一度でいいから、抱いてください!

瑞月

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憂鬱な転生【カノンの場合】

23.そして幕が上がる

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『できるはずがない』
 それは母親にいつも言われていた言葉だった。

『あなたなんて頑張ったって人並み以下なんだから、努力しないとできるはずがないの』『こんなこともできないなんて、恥ずかしい。お義父さんになんて言われるか』

 日々そう言われる言葉は、いつしか自分自身のなかに沈殿する泥のように溜まって、自由な呼吸を奪い、気づかぬうちに色々な感性を、感情を奪っていった。
 辛く、苦しく頑張った先にしか、母親からの承認は得られなかった。だから、やるしかなかった。

『お母さんを安心させてちょうだい』

 その重い泥を払拭したくて、いつか軽くなりたくて、努力を重ねるしかなかった。
 母親の言葉がどんなに己を傷つけたとしても、でもお母さんは私の為に言ってくれているのだ。お母さんにそんなことを言わせてしまう、自分自身が悪いのだと己を責めた。

 わたしの頑張りが足りなかったから
 わたしのせいで、お母さんがおじいちゃんにひどく言われてしまう
 わたしができないせいで、お母さんに恥ずかしい思いをさせてしまう
 わたしが、わたしが頑張れば、いつかお母さんもわたしを認めてくれる。今まで厳しくしたけれどごめんね、って。頑張ったねって、あなたのおかげでお母さんも幸せよって。

 そして、いつかその手を離してくれる。頑張ったわね、幸せになってねって。

 ――そんな日は、ついに訪れることはなかったけれど。

 こちらの世界での、カノンの母親は優しかった。
 なんの見返りも求められないことが、叱責されないことが最初はとても不思議だった。
 ……でも、もしかしたら、それが愛情というものなのではないかと気が付いたとき、ひどく恐ろしくなった。
 母親は自分のことを愛しているから、いつもそうやって怒るのだと思っていた。私のことを愛しているからこそ、私の怠惰を律して、私のための選択肢を用意してくれているのだと。
 どこかでそう信じたかったのだ。

 ――でも、気が付いてしまった。
 あの家は祖父を恐れた、母親の価値観を脅かす何かを恐れた小さな水槽だった。
 水質を管理し、浴びる光を管理し、与える餌を管理し。
 そうしないと見た目を、外聞を保てない、そんな観賞魚わたしを囲う檻だった。

 ――でも、でも今は

 カノンは体温を失っていた指先を、ぎゅっと握りこんだ。今度は、自分の意思をもって。

 ――ずっと考えていた。何故、以前の自分自身の記憶をもって今カノンとして存在することになったのかを。
 いまも意味は分からない、意味なんてないのかもしれない。
 でも、何か意味があるとしたら、それは。

 ――いつかああするしかなかったあの日々を、あの日々で得られなかった自分の望みをもつことを、それを自分で探すことを、自分に許すために。
 自分自身を、許すために。

『私は全然そんなこと思わないわ!』『彼女が素晴らしいのはそれだけ努力をしているからよ』

『君のしたいことを、したらいいんだよ』

 たとえ、ヒロインだからだとしても、ゲームの作為だとしても、こちらの世界の、カノンの中の自分を、歪な努力をそうやって認めてくれたひとがいる。
 カノンを演じていたとしても、でもそんな自分自身を見てくれたひとがいる。
 優しく、手を差し伸べてくれたひとがいる。
 以前の自分は、ひたすらに失敗を恐れていた。失敗することは死と同じくらいの絶望だった。他人からの、母親からの失望をひたすら恐れていた。
 でも今は――…。

 ――たとえ今私が失敗したとしても、私のことを心配はしても、失望するひとはいなそうよね。……私以外は。

 まだ体温を失った手は震え、頭の奥を揺らすような眩暈は続いている。
 でも、そんなことを思った時、くっと口元から笑みがこぼれた。

「失敗……してみよう、かな……」

 そう小さく呟くと、視線を足元から廊下の先のカノンの名を呼ぶ方に移した。


 ◇◇◇◇◇


「舞宮ッ!」
「……時雨くん……」

 カノンを探していたのだろう、時雨が息を切らせてカノンのもとに走り寄ってきた。
 そして、その後ろに城野院の姿が見えて、カノンは唇を噛んだ。

「何してんだよっ!? 急に走っていなくなっちまって戻ってこないから、心配してたんだぞ!」
「……ごめんなさい……、ブローチが……」
「ブローチだぁ? そんなことより、ほら俺らの順番次だぞ!」

 カノンに詰め寄る時雨との間に、すっと城野院が割って入った。

「さっきひどく緊張してたから心配してたんだけど……。ブローチが、どうしたの?」
「城野院先輩……」

 一瞬ためらったあと、ぎゅっと握りしめていた星屑のブローチを、城野院に手渡した。その手の中のものを見ると、城野院がいつもの穏やかな笑みは消え、これまで見たことのないような強張った表情を見せた。

「これ……!? 何故壊れているんだい? お父さんからもらった大事なものだろう?」
「トイレに、忘れてしまっていて。……見つけた時は、こうなっていました」
「自然にこんな壊れ方するわけないだろう、一体誰が……!」

 怒りに似た憤りを含んだ城野院の視線を、受け止めることができずカノンは視線をそらした。犯人はきっとあの子たちかもしれない。でも、確信も証拠もなかったので、いま言えることは何もない。奥歯をぐっと噛み締めた。

「おい、それは後にして、もう行くぞ!」

 時雨が、カノンの腕を掴みそう告げた。廊下には演奏が終わったのだろう、会場の拍手の音が響いている。実際、本当に時間の余裕はないのだろうと思った。

「ごめん、時雨くん、あとちょっとだけ……! ――城野院先輩、それが壊れてしまったから、私、もう魔法が解けてしまったんです。きっとひどい、演奏しかできない」
「そんなことは――」
「ブローチが壊れて、この先どうなってしまうか、もう本当にわからないんです。……それでも、私やってみます! だから、失敗しても、私に『頑張ったね』って、言ってくれませんか……?」

 最後の方は声が震えた。
 城野院は何かを言葉を発そうと、口を開きかけ、そして閉じた。
 言葉の代わりに、ふわりといつかのように優しく、頭を撫でてくれた。

「あ……」

 優しい温もり。そして、あの日のようににっこりとその美しい顔に笑みを浮かべた。

「うん、何度でも言ってあげるから――。安心して失敗しておいで」
「……はいっ!」

「……お前、あんなに練習したから大丈夫だろ。失敗なんてしねーって。ほら、急ぐぞ!」
「うん、時雨くん。……今のうちに謝っておく、ごめんね!」
「いや、だから……、あーほらもう行くぞ」

 時雨にもわしわしと乱暴に頭を撫でられた。「髪が……」といいながら、視線を向けると「ははっ」と笑われた。
 こんな時カノンなら…と考えそうになって、思考を止めた。あぁ、もうカノンであろうと取り繕わなくていいかと思うと、胸がすぅっと軽くなるのを感じた。

「先輩いってきます!」

 手渡されたヴァイオリンを持ってステージへ駆け出すと、城野院の方を振り返ってそう言った。いつものように、鷹揚な笑みを浮かべて、城野院はこちらに向かってひらひらと手を振っている。
 それに微笑みを返して、前を向くと、さっきまでの眩暈が消え、不思議な程清々しい気持ちだった。
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