ドラッグジャック

葵田

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7.「とんだ闇医者」

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 駅に辿り着くと、ユキはいつものようにコインロッカーの中をチェックしてから黒い封筒をあらかじめ入れた。
 そして駅前のベンチに座ると、リュックの中からパソコンを取り出す。
 駅内の監視カメラの一部が初期設定のまま、ネット上で公開されていた。それを覗かれて悪用されているのに間抜けにも気づいていない。こうしてユキは〝客〟の動向をチェックしていた。
 ザッとモニターのチェックを終えると、

「さて、行くか」
 
 気の重い足取りで駅前の大通りを五分程歩き、四階建てのオフィスビルへと入る。エレベーターで四階まで上がると、そこに心療内科があった。
 まだ診察時間が始まるには早かったが、ユキは玄関前を通り過ぎ、裏口の扉に手を掛ける。
 ――カチャリ
 いつものように鍵はかかっておらず不用心にも扉が開は開いた。その中へユキは当たり前のよう入る。
 そこは処置室だった。
 かすかにアルコール消毒液の匂いが鼻についた。急患が来ていたのかと推測する。だが、ここは医院なので行える処置は点滴くらいで、ベッドも一つ置かれてあるだけだった。
 主にODと呼ばれるオーバードーズの患者が困ってやって来る事が多い。無論、意識もないような酷い症状の患者は救急車で病院送りだ。
 ユキは部屋の内部から外の廊下へと出ると、十人分程の椅子と観葉植物が置かれた待合室の前を通り過ぎ、その奥にある診察室のドアをノックした。
 だが、中から返事はない。これも毎度の事だった。ユキは勝手にドアを開けて入るが、そこにも姿はない。更にその奥へと続く開け放たれたドアへと進む。

「おい」

 呼びかけると、

「……あぁ」

 そこでようやく男は今気づいたとばかりに、黒い革張りのソファに横たわったまま呑気に返事した。

「起きてるなら、返事くらいしろよ」
「眠り続けていたら、誰かが優しく起こしてくれるかと思い待ってたんだが……」
「なら、世界の終末に起こしてやるよ」
「とても素敵だ」

 長身で体格の良い体を緩慢とソファから起こしながら、赤樫あかがしはニヒルな笑みで冗談を交わす。長めの黒髪が少し乱れ、ボタンの外されたYシャツから厚い胸板が、男性フェロモンを放ちながらチラリと覗く。
 そんなものに惑わされることはないユキだが、職業とのイメージが似つかわしくない男だとつくづく思う。
 男の名は赤樫。名前は──知らない。ここ、赤樫メンタルクリニックの院長だ。
 ちょうど部屋の棚に備えられたコーヒーメーカーからコポコポとした音とともに香ばしい豆の香りが漂ってきた。
 面倒くさがり屋の赤樫だが、コーヒーだけにはこだわりがあるらしく、わざわざ豆から淹れる男だ。とは言え、全自動のコーヒーメーカーだが。

「淹れてやろうか?」
「自分でやるからいい」

 ユキはカップとスプーンを手に取り、カチャカチャと用意をする。もちろん、自分の分だけだ。すると、背後から「俺の分は?」と、赤樫が腰に手を回してくる。
 それを無視して、するりと交わしてみせようとしたのを、すくい上げるように捕えられてしまう。そして、そのまま頬に口づけ「おはよう」

「あんたはっ、フツーにあいさつできないのかよ? 離せっ」
「おはようのキッスをしただけだろ?」
「ここは、日本だ、ジャパニーズ!」
「先週は来なかったな」
「話、飛ばしやがったな、この野郎。約束なんか、した覚えないっ」
「何か、魚の臭いがするな」と、首筋に顔をうずめて言う。――昨夜のフナの臭いだろう。
「毎晩、どこをほっつき歩いてる?」
「そこら辺だ」
「まるで野良猫みたいだな」
「間違っちゃいないよ」

 フンッとユキは鼻を鳴らした。
 赤樫とは恋人でもなければ、愛人でもないし、まさかセフレなんかではない。が、男性恐怖症になりかけていたユキに対して、いきなり「好みだ」と今のように抱きついてきた。おかげでユキの中にあった男性に対する感情は〝恐怖〟から〝変態〟へとすり替えられた。
 一体何を考えているのか、隙のない行動と心理で全く読めない赤樫だが、今はユキにとってビジネスパートナーとして必要な存在だ。裏では闇医者として有名である。
 ユキのように薬を転売目的に受診しにやって来る者にも、平然と処方する。そういった輩には大抵、生活保護者が多い。治療費がいらないのをいいことに、タダで薬を手に入れ転売するのだ。赤樫はそれらをわざと見過ごし暗黙としていた。
 また、ドクターショッピングを繰り返す患者を受け入れるのも赤樫くらいだろう。そういった患者はブラックリストされて受診を断れるケースが多い。
 望めば薬を出してもらえるという、患者にとっては体は壊れても心は安心だった。
 ちなみに、ユキはここを自身のかかりつけ医として自立支援医療受給者証を所持している。通常、医療費は三割を自己負担額とするが、月額の負担額が一割になるという制度だ。医師の診断書があれば、誰でも申請が可能だ。これをユキは利用して、赤樫から安く大量の薬を処方してもらっていた。

