、玄関のインターホンを鳴らしたのは、思いもよらない人だった。
「久しぶり。一花、元気そうでよかった」
——葛城奏汰。高校の頃からずっと、私の傍にい続けようとしてくれた人。
奏汰の笑顔は、高校のころと変わっていなかった。
あの頃みたいに明るくて、だけど今はどこか静けさを湛えていて、大人の顔になっていた。
「しばらく東京で働いてたんだけど、最近戻ってきてね。
商工会の関係で君のお母さんと話してたら、名前が出てさ。びっくりしたよ」
私はうなずいた。
何か返さなきゃと思いながら、口が重かった。
彼は優しすぎる。今の私が持て余してしまうくらいに。
「いま、どうしてるの?」
訊かれて、少し言葉に詰まった。
“どうしてるか”——説明できるような暮らしじゃなかった。
「家にいて、少しデザインの仕事だけ……受けてる。
人にはあんまり会ってない。……でも、探してる人がいるの」
「そっか」
彼はそれ以上聞かなかった。ただ、缶コーヒーを2本買って、ベンチに腰かけながら静かに言った。
「昔から、そうだったよね。誰にも気づかれないようなところを見てる。
……それ、変わってない」
私は思わず笑ってしまった。
---
それから、奏汰は時々家に顔を出してくれるようになった。
母ともすぐに打ち解けて、お茶を淹れたり花を見て褒めたり、
ときどき私の部屋のカーテンを直してくれたり。
たったそれだけのことが、いまの私には不思議な“息継ぎ”だった。
でも、そのやさしさを受けとるたびに、
思い出すのは、あの人のことだった。
無言で食卓に出されたスープ。
帰宅した私を見ないまま「おかえり」と言ってくれた声。
名前を呼ばれた記憶すらないのに、なぜか、胸の奥にいつもいた人。
---
ある日、部屋のポストに一通の手紙が届いた。
宛名も差出人も書かれていなかった。
でも、それが“あの人から”だと、すぐにわかった。
中には、白い便箋が一枚だけ。
手紙、届いた。会えるかわからないけど、ありがとう。——神崎
その文字を見た瞬間、息が止まりそうになった。
“ありがとう”と書かれていた。それだけだった。
でもその言葉は、1年分の沈黙を抱えていた。
---
その夜、奏汰が立ち寄った。
なにも言わなかったけれど、私の顔を見て、気づいてしまったらしかった。
「……なにか、届いた?」
私は黙ってうなずいた。
彼は、少し笑った。寂しげに、やさしく。
「……やっぱり、まだ好きなんだね」
私は、反論しなかった。できなかった。
「それでも、君が笑っていられるように、そばにいるって言ったら……
やっぱり、それも迷惑?」
その声が、やさしさより痛みに近くて、
私は思わず目を伏せた。
テレビをつけても、ポットの湯が沸く音を聞いても、その奥にある“彼の存在”が、静かに消えていた。
ほんとうに——いなくなったんだ、と思った。
でも、部屋の片隅に残されたノートを見つけた日から、私は少しだけ目を背けられなくなった。
「2025/5/9 今日、“おはよう”って言ってくれた。
たったそれだけで、生きててよかったと思った」
ページの隅に書かれた文字。
これは、あの人の“ありがとう”だったのだと、やっと気づいた。
---
彼が去って1年が経とうとしていた。
結婚という形はもう終わっていたけれど、私の中では、まだなにも終わっていなかった。
会いたい、と思った。
——ちゃんと、名前で呼ぶために。
---
その日から私は、彼を探し始めた。
書き残されたプロジェクト名「黎翔計画」、住所不明の山岳研究機関。
調べても調べても出てこない。国の隔離プログラムに属する施設だという噂だけ。
手紙を出してみた。
住所は適当な推測。でも、彼に届く可能性がゼロじゃないなら、書かずにはいられなかった。
---
悠真さんへあなたがいなくなってから、私はやっと気づきました。
あなたの沈黙や、あたたかさや、やさしさが、
どれほど大きなものだったか。もう一度、あなたの名前を、今度はちゃんと呼びたい。会ってください。
---
その返事が来ることは期待していなかった。
でも数日後、玄関のインターホンを鳴らしたのは、思いもよらない人だった。
「久しぶり。一花、元気そうでよかった」
——葛城奏汰。高校の頃からずっと、私の傍にい続けようとしてくれた人。
奏汰の笑顔は、高校のころと変わっていなかった。
あの頃みたいに明るくて、だけど今はどこか静けさを湛えていて、大人の顔になっていた。
「しばらく東京で働いてたんだけど、最近戻ってきてね。
商工会の関係で君のお母さんと話してたら、名前が出てさ。びっくりしたよ」
私はうなずいた。
何か返さなきゃと思いながら、口が重かった。
彼は優しすぎる。今の私が持て余してしまうくらいに。
「いま、どうしてるの?」
訊かれて、少し言葉に詰まった。
“どうしてるか”——説明できるような暮らしじゃなかった。
「家にいて、少しデザインの仕事だけ……受けてる。
人にはあんまり会ってない。……でも、探してる人がいるの」
「そっか」
彼はそれ以上聞かなかった。ただ、缶コーヒーを2本買って、ベンチに腰かけながら静かに言った。
「昔から、そうだったよね。誰にも気づかれないようなところを見てる。
……それ、変わってない」
私は思わず笑ってしまった。
---
それから、奏汰は時々家に顔を出してくれるようになった。
母ともすぐに打ち解けて、お茶を淹れたり花を見て褒めたり、
ときどき私の部屋のカーテンを直してくれたり。
たったそれだけのことが、いまの私には不思議な“息継ぎ”だった。
でも、そのやさしさを受けとるたびに、
思い出すのは、あの人のことだった。
無言で食卓に出されたスープ。
帰宅した私を見ないまま「おかえり」と言ってくれた声。
名前を呼ばれた記憶すらないのに、なぜか、胸の奥にいつもいた人。
---
ある日、部屋のポストに一通の手紙が届いた。
宛名も差出人も書かれていなかった。
でも、それが“あの人から”だと、すぐにわかった。
中には、白い便箋が一枚だけ。
手紙、届いた。会えるかわからないけど、ありがとう。——神崎
その文字を見た瞬間、息が止まりそうになった。
“ありがとう”と書かれていた。それだけだった。
でもその言葉は、1年分の沈黙を抱えていた。
---
その夜、奏汰が立ち寄った。
なにも言わなかったけれど、私の顔を見て、気づいてしまったらしかった。
「……なにか、届いた?」
私は黙ってうなずいた。
彼は、少し笑った。寂しげに、やさしく。
「……やっぱり、まだ好きなんだね」
私は、反論しなかった。できなかった。
「それでも、君が笑っていられるように、そばにいるって言ったら……
やっぱり、それも迷惑?」
その声が、やさしさより痛みに近くて、
私は思わず目を伏せた。
0
あなたにおすすめの小説
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜
紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。
しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。
私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。
近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。
泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。
私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる