空気の人

木石たか

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第八章 : 選べる未来

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奏汰のプロポーズは、あまりにも静かだった。

「……君を大切にできる自信がある。
だから、よければ、俺と一緒に……将来を考えてほしい」

それは真っ直ぐで、澄んだ声だった。
私の曖昧な感情も、過去の痛みも、知ったうえでなお“そばにいたい”という言葉だった。

心が少し揺れた。
奏汰の手はあたたかく、彼の笑顔は、季節の輪郭をやわらかくさせた。
このまま、思い出に蓋をして、彼の隣で生きていく選択肢——それも、きっと幸せに近いものだった。

でも。

頭のどこかに、どうしても消えない名前があった。

悠真さん。

名前を呼んだ記憶さえない。
けれど、心の中では何度も呼んでいた。
あの人の沈黙と、あたたかさと、最後に残した優しい背中を。

私は——まだ終われなかった。

---

その夜、机に便箋を置いた。
灯りを絞り、手のひらを温めながら、ゆっくり書き出した。

---

神崎悠真さんへ手紙を書くのは、2度目です。前回の返事、ありがとう。たった一文だったけど、それだけで、1年分の涙が報われました。あなたがいなくなってから、私はようやく、あの5年がどれだけ優しかったかを知りました。名前を呼べなかった。
感謝を伝えられなかった。それでも、今でもあなたのことを、愛しています。忘れたふりをして、生きていく自信もある。
でも、それは嘘になります。一度だけでいい。会わせてください。今度こそ、あなたの名前を、ちゃんと呼ぶために。——高瀬一花

---

投函した瞬間、背中の骨のひとつひとつが、ほどけるように軽くなった。

返事が来なかったとしても。
会えなかったとしても。
この想いを、自分の手で終わらせるために。

---

数日後、玄関のベルが鳴った。
ドアを開けると、知らない配達員が封筒を手にしていた。

「施設管理からの転送郵便です。ご署名お願いします」

受け取った封筒は、無地で、差出人名もなかった。
けれど中には、たった一枚の紙が入っていた。

面会可能日:〇月〇日(予約要)
受入地:第23山岳研究所内・面会室C——神崎 悠真

---

その日が近づくにつれて、私は眠れなくなった。
会いたくて怖くて、また傷つくことが怖くて、それでも止まらなかった。

何を言えばいいのかなんて、わからない。
でも——名前だけは、今度こそ、呼びたかった。
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