「オレのコーヒー返せよっ」

 熱いコーヒーが入ったマグカップは、いつの間にか赤樫の手にある。ユキを腕から解放すると、そのまま口にして飲んだ。ユキは仕方なく新しいカップにコーヒーを注ぐ。
 赤樫が診察室へと移動して、

「それで、今日は〝どんな症状〟だ?」

 机のノートPCで電子カルテを開く。

「そうだな、ここ最近は気分が上がってたけど、またうつが出てきた。睡眠状態も良くない。薬増やしてほしい」
「気分安定剤と抗うつ剤を併用すると躁転する可能性があるからな、使うなら慎重にだな。睡眠薬については、もうこれ以上は出せないな。寝る前の向精神薬を増やしてみるかだな」
「じゃあ、それ増やして。他はいつも通りでいい」

 などと、二人はもっともらしい〝診察〟のやり取りを交わす。そして、ユキが最後にスッと指に挟んだ国民健康保険証をチラつかせると、赤樫がフッと口元に怪しい笑みを浮かべる。

「……女の子か? ボーダーじゃなきゃいいがな。ボーダーだけは薬だけでは治らないからな」

 ボーダーとは、境界性パーソナリティ障害のことだ。気分の波が激しく不安定で、常に人に見捨てられることを強く恐れ、しばし対人関係で問題を抱えている。特に若い女性に多い。

「さぁな。この手の若い女はみんなボーダーだろ。まぁ、家庭環境に何かありそうだったからな、それが変わらないうちはどうしようもないな、薬でコントロールしてやり過ごすしかないだろ? 依存性の少ないやつ頼むよ」
「あぁ」と答えながら、赤樫は電子カルテに処方薬を打ち込んでいく。

「――普通か」ふと、ユキがつぶやく。「その普通の人間とやらになって、普通の生活送ってみたいもんだな」

 それはユキが通れなかった道だ。
 普通だと思っていたのが周りと比べて異常と知ったのは、大きくなってからだった。小さな家庭という社会の中では分からず、気づけずにいた。

「……いつまで、続ける気だ?」
「止める気もなければ、助けられもしないのに、聞くなよ」

 ユキはしばしマグカップに目線を落とし、

「そうだな、安心して眠れるまで――子供たちが、本気で助けてって声を上げられる日が来るまで――このクソみたいな社会が壊れて生まれ変わるまで、だ。真面目に答えてやるとな」

 吐き捨てるように言い、ブラックコーヒーを一気に飲み干す。
 赤樫は何も口を挟まず聞いていたが、

「少しハイだな」

 と、眼光鋭く見抜く。ここへ来る前に大量に飲んだ睡眠薬のせいだ。飲んだまま眠気を我慢すれば、一種のハイ状態になる。これを覚醒剤のように利用する輩もいる。ユキの場合、ただのODだが。
 この話に触れられるとユキは急に口を閉ざす。少なからず、罪悪感に駆られるからだ。

「別に責めてはいない」

 決まって赤樫はそう付け足す。

「いつもいつも言わなくても、わかってる」

 OD患者を責めるのは逆効果であるし、ユキもそれくらいの心理学は知っている。では、治し方とは――たった一つ、自分自身の強い意志のみだ。

「そろそろ行く」

 罰が悪そうな態度で、処方箋を受け取ろうとユキは手のひらを差し出す。赤樫はプリンター機から用紙を取り出しながら、

「妹は元気か?」

 途端、ピタリとユキの手が止まった。

「……だったら何だ? 聞いてどうする? そんなにユイのことが気になるか?」
「気にしているのは、おまえの方だろう? ユイはただの陽性転移だと何度も言っている。よくある事だ」

 精神患者が主治医やカウンセラーに恋愛感情を抱いてしまう事だ。
 ユイは赤樫を異性として好きになってしまっていた。赤樫はそう説明したが、ユキは心配して転院させた。ユイも頭では理解していたが、まだ気持ちが残っていると、今朝の様子で分かった。

「急に主治医が変わったことで病状が不安定になっていないかと、心配して聞いただけだ」

 ユキが怪訝に、じっとりとした目線を赤樫に向ける。

「そんなに信用できないのか?」
「あぁ、できないな」
「嫉妬してるのか?」
「ちがう、何でそうなる? ってか、あんたみたいな、わいせつ野郎を信用できるかって言ってるんだっ」

 気づけば、ユキは赤樫の腕の中だ。
 押しのけのようにもガッチリと固定されていて動けない。頬にチューされ、「またな」とお別れの挨拶。ユキは疲れたように溜息を吐いた。
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