空気の人

木石たか

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第九章 : 再会、そして嘘

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午前10時の約束。
面会室Cの前に立ったとき、手のひらは冷たく、唇が少し震えていた。

鍵のかかっていない扉を開けると、白い壁の小部屋に彼はいた。
細身の体に白衣を羽織り、あの日と変わらない黒縁のメガネ。
でも、どこか遠くへ行ってしまった人のようだった。

「……久しぶりです」

ようやく声を出すと、彼は少しだけ頷いた。

「来てくれて、ありがとう」

それが、彼の第一声だった。

沈黙が、空気の粒を重くさせた。
それでも私は、ここへ来た理由を手放せなかった。

「……ずっと、あなたのことを考えてました。
行ってしまったあの日から、一日だって忘れた日はありません」

彼は、俯いたまま動かなかった。
だから私は、その静けさに向かって言った。

「戻ってきてほしい。今度は、そばにいてほしい。
契約でもなく、義務でもなく、私の意思で——一緒にいたいんです」

それは、ずっと閉じ込めてきた気持ちだった。ようやく口にできた。

けれど、彼の返事は、あまりにも静かで、冷たく澄んでいた。

「……あれは契約だった。一花さん」

「え……?」

「5年間、頼まれていたからいたんだよ。
必要とされてたから。
お金も、もらってた。……そういうことだったんだ」

違う。そんなふうに感じたことは、一度もなかった。
彼が置いたスープの湯気も、そっと干された洗濯物の香りも、
あれが“契約”の所作だったなんて、思えなかった。

「じゃあ、あのノートも……私に残してくれた言葉も、全部?」

彼はしばらく黙ったあと、首を横に振らなかった。
ただ、小さく瞬きをして、まっすぐ目をそらした。

「……君は、今ちゃんと生きてる。
やさしい人が隣にいる。僕は、もう必要ない」

私は泣きそうになりながら笑った。

「そんなの、あなたが決めることじゃない。
私が、あなたを好きになったの」

返事はなかった。彼は何も答えなかった。

---

部屋を出るとき、私は後ろを振り返らなかった。
もし目が合ってしまったら、彼が泣いていたら、
私は、もう戻れなくなるから。

でも、扉のむこうで、あの人が、わずかに震えていたことだけは
わかっていた。
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